企画展「金山平三と同時代の画家たち」(兵庫県立美術館) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

日本近代洋画の巨匠 金山平三と同時代の画家たち

 

往訪日:2023年7月22日

会場:兵庫県立美術館

会期:2023年6月3日~7月23日

開場時間:(月曜休館)10時~18時

料金:一般1600円 大学生1200円 高校以下無料

アクセス:JR神戸線・灘駅から徒歩約10分

※皇室関連など幾つかを除いて撮影OK

※終了しました

 

 

ひつぞうです。兵庫県立美術館往訪の第二の目的。それは大正から昭和の高度成長期にかけて活躍した洋画家、金山平三の作品と生涯を知るためでした。以下、鑑賞記です。

 

★ ★ ★

 

企画展が開催されていることは御堂筋線の中吊り広告で知っていた。しかし、美術全般に関して教科書レベルの知識しか持ち合わせていない僕に“金山平三”という言葉は微塵も響かなかった。だが、ある偶然から金山が近代洋画の隠れた逸材だったことを知り、会期末ギリギリに慌てて観にいったのだった。そんな天才がなぜ近代美術史から抜け落ちてしまったのか。そのあたりも気になる点だった。

 

 

入り口に陽気に踊る晩年の金山の写真が貼ってあった。実は金山、大の踊り好きだった。

 

以下、構成に従って観て行こう。

 

 

第Ⅰ章 センパイ、トモダチ

 

金山平三《自画像》1909年 東京藝術大学

 

神戸元町に生まれた金山は東京美術学校に進み、首席で卒業する。その卒業制作のひとつがこの《自画像》だ。当時の一大派閥、白馬会を率いる黒田清輝門下の画学生だったが、卒業後はその対抗派閥たる浅井忠明治美術会に属している。

 

「どー違うの?」サル

 

明治美術会の画風は、簡単に言えば、黎明期そのままの、べったり重く写実的かつアカデミックなスタイル。対する黒田の白馬会は、最新流行の印象派風。金山はアマノジャクだったんだろうね。わざわざ旧派に鞍替えしたんだから。

 

 

実際、意思が強そうだもの。事実、晩年に至るまでちょっと変わった人物だったそうだ。ま、芸術家はそれくらいないと好い作品は生み出せないよ。では簡単に人物のおさらい。

 

★ ★ ★

 

 

金山平三(1883—1964)。神戸出身の洋画家。東京美術学校卒。三年あまりの渡欧を経て、文展にて《夏の内海》が特選第二席に選ばれる。以後、帝展審査員に着任。しかし、1935年の帝展改組問題に反発。中央画壇と断絶し、孤高の道を歩む。その後、下落合にアトリエを構えて広く画友と交わり、風景画や静物画などに旺盛な制作意欲を示した。享年80歳。死後、作品の大半が兵庫県立美術館に寄贈された。

 

「確かに強烈な人相だにゃ」サル

 

★ ★ ★

 

金山平三《漁夫》1909年 ※断りなきは当館蔵

 

卒業制作は《自画像》の他にこの《漁夫》《秋の庭》が伝わる。四点目の《大原女》は焼失したそうだ。デッサン、構図、彩色、そのどれもが素晴らしい。本作の闇に浮かぶスポットライトなどは、レンブラントの《夜警》さえ超越している気がする。

 

金山平三《秋の庭》1909年

 

少し生硬だが、どんな画家でも若い頃の絵はいい。ひたむきで真剣で、そして挑戦的で。

 

児島虎次郎《金山平三像》1916年

 

(大原美術館の立役者)児島虎次郎描く肖像画が、金山という人物をよく捉えている。“孤高の画家”という響きから孤独好きな偏屈者という印象が浮かぶが、その実お洒落で外交的だったらしい。長谷川昇和田三造などとの手紙のやり取りも残っている。とりわけ仲が良かったのが郷里の仲間、満谷国四郎(1874‐1936)、新井完(1885-1964)、柚木久太(1885‐1970)だった。四人で頻々と写生旅行に出かけたそうだ。

 

満谷国四郎《戦の話》1906年 倉敷市立美術館

 

その先輩格の満谷32歳の作品がこれだ。バリバリ、アカデミックでしょ?構図といい光の処理といい、まるでカラバッジョ

 

柚木久太《春潮(玉島港)》1917年 岡山県立玉島高校

 

他方、柚木が描いた瀬戸内の風景画は、どこか表現主義的な“ねちっこさ”があるね。

 

新井完《御手洗風景》1923年 油彩・紙

 

同じ瀬戸内でも新井が描くとこうなる。手前の畑などは一見すると子供の絵みたいだけど、緻密に計算されたものだ。

 

「中心の島なんか亀みたい」サル

 

そうなんだよ。写実から脱け出そうと足掻いているんだ。

 

金山平三《夏の内海》1916年 東京国立近代美術館

 

制作年次は金山の作品が一番古いが、幾度も写生旅行に同行するうちに、先輩や友人からいい刺激を受けたのだろう。卒業制作のタッチから大きく変化し、画面構成もダイナミックだ。この作品で文展特選第二席に輝いた。1912年からの三年半の渡仏中に100点以上も描いたというから、相当腕を磨いたのだろう。

 

「帰朝してすぐの絵だったのかの」サル

 

かもしれないね。

 

金山平三《江南水郷》1924年

 

その後、彼らは中国江南地方を旅している。更に写実を離れて、バラ色主体のフォービスム風に。

 

満谷国四郎《石橋》1926年 倉敷市立美術館

 

ところがよ。金山の全力疾走をはぐらかす様に、満谷の絵はベッタリ不気味なタッチに“進化”した。同じ風景でもこうも違う。

 

「まんなかの木が変だにゃ」サル

 

遠近法もグニャグニャ。最初の《戦の話》と比較すると、同じ画家の作とは思えない。浮かれている金山に肩透かしを食らわせるように、センパイは更に先を目指したのよ。

 

新井完《水鳥と花》1923年 油彩・紙

 

新井も負けちゃいない。

 

「シロウトの絵に見えるけど」サル

 

一応、花鳥画の約束事は守っている。だから余計に奇異に映るね。

 

ところがである。

 

新井完《豚と豚の仔》1916年 姫路市立美術館

 

7年前には(写実をベースに)こんな豚を描いている。旨いでしょ。

 

新井完《天平塑像》1929年 姫路市立美術館

 

新井完(あらい・たもつ)って器用な画家なんだね。金山もいいけど新井の個性も素晴らしいよ。いや皆すごい!

 

新井完《浄瑠璃人形》1931年 姫路市立美術館

 

言葉になりません。質感と存在感が比類ない。なので全部記録に撮っておく。

 

新井完《大野寺弥勒石仏》1932年 油彩・紙

 

新井家は親子三代全員画家なんだよね。この人も金山と同じく中央と縁を切り、一切出展しなくなった。郷土画家として生涯を全うしたそうだ。

 

満谷国四郎《木々の秋》1923年 岡山県立美術館

 

だんだん傑作《緋毛氈》の画風に近づいている。その頃の金山は…

 

金山平三《女》1915‐34年頃 油彩・板

 

こんな裸婦像を描いていた。

 

影響を与えあっていた四人も、それぞれ自分の道を歩み出したんだ。

 

 

第Ⅱ章 壁画への道

 

金山平三《画稿(日清役平壌戦)》1924-33年頃

 

金山もまた、その才能を買われて聖徳記念絵画館に奉納しないかと当局の要請を受ける。厭がる金山を説得したのは小林万吉翁だった。

 

「どーして?」サル 名誉なことじゃんね

 

「構図は画家の自由なるべきも解説及び考証図を参考とし、史実を失わざる様注意すべきこと」と釘を刺されたんだ。自由がないし、胃が痛くなる話だよ。

 

金山平三《雪と人》1931‐33年頃

 

壁画《日清役平壌戦》制作中に仕上げた一枚だ。雪掻きする人物の動きが映画のように左から右へと流れるように伝わってくる。壁画の参考に描いたのだろう。実際に朝鮮半島に取材し、1933年12月に9年がかりで完成した。その代金2000円。現在の貨幣価値で500万円と云ったところ。十分なのか不十分なのか。費やした時間と心労を考慮すると…

 

「微妙な数字だね」サル オーララ~

 

 

第Ⅲ章 画家と身体-動きを追いかけて

 

金山平三《無題(大序・段切れ)》1929‐60年頃

 

最初に踊りが大好きと書いたが、歌舞伎も相当好きでたくさん残している。画家・須田国太郎もそう。

 

須田国太郎《アーヴィラ》1920年 京都国立近代美術館

 

偶然だろうか。スペインの城塞都市アヴィラを須田と金山が描いている。須田といえばゴテ塗りの《犬》(1950年)。でも、こんな絵もあるんだね。キュビスム風だ。

 

 

まだかなり薄塗り。鮮やかなタッチ。

 

金山平三《無題(寺院の見える風景)》1912‐15年

 

金山も旨い。ただ全然捉え方違う。だから面白いんだけどね。

 

 

第Ⅳ章 生命への眼差し

 

画壇を離れた金山は多くの花や静物を描いた。

 

金山平三《菊》1935‐45年頃 川崎重工業株式会社

 

テーブルをカットした構図は珍しいそうだ。これは川重に寄贈された作品。1917年文展出品作《造船所》の取材が縁となり、終生にわたる支援企業になった。

 

金山平三《栗》1917‐34年頃

 

作品を手放そうとしなかったから、家とアトリエは絵で溢れ返っていたそうだ。

 

金山平三《こち》1945‐56年頃 東京国立近代美術館

 

刺身が旨いよね。一杯やりたくなるよ。

 

 

第Ⅴ章 列車を乗り継いで-風景画家の旅

 

列車の旅で日本全国を描いて回った。特に信州、東北、房総が好きだった。

 

金山平三《冬の諏訪湖》1921年 委託品

 

下諏訪温泉から諏訪湖を挟んで入笠山方面の構図かな。

 

金山平三《無題(海岸)》1935年頃

 

春に大石田、夏に房総というのがお気に入りのパターン。荒れた海を描くことが多かったので、こんな青く澄んだ海原の描写は珍しいそうだ。

 

拡大してみよう。

 

 

迷うことなく、スッと横一直線に色を重ねた痕があるね。

 

金山平三《日本海》1945—56年頃

 

親不知のあたりかな。

 

 

籠を背負い帽子をかぶった男性の姿がはっきり判る。

 

金山平三《大石田の最上川》1948年頃

 

ここ一時期よく通った。大石田の蕎麦を求めたり、肘折温泉に投宿したり。

 

「山に登ったり」サル

 

懐かしいよ。以上で企画展は終了。

 

 

=金山平三記念室=

 

記念室の開室は期間限定。気になった作品を一枚紹介。

 

金山平三《川崎造船所》1958年頃

 

日本の造船業華やかなりし頃の一枚だ。

 

 

=小磯良平記念室=

 

 

小磯画伯の作品も10年以上前に一度観ている。

 

小磯良平《斉唱》1941年

 

二度目の鑑賞。小磯らしい端正でエキゾチックな画風だ。

 

 

=常設展示・現代の書=

 

最後に(いまだ苦手ジャンルながら)後学のために。

 

中村梧竹(1827‐1913)《篆書知足以自誡》

 

明治の三筆に数えられる佐賀の能書家。どことなくユーモラス。

 

榎倉香邨(1923‐2022)《富士》2002年

 

西脇市出身の書家。昨年99歳で物故された。

 

「キレイな文字だにゃ」サル

 

おサルは書道六段なのである。

 

井上有一(1916‐1985)《鷹》1981年

 

この方の書は以前も観たことがある。文字自体が鷹の姿をしている気がするよ。もとは画家志望なだけに造形的な感性が色濃く滲んでいる。

 

上田桑鳩(1899-1968)《啼鳥》1968年

 

やはり兵庫県(三木市)出身の書家。いわゆる前衛書のパイオニアだそうだ。

 

何でも知れば知るほどに面白い。

 

 

金山の作品は妻らくの手元に残され、子供がなかったため、1966年に全て兵庫県に寄贈され、三年後の1970年に美術館の所有になった。公権力との軋轢から、歴史に埋もれた金山だが、周辺の画家とともに今以上に評価されるべきと感じた。いい絵だった。

 

実はもうひとつ企画展が開催中。併せて鑑賞することにした。

 

「こうなると思った」サル あとでワインおごれ!

 

(つづく)

 

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