「智恵子の生家・智恵子記念館」
往訪日:2019年6月23日
所在地:福島県二本松市油井字漆原町36
開館時間:9時~16時30分(年末年始・水曜休館)
料金:(大人)410円(子供)200円
駐車場:あり(普通車35台分)
≪モダンで清潔感あふれる記念館≫
こんばんは。全く山登りをしないひつぞうです。言い訳しても仕方ないのでさっ
さと福島旅行の続きをアップしよう。横向温泉を出発したのち二本松市の智恵子
記念館を訪ねました。
★ ★ ★
子供の頃のこと。母親の本棚に方形の変わったサイズのカラー版の本があった。
それは紙絵の作品集で、切り花から野菜に食材など日常的な題材から、幾何学的
な切り欠き模様まで多岐に亘っていた。高村光太郎の弟・高村豊周編纂による
『智惠子の紙繪』(社会思想社)という本だった。
(図版等はすべてネットから拝借しました)
小学校に上がったばかりの僕に智恵子がどういう人物であるか知る由もない。
母は「精神を患いながら美しい切り絵を遺したひと」とだけ教えてくれた。子供
の眼にも、心を病んだ人物の手によるものとは思えない、緻密で写実を尽くし
た作品がそこにあった。
高村智恵子といえば「東京に本当の空が無いという/ほんとの空がみたいと
いう」の詩句がすぐに思い出されるだろう。詩集『智恵子抄』に収められた「あ
どけない話」という作品だ。
この詩集を読んだのは大学生の頃。一生を誓いあう相手などいない僕に、光太
郎の智恵子を愛おしむ気持ちと、なにもしてやれないもどかしさなど理解できる
筈もなく、そもそも安達太良山の空でなければならない理由も思いつかなかった。
高村(旧姓長沼)智恵子(1886-1936)。福島県安達郡油井村の造り酒屋の長
女として生をうける。幼い頃より成績優秀で、特に書道の才能は眼を見張るもの
があった。長じて日本女子大に進学した智恵子はそこで油絵に興味を抱く。卒業
後は故郷に戻るという両親との約束を反故にして、どっぷり美術の世界に身を投
じてしまう。
果たしてこの選択がよかったのか。
「おサルの選択はどーだったのち?失敗だったのち?」
ひつじとの生活が待っていたんじゃね?
ここに智恵子が遺したデッサンがある。確かに立体把握は正確無比。だが生硬と
いうのだろうか、生真面目さが目立つ、どちらかと云えば訓練によって成し遂げた
作品という印象が強い。
≪まだおぼこい感じの智恵子≫
しかし、人一倍自意識が強く、負けず嫌いな彼女は、どんどん前のめりに突き進
む。当時は女性の社会運動が盛んになった時代。平塚らいてうが主宰した雑誌
『青踏』の表紙絵を飾るなど、次第に注目が集まり始める。
≪「青踏」第一号の表紙≫
1911年(明治四十四年)。智恵子は詩人・高村光太郎と運命的な出逢いをは
たす。そして、1913年(大正二年)、岸田劉生らと共に写生旅行に上高地に向
かった光太郎を追った智恵子は、そこで結婚の意思を固めた。二人の生活は
婚姻届も出さない半同棲生活。世間の約束事に縛られない智恵子らしい選択
だった。
光太郎の勧めによって、上高地で描いた作品を文展に出品した智恵子に最初の
試練が訪れる。結果は全て落選。“負け”を知らない人生にあって、その衝撃は
如何ばかりだったことか。事実二度と展覧会に出品することはなかった。
「静物」(大正初期)
智恵子が描いた油彩は殆ど残っていない。その貴重な作品を鑑賞できるのも当
館の魅力。実際に観ての印象は、当時流行りだった後期印象派の影響。いや、
むしろ安井曾太郎の亜流のような(失礼ながら)研鑽というよりは模倣の苦労の
跡を感じた。
智恵子のアーティストとしてのセンスは、大掛かりな手法よりも、無駄を削ぎ落す
デザインやテキスタイルの世界で光彩を放ったと思う。
≪新潟の大学時代の友人宅にて≫
その一方。自分の夫が天才的であったとしたら。
高村光太郎は間違いなく天才だ。蝉や小鳥などの木彫の小品をみても、鋭い観察
力とデッサン力、詩的喚起力を兼ね備えた芸術家と判る。田舎の資産家とは云え
蝶よ花よと育てられた、挫折を知らない智恵子には焦燥の元凶でもあったに違い
ない。それが熾烈な競争相手であればまだいい。常に愛をもって自分に応える夫
であるのは辛かっただろう。
時を同じくして、父・今朝吉の死、実家の破産と不幸が続く。もとより人付きあいが
苦手な智恵子は、孤独とも戦う日々だったのだろう。光太郎の出張中に最初の総
合失調症の兆候が現われた。昭和六年。智恵子四十五歳だった。
★ ★ ★
小学生時代の担任に、おっかないが一本筋の通ったN先生がいた。とりわけ美術
教育に熱心で、この智恵子の魚の紙絵のような、線香で焦がして質感を出すなど
意表を突く表現を教えてくれた。今でもその連想でこの作品はよく覚えている。
★ ★ ★
≪晩年の光太郎と智恵子≫
服毒自殺を図るなど、病状は重くなる一方の智恵子。東北地方への湯治旅行など
転地に努めるが効果はない。品川のゼームス坂病院に入院した妻のために、光太
郎は千代紙を土産に持って行く。
思いのほか喜んだ智恵子は、最初は食事の惣菜や見舞の切り花から手始めに、
マニキュア鋏を使って器用に切り絵を始める。
後日面会に訪れた夫に、智恵子は恥ずかし気に自分の“作品”を見せた。既に人と
しての会話の能力を蝕まれている彼女とは、眼と眼で会話するような状態だった。
褒めると素直に喜び、親切な他人に示すように何度も何度もお辞儀をしたという。
その光太郎の心の痛みはいかばかりだったろうか。自分の妻が少しずつ、しかし
着実に壊れていく様を見て。
「皆が帰る時に嫌々して自分も帰りたいって言ったって…」
★ ★ ★
平成二年に完成した記念館の表には、やはり同年改修された智恵子の生家があ
り、見学できる。一度人手に渡ったというが、ここまで綺麗に保存されていたのが
奇蹟のようだ。
清酒「花霞」は永遠に幻の酒になってしまった。
ときおり帰省した智恵子は、この二階の自室に起居した。
「御姫様だったのち?」
作品の数は増えていき、それとともに智恵子の記憶と言葉は失われていった。
没後、資生堂で催された初の展覧会で、その作品を「切り絵」ではなく「紙絵」
と表したのは光太郎自身だった。
光太郎の余生の棲家は岩手県花巻市にある。高村山荘と名づけられた、あたかも
馬小屋のようなそれは、飲食起居するだけのつましい生活の道具しかなかった。
光太郎には智恵子の思い出だけで充分だったのかもしれない。
★ ★ ★
てな訳で智恵子が求めてやまない安達の里を歩いて、都会の生活に倦んだ彼女が
なぜ安達太良の山の先にひろがる空を求めたか判ったような気がした。
「ほんち~?」
いや。なんとなく…だけど。
折角なのでもう一箇所寄り道することにした。全然毛色が違う場所だけどどこでしょう。
(つづく)
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