国立劇場
往訪日:2023年12月3日
所在地:東京都千代田区隼町4‐1
開館時間:閉鎖
拝観料:遠巻きに見るだけ
アクセス:東京メトロ・半蔵門駅より徒歩5分
■設計:岩本博行
■竣工:1966年10月
■施工:㈱竹中工務店
《昭和の名作がまたひとつ消えてゆく》
(※写真の幾つかをネットより拝借いたしました)
ひつぞうです。早稲田大学からの帰途、立ち寄ったのは閉鎖が決まった国立劇場でした。1966年に国内初の伝統芸能専門劇場としてオープン。数々の名演が上演されました。それから50年以上の歳月が過ぎ、役目を終えたのです。以下、探訪記です。
★ ★ ★
2022年12月。東京・小平市の平櫛田中彫刻美術館で、生誕150年の企画展を観た。注目の作品は六代目菊五郎をモデルにした《鏡獅子》。試作が中心だったが、いずれも田中の並々ならぬ熱量が伝わる名品だった。その実作が展示されていたのが、他でもない国立劇場だった。劇のチケットがなくてもロビーの有料見学はできる。しかし、ここで(いつもの)変なこだわり…何かの舞台鑑賞とセットにしようというこだわりを示したのが運の尽きだった。
「何でもいいから行けばよかったのに」 バカだにゃー
2022年9月から既に“さよなら公演”が始まっていた。何事もひとつの事しか眼に入らない性格。気がつけば2023年10月末日をもって建物は閉鎖。あの校倉造りの建物を一度も観ることなく終わると思うと、さすがに落胆せずには居られなかった。
ところがである。
某ブロガーさんの記事を読んで、遠巻きに観察するぶんには咎められなさそうだということが判った。そもそもそんな酔狂なヤツ僕くらいしかいない。訪れてみると、ちょうど紅葉の真っ盛り。以前であれば着飾ったマダムたちで溢れ返っていただろう。
ついフラフラと。
「いいのち?!」
進入禁止の看板も柵もロープもないんだよ。いけないことだったのだろうか。
先代團十郎丈を偲ぶ哀悼の碑が立っていた。初演は昭和43年7月。おサルはまだ生まれていない。その後出演すること59回。名狂言『一谷嫩軍記』の三段目《熊谷陣屋》が最後の舞台になったそうだ。十二代目お手植えの熊谷桜が枝を伸ばしていた。
「春は綺麗だろうにゃ」
僕が最後に観たのは御園座の『仮名手本忠臣蔵』の通し狂言。一日がかりだった。七段目の一力茶屋の場面で酔い痴れたふりをする大星由良助のへべれけな姿が僕にとっての12代目の最後の姿。熊谷陣屋は吉右衛門さんがよかった。思わず貰い泣きしたのを覚えている。
「すぐ泣くよね」
本当は陽が当たる午前中を狙いたかったのだが…そんなことを言っているといつ破壊が始まるか知れやしない。だが、工事の入札は既に二回も不調に陥っていた。大阪万博もしかり。最近の資材費と技師費の高騰で、箱物入札の不人気は続く。本当に着工できるのか。実はそちらの方が不安視されている。2029年再開が公表されているのだが。
まあ。良かった。この眼で見ることができて。設計コンペでは307案が集まった。選ばれたのは当時、竹中工務店の設計技術者だった岩本博行。戦後のアトリエ系建築家が、モダニズムや現代数寄屋に走ったのに対して、岩本は日本古来の様式美に拘った。その結果がこの巨大な校倉造を模したSRC造三階建ての建物だった。
(位置図)
因みに国立劇場は大劇場と小劇場、そして演芸場で構成されている。今回の大改修では全て取壊しの対象だ。
在りし日の姿。もう同じものは観ることができない。山ばっかり行っている場合じゃなかった。
「そんときは“早く山に行っとくべきだった”って言ってたじゃん」 いーけどさ
ひとつの事しか見えなくなるんだよ。
(参考資料)
(※ネットより拝借いたしました)
花道だね。ちょうどチリヌ席の辺りだ。
ロビーにはこんな風に六代目菊五郎の《鏡獅子》が展示されていたのだろう。
近くのトラックと比較するとその大きさがよく判る。
フロントもまるで寝殿のようだ。
側面からみると判るが、本物の校倉の柱のように水平材が積み重なっている。ちょっと驚き。確かに耐震性を問われると弱いかも。
間近で打設コンクリートの状態を見ると空隙も多く、現在の施行標準に照らしてやや粗い印象を受ける。1960年代ならこれでもよかったのかも知れない。
裏手のスタッフ専用駐車場。
因みに竹中工務店大阪本店が入居する御堂ビルも、近頃、登録有形文化財に指定された。岩本の作例は数も少なく、ますます貴重になった。
ということでザっと隠密調査完了だ。
「丸見えやろ!」 このバカチンが!
そっと見ただけだよ。
皇居側から引いて撮ってみた。やはり巨大。
ということで満足した。はやく入札が成立することを祈るばかりだ。帰りは最高裁判所を回り込んで永田町駅から帰ることにした。黄葉が美しい。
ここ、渡辺崋山の出生の地なんだね。行政官であり、学者であり、そして画家でもあったスーパー家老の崋山も、蛮社の獄に嵌められ、不遇のうちに自裁するに至った。能吏でありながら、その不器用な生きざまに親近感を覚える。日本人っぽいもん。
この銅像も気になる。
この様式。どこかで観たことある様な。
菊池一雄《平和の群像》(1951年)
なんと新制作派協会のメンバー、菊池一雄の作品だったよ。鑑賞するのは初めて。写実的ながら美しく様式化された体躯、とりわけ頭部の生え際と毛髪の処理。更に優しい双眸。師匠のデスピオの影響がよく見て取れる。
裏側を見て分かった。これ、日本電報通信社(現:㈱電通)が創立50周年に際して広告功労者を顕彰した記念碑だったんだ。もとは北村西望作《寺内元帥騎馬像》が立っていたが、戦時中の金属供出で撤去されたらしい。西望には気の毒だし、日本の近代美術の大いなる損失だけど、柔和な女神の群像でよかったと思うのは僕だけか。
「おサルは臀部」 シリが美しい♪
因みに銘板に並ぶ名前は、塚本幸一(ワコール)、佐治敬三(サントリー)に盛田昭夫(SONY)。徳間康快(徳間書店)に小林敦(ライオン歯磨)。そして筆頭には我らが亀倉雄策(広告デザイン)の名前も(もちろんこれは極一部)。昭和26年の時点でCMをアートの域に押し上げた会社が出揃っていたんだ。ちょっと感動した。
最高裁判所脇のイチョウ並木も最高に美しかった。遠くから歩いてくる人々を借景に、風に払われた枯れ葉が歌うように流れていく。アングルに凝っていつまでも撮っていたら、裁判所の守衛二人組が僕の後をつけてきた。と思ったのは気のせいだったのだろう。好い一日だった。
「十分不審者だって」 もうヤメテ!
(おわり)
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