名建築を歩く「坪内博士記念演劇博物館」(東京都・早稲田) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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名建築シリーズ45

坪内博士記念演劇博物館

℡)03-5286-1829

 

往訪日:2023年12月3日

所在地:東京都新宿区西早稲田1‐6‐1

開館時間:10時~17時(不定休)

拝観料:無料

アクセス:東京メトロ・早稲田駅より徒歩5分

※双柿会(博物館1F)による解説あり

■設計:今井兼次、桐山均一、江口義雄

■施工:1928年

■施工:上遠組

📷館内撮影禁止です

 

《まるで16世紀のイギリス…言い過ぎ?》

(※ネットより幾つか画像を拝借いたしました)

 

ひつぞうです。早稲田大学の名建築探訪記。その最後を飾るのは演劇博物館(通称:エンパク)でした。ここは近代演劇の父・坪内逍遥博士を記念して建てられた演劇専門の博物館。そして、今井兼次らによる名建築でもありました。以下、往訪記です。

 

★ ★ ★

 

さて。いよいよ最後。本来であれば早稲田大学歴史館まで踏破するのが筋だが、腰が痛くてもたなかった…(次回ということで)。建築としては一番見応えのあるエリザベス朝チューダー様式である。

 

 

赤い瓦屋根、白堊の壁に垂直材が伸びやかな印象を与えるハーフティンバー。本人たっての希望だったらしい。竣工は1928(昭和3)年。逍遥古稀の祝いと畢生の大作『シェークスピヤ全集』(全40巻)の完成を祝って建てられた。

 

「おおくましげのぶより扱いがよくね?」サル

 

この頃の逍遥の人気は想像できないほど絶大なものだったんだ。なんといっても協賛者1500人余りだからね。資金は逍遥選集の印税と寄附だけで賄ったというから、人気のほどが窺われる。

 

 

17世紀前半に殷賑を極めた英国フォーチュン座の外観を模範に今井兼次を中心に設計された。

 

(参考資料)

(※ネットより拝借いたしました)

 

本家は両翼が張り出し式の桟敷席になっているが、博物館は普通の開閉式の窓になっている。

 

 

中央は舞台になっていて実際に上演できる設計だ。

 

 

窓の飾りも美しい。

 

 

右手に注目。緑青が剥げているね。この銅像と握手すると早稲田に合格できるという噂があるそうだ。

 

では坪内逍遥博士の生涯をざっと(以下敬称略)。

 

「いつものサルの勉強コーナーだの」サル

 

 

坪内逍遥(1859-1935)。現在の岐阜県美濃加茂市の尾張藩士の家に生まれた。維新後に実家の名古屋に戻っている。名古屋勤務時代に、旧大名古屋ビルヂングの脇に「坪内逍遥旧居の趾」なる碑文を見つけて小さく驚いたことがある(今どうなっているか知れない)。東京人というイメージが強かったが、逍遥は名古屋人だった。1885年『小説神髄』を発表。戯作から文学へと小説を芸術の域に高めた。

 

 

「“神髄”っていう小説じゃないのにゃ」サル フムフム

 

“小説の神髄はこれじゃ!”という評論集だね。その後30歳頃に小説から戯曲に活動の場を変えて、シェイクスピア研究の第一人者となっていく。今では小田島雄志先生や松岡和子先生のこなれた現代日本語の翻訳もあるが、時代がかった逍遥訳は今でも魅力を放っている。晩年は熱海の双柿舎で静かな生活を送り、75歳の生涯を閉じた。(ちなみに双柿舎は同僚・會津八一の命名。)

 

残念ながら内部は撮影禁止。拝借した写真で備忘録。

 

 

内部は御覧のとおり、天井が高い。

 

 

逍遥記念室の天井には羊の鏝絵。立派な装飾だった。

 

そのほか館内は企画展と常設展の展示室になっている。

 

 

=河竹黙阿弥-江戸から東京へ-=

(2F企画展示室)

 

 

ご存知、名狂言師・河竹黙阿弥の生涯を、大江戸から帝都東京への都市の変遷に重ねて描く企画展だった。

 

これもまた遥か昔の学生の頃。黙阿弥の肖像写真を見て大層驚いた。なぜって江戸時代の人物が写真に写っているではないか。実は『天衣紛上野初花』『極付幡随長兵衛』など晩年の名作は維新後に発表された狂言。黙阿弥が江戸と東京を跨いで生きたという事実を理解したのはかなり後のことだった(世阿彌の末裔と勘違いしていたのだ。時代が違い過ぎる)。

 

「なにを今さら判ったことを」サル

 

(※ネットより拝借いたしました)

 

河竹黙阿弥(1816-1893)。日本橋の裕福な家庭に生まれるが、芝居に現を抜かして勘当。のちに役者の紹介で歌舞伎役者として頭角を現す。転機は四代目左團次との出逢い。タッグを組んだ「三人吉三」「白波五人男」など白波物で大ブレイク。花ある演出に流れるようなキメ台詞。誰が観ても惚れ惚れする狂言で人気者となる。しかし、なんでこう、写真の中の黙阿弥って口をへの字にしておっかないのかね。

 

「笑っちゃいかん時代だったんじゃ?」サル

 

うちの社内報、気持ち悪いくらい作り笑顔なんよね。

 

その黙阿弥少年が心酔した江戸歌舞伎。当時どうなっていたのかというと、ある事件が興行界に激震を齎したんだよ。

 

「なに?それ」サル

 

おサルの好きな大奥がらみ。

 

「ほぅ」サル

 

 

世にいう江島生島事件(1714年)だよ。大奥のキーパーソン江島が、役者の生島新五郎と恋仲になるが、重ねた密会が御公儀の知るところとなり、迷惑なことに生島の兄弟は極刑。本人は高遠藩に幽閉。相手の生島は三宅島に流罪。更には属した山村座は廃座に。そして、他の芝居小屋も巻き添えを食って市村座、森田座、中村座は、当時田圃のど真ん中のような猿若町に移転を命じられる。好きでしょ。こういうスキャンダル。

 

「好き好き♪」サル

 

その後、安政の大地震で河原崎座も廃座になるなど歌舞伎界は揺れまくったんだ。この頃だね。黙阿弥の狂言作者としての転機は。白波物の流行に一役買ったのち、寄せ芸(噺)への接近や(政府の要請が主たる理由だった)活歴物の上演など、晩年に至るまで歌舞伎の改良に腐心した。時代に乗る術に長けた、様々な意味での天才だったような気がする。

 

(傑作です)

 

なお、黙阿弥の娘・糸女の養子に入ったのが、早稲田大学教授(演劇論・歌舞伎研究)の河竹繁俊先生(当館長に就任)。その次男がやはり演劇研究者の河竹登志夫先生である。鬼籍に入られて久しい。僕も歳を取るはずだよ。

 

 

=太田省吾 生成する言葉と沈黙=

(1F特別室)

 

 

地方博物館(というのが相応しい表現か疑問もあるが)の良さは、マイナーながら良質の遺産との出逢いがあること。今回の出逢いは劇作家・太田省吾氏(1939-2007)。中国済南市生まれで1970年から1988年まで劇団転形劇場を主宰。解散後は『水の駅』(1981年初演)をはじめとする沈黙劇で世界的評価を得た。ちなみに2023年ノーベル文学賞を受賞したノルウェーの劇作家ヨン・フォッセの作品(『だれか、くる』他)を紹介した功績でも知られるね。

 

「またムツカシソウナあせサル

 

アングラ演劇には高校生の頃から強い興味を抱いてきたが、なにぶん観る機会のないまま、この歳を迎えた。なので語る資格すらないのだが。演劇のスタートは(唐十郎、鈴木忠志、菅孝行などと同様)60年安保運動の座標上の演劇、とりわけサルトルなど実存主義にあったそうだ。

 

(※ネットより拝借いたしました)

 

この世界では“遅れてきた青年”だったらしい。1968年に結成した転形劇場ではドイツの夭折の作家ボルヒェルトに強く惹かれていたことが判る。曰く“言葉と身体にかかわる言葉”の表現者だったと。戯曲はまず文字として存在するが、演じる=身体性を発現することで初めて実体となる厄介な芸術である。ために、二つがバラバラになることを強く否定した。次第に《沖縄》《老い》といった重いテーマが主軸となっていくが、劇中にその言葉は一切出てこなかった。

 

更に言葉は削ぎ落されていく。それが『水の駅』に始まる沈黙劇三部作だった。

 

(『水の駅』より)

 

今回の展示に際して、奥様の太田美津子さんのことばがとてもよかった。書き留めておきたい。

 

人はある時代、ある地域に生まれ、その社会の中で生きる社会的存在であると共に、生まれ、成長し、老いて、死ぬ、たかだか百年を限りにしか生きられない生命存在でもあると、太田は繰り返し書いていました。奇跡のように在る命、一人一人の生命で在りながら、全ての命でも在る、そんな生命存在としての人の姿を表現する舞台を創りたいとも”。(下線は僕です)

 

節を区切れば、ひとつの長詩のような、リズムのある、そして、やや諦観が滲み出たことば。しかし、一回限りの生だからこそ、日々の挑戦は終わりなく続いていいのだという、後から追う者に対する鼓舞。そんなものを感じた。

 

会場で映し出される、ちょろちょろと、蛇口から零れ落ちる水の雫に、誘い出されたかのような、微分化されたように緩やかな動作で、寄っては去る出自も知れない男と女による、無言の、そして偶然の出逢い。切り取られた“時間”の唯一絶対の断面標本。是非ナマで観たかった。そう思いつつ会場を後にした。

 

「全然ワカランけど、ヒツ的には好かったんじゃね?」サル

 

これにて早稲田は終わりにするが、天気のいい日に訪れておきたい場所があった。やはり行くことにした。

 

「帰ってこんかい!」サル

 

(まだつづく)

 

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