特別展「芥川龍之介と美の世界」(神奈川県立近代美術館) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

ひつぞうとおサル妻の山旅日記

ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

芥川龍之介と美の世界 二人の先達-夏目漱石、菅虎雄

 

往訪日:2024年3月23日

会場:神奈川県立近代美術館葉山

所在地:神奈川県三浦郡葉山町一色2208‐1

会期:2024年2月10日~2024年4月7日

開館:9時30分~17時(月曜休館)

料金:一般1200円 大学生1050円 高校生100円

アクセス:京急・逗子葉山駅からバス利用(約30分)

駐車場:あり(有料)

※前期・後期展示替えあり

※館内撮影NG

 

(文中の写真は主としてチラシから拝借いたしました)

 

ひつぞうです。三月下旬に葉山の神奈川県立近代美術館芥川龍之介の企画展を観てきました。芥川に絵心があり、また広く芸術について理解があったことは知っていましたが、気になったのは菅虎雄。初めて耳にする名前です。調べてみると芥川の師・夏目漱石ともども深く親交を結んだ人物でした。これは面白そう。行くことにしました。

 

★ ★ ★

 

この日も開館とほぼ同時に到着。エントランスに向かうとどこか様子が違う。

 

柳原義達《裸婦 座る》(原型1956)

 

義達先生のマドモアゼルの位置が反対のカフェコーナーに移設されていた。天気によって表情を変える。今日は肌寒そう。

 

 

さっそく観ていこう。

 

 

=第1章~第3章 三人の関わり=

 

まずはそれぞれの関わりを。今更という気もするが芥川から。

 

 

芥川龍之介(1892‐1927)。東京都出身の小説家。東京帝大英文科卒。同人誌(第四次)「新思潮」に掲載した短篇『芋粥』を漱石が激賞。一躍流行作家に躍り出る。歴史物、キリシタン物、現代物など短編小説を発表。谷崎との激しい文藝論争ののち「将来に対するぼんやりとした不安」という言葉を残して世を去った。享年35歳。

 

『或阿呆の一生 三十四 色彩』草稿(1927)山梨県立文学館

 

芥川と言えば神経質そうな肖像が一般化しているし、事実、原稿の端正ながら丸っこい小さな文字をみるとそうなのかもとも思う。しかし、頭脳の明晰さではズバ抜けていた。天賦の才もあるだろうが、実母の病を境に母方(芥川家)に養子に出され、叔母フキの独占的寵愛のもと早期教育をうけた結果ともいわれる(関口安義著『芥川龍之介』)。

 

この年の離れた肉親の寵愛(というより溺愛)による文学的早熟という構図は三島由紀夫と被り、屋内中心の生活が肉体の鍛錬を疎かにした結果、神経過敏になったとも想像できる。後年芥川は文学志望の後進に対して運動と数学を強く奨めている。

 

「偏っちゃいかんということね」サル

 

津田青楓《漱石と十一弟子》(くまもと文学・歴史館)

 

長じて東大英文科に進学。当時の学生の憧れの的といえば漱石。芥川も例外ではなかった。だが級友久米正雄を伴った木曜会初参加の晩に、軽はずみな発言で漱石が厭な顔をして黙りこむ“事件”を起こしてしまう。まあ事件と呼ぶほどではなかったが、芥川は長らく気に病んだ。であればこそ後日『芋粥』が激賞されたときの喜びは格別だっただろう。

 

 

夏目漱石(1967-1916)については漱石山房の回で細かく書いたので省略。今回改めて気づいたこと。それは(芥川もそうだが)漱石も絵が旨いこと。漢籍を得意としたので達筆なのは判るけど。

 

夏目漱石《山上有山図》(1912)水彩、紙 岩波書店

 

もちろんプロの画家のようにはいかないが山の容に味がある。なにより真面目さが伝わってくる。若き津田青楓を「師匠」と仰いで手解きを受けた。絵と言えば漱石の初版本の装幀。いずれもモダンで洗練されたデザインで知られる。※展示は漱石山房と近代文学館の所蔵品。画像はネットの借り物です。

 

『吾輩は猫である』に始まり、主要作品を手掛けた橋口五葉(1881-1921)は格違いの巧さ。

 

 

漱石著/橋口五葉装幀「三四郎」表紙(1909)春陽堂

 

花はオダマキだろうか。知恵の象徴であるフクロウがとまる。アールヌーボー風。

 

装幀家といえば小村雪岱が五葉と双璧だが、五葉は美人版画でもその名を知られた。

 

(参考作品)

橋口五葉《此美人》(1911)石版

 

この三越のポスター。何処かで見たことがあるという人も多いだろう。

 

「いろいろな処で繋がっているんだのー」サル

 

漱石著・装幀「こゝろ」(1914)岩波書店

 

ちなみに『こゝろ』と『硝子戸の中』は漱石自ら装幀を手掛けている。

 

芥川龍之介著/小穴隆一装幀「或阿呆の一生」(1942)

岩波書店 ※歿後の出版

 

師匠に倣ったか、芥川も装幀に凝ったひとり。小穴隆一(1894-1966)は塩尻の旧家の生まれで中村不折に師事した挿絵画家・随筆家。芥川とは無二の親友だった。

 

さて。今回の眼玉。

 

 

菅虎雄(1964-1943)。福岡県久留米市出身のドイツ語学者、教育家。帝国大学文科大学卒。五高、三高、一高など旧制高校でドイツ語の教鞭をとる。能書家として知られ、郷里の高良大社の石鳥居や雑司ヶ谷の墓碑銘「夏目金之助墓」は菅の揮毫による。東京暮らしだったが歿後郷里の梅林寺に葬られた。享年79歳。

 

漱石の愛媛尋常中学(現松山東高)や五高(現熊本大学)への就職は菅の斡旋のおかげだったそうだ。しかし、イギリス留学中の長文の手紙を読むと「熊本には戻りたくないので一高で使って欲しい」と早くも泣き言を漏らしている。

 

「泣き言にしちゃずうずうしくね?」サル

 

それでも帰朝後、漱石の下宿探しを手伝っているから後輩思いの優しい人柄だったのかな。

 

「感謝せんとね」サル

 

ところが、目星をつけてくれた北山伏町ではなくて(鷗外旧宅の)千駄木の家を選ぶ。

 

「恩知らず!」サル

 

この家は歴史学者・斉藤阿具(1868-1942)が家主で、のちに明治村に移築された。20年近く前に訪ねて微かに覚えている。次に芥川との関わり。

 

芥川龍之介著『羅生門』(1919)阿蘭陀書房

 

教科書でお馴染みの初版本。しかし「帝国文学」発表当時は泣きそうになるほど不評(というより黙殺)だった(もし漱石の「芋粥」への賛辞がなかったら…)。その芥川ブームに創業まもない阿蘭陀書房がとびつく。北原白秋の実弟が経営する零細書房も、「新思潮」発刊の原資を必要としていた芥川も欲しいのはカネ。僅か二箇月で出版した。当然満足いく完成度とは思えず、後の“恐るべき推敲”の訳も良く判る。

 

菅虎雄《「羅生門」題字・試書き》(1919)

 

その分、装幀に拘り抜いた。漱石著『漾虚集』(挿絵:中村不折、装幀:橋口五葉)を模して紺色無地に鶯色の布を貼り、背文字、題簽、扉を恩師の菅に頼んだ。実は漱石の『文学評論』(1909)の題字を手掛けていて、書家として既に活躍していたらしい。後に谷崎の『文章讀本』などにも関与している。

 

菅虎雄《我鬼窟》(1919)山梨県立文学館

 

芥川の田端の自宅に掲げられた菅の手になる扁額。「我鬼」とは芥川の雅号だった。1903年から三年間、清国の要請で南京三江師範学校(現南京大学)の客員教授となり、書家・李瑞清に本格的手解きを受けたことがのちの人生に繋がっている。

 

話は芥川と漱石に戻る。「新思潮」への率直な批評に対する感謝の手紙を芥川は久米ともども漱石に書き送った(昭和女子大学図書館蔵)。少し長いが味わいある文章なので忠実にメモしてきた。

 

“先生の所へ干物をさしあげました。あんまりうまさうもありませんが召上って下さい。それでも大きな奴は少しうまいだらうと思ひます。あの中へ入れた句は久米が作りました。(略)あんまり干物の講釈をするやうで恐縮ですがあれは宿ニたのんでこしらへて貰ったのです。出来上がった物で一体どの位する物だねときいたら十枚三銭五厘とか云ひました。すると、久米が急に気が大きくなって先生の所へ百枚か二百枚送らうぢゃないかって云ふのです。”(1916年9月2日)

 

(新思潮のメンバー。左から久米、松岡譲、芥川、成瀬正一)

 

卒論を書き終えて無事卒業。「新思潮」も軌道に乗せた芥川は、翌年進路も定まらないまま、久米正雄と外房海岸一宮館に遊んだ(漱石死の三箇月前。干物は喰えたのだろうか)。雑誌は出版したが、自然主義作家(特にわからずやの花袋)からの誹謗をあびていた芥川は、わずかに見つけた細やかな倖せを文中いっぱいにしたためて尊敬する師に書き送った。そんな情景が眼に浮かぶ。一篇の詩のようだ。

 

(かつての横須賀海軍機関学校)

 

その後、横須賀海軍機関学校の英語教師に着任した芥川は、久米から「センセイキトク」の報を受け取る。しかし赴任したばかり。加えて軍属という自らの立場を重んじて授業を続けた。通夜に間に合ったのは幸いだった。こうして芥川は大切な羅針盤を失った。

 

 

=第4章 芥川龍之介と美術=

 

このコーナーでは芥川が興味を寄せた芸術家、ビアズリー、ブレイク、レンブラント、ルドン、そして当時の新進気鋭の画家や彫刻家の作品と芥川自身の批評が展示されていた。膨大なので参考程度に(展示の半数を第4章が占めていた)

 

斎藤豊作《夕映えの流》(1913)東京国立近代美術館

 

後期印象派風の色彩分割の大作。芥川はリアルタイムで新人の中から将来の大器を見抜く才に長けていた。斎藤豊作(1880-1951)は児島虎次郎に協力して大原美術館の展示品収集に尽力した人物だが、その後中央画壇と関係を断った。金山平三坂本繁二郎に似た生涯だった。

 

南薫造《六月の日》(1912)東京国立近代美術館

 

精緻且つ穏やかな画風で観る者を虜にする南薫造(1883-1950)。初期を代表する名作。

 

斎藤與里《木蔭》(1912)加須市

 

後ほど出てくる永見徳太郎と共に今回の鑑賞の大きな収穫だった。斎藤與里(1885-1959)は芥川が親しく交際した埼玉県加須市が生んだ偉大な画家。留学後いち早く「白樺」誌上にフォービスムを紹介した。この《木蔭》などはマティス《豪奢Ⅰ》(1907)前後の影響を強く感じる。劉生とともにヒュウザン会を牽引したが、鑑賞の機会が少ないのが惜しい。

 

木村荘八《祖母と小猫》(1912)東京都現代美術館

 

猫好きな荘八らしいほのぼのした佳作。

 

高村光太郎《上高地風景》(1913) 神奈川県立近代美術館寄託

 

高村智惠子窪田空穂など)度々ふれてきた岸田劉生たちとの大正二年の写生旅行。その成果を初めて眼にすることができた。大正池周辺から見あげた西穂の稜線だと思う。構図が素晴らしい。堂々たる夏の北アルプスだ。

 

関根正二《子供》(1919)アーティゾン美術館

 

発表当時ほぼ無視された関根の真価を芥川は見抜いていた。

 

小杉未醒《水郷》(1911)東京国立近代美術館

 

別号、放庵。画家、歌人、随筆家として名を成した未醒も、この一作だけで忘れられかけてている。男体山二荒山神社の神官の息子に生まれながら、絵の世界に飛び出し、アカデミズムに留まらず、面白い仕事をした。芥川とは同じ田端の住人であり、香取秀真、小穴隆一、下島勲(医師)が暮らすなど当時の田端は“田端文士村”と呼ばれ、深く交流した。

 

香取秀真《烏銅鳳凰香炉》(1911)千葉市立美術館

 

永青文庫《獅子置物》、京都国立近代美術館《八稜鏡瑞鳥文喰籠》に続いて三度目の鑑賞。香取秀真(かとり ほつま)(1874-1954)は中国古代銅器(殷・周時代)に範をとった作品から晩年の省略と誇張を施した現代的な作風まで常に「美」に拘り続けた。

 

次が今回第二の収穫。

 

満谷国四郎《長崎の人》(1916)倉敷市美術館

 

満谷が描いたこの人物。長崎では知られた富豪で、文化サロンの中心人物だった永見徳太郎(1890-1950)だ。家業の傍ら南蛮美術の蒐集研究につとめ、長崎を訪れる文化人(劉生、夢二、大観、茂吉など)を厚遇した(東京では「長崎に行くならまず永見を訪ねろ」と言わるほどだった)。またみずから絵を描き、写真にはまり、小説を執筆し、揚げ句はヒマラヤ登山まで果たしている。お金持ちってすごい。

 

(左から菊池寛、芥川、武藤長蔵、徳太郎)

 

しかし、全ては財産のなせる業という側面は否定できず、戦時中は著しく家運が傾き、移住先の熱海で失踪。自殺と言われている(新名規明『永見徳太郎』に詳しい)。真面目そうな人物なのにどこかアサッテな感じがした。そんな徳太郎のもとを友人の画家・斎藤浩一路の紹介を頼りに1919年に芥川と菊池は訪ねた。キリシタン物の取材を兼ねていた芥川は長崎を甚く気に入り、三年後に再訪している。

 

中原悌二郎《若きカフカス人》(1919)新潟大学

 

晩年「この若者はまだ生きている!」と芥川が絶賛した夭折の彫刻家・中原悌二郎(1888-1921)の代表作。ロシア語ができた(カレーの)中村屋の相馬黒光に匿われた亡命ロシア人ニンツァがモデル。偶々出入りしていた中原が即刻モデルを依頼。しかし、その兇暴性を捉えた彫像に本人が怒り出し、今にも破壊しそうだったので、慌てて二週間で拵えた曰くつきの作品だ。芥川が褒めるのも当然だった。

 

「怒りっぽい人だったんだ」サル うらー

 

 

=第五章=

 

いよいよ最後。つまり最期。友人、小穴隆一への遺書に眼を落す。

 

“僕の作品の出版権は(中略)岩波茂雄氏に譲渡すべし。(中略)僕は夏目先生を愛するが故に先生と出版書肆を同じうせんことを希望す”。

 

最後まで思慕を寄せた漱石。むしろ心の中は漱石ひとつだったのかもしれない。谷崎と繰り広げた「余りに芸術的な」論争で“筋らしい筋のない”志賀直哉のような小説を模範と示しつつ物語性も備えた漱石を仰いだ。そのアンビバレントな心境こそ、怜悧な神経で出来上がった芥川自身を苦しめ続けた遠因だったのではと思ったりする。

 

「個人の妄想ですにゃ」サル

 

芥川龍之介《水虎晩帰図》紙本墨色 日本近代文学館

 

最後に観た北代省三デザインによる横山はるひのバレエ公演「河童」(1951)のポスターもよかった。残念ながらここに載せることはできないが。時代とジャンルを超えたコラボを許すのも芥川龍之介の魅力だろうね。以上で鑑賞はおしまい。

 

★ ★ ★

 

刹那の感動。芥川晩年の小説『奉教人の死』の一節に出てくる言葉である。畢竟、芸術とは刹那の感動のもとにある。芸術に身を捧げた芥川の心の叫びだったのに違いない。東京都北区では芥川龍之介記念館の計画が2026年オープンを目標に進められている。完成が待ち遠しい。

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。