福島県立美術館
℡)024-531-5511
往訪日:2019年6月22日
所在地:福島県福島市森合字西養山1番地
開館時間:9時30分~17時(月曜・年末年始休館)
入場料:270円(常設展示)
駐車場:150台
≪神々しい光に満ちた中央ホール≫
(画像はネットから拝借いたしました)
※いつものアート備忘録です。興味のない方はスルーしましょう。
こんばんは。変わりやすい気温のせいか、ちょっとお疲れ地味のひつぞうです。福島激渋温泉への旅の途次、訪れたのは福島県立美術館でした。
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この美術館には五月の連休に一度立ち寄っている。ちょうど「伊藤若冲展」が開催中で、何時になったら停められるか判らないと言われた。若冲は年の初めに観たばかり。同じ作品ではないから一見の価値はあるのだが、僕の狙いはそれではない。常設展示されている郷土の画家・関根正二のコレクションだったのだ。
連休の一番の目的は温泉だったから、改めて往訪することにしてあっさり諦めた。だから今回はリベンジの旅だった。
今回は折よく常設展の期間にあたっていた。空模様は芳しくないが、絵画鑑賞に天気は関係ない。あの狂騒が嘘のように誰もいない。そりゃそうだろう。地方美術館の常設展示だけを求める物好きは僕くらいのものだ。
「つきあうオサルチもほんと物好きだにゃー」
図書館とシンメトリカルに配置された巨大な建物。三春町出身のアトリエ系建築家・故大高正人氏の設計だ。
一階中央ホールにはイタリアの彫刻家マリノ・マリーニの作品が設えてある。そこはプロテスタントの教会のような光に満ちていた。展示室は二階。バリアフリーのスロープをゆっくり上がっていく。
フロアは天井が高い贅沢な空間だった。知名度の割には狭苦しい都内の有名美術館よりも格段に立派だった。これはどこの地方美術館にも共通している。
展示室はA~Dの四つに分かれている。最初のコーナーは「春の日本画」と題され、御舟、関雪、華岳など日本画家の作品が並ぶ。とりわけ御舟の“美人画”が興味を惹いた。
「炎舞」(1925年) 山種美術館蔵
非展示
御舟と云えばこの作品。一度は鑑賞しておきたい名品である。ところがここに展示された「女二題」という対をなす絹本着色の画は、どう見ても美しいとは思えないのだ。なにか気に入らないことでもあったか、モデルの女性は険のある臥し眼がちな表情で、顎の輪郭がはっきりしないものだから余計に美しくない。
速水御舟「女二題 其一」(1931年)
どうでしょうかね。ふん!って感じでしょ?
不細工といえば(すみません。女性読者の皆様)、あまりに不細工に描かれたと言ってモデルの花魁が泣いたという、日本洋画黎明期の天才高橋由一の問題作を思い出す。
高橋由一「花魁」(1872年) 東京藝術大学 非展示
当代随一との呼び声の高かった太夫は、完成したこの絵を見て泣いた。判るよその気持ち。なんで背景もこんなに気色悪くしたかね。単なる失策ではなく、高橋が或る意図をもって、年増の遊女風に描いたことが想像される。
もう一点。すぐ隣りに陳列された岡村宇太郎の「舞妓図」(1925年)もトンだ迷品。デッサンはしっかりしているが顔色があまりにも悪い。笑顔もとても不気味。たぶんモデルは哭いている。当時の京都画壇では、こうした不気味系が流行ったのだろうか(画像を紹介できないのが残念。マイナー過ぎてネットに転がってないのだ)。
「だんだん美術館の話から逸れてるにゃ」
いいの。そうそう。以前鑑賞した「特別展村上華岳-京都画壇の画家たち」で紹介された異色の画家もすごかったよね。
岡本神草「口紅」(1918年) 京都市立芸術大学資料館 非展示
夭折した天才岡本神草も、ミューズのような女性像ではなくて、妖艶・淫靡・廃頽といった色街の匂いを濃厚に描き出した。でもね。なんか怖くね?
更に(先の)神草と新興団体新樹社を結成した甲斐庄楠音(1894~1978)。(かいのしょう・ただおと)と呼ぶ。本名だ。苗字から推測できるように武士の末裔。代表作ともいえる「春宵」は、その典雅なタイトルとは裏腹に、不気味を通り越して夢に出てきそうだ。
「春宵(花びら)」(1921年頃) 京都国立近代美術館
非展示
因みにこんな花魁の絵ばかり描いている楠音だが、清楚な女性像も幾つかあるにはある。つまり。この不気味な絵は(下手なのではなく)計算されたものだと理解できる。(結果的に買い手がついても)商売気抜きで好きに描いたのだろう。これが楠音が求める美だったとしたら…。
そもそも美とはなにかという根本的な問題に立ち返ってしまう衝撃の作品だ。
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ということで本館展示作品に話を戻そう。
「ぜんぜんおサルの出番がないだよ」
展示室Bでは郷土の画家橋本章(1919-2003)の特別展示中だった。この人も情報がない画家で、余程のアート通でなければ知らないのではないだろうか。
橋本章「大砲と足」(1984年) ※部分
三重県四日市市生まれの橋本は、中国大陸で不条理に充ちた軍隊生活を送り、復員して名古屋で看板画きの仕事についた。しかし生活は安定せず、妻の郷里である伊達市の実家に転がり込む。運よく教職にありつき、画家と教員の二足の草鞋の生活が始まる。
当時の地方都市では新しい芸術運動を起こそうと、多くの「芸術集団」が立ち上げられた。福島の福島青年美術会(のちの集団ZZE)もその一つ。そこで橋本は人間存在そのものを脅かす権力や経済優先の社会構造を、時にはユーモアを交えつつ、強烈に批判した作品を発表する。
橋本作品は極彩色の画面に、人体や数字、配管のようなオブジェを無造作に配置する作風。ひとつひとつに大した意味はなく、目指したのは「力」としての絵画、一瞥して「これは」と観る者を震撼させる絵画だった。
橋本章「なまけもの」(1962年)
「ただのゴミじゃね?」
具象から抽象へ、油彩からオブジェ制作へと方法を変えつつ、84歳でその生涯を畢えるまで旺盛な創作活動を続けた。地方美術館の良さはこうした絵画史のメインストリームから抜け落ちた綺羅星の如き存在を知る機会を与えてくれる処にある。
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展示室Cは海外作品。ベン・シャーン、ワイエス、ルオーの作品が当館の主要所蔵品。ま、他でも触れたことがあるから割愛。
展示室Dの二人の版画家には心を惹かれた。師弟の関係にありながら、奇しくも昨年ともに鬼籍に入った熊本の版画家・浜田知明(1917-2018)と秀島由己男(1934-2018)だ。
浜田知明「初年兵哀歌(歩哨)」(1951年)エッチング・アクアチント
熊本県立美術館蔵
戦中派世代の浜田は二十代を中国戦線で過ごした。例えば、『真空地帯』を書いた作家の野間宏、『人間の條件』を撮った映画監督の小林正樹も、この世代に属し、同じく軍隊を通して人間の本質を追求しようとしている。
「まったく何のことやら判りませんにゃ」
県立熊本商業学校(現在の熊本商業高校)で教鞭をとっていた浜田は、戦後まもなく上京。版画家として目覚ましい才能を現し、第一線で活躍し続けた。百歳の大往生だった。
唯重苦しいだけに終わらないユーモアが浜田作品の持ち味。ここでは紙幅を割けないが、機会があれば是非鑑賞して欲しいね。
秀島由己男 版画集「わらべ唄/四,かたつむりと花子」(1972年)
メゾチント 熊本県立美術館蔵
秀島は浜田に見出された逸材。メゾチントを方法の主体として、徹底したリアリズムと細密描写を得意としながら、意外性の組み合わせから生まれる可笑しみや詩情を独自の境地として開拓した。
秀島由己男画・高橋睦郎詩 詩画集『静物考』より「4.Shell」
メゾチント 熊本県立美術館蔵
出逢いのそばから惚れこんだ作品だが、その創造主がこの世にないというのは随分皮肉だ。長生きされた二人ではあるけれど、人生は一瞬で巡る走馬燈のようなものと痛感する。ひょっとしたら、僕の亡き母の前で教鞭をとっていたかも知れない浜田の版画に強く惹かれながら、館を後にした。
「あれ?そのなんとかいう人の画は?」
あ!そういえば肝心の関根正二の作品観てないじゃん!
学芸員に確認したところ、一年を通じて関根作品の展示が絶えることは殆どないのだけれど、たまたま橋本章の企画展示があったため、関根の絵は外されたらしい…。いったい何のためのリベンジだったのか?
「ひつぞうっぽ~い。間が悪ぅ~い」
(つづく)
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