新宿区立 漱石山房記念館
往訪日:2020年2月23日
所在地:新宿区早稲田南町7番地
アクセス:都営バス(白61)に新宿駅西口3番乗り場より乗車/「牛込保健センター前」より徒歩2分
開館時間:10時~18時【月曜定休】
観覧料:(一般)300円
■駐車場:1台
≪立派な近代建築として漱石山房は生まれ変わった≫
こんばんは。ひつぞうです。連休の中日、お山は台風並みの強風警報。久しぶりに都内の街歩きに充てました。向かった先は漱石山房記念館です。
★ ★ ★
平成29年9月24日。漱石生誕150周年を記念して、牛込の漱石山房跡地に記念館がオープンした。かつて耽読した者なら一度は行きたい。しかし週末は山と温泉の日々。あっという間に二年余りが過ぎ去った。
夏目漱石(1867-1916)
この日、おサルを連れて新宿駅に向かった。新宿駅は広い。人混みに揉まれつつ西口に着いたが、バス乗り場を探すのも一苦労。ようやく牛込保健センター行き(系列:白61)を見つける。三番のりばだった。山手線より皇居側に立ち入ることのない僕らには新鮮だった。昭和の匂いが残る路地。ビルに挟まれた古い寺院。満員電車から押し出される駅周辺だけが東京である僕には、寡黙な老人ばかりを乗せたバスは、遠い昔に置き忘れてきた「時代」そのものだった。
無事に牛込保健センター前で降りることができた。草間彌生美術館の眼の前だった。地下鉄東西線「早稲田駅」から徒歩10分。都内の街歩きに慣れない人は地下鉄のほうが便利かもしれない。この四つ角から先が漱石山房通りと呼ばれる界隈。閑静な住宅街である。
漱石先生の胸像に挨拶する。すでに切手にもお札にもなった先生だが、本名金之助の由来はちょっと複雑。庚申の日に生まれた者は将来泥棒になると言われていた。そのため厄払いとして金の字を与えられたのだそうだ。
「サル(庚申)を莫迦にしているにゃ!」
(再現された玄関はこの先も開くことはない)
ここは東大を辞職したのちの漱石が、職業作家として大半の時間を過ごした場所である。空襲で焼けたあと、跡地には長らく都営団地が建っていた。老朽化で取り壊しが決まると、新宿区が記念館建設に乗り出した。
名誉館長は漱石の長女筆子と門下生のひとり松岡譲の娘・半藤末利子さん(つまりお孫さん)。夫君は昭和史の大家・半藤一利氏である。松岡は終生漱石の遺品を遺したいと願ったそうだ(当館のHPに詳しい)。文学館はゆかりの地にあって欲しい。できれば実際に暮らした場所にあって欲しい。僕などもそう願うひとりだ。作家の吸った空気は、周囲の風景が変われども、その面影とともに残っているからだ。
建物は(上の写真の右側より)書斎、客間、玄関、居間、寝室、台所、女中部屋、風呂場、手洗い場となっていて、そのうち書斎とテラスが(屋根も含めて)詳細な考証をへて再現されている。
これが漱石が数々の名作を書き上げた書斎。門下生のひとりであるドイツ文学者の小宮豊隆が、東北大の附属図書館に疎開させたことで焼失を免れた蔵書(レプリカ)が並ぶ。部屋の間取りには諸説あったが、写真に残った安井曾太郎画伯の「麓の街」のサイズから十畳と割り出したそうだ。
(画像はネットよりお借りいたしました)
岡本一平が描いた漱石先生。旨い。息子の太郎氏よりも好きな画風。座卓と火鉢がそっくり。
壁紙の紋様は出入りの経具師だった栗山弘三郎氏の証言に基づく銀杏鶴。
コロニアル調のベランダの軒先には芭蕉と木賊の生垣があった。これも当時の再現。
(写真はネットよりお借りました)
写真は死の一年前の漱石。とても四十六歳とは思えない。苦労したのだ。漱石はここに坐るのが好きだったそうだ。
建物の趣味は漱石のものではない。アメリカ帰りの医者三浦篤次郎が建てた元診療所で、当時は人手に渡り、借家だった。そうだろう。イギリス式というより外観はフロリダあたりを髣髴させる。ま、英国留学の二年間を“悪夢”と否定する漱石は、英国式の建物には棲まなかっただろう。
テラスを曲がった先に等身大の人形が。けっこうリアルで驚く。
映画「ユメ十夜」の宣伝用に日活が制作したもの。実際の漱石の頭はこんなに小さくない。むしろハチは大きい。身長159cmと云っても(当時の日本男児の平均約150cmと較べて)決して小柄ではなかった。
左のパネルが等身大の写真。胃弱・神経質のイメージが強い漱石だが、実はスポーツマン。学生時代は親友の正岡子規と野球に明け暮れ、富士山にも登っている。近代登山の黎明期にも関わらず。
「すごいにゃ!」
(松山尋常中学(現・松山東高校)教師時代。漱石28歳)
若い頃の漱石はけっこうイケメンである。しかもヤンチャそうである。松山時代は鏡子夫人との婚約が決まった年だ。まさに「坊ちゃん」の主人公そのもの。この直後に英国留学が決まるともつゆ知らず。
見合い結婚の二人だが印象は悪くなかった。ただ鏡子夫人は「写真ではめちゃイケメンだったけど、鼻の頭にアバタの痕があるわ」と内心落胆し、漱石先生は「口を開けて笑うすごい女性じゃ」と思ったとか。
「女性が口を開けて笑うのはタブーだったしにゃ」
世間一般に流布しているように、鏡子夫人は「さほど悪妻ではなかった」というのが今日的評価である。ま、あまり勉強が好きではなく、我が儘放題に育ったというのが「奔放不羈」というイメージを醸成したのかもしれない。
(確かに大和撫子というより藤山直美師匠のような…いい意味で)
癇癪持ちだった漱石だが、子供は好きだったのかもしれない。初期の『吾輩は猫である』などを読むと、家族で出かける場面があり、ほのぼのとした印象が今でも残る。それは自身が養子に出された「要らぬ児」としてのつらい記憶の反動だったのだろう。
二階は漱石の初版本や写真などが展示されている。なのでこの先は写真撮影不可。
12月3日~2月24日まで企画展「漱石と高浜虚子-「吾輩は猫である」が生まれるまで-」が開催。
ご存知のとおり、漱石の小説執筆の端緒は、俳句仲間の虚子が小説執筆を薦めたことにある。英国留学で神経衰弱になった漱石の心を休めるために。
高浜虚子(1874-1959)
漱石は虚子を介して句誌『ホトトギス』に俳句などを発表するようになる。子規亡き後、客観写生の理念の継承者となった虚子だが、漱石とはつかず離れずの微妙な立ち位置で文学の道を進んでいく。職業作家になるまでの漱石作品は諧謔とエスプリ、品のいい衒学趣味に満ちていて、背伸びしたい年頃の僕は貪るように読んだ。人生の初漱石はやはり『猫』だった。小学生、中学生、高校生と、それぞれのお年頃に繰り返し読んだ。判ったような気がしたが、とても判っていたとは思えない。
「ひつの笑いのセンスはおサルが仕込んだ」
そうね。出逢うまでは唯の朴念仁だったからな。
一躍ときの人となった漱石の許に、若い文学志望者が集うようになる。森田草平、安陪能成、小宮豊隆、鈴木三重吉を筆頭に、内田百閒、寺田寅彦、中勘助、和辻哲郎など早々たる顔ぶれ。面倒見のいい漱石は後輩たちの往訪を断ろうとしなかった。そんな多忙な漱石を慮った鈴木三重吉の発案で、面会は毎週木曜の午後に限定することになる。木曜会はこうして始まった。
その後も第二世代の芥川龍之介や志賀直哉などが続く。漱石山脈は巨大だ。だがその山脈は今どこに繋がっているのだろうか。そもそも文壇なるものは存在するのだろうか。
ある門下生は言った。
「僕らは倖せだったねえ。夏目漱石という偉大な文学者と同じ時代に生きることができただけでも倖せなのに、我が儘を言ったり、教えを受けたりできたのだから…」
本当に羨ましい。そんな時代はやはりこのときばかりだった。
だが「師」を持たない僕らも、牛込の陽だまりの坂道を歩きさえすれば、漱石の生きた良き時代に触れることができる。わずか三百円ばかりで。
漱石亡き後に鏡子夫人の発案で建立された猫塚。戦争で一度は倒壊したが、1953(昭和28)年の漱石の命日に再建された。『猫』の主人公とは別の猫という噂である。「吾輩は猫である。名前はまだない」で始まり、酒を飲んで酔っ払い、瓶に堕ちて大往生する猫。「ありがたい。ありがたい。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏」で幕となる。
瓶に堕ちて酒に溺れる…。そんなひとを知っている。
「吾輩はサルでアル。名前はおサル!」🍷
煩悩まみれの僕に則天去私の心境はまだまだ遠い。
(つづく)
いつもご訪問ありがとうございます。