では一体、個性をしっかりと存在させるためにはどうすればいいか?

簡単だ。

いろんな意見を認めなければいい。

さっきの髪の色だ服装だという例では、最初は「日本」の「現在」という判断基準で個性があるとし、それに対して「海外」「過去」という判断基準を持ち出し否定した。

そういう時に「ふざけるな!そんな考え方認めない!」

と言えばいい。

それが「個性を大事」にする方法だ。

このように、「個性が大事」と「いろんな意見があっていい」は相性が悪い。

相性が悪いもののたとえで「水と油」がよく使われれる。この2つは混じり合わないだけだが、「個性が大事」と「いろんな意見があっていい」はお互いに打ち消しあってしまう。そういう意味では、この2つは「水と油」より相性が悪い。

しかし、実際にはこの2つはセットであるかのように使われている。ひょっとしたら同じ意味だと思っている人もいるかもしれない。

なぜなのか?

単純だ。

気づいてないからだ。

以前も話したが、このような「相対性」という概念について、きちんと教わる機会なんてない。
そして、「基準が変わると結論が変わる」という考え方は、教わらないとなかなかできるようになるものでもないし、教わっても慣れなければやはり難しい。

しかも、「常識」という考え方が根強くある日本では、

「価値判断の基準は常識で決まってる!みんなはそれに従うものなの!それが正しくて立派なことなの!だから自分で決めるなんてありえない!」

と、多くの人が思っているだろう。

それを

「『いろんな意見があっていい』のなら価値判断の基準は、常識によって決めるのではなく、自分で決める。そして、それで決められたものには、価値が高いも低いも、正しいとか間違っているなどと言うことはない」

と180度変えるのはかなり困難なのではないか?

「正しいも間違っているもない」「良いも悪いもない」という点も慣れていないとわからないかもしれない。

これは別のたとえで言うと、

「2次元の世界には高さというものがない」

ということと同じであり、

「ウグイスパンにはウグイスは入ってない」

と同じでもあり、

「エクシーズモンスターはレベルを持たない」

と同じでもある。

「正しいも間違っているもない」とは、そもそもそういう概念自体が存在しないということ。「『どちらでもない』さえない」ということ。

ふざけたとえをしたようだが、指している内容はけっこう正確なので理解してほしい。

日本では、「正しい・間違っている」ということにこだわり過ぎているような気がしている。

そんな日本人には、「その概念がない」ということ自体受け入れがたいかもしれないが、頭の中から思い込みを「エイヤッ」とはずして理解してほしい。

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