ここ最近、「唯言」として一つのテーマについて話すということをしなくなっていた。

ちょっと「まとめて書く」という行為がおっくうに感じられていたからで、そのため、その日その日に気になったことについて書くことが多かった。

そんなことをしていたら、ふとここ2,3件の記事が、以前からひとつのシリーズとして書こうと思っていたテーマに触ってきた。

こうなると、もう一押しすれば、そのテーマは一区切りに出来るので今から唯言を再開させる。

その関連ある記事を「唯言」としてナンバリングするかどうか、テーマはどうするかはまだ決めてない。

その辺はおいおい考えていくとして、関連ある記事については、記事内でリンクを貼るなり引用するなりしてまとまっていなくてもわかるように工夫はするので安心してほしい。

さて。

表題にある「個性が大事」と「いろんな意見があっていい」という2つの考え方は、現代日本ではどちらも「絶対正義!」と思っている人もいるんじゃないかと思うほど大切にされているように見える。

そして、「この2つはワンセットだ。切っても切れない関係にある」と思われているように思う。

しかし、実際にはそうではない。

むしろ、これはセットにするとすごくまずい。

「個性」というのは単純には「人と違う」という意味だが、問題は、この「違う」というところ。

「あの人は人と違う」と決めるとき、当然何らかの基準が必要になる。

例えば、

「あの人の髪の色は赤い。他の人は黒や茶色だ。だから個性がある」

とか、

「あの人は普段和服を着ている。他の人は洋服だ。だから個性がある」

といった具合に。

しかし、これも以前この記事「デッキを0から作れる人」=「自分以外は馬鹿」=「ガレージの竜」で書いた事と同じように、「どう定義するか」という問題であり、そして、そうである以上「定義次第でどうとでもいえる」という問題が湧いてくる。

「赤い髪の色は海外に行けばそう珍しくはない。だから個性的ではない」とか「和服は日本人なら当然。だから個性的ではない」とか、「ああ言えばこう言う」方式で、すべての個性の判断基準に「それは適切だ」とも「不適切だ」とも言える。

そして、ここからが問題だ。

もしも「いろんな意見があっていい」のなら、どんな判断基準をしていようと文句が言えない。

なぜなら「そんな判断基準はけしからん!」と言ってしまうのは、「いろんな意見があっていい」という精神に反するからだ。

つまり、「いろんな意見があっていい」のなら、個性は有名無実化するのである。

どんな人、どんなものにもあるともないともどうとでも言える。

「あるのかないのか」と考えること自体に意味がなくなる。

これがセットにするとまずいと言った理由だ。

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