イカサマを防止したいと考えるなら、

イカサマと勝利至上主義は親和性が高い

ことを学んだ方がいい。

以前、こんなことがあった。

バンダイが、バトスピのパックを一定の値段勝った人に、オリジナルデッキケースをプレゼントするキャンペーンを行ったことがあった。

そのデッキケースにはこんな言葉が書かれていた。

「負けても楽しきゃいいじゃない」

それに対して反発する声があった。

「それはおかしい。勝負である以上、勝利を目指すのは当然だ」

つまり、勝利こそが一番であるという考え方だ。

これは、しばしば議論になる。

ゲームをするとき、あくまでも勝利を目指すのか、それとも楽しむことを第一に考えるのか。

どっちがいいかという議論は皆に任せるとして、ここでは、勝利至上主義がイカサマと親和性が高いことを話していこう。

勝利至上主義とは読んで字のごとく、勝利こそがもっとも価値が高いものだという考え方だ。

つまり、勝利以外のものはそれよりも価値が低い。そのため、「スポーツマンシップ」だの「フェアプレーの精神」はそれよりも価値が低い。

これが勝利至上主義だ。

「いや!そんなことはない!勝利至上主義とは、あくまでもスポーツマンシップなどを前提としたものだ!」

というかもしれない。

それなら、

それは勝利至上主義ではない。

どうして勝利至上主義を掲げる人が(それも非常にポジティブなものだと思いながら)いるのだろうか?

推測だが、競争というものに、過剰にいいイメージを抱いているのではないだろうか?

小泉政権下では「健全な競争が経済の発展を生む!」という大号令の下政策が行われた。新自由主義経済っつったっけ?

あの時の小泉政権もデッキケースの文言に反発した人も、「競争することは努力するモチベーションになる!それが成長を生む!!」

などと考えているのではないだろうか?だからこそ、勝利を第一に目指させようとするのだろう。

だが、それは大きな勘違いだ。

はっきり言うが、
勝利至上主義は成長の原動力にはならない。

そもそも、勝利のために努力が必要だという発想自体がすでに勘違いだ。

「勝利する」とは相手に勝つことだ。

そしてそのためには、自分が相手よりも高い能力を持っていなければならない。

「相手を力で上回る」

これを実現するためには、自分の力を高める以外に大きく分けて三つの方法がある。

一つ目は、

相手の能力を落とすこと。

けがをさせるといった肉体への暴力のほか、暴言や挑発をするといった精神への暴力がその方法としてあげられる。

例えばスポーツはどんなものであれ、けがしては普段通りのパフォーマンスは望めないだろう。

二つ目は、

勝てる相手を選ぶこと。

熟練者に勝てなければ初心者を、年上に勝てなければ年下を相手に選べばそれでいい。
とにかく勝てる相手を探してくるか、自分が勝てる環境に行けばいい。

これで勝利という結果は得られる。

三つめは、

他人を勝負に参加させないこと。

参加者が少なければ、確率論的にも勝率は上がるし、ゼロなら不戦勝だ。

こんなことを言うと、「そんなのは本当の勝利じゃない!」という人が現れそうだ。

だが、同じことを繰り返すが、そういう考え方は勝利至上主義ではない。

勝利至上主義とは勝利よりも大切なものが、絶対に、100%、どんなものでもあってはいけない。

勝利至上主義というのはそういう極端な意味を持った言葉だ。

「反則をして勝つか、反則をしないで負けるか」

この二択を迫られた時、前者を選ぶのが勝利至上主義だ。

「競技者は皆後者を選ぶべきだ」というのなら、勝利至上主義を否定するべきだ。

後者の考え方は「勝利優先主義」とか「だいたい勝利至上主義」とか、って言うか「フェアプレー至上主義」と呼べばいいじゃないか。

「いやでも、それでも努力して自分が成長しなければそんなことをしても勝つのは難しいはずだ」

というかもしれない。

それは確かにその通りだ。

だが、こんな風に考えてみてほしい。

もしも、この世の全員が同じだけの素質を持ち、同じように努力をしたとしたら。

そのとき人はだれかに勝てるだろうか?

答えは当然不可能だ。

同じ能力を持った人間ばかりが出来上がるのだから、実力の差は出ない。それでも実際に勝負をすれば勝敗は別れるだろうが、その要因は時の運だろう。

つまり、努力のみによって勝利を目指しても、いつか必ず頭打ちになる。それでも勝ちたいのなら、他者を妨害する以外にない。

つまり、努力とは勝利のための一条件に過ぎない。

しかも、現実を見てみれば、反則や妨害行為を使った方が勝ちやすい。

「卑怯」な方が強い

それが一つの真実だ。

そしてそうである以上、努力は勝利のためには二の次三の次なのだ。

この現実は、マンガ「ワンナウツ」の主人公・渡久地東亜(とくちとうあ)が端的に説明している。

「勝負に勝つってのは、相手を力で上回ることでも、ましてや幸運を待つことでもない。負かすこと、蹴落とすこと、躓いたやつを踏み潰すこと。勝ち残るってことは、屍を超えることだ。美しいもんじゃない、むしろ残酷」

この現実を知り、勝利至上主義に対するイメージを改め、勝利至上主義を改めない限り不正はなくならないだろう。

このような勝利至上主義は、実際バトスピ界隈には(一部だと思うが)広がっている。

例えば、バトスピではチャンピオンシップと呼ばれる、公式大会がある。

そこに参加するには、カードショップで行われる予選大会に勝って権利を得る必要があるのだが、プレイヤーの中には、その権利をひとりでいくつも取得する人がいる。

そうしたところで、出場できるのは一回だけである。

それなのに、なぜそんなことをするのか。

その分出られない人ができ、参加者が少なければ勝ち上がる確率が幾分高まるからだ。

おそらくは、彼らが持っている勝利至上主義故だろう。

「他人を勝負に参加させないこと」そのものだ。

ついでに言うと、これは、俯瞰してみれば「他人の能力を落とす」方法にも区分されていいかもしれない。

どういうことかというと、このような行為をすれば、当然参加者は減る。参加者が減れば、大会の規模が縮小される、あるいは、「大会に出られないなら」とプレイヤー自体も減る。

そうなれば、ゲームの人口自体も減る。ゲームの人口が減れば、高い素質を持った人間が参加する確率が下がる(このことは、子供のころ「地元ではスポーツができる奴はあの野球(サッカーでもバスケでもいい)部に入る」といった現象が起こっていたことを考えればわかると思う)。そのうえ、練習する機会も減るため、プレイヤー全体のレベルが下がる。

つまり、遠回しに他プレイヤーの能力を落としている。

勝利至上主義者にとって好都合だ。

彼らにとって、

自分がやっているスポーツやゲームが盛んになるのはいい迷惑なのだ。

だから、衰退しようが構わない。というより、衰退してくれた方がありがたい、というのが彼らの思考回路だ(もちろん、その時、彼ら自身の能力もまた下がっているのだが、勝利が第一の人間にとっては、そんなもの何でもないだろう)。

勝利至上主義は、必ず「卑怯」な行動に走るし、そしてそれは競技自体を破壊する。

努力してほしい、そして自分がプレイしている競技が盛んになってほしいと思うのなら、このことはわきまえておいた方がいい。

「健全な競争は成長の原動力になる!」などという人がいる。だが、競争が健全なものになるには適切なルールが必要だ。

そのために、まずは勝利至上主義に対する幻想を捨てるべきだ。
そして、「負けても楽しきゃいい」という考えをする方がフェアプレーを尊重する精神を生みやすいことを理解すべきだ。

なぜなら「負けても楽しきゃいい」は、「楽しくなければ意味がない」とほぼ同じだからだ。

だが、それを嫌う人間は「そんなの不真面目だ!勝利至上主義の方がまじめに勝負に取り組んでる!」とでも思うのか、ひどく反発する。

しかし、それこそが不正への入り口だ。

全員にフェアプレーを望むなら、それを肝に銘じておくべきだ。

「真剣に勝負に取り組むことはいいことだ」

と思っているのなら、こう考えればどうだろうか?

「勝利至上主義は、勝つことに真剣。『負けても楽しきゃいい』は楽しむことに真剣」

とにかく、「勝利を優先して反則なんてしてほしくないが、『勝利至上主義』っていう言葉が持つ真剣さも捨てがたい。両方いいとこどりしたい」などというスケベ根性を改めれば済むことだ。

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