旅の思い出「大原美術館」(岡山県・倉敷市) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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大原美術館

℡)086-422-0005

 

往訪日:2024年2月23日

所在地:岡山県倉敷市中央1‐1‐15

開館:9時~17時(月曜休館)

料金:一般2,000円 小中高生500円

アクセス:山陽自動車道・倉敷ICより約20分

駐車場:なし(倉敷市営中央駐車場)

■設計:薬師寺主計

■施工:藤木工務店

■竣工:1930年

※内部撮影はNGです

 

《ようやく来れた感無量!》

 

二月の終りに瀬戸内周辺をめぐる旅にでました。最初に訪ねたのは大原美術館です。王道の観光名所ですね。以下、往訪記です。

 

★ ★ ★

 

美術館マニアを標榜しながら未訪問だった。趣味は登山ですと言いつつ穂高や槍ヶ岳には登っていない。それと肩を並べるほど後ろめたいことだった。大阪暮らしを始めて倉敷も近くなったし、連休を利用して往訪することにした。

 

 

あいにく天気はめっちゃ悪かった。我が家としては珍しいことである。

 

専用の駐車場はない。コイン式駐車場もあるが割と高額。長時間の鑑賞には地下式の市営中央駐車場がお薦めだ。但し、すぐに満車になるので早めに止めることが肝心である。

 

 

一般展示で2000円は強気の営業だが、本館、工芸・東洋館、分館(現在は改修工事中)含めての話。しかも学生以下は500円。若い世代への投資と思って大人は黙って払おう。

 

改めて美術館のおさらい。

 

大原孫三郎(1880-1943) なんかちょっと怖い

 

ここ大原美術館は倉敷紡績の生みの親、大原孫三郎によって創設された。大原が欧州留学の面倒をみた洋画家・児島虎次郎(1881-1929)はその命に応じて渡航先で西洋絵画やオリエント美術を購入。そのコレクションがベースとなっている。

 

大原總一郎(1909-1968) 大学の先生っぽい

 

更に長男の大原總一郎が民藝の陶芸作品や棟方志功まで蒐集対象を拡大。現在に至っている。

 

「父子で随分雰囲気が違うにゃ」サル

 

總一郎氏も語っている。井上太郎著『大原總一郎』からの孫引きになるが、曰く(孫三郎は)“非常に分かりにくい性格”“難しい人だったという者もあれば親しみやすい性格だったという者もあった”と。

 

「たたき上げの成功者って感じ?」サル

 

いやいや江戸時代から続く名家の出身だよ。一方の總一郎氏は温厚篤実な学者肌タイプ。そんな親子が作りあげた美術館なんだ。

 

 

本館の設計は東京帝大建築科を出て陸軍省の営繕技官として奉職した薬師寺主計(やくしじ かずえ)(1884-1965)。まもなく同郷の孫三郎にスカウトされて倉敷絹織に転職。倉敷中心に作品を残している。もちろん代表作は大原美術館本館。また、1961年には倉敷出身の建築家・浦辺鎮太郎の設計で分館も竣功。コレクションもさることながら建物自体がアートの嚆矢といえる。

 

ロダン《洗礼者ヨハネ》(1878)

 

玄関でロダンの彫刻二体が並んで迎える。《洗礼者ヨハネ》《カレーの市民ジャン・デール》だ。ただし内部は撮影禁止。この先は絵葉書とネットからの拝借画像(申し訳ございません)で備忘録。

 

 

=児島虎次郎とは=

 

児島の展示室は最後なのだが、話の順序もあるので。

 

 

児島虎次郎(1881-1929)。岡山県出身。東京美術学校卒。黒田、藤島ら第一世代の薫陶をうける。その後、大原家の支援を受けて5年間欧州留学。自らの画風を開拓しつつ、最新の芸術思潮を日本に広めた。晩年は聖徳記念絵画館の奉納画制作に苦しみ、47歳の若さで他界。友人の金山平三が拒みながらも完成させたのと対照的だった。

 

コロナ禍の影響で児島の専門美術館《新児島館》のグランドオープンは2024年度末。現在は本館で充実したコレクションを拝観可能。全部はメモを残せないので幾つか触りを備忘録。

 

児島虎次郎《里の水車》(1906)

 

まずは25歳の若描きの作品から。美校卒業二年後の頃。まだバリバリアカデミック。少し先輩格の満谷国四郎金山平三も同じような絵を描いていたから通るべき道だったのだろう。

 

児島虎次郎《凝視》(1909)

 

留学二年目の成果。近代絵画に触れた喜びが作品を通じて伝わってくる。

 

《朝顔》(1916/1920)

 

朝顔が咲き誇るパーゴラに女性を配した三点セットのひとつ。白馬会風で朝の逆光と赤と緑のコントラストが美しい大作。以下入館から時系列で。

 

 

=現代のアート=

 

自分の偏愛作品を幾つか。

 

ギュスターヴ・モロー《雅歌》(1893)

 

神話に題材を借りたフランス象徴主義の代表的な画家。

 

ルチオ・フォンタナ《空間概念 期待》(1961)

 

フォンタナは東京国立近代美術館に続いて二度目の鑑賞。単色のキャンバスをナイフで切り裂いただけのようだが、切断面の反りは周到に裏打ち補強されている。“芸術に新しい次元を切り拓く”あるいは“閉塞したアートの枠組みを破壊する”といったメッセージを込めているそうだ。

 

ブリジット・ライリー《花の精》(1976)

 

英国の画家ブリジット・ライリー(1931-)はオプティカルアートの先駆者のひとりに位置付けられている。

 

「なにそれ?」サル

 

単純にいえば騙し絵、トリックアートみたいなものよ。この画面を上下にスライドすると模様がうねっているように見えるでしょ。

 

「ホントだ!」サル

 

イタリア旅行で観た15世紀のピエロ・デッラ・フランチェスカに衝撃を受けて、感情を排除した作品を作り始めた。

 

イヴ・クライン《青いヴィーナス》(1962)

 

今回初見のアーティストで一番印象に残ったのはフランスのイヴ・クライン(1928-1962)。わずか34年の人生ながら、芸術活動は更に僅かな期間しかない。モノクロニズムと呼ばれる(単色で画面を塗るだけの)手法が理解されるまで様々な(広い意味での)ハプニングを引き起こし、注目された。このラピスラズリを更に沈潜させたようなブルー(International Klein Blueという名称で特許取得)のベルベット素材で石膏を覆った立体作品は色そのものが形を作るという啓示を観る者に与える。

 

「単に女性の身体が好きなんじゃないの?」サル

 

美しいものが好きなんです。

 

ジョヴァンニ・セガンティーニ《アルプスの真昼》(1892)

 

セガンティーニといえば色彩分割を用いたリアリズムの画家、アルプスの牧歌的な風景画というイメージがまず浮かぶ。だが、その人生は貧困と無学、国籍剝奪という苦悩の連続だった。作品そのものだけでは推し量れないセガンティーニを早い時代にコレクションに収めた目利きに脱帽。

 

 

=西洋近代絵画=

 

このあと1991年に増築されたガラスのアクアリウムを通過。ブローデルなどの彫刻に触れながら二階に向かう。

 

ジャン=バティスト・コロー《ラ・フェルテ=ミロンの風景》(185-65)

 

バルビゾン派の兄貴分だったコロー。裕福な家庭に生まれ、三度のイタリア旅行の機会に恵まれた。ゆとりのある詩情豊かな風景画や人物画は、のちの印象派への橋渡し的な作風を生み出した。人気の画家だけに贋作が非常に多いことでも知られる。

 

クロード・モネ《睡蓮》(1906)

 

児島虎次郎がモネに掛け合って譲ってもらったもの。それに対してモネは「少し考える時間をくれ」といったそうな。

 

「たくさん描いてるのにね」サル くれと言われると惜しくなる

 

それだけ出来のいい睡蓮だったのでは(笑)。

 

ジャン・ルノワール《泉による女》(1912)

 

ルノワール最晩年の作品。孫三郎が満谷国四郎に依頼して描いてもらった注文品。晩年リューマチに悩まされたルノワールは絵筆を縛り付けてキャンバスに向かったことで知られる。

 

ポール・ゴーギャン《芳しき大地》(1892)

 

ゴーギャンといえばこれだ。世界のどこかでゴーギャンの特別展が開催されるたびに貸出しのオファーが来ると言う。この場で鑑賞できてよかった。

 

このあと日本の近代絵画コーナーに続くのだが…その前に或る特設コーナーが待っていた。

 

エル・グレコ《受胎告知》(1599-1603)

 

大原美術館といえばこの絵画。かつてマドリード美術館で主要コレクションを観ているが、この《受胎告知》は日本の倉敷でなければ観ることができない。願いが叶ったよ。

 

「よーござんした」サル

 

 

=日本の近代絵画=

 

青木繁《男の顔》(1903)

 

これ、青木の自画像だよ。

 

「ヒッピーかと思った」サル

 

ちょっと尊大な目線が若い青木の矜持を伺わせるね。

 

関根正二《信仰の悲しみ》(1918)

 

いいねえ。素人画家として生前顧みられることのなかったことが噓のように、関根の画は宗教的な憂いがあって。故郷の福島県立美術館に一大コレクションがある。しかし、代表作をいち早く購入した大原美術館がすごい。

 

中村彝《頭蓋骨を持てる自画像》(1923)

 

ブリヂストン美術館東京国立近代美術館茨城県立美術館など、あちこちに傑作が点在しているのも中村彝の特徴。この《自画像》は死の前年、最晩年の作品だ。既に諦観の域に達したのか、虚空に見開かれたような双眸は神の使徒のようでもある。

 

(参考作品)

中村彝《自画像》(1909)ブリヂストン美術館蔵

 

この22歳の頃のポートレートと比較すると、どれだけ結核に蝕まれていたかが判る。

 

小出楢重《Nの家族》(1919)

 

Nとは楢重の意味。つまり小出の家族である。画面右下の画集は尊敬するホルバイン。小出もまた人物として面白い画家で、東京美術学校を落第し、日本画専攻で潜り込んだ逸話がある。しかし、その腕前は地元ではかなり有名で、貧乏画家の生活はそれら理解者のよって支援された。セザンヌなど後期印象派の影響もみられるが、やはり小出は個性的。若くして死んでしまったが、生きていればまだまだ名作を残しただろう。

 

古賀春江《深海の情景》(1933)

 

幾つもの変転を見せたシュルレアリスト、古賀春江最晩年の傑作。梅毒に侵された脳が見せた幻想か、あるいは病苦をもとに厭世的になっていた画家の心象風景か。只管に美しい。そしてもの悲しい絵だ。

 

満谷国四郎《緋毛氈》(1932)

 

やはり目まぐるしく画風を変えた岡山出身の天才画家、満谷国四郎の代表作で、近代絵画傑作中の傑作。均整の取れた肉体。限られた線と色の濃淡だけの表現は仏画のような感懐を覚える。そして狆がいい。伏せた本がいい。緋毛氈のうえにマッパな女ふたりが寝そべっていることへの疑問すら受けつけない妙なリアリズム。ずっと観たかった。

 

藤島武二《耕至天》(1938)

 

藤島もまた印象派風やアカデミックな絵画まで行ったり来たり、目まぐるしく画風を変えた。そんななか、この《耕至天》は東洋画の要素をつぎ込んだらしい。モチーフは左下。桜の森に囲まれた藁葺き屋根の小さな集落。山々に抱かれた大自然のなかで倹しく営まれる人の暮らし。南宋画に繋がるものを感じた。

 

梅原龍三郎《竹窓裸婦》(1937)

 

なかなか他では観ない裸婦である。全体的に緑色を帯びているのは竹林の光の反射だろうか。モデルの表情に《高峰秀子像》のそれを感じたが、そちらは1950年製。時代が違う。梅原先生は気が強い女性が好きだったのだろうか。

 

「確かにドンと来いって感じだにゃ」サル

 

松本竣介《都会》(1940)

 

松本竣介の代表作。松本らしい青と線が躍る。

 

河原温《黒人兵》(1955)

 

コンセプチュアルアートの第一人者、河原温(1932-2014)の初期作品。《日付絵画》シリーズなど観る人を選ぶ哲学的作品もあるけれど、初期の油彩画は意外に具象的。変形キャンバスに誇張した遠近法。この時代にポップアート風の手法を持ち込んだことが画期的だった。河原は正規の美術教育を受けず、個人情報も開陳しないまま、2014年に他界した。

 

そして、展示会場の最後を飾るのはこれだった。

 

林武《梳る女》(1949)

 

生前人気のあった林武(1896-1975)の油彩画。後年は毀誉褒貶に曝されることが多かったが、林の良さはこの人物画に(全てとは言わないまでも)凝縮されているように思う。構図やマチエール、そして原色の力強い対比。描きに描きまくった富士と薔薇にはない気品がある。

 

他にも美術全集クラスの名作が沢山あったが、これにて終了。

 

 

=工芸館・東洋館=

 

 

このあと濱田庄司、富本憲吉、河井寛次郎の陶芸、そして棟方志功の版画を鑑賞して美術館を後にした。

 

 

次の予定もあるので周辺の美術館や博物館の見学は次回ということで。

 

 

一路、下津井の港を目指した。

 

「今夜の宿をめざすにゃ」サル

 

(つづく)

 

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