特別展「マティス展 The Path to Color」(東京都美術館) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

マティス展 The Path to Color

 

往訪日:2023年8月5日

会場:東京都美術館

会期:2023年4月27日~2023年8月20日

開場時間:(月曜休館)9:30~17:30

料金:一般2,200円 大学生1,300円 高校以下無料

アクセス:JR上野駅から徒歩約3分

※部分的に撮影OK

※終了しました(巡回なし)

 

《とってもセンシューアル》

(※幾つかの写真をネットより拝借いたしました)

 

ひつぞうです。ひと月前に東京都美術館で開催されたマティス展を観てきました。20年ぶりの大回顧展ということで、アートシーンこの夏最大の企画です。今回の特徴はポンピドゥーセンター所蔵のコレクション約150点の一挙公開、加えて、代表作のひとつ《豪奢、静寂、逸楽》日本初公開でしょうか。大混雑覚悟で上野の森を目指しました。以下、鑑賞記です。

 

★ ★ ★

 

あちこちで観ているにも拘わらず、“フォービスムの主導者”という固定的な知識があるだけで、確固たるイメージが結びつかない。知っているようで知らない画家。それが僕にとってのマティスだった。中学生の頃、美術の教科書で『緑の筋のあるマティス夫人の肖像』(1905)を見た。様々な泰西名画の肖像画が並び、比較絵画論的な解説が付されていた。なぜこれが“野獣”なのだろう。よく判らなかった。次に『ルーマニアのブラウス』(1940)を見た。幾つかのヴァリエーションがあって、画家が何を追求したかという解説があったように思う。

 


そんな調子なので、今回の往訪は「ビッグネームだから」という軽薄な思いつきから始まった。当日、学士会館を辞して神保町から上野駅まで移動した。地下鉄を出ると午前9時の時点で灼熱地獄。こんな真夏日に列を作ってまで観ようとする客もないだろう。

 

 

考えが甘かった。僅かな日陰に寄り添うようにして、汗を拭う客の長い列が美術館の前にできていた。

 

「酔狂だのう」サル ヒツもそーだけど

 

★ ★ ★

 

ではマティスとはどのような画家か。

 

 

アンリ・マティス(1869-1954)。フォービスムを確立したフランスの画家・彫刻家。フランス最北部ノール県の穀物商の長男に生まれる。法律家を目指すが、画家に転向し、ギュスターヴ・モローの指導を仰ぐ。その後、後期印象派の影響を受けつつ、様々な手法の変遷を見せながら、生涯にわたって色彩と線を追求。20世紀絵画に多大な影響を与えた。

 

「全然判らん」サル そんなんじゃ

 

それでは実際に鑑賞してみよう。

 

 

1.フォービスムに向かって

1895‐1909

 

《読書する女性》1895年 カトー=カンブレジ・マティス美術館寄託

 

マティス26歳の作品だ。1895年といえば、ジヴェルニーの水庭を購入したモネが、間もなく《睡蓮》の連作を始めようとしている頃。だが、象徴主義の旗手モローやバルビゾン派の先輩画家コローの手解きをうけた若きマティスの絵は、いまだ穏やかで神秘的な静謐に満ちている。

 

「ぜんぜん普通の絵だにゃ」サル

 

ところがである。

 

その9年後に新印象派の代表画家ポール・シニャックの招きで南仏サン=トロペに滞在。発表した《豪奢、静寂、逸楽》はこうなった。

 

《豪奢、静寂、逸楽》1904年 オルセー美術館寄託 

 

「別の画家じゃん」サル

 

モザイク画のような大胆な筆触分割と豪奢な暖色。シニャックの魅力がマティスの画風を大きく舵切りさせたらしい。翌年の1905年に画友ドランと訪れた漁村を描いた《コリウール風景》をサロン・ドートンヌに発表。

 

《コリウール風景》1905-06年頃 メナード美術館蔵

 

「子供の絵にしか見えんけど…」サル

 

この展覧会で批評家ルイ・ボークセル「まるで野獣の檻の中にいるようだ」と評され、フォービスム(野獣派)の名前が誕生。激しい原色とデッサンの衝突が印象的だ。こうした“自然そのままの色(固有色)の放棄”がフォービスムのひとつの特徴になる。

 

更にその一年後。

 

《豪奢Ⅰ》1907年

 

「また随分変わったにゃー」サル

 

貝から誕生するアフロディーテだ。神話のモチーフから大きく逸脱した大胆かつ無表情な女神のヌード。規格外の遠近法や無造作な筆触、塗り残しのような空白。発表当時は賛否両論が巻き起こったらしい。侍女なのだろうか。ブーケを手に小走りで駆け寄る女と足許に傅く女。この構成だけで左端の女神が畏怖の対象に見えてくる。

 

「男性みたいだの」サル

 

更に二年後。

 

《アルジェリアの女性》1909年

 

幾何学的な背景。黒く太い輪郭線。赤と緑の原色の衝突。まるで浮世絵を観ているようだ。この約10年だけでこれだけタッチの変遷があるんだよ。一筋縄ではいかない筈だ。

 

 

2.ラディカルな探求の時代

1914‐1918

 

第一次世界大戦はマティスの心にも大きな影響を与えた。アパルトマンの一室から外の世界を覗うしかない画家は内省的な室内画や人物画を描くようになる。

 

《金魚鉢のある室内》1914年

 

加えてキュビスムの影響も顕著になる。

 

《白とバラ色の頭部》1914年

 

顔の左右が別人のようでしょ。

 

《オーギュスト・ペルランⅡ》1917年

 

これも。右側は温厚な老紳士。だけど左側は仮面かマネキンのような冷たい印象。しかし、幾ら実験的であっても抽象絵画には接近しようとしなかった。

 

 

3.並行する探求-彫刻と絵画

1913‐1930

 

《背中Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ》1909年、13年、16‐17年、30年

 

同時に彫刻でも腕を磨いた。マティスの場合、ブロンズ制作は油彩画のための“テスト走行”だったそうだね。数年起きに制作された背中の変化が興味深い。

 

 

4.人物と室内

1918‐1929

 

ここから写真撮影OK。気になった作品中心に振り返ってみる。

 

1918年、画家は拠点をニースに遷した。所謂《ニース時代》の到来だ。それまでの実験的な大作とは違って小品が多数制作されるようになる。

 

《ピアノの前の若いヴァイオリン奏者》1924‐26年 木炭、擦筆/アングルダッシュ紙

 

言われなければ誰の絵か判らん。

 

《若いスペイン女性》1923年 ボルドー美術館寄託

 

「なんか普通の印象派っぽいにゃ」サル

 

《風景》1915年 グラファイト/ヴェラン紙

 

マティスと云えば“色彩”だけど、線だけで構成されたペン画も好き。

 

《パイプをくわえた自画像》1919年 墨/厚紙に貼った紙

 

柔らかくて自由な線。D・ホックニーのエッチングに影響を与えている気がする。

 

《赤いキュロットのオダリスク》1921年

 

旅行先のモロッコで得た画題をアンリエットをモデルに多数描いた。

 

「おっぱい丸出しだにゃ」サル なに?オダリスクって

 

そういう絵なの。

 

《石膏のある静物》1927年 石橋財団アーティゾン美術館

 

クリムゾンレッドこそマティスの赤。

 

《緑色の食器棚と静物》1928年

 

アンリエットがモデルを辞めてしまい、マティスは悲嘆にくれる。しかし、悩んでも仕方ない。セザンヌに回帰して静物画を描き始めた。でも果実の円の描き方がマティス。

 

「ホントに器用な画家だにゃ」サル

 

 

5.広がりと実験

1930‐1937

 

1930年代。北米とタヒチを訪れ、新たなヴィジョンを手に入れた。加えて強力な画商のサポート、複数のアシスタントを得る。死に至るまでつき添ったリディア・デレクトルスカヤの存在は大きい。

 

《夢》1935年

 

リディアがモデルを務めた一枚。

 

 

繊細な線と固有色に近い肌色。デフォルメされた掌。塗り直しは画家の創作そのものの軌跡。

 

《裸婦》1930‐31年 グラファイト/紙

 

その軌跡が作品化した《裸婦》。幾度も顔料を拭い去ってポーズを変えた痕がある。

 

 

元は具象的な俯き顔だったんだ。

 

「抽象的だけど肌が艶めかしいにゃ」サル

 

《トルコ風肘掛け椅子に座るリゼット》1931年

 

描き直しの利かない陶磁器の絵模様のように、輪郭線に迷いがない。

 

《鏡の前の青いドレス》1937年 京都国立近代美術館蔵

 

と思えば初期作品のような色彩の格闘も。

 

《貝殻のヴィーナス》1930年 ブロンズ

 

「油彩もブロンズもデザインが同じだにゃ」サル

 

 

6.ニースからヴァンスへ

1938‐1948

 

晩年、マティスは苦難の時代を迎える。1939年9月に第二次世界大戦が勃発。加えて癌を発病。ほぼ二年間の闘病生活を余儀なくされる。更に1943年にニースへの空爆が始まり、古代の城塞都市ヴァンスに転居することになった。

 

《立っているヌード》1947年

 

再び大型の作品も描くようになる。

 

《赤の大きな室内》1948年

 

どの作品も僕らが知っているマティスのタッチだ。

 

《黄色と青の室内》1946年

 

つまるところ、実験の対象は色彩と線だった。

 

 

絵具はとても薄く、線が生きている。

 

「絵筆のタッチがよく判る」サル

 

《マグノリアのある静物》1941年

 

油彩画の展示はここまで。

 

 

7.切り紙絵と最晩年の作品

1931‐1954

 

イーゼルの前で筆を走らせる体力がなくなると、切り絵による表現に活路を見出した。

 

芸術雑誌ヴェルヴ表紙

 

「カロン・セギュールのラベルみたい」サル ワイン飲みたーい

 

禁断症状だね。お昼だし。

 

同上

 

ふと思った。この線と形。キース・へリングに繋がっていない?

 

 

8.ヴァンス・ロザリオ礼拝堂

1948‐1951

 

いよいよ最終章。マティスがデザインに携わったロザリオ礼拝堂

 

(参考資料)

 

デザインの元資料が展示されていた。

 

ヴァンス礼拝堂、ファザード円形装飾《聖母子》1951年

 

やっぱりキース・へリングだよ。

 

★ ★ ★

 

お腹が減ったので館内のレストランで食事をすることに。美術館を設計した前川國男は建物で一番眺望のいい場所にレストランを設計した。以前見学した横浜市立音楽堂でそのように教えてもらった。しかし、既に窓際は満席。残念だけど。

 

「飲もうぜ」サル

 

おサルはいつどこでもワインを飲みたがるのだ。

 

 

ニース風サラダ イサキのポアレ&ソース・プロヴァンサール

 

マティス展コラボメニュー(3000円)を頂戴した。美味しいけれどどこがマティスなのか。

 

「パプリカの色じゃね?」サル

 

 

なんとなく判ったような気がしたマティスの画業。むしろ後代への影響を感じさせられた展覧会だった。

 

「ワイン飲み過ぎたにゃ」サル

 

グラスとカラフェ両方頼むのおサルくらいだよ。

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。