なんのこっちゃホイ! -10ページ目

なんのこっちゃホイ!

世の中の、これでいいのか、こんなことでいいのかを描くブログ。そんなにしょっちゅう怒っていられないので、ほどほどに色々な話題も混ぜていきましょう。

戦争は悲惨だ。

侵略であれ、防衛であれ、戦争は悲惨だ。

ナポレオンはイギリス軍が占領したトゥーロン攻囲戦でイギリスを破りトゥーロンを奪還、大きな戦果をあげ、将軍にまで昇進する。

その後も、多くの戦争を引き起こすが、「愛する祖国と自由のために」と兵を鼓舞するその姿は、カリスマ的な威厳を持っている。

祖国防衛が、いつしか他国侵略へと変わっていく。

戦争に勝利するために、彼の身分は上がっていく。貧しい国民の救済、自由の獲得、独裁主義の打倒と、国内でもいくつかの内戦も指揮する。ついに彼は、フランス皇帝となり、さらに多くの戦争に突入していく。

彼が歩いた後に残るのは、累々たる屍の山だ。

ワーテルトーの対戦で惨敗をきすまで、300万人を超える死者の山を築いたそうだ。

 

天下の悪妻の名が高い、ジョセフィーヌとの出会いから結婚、そして自由奔放な彼女との確執、子供ができないことを理由に、彼女と離婚。しかしこの映画で描かれるジョセフィーヌは、たしかにふしだらではあるが、僕がイメージする悪妻とはちょっと違う。

ミッション・インポシブル フォールアウトや、ミッション・インポシブル レッドレコニングPart1で世紀の武器商人を演じた、バネッサ・カービーが演じている。彼女の出演が決まるまでには、ひと悶着あったようだが、それはまた別の機会に。

 

リドリー・スコットの作品だから、戦闘シーンは迫力満点、6つの戦闘をスクリーンに再現してみせた。手に汗握る戦闘シーンだ。

 

偉人の生涯に興味があれば、観てみることをおすすめする。

 

 

また今年も悩ましい季節がやってきた。

手帳選びの季節だ。

毎年この季節になると、何に悩むかというと、手帳はデジタルかアナログか問題。

両方に便利な点はある。

 

デジタルは、なんと言っても検索が素早くできること。

グーグルカレンダーを使っているが、例えば「散髪」で検索すると、ある限りの散髪した日のデータが出てくる。

難点は、入力する手間だ。

基本的にスマホをメインで使っているので、iPhoneでGoogle Calenderを起動して、指で日付と時間を選び、ひらがなにして変換する。これが結構、手間なのだ。

 

アナログは、なんと言っても記入の素早さだ。

その日の栞紐を開けば、あっという間に記入できる。

だが、面倒なのは、いつ、何を、誰とやったなどの検索に、時間がかかったり、不可能だったりする。

 

どちらにとってもデメリットなのは、記入を忘れてしまう場合だ。これは何にしても解決不能な出来事だから、もう考えない。

 

現役時代は、圧倒的にOutlookが便利だった。打ち合わせにしろ、会議にしろ、必ずPCを持ち歩いていたから、会議時間の管理からメモまで、全てタイプできていたし、思いつきにしろ情報にせよ、全てOutlookの予定表に記入できた。だから、メモの単語を検索するだけで、いつ、誰と、どこで、何を話したかが一発で出てくる。

 

引退して現在の仕事に就いてからは、現役時代のように、予定がびっしりということはない。

また、会議とか打ち合わせとか、PCを置いて向かい合ってやるよりも、圧倒的に立ったまま話を聞き、指示をメモするようになった。バーチカルの手帳も試してみたが、結局、検索性において、優位が取れなかった。

 

そこで最近は、予定はグーグルカレンダー、メモはノートという風になった。

だが問題は、毎日の歩数だとか睡眠時間だとか、月を横に見るような記録に難点があった。

 

トラベラーズノートのパスポートサイズに出会った。

ネットで、これに能率手帳の小さいのがすっぽり収まることを知った。

2024年はこれでいく。

能率手帳の月間は、ガントチャートになっているから、月を横に見ることができる。

細かなスケジュールはグーグルを使って管理して検索性をエンジョイし、横に眺めて記録するものはこれでやろう。

もちろん、iPhoneアプリで体重、睡眠時間、歩数などは自動で記録されるのだが、横に眺めることができない。

それを能率手帳で補うことにした。

Weeklyのページは、to-doと仕事の記録をつけておくことにした。

 

さて、2024年を通してこのシステムで管理できるかというと、今から自信がない。

どうせまた、数ヶ月で気分が変わるのだ。

まぁ、そうなればそうなったで、その時に必要なシステムを導入しよう。

 

と、毎年思うのだが・・・・

 

惑星X内の紛争により、X星人は宇宙を漂っていたが、一部のものが地球にたどり着いた。惑星Xからの避難民は、地球人をスキャンしたあと、その地球人と同じ姿形、言語を話し、アメリカ社会に溶け込んで生活している。アメリカ政府は、X星人の受け入れを表明すると宣言sた。

日本もこれに追従する形で受け入れを承認した。

分かっていることは、X星人は決して地球人を傷つけないということ。だが、社会に紛れこんで暮らしているいう異星人に、社会は不安を抱き始める。隣にいる人がXかもしれない。

 

発行部数が下がり始めていた雑誌社が、ラーメン紹介記事ばかり書いている記者の笹憲太郎(林遺都)に、これをスクープすることを命じる。金に困っていた笹は、会社から調査を命じられた二人の人物、バイト女子の柏木良子(上野樹里)に近づき、情報を得ようとするが、恋に落ちてしまう。果たして彼女はX星人なのか。

良子が働くコンビニに、台湾人のリン・イレンがいた。彼女もマークする一人だ。台湾から日本に留学し、地震予知の研究者になりたいというリンだが、日本語がマスターできず困っている。コンビニ以外で居酒屋でもバイトしているが、客から「何いってんだか、わかんねぇよ」と頻繁に言われ、その都度傷ついている。

 

良子との関係を深めていた憲太郎だが、X星人の話をしたとき、初めて良子と意見が分かれる。「ねぇ、もし私がXだと分かっていても、私を好きって言った?」

良子の言葉が胸に刺さる。

 

憲太郎は、金に困っていた。このまま記事を書けないでいると、彼は雑誌社をクビになる。

そんな切迫した状況の中、良子の父親の話を聞き、良子がもしXなら、父親もXではないかと考え、父親に会わせてくれと良子に頼む。二人で良子の実家を訪ね、そこで会った柏木紀彦(酒向芳)は、無口な人物だった。脱サラしてコンビニを経営するが、店を潰してしまう。そんな紀彦の印象に、Xの疑惑を深める憲太郎は、彼のことを記事にする。

 

発売された雑誌には「これがXだ!」とキャッチーな見出しが躍り、あたかも決めつけるような論調の記事が載った。「フェークじゃないか!」とかみつく憲太郎に「雑誌は完売したんだ。これがギャラだ。続編を早くかけ。金がいるんだろ?」と編集長に金を差し出され、これを受け取ってしまう。

その後、良子の実家にはマスコミが押し寄せ、四六時中追い回す。良子の自宅にもレポーターやカメラが群がる。一歩も外へ出られなくなった家族を代表して、ついに紀彦が記者会見を開く。

 

しかし、「自分を証明」することは、悪魔の証明に等しい。身分を証明するパスポートや戸籍、住民票を提示し、「私は日本人だ」と名乗ったところで、誰も信用しないのだから、証明のしようがない。

 

マスコミの「面白ければ何でもいい」の姿勢は、現在でも問題だし、いたずらに不安を煽り、確証もないままに家族を「X星人」と決めつけ、前へ出すことで、さらに不安を煽る。時に、人を死に追いやることさえある。まったくマスコミというものの姿勢や有り様には、心の底から怒りと恥辱が湧く。SNSに投稿される非難や中傷と等しいことを、紙面でやっているくせに、SNSを非難する記事もかく。自分のことは棚に上げて、毎日、毎日同じ話題をTVで一日中流している。お笑いタレントも面白おかしくこれを煽る。無責任な業界だ。吉田拓郎の「ひらひら」に歌われている通り、僕は軽蔑している。

 

台湾人のリンも同様に、異種なものとして、自分たちの柵から外へ追い出す、日本人の村社会文化も、X星人への差別と同様のものだと思う。多様性という言葉がもてはやされているが、本当に自分たちとは違うものを受け入れるというより、見ないことにする=無視する。いても気にしないようにする。受け入れているわけではない。ジェンダー問題も、その一つだと思っている。難しいことなど何もない。愛する女性同士、男性同士に結婚を認めてあげればいい。そうなっても、太陽はやっぱり東から上る。公衆浴場や公衆トイレ問題は、この枠とは別のところにあると思っている。

 

クライマックスへ向けたそれぞれの人物の考え、行動。そしてそれを陰ながらも支え、支えながらも戸惑う登場人物達。考えさせられる映画であった。

なのに後味が悪くないのは、一重に上野樹里のおかげではないだろうか。

上野樹里がいい。ヨガのインストラクターの役をドラマでやっていて、なんだか綺麗になったなぁと思っていたけど、この映画での彼女は、本当に素敵だ。可憐、可愛い、弱々しい中に、芯の通った女性の役を好演している。また大スクリーンで会いたいものだと、本当に思った。

 

 

 

連続幼児誘拐事件を追っていた警察は、その犯人を突き止めて、ある屋敷に踏み込む。そこには、誘拐された15人の幼児の遺体と、女医、その夫がいたが、犯人と思われた女医は、警察の前で自殺をとげてしまう。警察は大失態をさらしてしまった。

 

それから数十年が過ぎ、今東京では、斧で人の頭を何度も叩き割り、脳を持ち去るという、連続殺人事件が続いている。その犯人は、「怪物のきこり」という絵本に出てくる殺人鬼のお面をかぶって犯行に及んでいる。女性プロファイラーの戸城嵐子(奈々緒)は、事件を調べる内に、殺された犠牲者には共通点があることが分かった。全員、孤児院の養護施設の出身者だった。施設に共通点はない。

 

弁護士の二宮彰(亀梨和也)は、強烈なサイコパスでもある。彼の暴力は、常軌を逸している。だが、普段は敏腕弁護士としての仮面をかぶり、彼の事務所のシニアパートナーの娘、荷見映美(吉岡里帆)との交際を続けている。映美の父親のシニアパートナーがビルの屋上から飛び降り自殺をしてしまう。心がどん底へ落ちている映美を二宮は、優しく包み込もうとするが、映美は二宮の中に、何か漠然とした不安を抱いている様で、恋愛は思うように進まない。そんなある日、二宮が駐車場で襲われる。斧をもった怪物のきこりのお面をかぶった犯人にだ。抵抗する二宮に犯人が投げつけた斧が頭にあたる。幸い、刃先ではなく後ろ側が当たったので、傷はたいしたことはなかったが、その医者が「脳チップを入れているようだが、繊細なものだから、今回のけがで壊れていなければいいが」、と伝える。二宮は驚き、息をのむが、その場はなんとかしのぎきる。

彼自身、脳にあるチップについて、何も知らなかったのだ。誰が、いつ、何のためにそんなものを頭に入れたのか。

 

二宮自身も施設の出身であった。やはり、施設の前に、一人で置き去りにされているところを施設に保護された親は分からないが、時々不振な電話があったと施設の先生が言う。「プライドが高く、協調性がないというようなことはないか」。時々、それを電話で尋ねていた女性がいたらしい。その質問は「サイコパス試験」と呼ばれるものに近かった。

 

謎は深まるが、犯人像は見えてこない。

 

三池崇史監督作品は、バイオレンスを描いている作品が多いが、実は「神様のパズル」という天才物理学少女と、落ちこぼれ大学生の作品を撮っている。谷村美月を観たくて劇場に行ったが、ラストがおちゃらけてガッカリして以来、あまりこの人の作品を評価していなかった。

今回も、とにかく「血・血・血」の描写が多く、「そんなことで、こんなに血が出るのかなぁ」と思うくらい血が流れる。

節度はあるものの、これでもか!とバイオレンスを突きつけてくる。僕は疲れてくる。

 

大物俳優が登場するだけで、大体犯人は分かってしまう類いの映画だ。あの俳優を使っておいて「彼は無関係でした」とはいかないだろう。

 

なんだか、ビジョンと意味がよく伝わらない映画だったなぁと少し残念だが、映画自体はそれなりに面白いので、亀梨和也、奈々緒、吉岡里帆、染谷将太のファンなら、楽しめると思うよ。俳優は、頑張っていると思う。

 

 

まぁ、とにもかくにも、な〜〜んも考えんと、大口開けて思いっきり笑いなはれ!
 

東京による埼玉弾圧に対抗するために結成された、埼玉解放戦線は、手形制度の撤廃という悲願を勝ち取り、自由で、平和な暮らしが訪れていた。しかし、この自由を享受することは、埼玉解放戦線の緩みを生む。そこで麗が考え出したのが、なんと「日本埼玉化計画」である。日本全国を埼玉一色に統一しようという、巨大構想だ。しかし、埼玉県人、いや埼玉には致命的な欠陥があった。それは、県民の横連携が極めて弱いこと。県内の市町村がそれぞれを主張し、主要私鉄もすべて東京へ向かい、横の路線がない。
そんな埼玉県人の心を一つにするために麗が考え出したのが「埼玉に海を作る」であった。海には砂浜が必要。真っ白な砂がどこまでも続く美しい海。目をつけたのが、和歌山の白浜だ。しかしそこには、東京・埼玉よりもさらにひどい、地域格差と通行手形制度が存在していたのだ。関西では、大阪と神戸以外は人にあるず!そしてその大阪と神戸の知事達は、恐るべき陰謀を胸にしていた。

 

とまぁ、これだけ豪華キャストを集めての、大いなる茶番劇。まじめにやってるから、なおさらおもろい。

三重が近畿を離れて中部になったのはなぜかという、関西人なら笑わずにいられない、爆笑ギャグが満載の映画。

日頃の鬱憤をはらすにはもってこいでんがな。

関西人は、絶対にみなはれや!笑いまっせー!

北野武監督が構想30年?ののちに作った、「おちゃらけムービー」でありました。

 

本能寺の変の真実?新たな解釈?これが?

戦国スペクタル映画?

 

ずっと三河弁を喋り続けるという意味において、新しい信長像ではあったが、何もかもがでたらめのおちゃらけに見えた。

すごいキャストにお笑いを配しているのも、北野武らしいといえばらしいのかもしれないが、まじめに作りなよ。

 

 

人間にはそれぞれ「性癖」といったものがある。「好み」とか「嗜好」とも呼ばれる。そのことに対したとき、性的な興奮も含めた高まりがおこる。そんな感じの「もの」あるいは「こと」。

このドラマの登場人物にとっては、それは「水」であった。吹き出す水。音を立てて落下する水。しずく。それぞれに細かな違いはあるが、「水」に対して、一種の性的な興奮も含めて、強い喜びを感じる。これは冒頭にも書いた通り、人によって様々である。様々な性癖がその人の中に存在するが、「なぜそれに興奮するのか?」と問われても説明ができない。「なぜ水に対して興奮、喜びを感じるのか?」と誰に問われても答えられない。

 

このドラマに登場する検察官(稲垣吾郎)も、「なぜ」と問う側の人間である。自分の中にある「癖」には気づかず、世間でいう「普通」であったり「常識」と呼ばれる事象にのみ、価値と理解を見いだす。「なぜ子供は学校へ行かねばならないのか、なぜ不登校はいけないのか、なぜ自宅で勉強するだけではダメなのか。なぜ社会性は学校でしか身につかないのか」これらの質問には「それが当たり前、それが普通、それが常識」と答えるタイプ。そうして彼自身が信じる「当たり前」では解決できない問題により、家庭は崩壊へ向かう。「なぜそんなものに」「なぜそんなことが」。

 

他人と違うことによる孤独。他人に説明できないことによる孤独。同じ性癖を持つ者どうしで共に暮らす。性的関係はない。検察に逮捕されたパートナーに彼女が伝言したいと言った言葉は「私はいなくならないから」

 

ダイバーシティーとは多様性と翻訳される概念である。多様性とは広辞苑によると「さまざまな種類があること。変化に富んでいること。」と身も蓋もない定義になるが、実生活においては違う。様々な種類を受け入れる。変化に富んだ価値観を受け入れる。「心は女性なんですから、彼を愛しているんです」「そうですか、仕方ないわね」と受け入れる。しかし、「心は女性だから男性の形のままで、女性の中へ入っていく」というのは、多様性とは違う。最近メディアでは、女性浴場に男性形態の女性が入場することの是非が騒がれている。逆はいいのか?「男性浴場に女性形態のまま入場すること」は問題ではないのか?ラッキーと思う男性が一般的だから?驚くけど、受け入れられるから?女性は受け入れられないから問題?女性は繊細な心があるから受け入れられないのか?犯罪を許容することになるから問題なのであれば、両性形態で問題であろう。

 

ドイツに住んでいたとき、マンションにあるサウナに入浴しに行った。そこには、金髪美人の女性が素っ裸で寝転んでいた。僕らは驚いて立ち尽くしたが、女性は気にもとめていない。「ここは入浴するところ。裸なのは当然。あなたを私は知らないし、あなたも私を知らない。だから、別にきにもとめない」もちろん、倫理感の違い、宗教観の違いはあるにせよ、受け入れているんだな。日本でも昔の温泉は全部混浴だったんだよな。「恥」は女だけのものではない。

 

ガッキーは正直、逃げ恥のイメージしかない。そんなに可愛い女優というイメージはなかった。逃げ恥では、キャラが可愛い=見た目も可愛いと認識を新たにしたものだ。そんなガッキーが、逃げ恥とは全く違う役を演じている。素晴らしい女優になったなぁと感心してみていた。うつむき加減のショットでは、さすがに年を取ったなぁと思うが、それが役によるものなのか、実際の彼女なのか分からないところが、素敵な女優だと思う。

 

ちなみに僕は、ツルツル、テカテカした生地の衣服や下着に癖がある気がする。

 

 

 

 

どんなに実績があろうとも、どれほど市場で名前が知られていようとも、それに甘んじて手を抜いたり、他人の会社を我が物顔で操ったり。気に入らないことがあると、すぐにヘソを曲げたりいじけたり。あげくに社長の悪口、責任の押しつけ、知らんぷり。それは通用しないんじゃないですか?

 

もうあなたは社長じゃない。たとえ、パートナーに裏切られて、知らない間に社長を外されていたとしても、それはあんたの油断、おごりの結果。

 

あなたを信頼して、あなたを助けようとしてくれた人たちに、後ろ足で砂をかけて、口を開けば恩人たちの悪口ばかり。それで自分を正当化できるわけではない。いつまでも、中学生のマインドを振り回してはいけない。

 

あなたの周りはあなたの社員じゃない。彼らもあなたも、今の社長の使用人。使用人は使用人。わきまえるべきだ。

 

怪獣映画で重要なことは、怪獣が現れ、都市を破壊するに足る十分な根拠と理由があること。例えば、ゴジラは原子力エネルギーを求めて、原発のある都市を襲うというものだ。これがないと、たあデカいのが周りのビルを壊して回っているだけで、なんの面白みもない。

次に、怪獣との戦い、怪獣同士の戦いの背景に、しっかりとしたストーリーが流れていること。怪獣以外の何かメインのテーマとなるようなストーリーが必要だ。

前作「シン・ゴジラ」では、突然の巨大な危機に対して、戸惑い混乱する日本の政治体制を描き、危機対応とはどういうことか。国を守るとはどういうことかがテーマのストーリーがあった。今回のテーマはおそらく、「復活」ではあるまいか。

 

時は1945年、太平洋戦争末期。特攻に飛び立った1機の零戦が、太平洋上の航空整備基地、大戸島に着陸する。戦闘機に不具合があると申し出たパイレットだが、いくら整備士が調べても、不具合は見つからない。特攻から逃げたのか。ある夜、多くの深海魚が打ち上げられているのをみつける。島の言い伝えでは、深海魚が死ぬとき、「ゴジラ」が来ると。その夜、巨大な怪獣が島を襲い、整備隊は全滅。生き残ったのは、逃げた戦闘機乗りと、整備隊の隊長だかけ。

彼らが引き揚げ船で帰国してみると、東京は米軍の空襲で瓦礫の山と化し、家族は全員死んでいた。戦後復興が始まる東京湾で、深海魚が大量に死んでいるのが見つかる。「やつがくる」

米軍は例によって、ロシアとの関係を重視して、この怪獣に対して攻撃をしない。日本には敗戦で軍はなく、残された船は武装解除で武器はなく、戦闘機はすべて葬られた。民間の力だけで、この巨大な脅威と向き合わねばならない。元帝国海軍の軍人、兵士が集められるが、「戦時でもないのに、命をかけろというのか」と立ち去る者、未来の日本のため、日本の復興のため、立ち上がる者もいた。特攻を逃げた戦闘機乗りは、自らの中の戦争を終わらせるため、倉庫に眠る一機の試作機を整備して、ゴジラに立ち向かおうとする。最後の戦闘機を整備できる人間は。

それはあの島で部下をすべて失った、あの整備隊長しかいない。

最後の日本人戦闘員対ゴジラの復興、復活をかけた最後の戦いが始める。

 

 

ゴジラのフォルムは基本的には「シン・ゴジラ」と変わらないが、数段凶暴で、巨大になった。復興途中の銀座の街を、巨大なゴジラが進む。なんのためか、どこへ向かっているのかは分からないが、圧倒的な力と、グレードアップした爆発的な熱線。

愛する者のため全てを捧げるのか、過去と向き合うため、その愛すら受け入れることのできない者。ドラマはここにある。全ての人は、国のため、家族のため、自身のために「復活」をなしとげようと懸命に戦う。ゴジラがさらに巨大になって復活したように、失ったもの、失っているものの復活を目指す。

 

上白石萌歌が出演しているというから観に言ったが、秒単位でしか出てこなかった。

がっかりだった。

 

木南晴夏が、大人の空気をまとっていた。20世紀少年で観たときには、全く原作漫画の中の女の子とそっくりだったので驚いた。

玉木宏との夫婦生活は、うまくいっているようだ。

吉岡里帆はかわいい。俳句のびっくりおばさんも出演していて、女優なんだと再認識した。

 

映画については、何も言うことはない。