映画#44 正欲 | なんのこっちゃホイ!

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世の中の、これでいいのか、こんなことでいいのかを描くブログ。そんなにしょっちゅう怒っていられないので、ほどほどに色々な話題も混ぜていきましょう。

 

人間にはそれぞれ「性癖」といったものがある。「好み」とか「嗜好」とも呼ばれる。そのことに対したとき、性的な興奮も含めた高まりがおこる。そんな感じの「もの」あるいは「こと」。

このドラマの登場人物にとっては、それは「水」であった。吹き出す水。音を立てて落下する水。しずく。それぞれに細かな違いはあるが、「水」に対して、一種の性的な興奮も含めて、強い喜びを感じる。これは冒頭にも書いた通り、人によって様々である。様々な性癖がその人の中に存在するが、「なぜそれに興奮するのか?」と問われても説明ができない。「なぜ水に対して興奮、喜びを感じるのか?」と誰に問われても答えられない。

 

このドラマに登場する検察官(稲垣吾郎)も、「なぜ」と問う側の人間である。自分の中にある「癖」には気づかず、世間でいう「普通」であったり「常識」と呼ばれる事象にのみ、価値と理解を見いだす。「なぜ子供は学校へ行かねばならないのか、なぜ不登校はいけないのか、なぜ自宅で勉強するだけではダメなのか。なぜ社会性は学校でしか身につかないのか」これらの質問には「それが当たり前、それが普通、それが常識」と答えるタイプ。そうして彼自身が信じる「当たり前」では解決できない問題により、家庭は崩壊へ向かう。「なぜそんなものに」「なぜそんなことが」。

 

他人と違うことによる孤独。他人に説明できないことによる孤独。同じ性癖を持つ者どうしで共に暮らす。性的関係はない。検察に逮捕されたパートナーに彼女が伝言したいと言った言葉は「私はいなくならないから」

 

ダイバーシティーとは多様性と翻訳される概念である。多様性とは広辞苑によると「さまざまな種類があること。変化に富んでいること。」と身も蓋もない定義になるが、実生活においては違う。様々な種類を受け入れる。変化に富んだ価値観を受け入れる。「心は女性なんですから、彼を愛しているんです」「そうですか、仕方ないわね」と受け入れる。しかし、「心は女性だから男性の形のままで、女性の中へ入っていく」というのは、多様性とは違う。最近メディアでは、女性浴場に男性形態の女性が入場することの是非が騒がれている。逆はいいのか?「男性浴場に女性形態のまま入場すること」は問題ではないのか?ラッキーと思う男性が一般的だから?驚くけど、受け入れられるから?女性は受け入れられないから問題?女性は繊細な心があるから受け入れられないのか?犯罪を許容することになるから問題なのであれば、両性形態で問題であろう。

 

ドイツに住んでいたとき、マンションにあるサウナに入浴しに行った。そこには、金髪美人の女性が素っ裸で寝転んでいた。僕らは驚いて立ち尽くしたが、女性は気にもとめていない。「ここは入浴するところ。裸なのは当然。あなたを私は知らないし、あなたも私を知らない。だから、別にきにもとめない」もちろん、倫理感の違い、宗教観の違いはあるにせよ、受け入れているんだな。日本でも昔の温泉は全部混浴だったんだよな。「恥」は女だけのものではない。

 

ガッキーは正直、逃げ恥のイメージしかない。そんなに可愛い女優というイメージはなかった。逃げ恥では、キャラが可愛い=見た目も可愛いと認識を新たにしたものだ。そんなガッキーが、逃げ恥とは全く違う役を演じている。素晴らしい女優になったなぁと感心してみていた。うつむき加減のショットでは、さすがに年を取ったなぁと思うが、それが役によるものなのか、実際の彼女なのか分からないところが、素敵な女優だと思う。

 

ちなみに僕は、ツルツル、テカテカした生地の衣服や下着に癖がある気がする。