名建築を歩く「窪田空穂記念館」柳澤孝彦が残した伝統建築のエッセンス(長野県) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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名建築シリーズ64

窪田空穂記念館

℡)0263-48-3440

 

往訪日:2024年3月3日

所在地:長野県松本市大字和田1715番地1

開館:9時~17時(月曜休館)

常設料金:一般310円 中校生以下無料

アクセス:中央自動車道・松本ICから10分

駐車場:約10台(無料)

■設計:柳澤孝彦+TAK建築研究所

■施工:不明

■竣工:1993年

※内部撮影OKです

 

《空穂の生家を模したファザード》

 

ひつぞうです。白骨温泉からの帰途、松本市内の窪田空穂記念館を訪ねました。ここは柳澤孝彦が設計した名建築で、奇しくも初日に訪ねた伊東静雄赤彦記念館と同年竣工。しかも短歌繋がり。不思議な縁です。まずは建築散歩から。

 

★ ★ ★

 

記念館の存在は以前から知っていた。だが、記念館=生家と思い込み、近代的な資料館が建設されているとは(しかもそれが現代建築の雄、柳澤孝彦の仕事とは)知らなかった。ということで今回も建築からの“逆引き”。所在地は松本市となっているが、旧和田村は今でも田畠の中に小集落が島をなす筑摩の原風景を髣髴させる土地。それだけに道は細く、うっかり田圃の畦道に這入りこんでしまった。

 

「ボケっとしているから」サル

 

 

無理せずバックして無事駐車場に到着。

 

 

その隣りが記念館だ。窪田本家の窪田武夫氏の所有地に建っていた。空穂の後継者が組織する空穂会や教鞭をとった早大の早大国文学会らが音頭をとり、募った寄付金を柱に建設に漕ぎつけたという。

 

 

正面から観てみる。菱形の格子が印象的。中央一階がホール。二階が展望ギャラリー。左棟が展示室で右棟は会議室になっている。松本市立博物館の分館として1993年6月に開館した。

 

 

ホールを見上げる。格子から漏れる光が模様を描いていた。

 

 

古巣の竹中工務店から独立後間もない(郡山市美術館(1992年)と東京都現代美術館(1994年)に挟まれた)多忙な時期にあたる。この後も怒濤の勢いで劇場と美術館を中心に多くの作品を手掛けていった。柳澤の特徴は何といってもこの間接的に描き出される光の模様だ。

 

 

一階展示室には郡山市美術館と同じデザインの椅子が設置されていた。

 

 

ホールを垂直に見上げてみる。

 

「首が攣らない?」サル

 

なんとか…無事。

 

 

もともと画家を目指していたが、目標を建築に変えて東京藝大に進んだ。だからだろうか。柳澤のデザインは立体的&構造的というより面的&幾何学的。卒業後は竹中工務店に入社。藝大出身の設計技術者は前にも後にも珍しかったらしい。ちょうど国立劇場を設計した岩本博行が先輩格として在籍していた頃だ。

 

 

二階の展望ギャラリーへ。

 

ここに空穂の“正史”では取り上げられることも稀な、或る死刑囚との対話の記録が残されていた。名前は島秋人(筆名)。強盗殺人の罪を問われ、33歳で極刑に処されるまで、朝日歌壇の投稿をきっかけに選者の空穂と手紙の遣り取りを続けた。その間5年。40通を超える往復書簡で、死の影に脅える島に空穂はひたすら「歌を作りなさい」と呼びかけた。死後、遺された歌の群れは『遺愛集』として一冊に纏められた。

 

その数箇月後、空穂もまた91年の生涯を終えた。文学と生に対して真摯であった空穂の姿勢が伺えた。

 

 

下の三枚だけ透過ガラスになっている。覗いてみた。

 

 

残念ながら雪雲でアルプスは拝めなかった。道を挟んだ対面が窪田空穂の生家になる。

 

「行ってみよう」サル

 

 

ひと際高い常緑樹が立っている。窪田家の象徴ともいえる樹齢300年の高野槇だ。

 

この家と共に古りつつ高野槇 二百(ふたもも)とせの深みどりかも

 

空穂が歌に詠んだ時、既に樹齢二百年。歴史を重ねてきた旧家が常緑の槇のように未来永劫続くことを誇しげな気持ちで詠ったのだろう。今は地元のボランティアの皆さんが大切に守っている。

 

 

「土蔵もあるにゃ」サル

 

お宝があるかもね。

 

「そんなものないだよ」サル とっくに調査されてるよ

 

夢がないね(笑)。←いまだ夢ばかり追っている

 

 

母屋は本棟造り。1875(明治8)年落成。当時の姿をそのまま残す。白骨温泉・笹屋と同じく雀踊りが棟を飾る。中南信地方の名主階級の屋敷に見られた様式だが、養蚕で豊かになった明治以降は一般化したらしい。

 

 

こちらは空穂の両親が隠居後に暮らした離れ

 

「建物に入ってみゆ」サル

 

 

建物右寄りに土間が続く。初期は馬屋があったらしい。手前右は帳場

 

 

台所だ。以前は囲炉裏が切られていた。

 

 

左奥にオエと呼ばれる家長が暮らす間が続く。

 

 

左手前には慶事や接客に使う下座敷上座敷が続く。

 

 

離れから濡れ縁を望む。冬場は寒かっただろう。ここで勉学に励んだ空穂少年は名門・松本尋常中学(現松本深志高)から東京専門学校へと進んだ。雪解け水の滴る音に往時の人々の暮らしを偲びながら建物を後にした。

 

展示資料の備忘録は次回。

 

「見応えあった!」サル

 

(つづく)

 

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