孟子の子孫が赤穂義士に? | 人差し指のブログ

人差し指のブログ

パソコンが苦手な年金生活者です
本を読んで面白かったところを紹介します

~ まぁ系図とか家伝なんてものはあてにはならないものですが・・・ ~

 

 

 

「 童門冬二の歴史余話 」

童門冬二 (どうもん ふゆじ 1927~)

株式会社 光人社 2002年1月発行・より

 

 

 

 

 「孟子の子孫が赤穂義士の中にいる」

 と書いたら、ウソォー!と目をむく読者がいらっしゃるでしょう。

 

 

 でもそういう伝えがあるのです。  

 

 まずそれは誰か?

 という事からお答えすれば、武林唯七(ただしち)です。

 

 

浅野家では馬廻り(うままわり)・中小姓(ちゅうごしょう)の役にあり、十五両三人扶持(ぶち)

(一人扶持というのは、大体一日に米五合)の給与を受けていました。

 

 

唯七の本姓は孟(もう)です。  武林家の家伝によれば、

 

 

・  先祖は明(みん)(中国の古い国名)の杭州武林(ぶりん)郡の出身である

   こと、孟子の子孫であること。

 

・ 孟子式(もうししき)の時代に日本の長門国(ながとのくに)に漂着したこと。

 

・ 長州藩主毛利家に召し出され、孟二官(にかん)と称して仕えたこと。

 

・ やがて安芸国(広島県)にきて、藩士渡辺氏の娘と結婚し、

  渡辺治庵(ちあん)と改名して、藩の医者になったこと。

 

・ 治庵は明暦三年(1657)五月十八日に死亡。

  その墓碑銘に 「孟子六十一世」 と記されているという。

 

・ 渡辺治庵の子平右衛門は赤穂藩に仕え、ふたりの子をもうけた。

 

 

兄は渡辺半右衛門となり、弟唯七は浅野長矩(ながのり)の家来になって、武林姓を名のった。

 

武林というのは、孟子の故郷である中国の武林にちなんだものである。

ということなのです。

 

 

 正しければ、赤穂義士のなかに、渡来人(帰化人)の子孫が存在していた、ということで、これは忠臣蔵のなかのユニークな一面といえるでしょう。

 

 武林唯七は、のちの吉良邸討入りのときに、吉良上野介を仕止めた功労者のひとりだ、といわれています。

 

 

                                 

 

 

2019年6月29日に 「女好きな大石内蔵助 と題して井上ひさし・丸谷才一・池宮彰一郞の対談を紹介しました。コチラです。↓

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12475536090.html

 

 

 

2019年6月28日に 「赤穂浪士討入り前の心得十三」 と題して

野呂邦暢の文章を紹介しました。コチラです。↓

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12456480495.html

 

 

2019年6月27日に 「幕府の情報収集(隠密と赤穂浪士と海外情報)」 と題して大石慎三郎の文章を紹介しました。コチラです。↓

 
 
 

2019年6月26日に 「大石内蔵助の良心的な行動」 と題して樋口清之の文章を紹介しました。コチラです。↓

 
 
 

2019年6月25日に 「松の廊下の刃傷沙汰の原因 と題して井上ひさし・丸谷才一・池宮彰一郞の対談を紹介しました。コチラです。↓

 
 
 
2018年10月13日に 「悪いのは大石内蔵助」 と題して谷沢永一の文章を紹介しました。コチラです。↓
 
 

2018年1月29日に 「大石内蔵助は民衆心理を読む」 と題して谷沢永一の文章を紹介しました。コチラです。↓

 

2017年12月19日に 「赤穂浪士討入り」と「吉良邸の前日の忘年会」 と題して園田英弘の文章を紹介しました。コチラです。↓
 
 
 
 

1月6日 奈良公園にて撮影