旅の思い出「窪田空穂記念館」自然と人生を詠じた歌人の生涯にふれる(長野県) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

窪田空穂記念館

℡)0263-48-3440

 

往訪日:2024年3月3日

所在地:長野県松本市大字和田1715番地1

開館:9時~17時(月曜休館)

常設料金:一般310円 中校生以下無料

アクセス:中央自動車道・松本ICから約10分

駐車場:約10台(無料)

※内部撮影OKです

 

《本人よりもチョッピリ男前》

 

ひつぞうです。では改めて文学篇を。

 

★ ★ ★

 

歌詠みのセンスがないうえ、ある時までフランス文学の青柳瑞穂と混同していた。そんな僕に窪田空穂を語る資格はないが、その生涯については長らく興味を抱いていた。(以下敬称略)

 

 

窪田空穂(1877-1967)。本名:通治。歌人・国文学者。新体詩から出発し、与謝野鉄幹の『明星』に参加。東京専門学校(現早稲田大学)卒業後、通信社勤務。同時に詩、短歌、小説とマルチに執筆。43歳で早大に招聘。その研究は萬葉集、古今集、新古今の三大評釈に結実する。後年生きる喜びと哀しみを日常の些事に詠んだ“境涯詠”の歌を発表。多くの門人を育てた。享年89歳。

 

ということで空穂の生涯とその仕事を追ってみよう。

 

★ ★ ★

 

 

雨宮淳(1937-2010)の彫刻《歌聖空穂像》と愛用の火鉢から展示は始まる。

 

不思議なもので、同時代を経験していない過去の人物ながら、出逢いの瞬間から永遠の知己、終生の師のように思えてしまう。才能のオーラは直接本人を前にせずとも遺物が伝える。優れた資料館はそんなことを教えてくれる。

 

(一族の肖像)

 

窪田空穂といえば東京の人。そんなイメージがある。東京専門学校入学以来、歿するまで東京暮らしが続いたせいだろう。だが実のところ、故郷と父母に想いを馳せた歌が多い。天領・和田の旧家に生まれた空穂は没個性的な農家の生活を忌んだ時期がある。青春の病だったのだろう。のちに自分の勤勉性を父母と(彼らを育んだ)郷土由来と認めている。

 

 

父・庄次郎(41歳)、母・ちか(39歳)の時の子供。いわゆる“恥かき児”だった。尋常中学卒業と同時に家族に断りなく東京専門学校に入学(しかし一年で退学)したあたり、家中心の伝統社会に反撥する気持ちがあったのだろう。

 

(窪田本家は空穂の兄・庄次郎の一族が継いだ)

 

その後(次男ということもあり)一時養子に出されている。青春期の空穂に漱石の姿が重なる。

 

 

ところが間もなく両親が相次ぎ死去。郷里に戻り、代用教員となった空穂はそこで太田水穂と運命的な出逢いを果たす。歌のめざめだ。雑誌への投稿から与謝野鉄幹に認められ、東京専門学校に再入学。

 

「ようござんした」サル

 

だが、あからさまに男女の情愛を歌に込める鉄幹・晶子夫妻、そして主宰する「明星」の路線に馴染めず、数年後に離脱する。

 

「あらま」サル

 

(一條成美「明星」第6号(明治33年)の表紙)

 

一條成美は空穂と松本中学の同級生で相知る仲だった。卒業後県庁職員になるが絵を捨てられず、花鳥画の名手・渡辺省亭に弟子入りする。だが「明星」の画風はそれと趣きを異にするミュシャロートレックなどアールヌーヴォー風。美人画で大いに売れた。しかし調子に乗り過ぎたか、第8号の裸婦画で発禁処分。その後も挿絵で暮らしたが放縦な生活が祟ったのか33歳で歿している。

 

(大隈先生を囲んでの卒業記念。左右に高田早苗と逍遥博士。空穂は中列左から三番目。皆若い。)

 

東京専門学校を卒業後、27歳で電報新聞社に就職。ジャーナリスト時代を迎える。

 

(学友・前田晁とともに)

 

しかし不運が重なり幾度も転職。そんななか一番のヒットアイデアは讀賣新聞の「身の上相談」。中島らもの先達はなんと空穂だった。

 

 

1905(明治38)年。第一詩歌集『まひる野』刊行。

 

 

刊行にあたって一冊を恩師・鉄幹に贈答した。その返信の封書。さすが鉄幹先生。達筆。「贈答されるまでもなく一冊買い求め、その才能を盟友落合直文とともに喜びあい、既に「明星」次号掲載予定の書評まで書いてます」と頗る好意に満ちた内容だった。

 

だが。

 

この頃から小説の執筆が増えていて、今では想像できないが、明治40年には注目の新進作家のひとりだった。時代を反映して自然主義的だが、今では豊かな物語性も評価されている。

 

(昭和11年の花袋七回忌にて。破廉恥先生にこんなに支持されていた時代があったとは)

 

詩。短歌。小説。ジャーナリズム。才能が余りあるとはこのこと。

 

同時に私生活では新しい動きも。

 

「忙しいにゃ」サル💦

 

 

結婚である。

 

これは空穂が最初の妻・亀井藤野に贈った手紙。藤野は松本高女で教鞭をとる太田水穂の教え子だった。その太田の計らいで二人は結婚。空穂30歳だった。

 

「歳の差カップルだったのきゃ」サル

 

10歳違いだもんね。手紙の中でしきりに「あなたは自分にとって妹のような存在」と記している。照れ臭かったのか。判るけれど恋愛としてどうよ。

 

「ダメやね」サル キッパリ

 

翌年長男の章一郎が生まれ、家族も増えていき、倖せもそれに続くかと思われた。

 

 

だが、三女の子癇で藤野が死去。1971(大正7)年のことだった。同年、藤野の妹・操と再婚する。しかし心の傷は癒えず。後に挽歌集『土を眺めて』で亡妻に捧げる長歌18首を表した。この長歌が空穂文学のひとつの核になっていく。

 

そして大正9年。坪内逍遥の招きで新設された早大国文科に講師として着任。時に43歳。続く大正11年。現世の憂さを晴らすためか烏帽子岳から槍ヶ岳まで縦走を果たしている。裏銀座だ。実は松本平に育った空穂にとってアルプスは若い頃から身近な存在。大町桂月しかり島木赤彦しかり。空穂もまた山に登る文学者だった。

 

 

先立つ大正2年に徳本峠越えで槍沢から槍ヶ岳に登頂。河童橋付近にあった清水小屋高村光太郎ウェストン卿と同宿している。その山行記が『日本アルプス縦走記』。ちなみにスケッチ旅行で上高地を訪れていた光太郎は、安達太良山麓の二本松から智惠子に追われて結婚の意思を固めることになる。(※なお清水小屋は経営者を替えつつ現在は上高地ルミエスタホテルに至っていると聞く)

 

 

槍ヶ岳 そのいただきの 岩にすがり あめ(天)の真中に 立ちたり我は

 

文士の道楽と嗤ってはいけない。1902(明治35)年に槍ヶ岳に近代登山として初登頂した日本人、小島烏水も空穂の山行記は高く評価している。この当時、槍ヶ岳山荘は存在せず、例の鉄梯子もなかっただろう。極めて難しい登山だった。その感動を歌にしたのが色紙の一首だ。

 

「降りる時のほうが怖かっただろうにゃ」サル

 

ちゃんとロープで確保したと思うけどね。

 

 

歌も旨かったが書も高く評価されている。

 

 

1928(昭和3)年。国文科の学生たちと。

 

 

近代短歌の芽生えと共に毀釈の対象になった古今新古今。平等に評価したところが素晴らしい。意外にも学生時代の空穂は「立派な古典というので『萬葉集』を我慢して読んだがちっとも面白くない。むしろいいなと思ったのは赤裸々な想いを詠んだ相聞歌だった」と追想している。空穂の古典研究の特徴は学者である前に鑑賞者だった点だろう。

 

 

時代考証を客観的に行いながらの作業だった。

 

 

能筆歌人、會津八一からの書簡。対照的な二人だが、早大の同僚として、また歌詠み、書家としてもよく交わった。

 

その空穂にとって終生忘れられない最大最後の事件が起きる。

 

(鬼怒川温泉にて。左が茂二郎)

 

後妻・操(この時すでに離婚。三番目の妻銈子を迎えている)との間に生まれた次男、茂二郎の死である。鬼怒川温泉逗留を最後に学徒出陣。生死不明となる。昭和22年5月、自宅を訪ねてきた戦友の口からシベリアに抑留された茂二郎が腸チフスに斃れたと告げられる。その悲しみと怒りが結実したのが短歌史上最長の長歌「捕虜の死」だ。

 

戦地に送った手紙(昭和19年2月27日発送)

 

届くことなく部隊から戻ってきた。文中「先に小包を送ったが何も言ってこない」と零しながら物資の窮乏や空襲の不安などを綴っている。「せいぜい葉書をよこしなさい」という結びの言葉に親としての空穂の顔が見えた。

 

そして戦後。

 

 

雑司ヶ谷(目白台)の窪田邸(昭和28年築)の模型。日本女子大キャンパスの東側の住宅街の一隅と思われる。平成9年まで現存していた。松、椿、棗の他にやはり高野槇が植えられていた。晩年は南側の居間に臥し、時折窓外の景色を詠んだという。お孫さんの窪田新一氏の寄贈品。

 

 

早大教授のガウン(大正13年製)。空穂、章一郎二代にわたって使用された。

 

 

『萬葉集評釈』刊行完成記念(昭和27年12月 大隈会館にて)。最前列中央に空穂・銈子夫妻。

 

 

88歳の作。やはり左下がり。肥痩はなく、優しい女手のような書だ。

 

体の自由が利かなくなっていたのだろうか。見るはずの椿が意思を持って力強く見返すさまが最晩年の空穂の身と心を想像させる。

 

 

愛用の煙管。

 

 

拡大鏡。最晩年まで研究を怠らなかった。

 

流派を嫌った空穂だが、門弟は空穂系と呼ばれる一派となり、現代短歌を支えている。養子体験や肉親との死別。文学的葛藤や実生活と文学の両立など、想像しえないほど波乱に満ちた生涯だった。静かなロビーで岩波文庫の『窪田空穂随筆集』を求めて館外に出た。空穂が愛した常念岳はやはり雲の中だった。

 

「長いね。今回」サル

 

文学と建築と山絡みだったしね。

 

(おわり)

 

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