旅の思い出「諏訪湖博物館・赤彦記念館」【資料篇】(長野県) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館

℡)086-422-0005

 

往訪日:2024年3月2日

所在地:長野県諏訪郡下諏訪町10616‐111

開館:9時~17時(月曜休館)

常設料金:一般350円 高校生以下無料

アクセス:中央自動車道・諏訪ICから約15分

駐車場:30台(無料)

※内部撮影OKです

 

《このジオラマ、完成度高すぎる》

 

以下、諏訪湖博物館・赤彦記念館の備忘録です。

 

★ ★ ★

 

まずは島木赤彦記念館から。

 

万葉集講演旅行の途中、大連花屋ホテルにて(1923年10月)

 

島木赤彦(1876-1926)は高校時代に現代国語で習った程度。実は(正岡子規が主宰した根岸短歌会を祖とする)アララギ派の中心人物としてひとつの時代を築いた偉大な文学者だ。改めて資料をもとにその生涯を辿ってみよう。

 

 

旧上諏訪村の藩士の生まれ。本名は塚原俊彦。長じて長野師範学校(現信州大教育学部)に進学。この頃新体詩に触れて文学に目覚める。1898(明治31)年に結婚。久保田家の養子となる。

 

 

その家が今も残る柿蔭山坊(しいんさんぼう)だ。柿の赤色が好きだった赤彦自身による命名(時間が足りず。見学はまた次回)。

 

 

=玉川尋常高等小学校訓導時代=

(1900(明治33)年/24歳~)

 

旧制玉川高等小学校の訓導(つまり教師)となった22歳の赤彦は信州根岸派の中心人物、岩本木外と運命的な出逢いを果たす。本格的な歌の目覚めである。

 

 

二列左から四人目が赤彦だ。意外に凛凛しく男前。

 

「木外ってひとは?」サル

 

説明がなかったので判らん。

 

「いいんかそれで」サル

 

いい。

 

 

雑誌「諏訪文学」(1899(明治32)年創刊)

 

第7号に新体詩「別離の歌」を投稿。一方教師としては言文一致に力をいれた。ちなみに二葉亭の『浮雲』の出版は1887(明治22)年。

 

「まだ話し言葉と書き言葉が違ったんだ?」サル

 

まだまだ候文の時代だね。

 

 

雑誌「氷むろ」(1891(明治36)年創刊)

 

ということで岩本木外主宰の雑誌「氷むろ」に参加。俳句が主体だったが伊藤左千夫(1864-1913)の入会で短歌が中心になっていく。これまた運命の出逢いと云えた。

 

 

実は結婚後まもなく最初の妻うたを亡くしている(後妻にその妹・不二子を迎えた)。その喪失感を同僚の守屋喜七に書き送っている。恐らく諏訪大社、神長官の家系の人物だろう。

 

 

=高島尋常高等小学校時代=

(1904(明治37)年/28歳~)

 

 

仲間とともに(赤彦中列左端)

 

諏訪の小学校に転任。28歳の時である。赤彦は歌人であると同時に良き教育者だった。文学に限らず、図画、理科実習としての植物・鉱物採集、そして登山を実践。昭和40年代の教育がまさにそうだったと思えば、すべて遠い諏訪の赤彦の教育思想が(僕が育った)九州の片田舎まで行き渡ったのかもしれないと嬉しくなるが、少し大袈裟に捉え過ぎだろう。

 

 

1908(明治41)年に伊藤左千夫らが中心となり雑誌「阿羅々木」創刊。翌年には「比牟呂」と合併。ここに「アララギ」が誕生する。斎藤茂吉長塚節の名前もみえる。

 

 

名画《荒磯》で知られる画家、平福百穂(ひらふく ひゃくすい)も同人のひとり。その百穂が描いた表紙画だ。

 

平福百穂(1877-1933)

 

絵の販売収益金で経営の苦しい「アララギ」を支え続けた。赤彦とは無二の親友だった。

 

 

第一歌集『馬鈴薯の花』(1913年刊行)

 

同士・中村憲吉との合著。アララギ叢書の第一弾として出版された。しかし、発足から僅か四年目の1913年、早くも内部分裂が発生。

 

 

平福百穂画《伊藤左千夫臨終画》

 

追い打ちをかけるように心の師だった左千夫が脳溢血で急逝。赤彦は激しいショックを受けた。

 

「何が起きたのち?」サル

 

有り体にいえば資金難よ。茂吉は廃刊すべきと主張したんだ。しかし、皮肉にもアララギ叢書第二弾として茂吉の処女歌集『赤光』(1913年)が刊行されるといきなり大ヒット。

 

 

太平洋戦争の学徒動員兵が『萬葉集』とともに雑嚢に忍ばせたというくらい。詩歌の類を解する能力が殆どないので、パンピー含めて何がどう読者に刺さったのか判らないけれど、続行に後ろ向きな茂吉のおかげで雑誌「アララギ」は歌壇の中心的存在になる。

 

 

第三歌集『氷魚』(1920年刊)

 

懇意にしていた岩波茂雄の計らいで岩波書店より刊行(因みに第二歌集『切火』(1915年刊)はある事情から絶版になったそうな)。

 

 

(左から)茂吉、その妻輝子、赤彦、土橋青村

 

ちょうどその頃、長崎医専に教授として赴任していた茂吉がスペイン風邪に罹患。赤彦は見舞いに出向いた。廃刊か続行かをめぐり、大揉めに揉めたにも拘らず。後に茂吉は自著『島木赤彦』に記している。

 

“赤彦君は友としても敵としても、友とし甲斐のあり、敵とし甲斐のあった人である”

 

「やっぱり敵として見てたんだ」サル

 

茂吉先生も相当ねちっこかったし、癇癪持ちだったからね(笑)。

 

結局「アララギ」再建のため、1014年に郡の視学に昇格していた赤彦はその教職を辞して上京することになる。

 

 

=中国講演旅行の時代=

(1923(大正12)年/47歳~)

 

 

この時代、赤彦は押しも押されぬアララギ派の重鎮だった。もっとお爺さんのイメージだったが、気骨に満ちた偉丈夫という感じ。というより今の自分の方が10歳近く年寄りである。いつの間にか追い越していた…。もっと言えば三島も漱石も追い越した。いいような悪いような。

 

「なんで?」サル はっきり言え

 

この歳になっても何も遺せるものがない。

 

「そんなものだよ」サル なにをまた

 

 

旅順の忠霊塔前にて

 

南満州鉄道に呼ばれて講演旅行に出ている。目下の課題は萬葉研究だった。しかし、この頃既に赤彦は不治の病に侵されていた。大正15年1月。胃癌の診断をうけた赤彦は上京して精密検査をうける。

 

 

これが最後の東京になった。気のせいか皆とても生気がない。

 

「そりゃそうだよ」サル

 

 

二度目の妻、不二子からの百穂と茂吉に宛てた長い礼状(3月5日)。特に医師である茂吉のアドバイスに感謝の言葉を述べている。だが、進行が早かったのだろう。その一箇月足らずの3月27日。容体は急速に悪化。赤彦は帰らぬ人となった。51年の短い生涯だった。

 

 

弔電。牧水、白秋、蘇峰

 

全ては収まりきれない。赤彦の人徳、交友関係の幅の広さを思わせる。

 

 

遺品その① 「餘」拓本

 

大層惚れ込んだ茂吉がぜひ譲ってくれと申し出たが「これだけは勘弁してくれ」と断ったという。いつの時代の誰の書か判らないが飄逸な味わいがある。

 

 

遺品その② 帽子、名刺入れ、バスケット

 

これで全国行脚をしたのだろう。今では想像もできないが、当時、詩歌の有名人が地方公演すると溢れ出るほどに大盛況だったのだ。

 

「娯楽の数も少なかったしね」サル

 

戦後は土屋文明の頑張りもあったが、いずれ諸派に分裂し、1997年に事実上廃刊した。むしろ同人誌的に始まった文芸誌がここまで長命を保ったことが奇蹟と云えるかもしれない。

 

★ ★ ★

 

次は諏訪湖博物館。まるで重なる部分がないので纏めづらい(笑)。サクっといこう。

 

 

この模型。本当によくできているんだよ。流水の様子とか。よく強化プラスティックで表現したね。

 

 

水底にはワカサギやナマズも。

 

「ワカサギを咥えた鳥の表情が旨い」サル

 

咥えられたワカサギの方じゃない?

 

 

諏訪湖の伝統漁法・流し針。延縄と同じ要領で鰻を獲ったそうだよ。

 

「どうやるの?」サル

 

夕方に餌をつけて仕掛けるんだよ。鰻は夜行性だからね。翌朝糸を手繰ると鰻があがるというわけ。でも長年の感も必要だから簡単ではないし、なかなかにはポイントも教えない。

 

 

戦前に普通に見られた諏訪湖特有のヤツカ漁に使う網。

 

 

このおうに氷結前に湖底に石を300~400個敷き詰めて冬眠用のねぐらを用意する。氷結した頃に直径3㍍前後の穴を作り、竹簀で円形に囲む。最後に石を取り払って隠れ場所を失った魚を一網打尽にする。獲物は鮒、モロコ、エビ、ウナギ、ナマズ。まあ、大漁が期待できそうだけど、とにかく重労働。一日に一箇所こなすのが限界らしい。

 

他には辺りで発掘された土器や戦国武将ゆかりの品など、諏訪湖関係の品がこれでもかと展示されていた。

 

「いろいろあり過ぎ!」サル

 

最後に諏訪湖ゆかりの画家の絵を一枚。

 

金山平三《氷辷り》 1931(大正6)年

 

写り込みが酷くてよく見えないけれど金山平三《氷辷り》だ。

 

 

金山は冬になれば信州、とりわけ諏訪湖に写生旅行に訪れた。

 

 

レンズからは水際で餌を啄むキンクロハジロやヒドリガモの姿があった。天気もいい。ちょっと湖畔を走ってみることにした。

 

「恒例の旅ジョグだの」サル ←すっかり走ることに抵抗がなくなった

 

(つづく)

 

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