「生誕150年 平櫛田中展」で奇蹟のリアリズムを鑑賞する(東京都・小平市) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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生誕150年 平櫛田中展

℡)042-341-0098

 

往訪日:2022年11月27日

会場:小平市 平櫛田中彫刻美術館

場所:東京都小平市学園西町1-7-5

会期:2022年9月17日~11月27日

開館時間:10時~16時

料金:一般1,000円 小中学生500円

アクセス:西武多摩湖線・一橋学園駅南口から徒歩10分

駐車場:なし(北東500㍍にタイムズカー桜橋があります)

※写真の幾つかをネットより拝借しました。私益に通じるものではありません。ご容赦ください。

 

ひつぞうです。11月最後の週末、群馬県旧六合村の尻焼温泉を後にして、一目散で東京都小平市の平櫛田中彫刻美術館に向かいました。この二つをセットにするのは無理がありましたが、生誕150年記念の回顧展最終日だったのです。よく戻れて14時。ここって閉館が16時とやや早めなんですね。ということでドタバタの往訪記です。

 

★ ★ ★

 

平櫛田中彫刻美術館は、小平市の田中旧宅に資料館を併設し、1984年にオープンした。今回の回顧展では他館や個人蔵の名品も一堂に会する。見逃がせば一生後悔することになるだろう。

 

「それはおおいに困る」サルこの男はいつまでもグジグジ言うし

 

 

所沢ICで降りると一般道のはげしい渋滞に嵌ったが、なんのこれしき、最初から計算の範囲内である。と言いつつ、会場到着は14時過ぎ。危なかった。(それとは知らず閉館30分前に現れて言葉を失う老人のなんと多かったことか…。やはり事前の情報収集は大切だな)

 

順路は少し風変わりで、1階→2階→地下1階という順になっていた。(※評価の定まった歴史上の偉人なので今回は尊称を敢えて控えます)

 

 

平櫛田中(ひらくし・でんちゅう)(1872-1979)。木彫家。岡山県西江原村(現・井原市)の田中家に生まれる。本名・倬太郎。幼くして平櫛家の養子となる。大阪の人形師に弟子入り。その後、高村光雲門下に入り、木彫家として腕を磨く。精緻なリアリズムと中国故事や禅に材を得た豊かな表現が賞讃され、帝国芸術院会員、東京藝大教授を歴任。のち岡倉天心に師事する。代表作は国立劇場の《鏡獅子》。小平転居後に病没。享年107歳だった。

 

最初に僕らを出迎えるのは代表作のひとつ《転生》。田中48歳の作。

 

《転生》(1920年) 東京藝術大学大学美術館 木彫

 

等身大を一回り小さくしたプロポーション。ただし、台座の上から鑑賞者を睨むように見下ろすため、実際よりも大きく感じる。怒髪天をつく容貌は新薬師寺の天平仏、十二神将立像のひとつ迷企羅大将に酷似しているね。

 

同上 部分

 

しかし、やはりなにかが違う。そうだよ。ベロを出している。

 

「あれ人間だよ」サル

 

え!おサルよく判ったね。

 

「解説に書いてあるし。どう見ても垂れさがっている人間だにゃ」サル

 

ほんとだ…。全然気づかんかった。田中の故郷には「鬼が人を食らい、あまりのまずさに吐き出してしまう」という説話が残るそうだ。

 

「ヒツだとお腹をくだしそうだにゃ」サルウケル~♪

 

なんだよウケるって。「罪深い業の持ち主なんかまずくて喰えん」ということでしょ。人間一般に対するアイロニーだよ。そんな事より筋肉の造形がすごくない?

 

「ムキムキだの」サル

 

鎌倉仏師の金剛力士像など、日本古来の人体表現も力強くて観る者を惹きつけるけれど、田中はそこに(デフォルメを排除した)理知的リアリズムを持ち込んでいるよね。解剖学的にリアルでありながら、繊細な表現なんだよなあ。例えば、少し後輩の荻原碌山はロダンの影響バリバリで、師の光雲はやや様式化されたリアリズム。田中は明らかに違う。「繊細」を広義の「詩的」という言葉に置き換えてもいいかもしれない。

 

「よく判りません、とツマらん指摘をうけゆよ」サルそんなことバカリ言ってると(笑)

 

つまり、徹底的にリアリズムを追求しながらも、自分が制作の過程で感じた、マチエールの手触り、モチーフへの心の感応、物語の解釈などが、木彫としての表現に重なっているんだ。

 

《幼児狗張子》(1911年) 井原市立田中美術館 木彫

 

例えば、今回のポスターに起用されたこの作品。幼い頃の長男・俊郎さんがモデルなんだ。今しがたまで手許の狗張子で遊んでいたのに、別の物に興味を抱いたのだろう。一瞬を捉えた造形に、屈託のない我が子に対する父親の愛が伝わってくる。

 

「木目も計算しているのかの」サル

 

だろうね。材料も桜や楠など厳選したそうだよ。

 

《樵夫》(1898年) 個人蔵 木彫

 

これは近年発見された田中最古の作品で今回初公開。柴の束に腰かけた樵夫が本を読んでいる。田中は谷中の臨済宗禅師・西山禾山に強い影響を受けた。そのためだろうか。中国説話や故事、禅林に材を得た作品が多い。この樵夫が読んでいるのは『臨済禄』?。多くの作品にはモデルがいるそうだ。師匠の天心や禾山に始まり、ただの小間使いや、街場の老人、隠居など、癖のある人物は片っ端からモデルにしている。

 

《活人箭》(1962年) 東京藝術大学大学美術館 木彫 

 

これが禾山をモデルにしたと云われる作品。最初に1908年に石膏で作っている。尊敬する天心に「死んだ豚も射れまい」と酷評されて大いに発奮したと逸話が残っているそうだ。ぱっと見、いいじゃんこれって思うけれど。

 

「ほかの作品と較べて腕の筋肉の張りとか、表情の緊張感とかイマイチかも」サル

 

そうだね。袈裟の造作もメリハリがないね。でもいい作品だよ。禾山への尊敬の念が充分伝わってくる。

 

さて。モデルといえばこの作品が気になる。

 

《原翁間日》(1940年) 須坂市立博物館 木彫彩色

 

日本の法曹界の重鎮、原嘉道に請われて彫ったいわば冥途の土産である。東京帝国大学法学部をトップで卒業し、明治から昭和初期にかけて、法律家、政治家、教育家として活躍した大偉人。その威厳に満ちた表情の彫琢と彩色は名人芸の域だ。太平洋戦争阻止に尽力した原が、軍閥の擡頭に切歯扼腕していた頃と時期は重なる。この四年後に胆嚢炎を患い、思いを果たせず没している。ちなみに須坂は原の故郷なんだよ。

 

「彫りが浅くて細かいにゃー」サル

 

47×47×46.5㌢だもんね。ほんと驚くよ。

 

 

しっかりした顎。凛々しい眉根。穏やかだが油断のない眼力。彩色も深みがある。当時の原自身の心のうちを図らずして捉えたのかも知れない。禅林・故事、神仏に材を得た作品とは一線を画す傑作だね。

 

彩色木彫こそ田中が極めた作風。その集大成が《鏡獅子》だ。現物は国立劇場のロビーに展示されている。六代目菊五郎をモデルに得て、着想から完成まで20年を費やした文字どおり畢生の大作だ。

 

《試作鏡獅子》(1939年) 井原市立田中美術館 木彫彩色

 

すごいのは試作として、菊五郎さんの裸形まで彫っていることだ。

 

《鏡獅子試作裸形》(制作年不詳) 同上 木彫彩色

 

着衣の彫刻でも正確なデッサンを得るには裸形から入るべき。田中は音羽屋にそれとなく頼んだのだろうか。

 

「脱いでくんない?」サルダメ?

 

すみません。戯れが過ぎましたあせ。そんな訳ないです。六代目は実際に褌姿で稽古をつけたそうだ。写真も残っている。この筋肉の造形を踏まえて最終的に実寸大の制作に移ったのだろう。

 

《鏡獅子試作頭》(1938年) 同上 ブロンズ金箔彩色

 

徹底して細部に拘り抜いたのだろうね。これでひとつの完成品だものね。残念ながら菊五郎本人は完成を待たずして亡くなってしまう。どうしても鏡獅子から立役のイメージがあるけれど、六代目は女形や踊りが得意だったのだそうだ。

 

気がつけば閉館まで20分。

 

「ぎりぎり観ることができた」サル

 

 

最後に隣接する田中の旧宅「記念館」を訪ねてみた。残念ながら改装中で見学は玄関まで。

 

 

玄関には「千歳」の額。千歳まで生きる。そういうことだろうか。スマホをQRコードにかざすと館長の解説を聴けるよ。田中のお孫さんなんだ。

 

 

この茶室がお気に入りだったそうだ。

 

 

庭の大木は作品になるはずだった楠の原木。必要とする人は既になく、オブジェになっていた。

 

★ ★ ★

 

ということで作品もさることながら、旧宅の展示館もすばらしかった。遠い道程だったが、田中の全てを満喫できた充実の二時間だったよ。

 

「すてきだったにゃ」サル

 

(おわり)

 

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