松の廊下の刃傷沙汰の原因  | 人差し指のブログ

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「 大将論 」

池宮彰一郞 (いけみや しょういちろう 1923~2007)

朝日新聞社 2002年3月発行・より

 

    いまなぜ忠臣蔵か   井上ひさし / 丸谷才一 / 池宮彰一郞

 

 

 

池宮 いろいろ資料があるけれど、浅野内匠頭の刃傷の原因はよく分から

    ないんですね。

 

 

    こないだ、南條範夫先生と対談をやったんですが、そのときに、編集

    者が、南條先生に、何が 『忠臣蔵』 を書くのに一番むずかしいか

    と訊きましたら、刃傷の原因が分からんことだと。

 

 

    実は私もそうなんですね。

    だから私も発端からして 分からないことを書いているわけです。

 

 

丸谷 ワッハハハ。

 

 

井上 だからきっと、いろんな解釈が成り立っておもしろいんでしょうね。

 

 

    塩が原因だと書いたのは、海音寺潮五郎さんが一番最初なんで

    す。

 

 

    ところが塩の博物館に行くと、一発であれは嘘だというのがわかっ

    てしまう。

 

 

    饗庭(あえば)塩という吉良の塩は にがりがすくなくてすごく上質なん

    です。

 

 

    それで少量しかできない。

 

 

    ですから、名古屋とか、京都あたりのいい家が、あそこの塩はいい

    よって買うんですね。

 

 

    赤穂の塩はちょっと質は悪いんですけど、大衆化されてまして、

    たくさんできる。

 

 

    ですから、マーケットが違うんですよ。

 

 

丸谷 なるほど、競合しないと。

 

 

井上 海音寺さんは吉良の間者が塩のつくり方を盗みに行ったと言ってる

    んですけど、吉良の人が赤穂の塩のつくり方を勉強しても、地形が

    違うし、海流も違うし、参考にはならないんですね。

 

 

    しかも赤穂の塩づくりを調べていくと、みんないろんなところから、

    とくに大坂資本で職人も大坂から来てますし、全部オープンなんで

    すよね。

 

 

    海音寺さんの説はすごくおもしろいんだけど、塩については 

    まちがいがあるように思います。

 

 

池宮 一方、四十七士の動機について、主君である浅野内匠頭への忠義

    のため、という説がありますが、私はちょっと違うんじゃないかと

    思っているんです。

 

 

    浅野内匠頭は江戸生まれの江戸育ちで、十八のときに初めてお国

    入りし、それから参勤交代で十八歳から三十五歳までの十七年間

    を、お国表が一年、江戸が一年というふうに行き来している。

 

 

    ですから家臣とそう馴染みが深いというわけではないんですね。

 

 

    また四十七士の中で、浅野内匠頭にお目通りをしたというのは半分

    もいないんです。

 

 

    軽輩は御目見得以下ですから、そうなると、忠義のために命を捨て

    るというふうには ちょっとならないと思うんですね。

 

 

井上 動機ですけど、ぼくは、徳川綱吉というヘンな人と浅野内匠頭という

    ヘンな人のヘンなところがぶつかって生じたと思っているんですね。

 

 

    まず刃傷の報せが入ったとき、たしか綱吉は勅使に会うために

    朝風呂に入って身を清めている最中だった。

 

 

池宮 そうですね。

 

 

井上 報せに仰天した綱吉はパッと立って 「切腹じゃ」 と叫んだ。

 

 

    そしてこれは有名な資料ですが、真偽のほどはともかく、赤穂の

    江戸屋敷の医者が、今で言う精神安定剤を浅野内匠頭に 

    やっているんですね。

 

 

    前の日、能を五番の狂言二番を、朝九時ぐらいから夕方まで

    ジィーッと京都のお使いに江戸城で見せているでしょう。

 

 

    浅野内匠頭というのは、あの頃、大名たちの間で能が流行っている

    のに能をやったことがない人なんです。

 

 

    だから能嫌いという感じがしますけれど、それが前の日に坐りっきり

    で好きでも無いモノを見て、次の日が最後の日。

 

 

    松の廊下は、これは皆さんご存じだと思うんですけど、あれは南向

    きで、上に桟があり、それが連木になっている。

 

 

    あの時刻、太陽はちょうど六十度の角度から射していて、廊下に連

    木の影が出て、そこを歩くと、目がチラチラ、チラチラするんですね。

 

 

    そういう毎日の緊張、今日で終わり、それで安定剤を貰って抑えて

    いる。

 

 

    そして廊下の光と影のチラチラ・・・・。

 

 

    そういうことが重なって突如、発作が起きたのではないか。

 

 

    ただ、「こないだの遺恨忘れたか」 という浅野内匠頭の言葉が何に

    よるものなのか、これが分からないですね。

 

    何があったのか。

 

    (略)

 

井上  大石内蔵助はとんでもないバカ者だというのは、池宮さんと同じな

     んです。

 

 

    あの頃は、もうある意味では、サラリーマン社会みたいになってい

    て、江戸本店に、将軍家がコンツェルンのトップとしているわけです

    ね。

 

 

    大名取り潰しが多い時代で、一代で何十名もの大名が取り潰された

    ことがあるぐらいですから、大名の務めは、支社長として会社をきち

    っと やっていって、家来に月給を出すということだと思うんです。

 

 

    ですから、国の城代家老は、支社長がヘンなことを しないように

    一所懸命、怒らないでくださいとか、これはこうやってください、という

    のを やるべきなのに、大石が釣りに行って昼行燈というのは、非常

    にけしからんと思って、ぼくは怒っているんです(笑)。

 

 

丸谷 ところで、喧嘩両成敗という法解釈、あれは一揆の中から出てきた

    ものなんですね。

 

 

    つまり、日常的な世界での法ではないんんです。

 

 

    一揆の組織には、権威というものがなくて、みんな平等なわけです。

 

 

    また非常に騒然としているときだから、何よりも統制が大事であると

    の考えから、結局、何であろうと喧嘩したら、両成敗という形で解決

    した。

 

 

    これが室町、戦国の頃からの一揆の組織の中で出来た。

 

 

    その法が、ずうっと民衆の法としてきていたわけです。

 

 

     これが底流として あるときに、刃傷事件が起き、両成敗どころ

    か、浅野内匠頭だけが処分されてしまった。

 

 

    これは民衆の法の伝統に対して、体制が侮辱を加えた、と取られた

    んですね。

 

 

    それで民衆が腹を立てたんでしょう。

 

 

    しかも民衆の怒りにとって具合がいいことに、浅野内匠頭がなぜ刃

    傷に及んだかという理由が遂に分からない

 

 

    あれは分からなければ分からないほど怖いんだというのが、

    ぼくの理論なんですよ。

 

 

池宮 なるほど。

 

 

丸谷 だから、その鬱憤(うっぷん)を何とかして鎮めないと祟ることになる

    という御霊信仰の考え方が出て来るんです。

 

 

井上 討入りは祟りを恐れたからともいえるわけですね。

 

 

丸谷 そうそう。それと、ぼくは、討入りは忠誠の対象のためにしたもの

    じゃなくて、見物人のためにするしかなかったのだと思うんです。

 

 

    つまり、江戸の市民たちは、何かをすることを浅野の侍たちに対して

    要望していた。

 

 

    その要望の原型として、曾我兄弟の芝居があった。

 

 

    曾我兄弟のかたき討ちが原型として刷り込んであるから、あれと

    似たことをするしかなかった。

 

 

    それは民衆の気持ちであったし、同時に、今度は、侍たちも、「親の

    仇」 を 「君父の仇」 と読み替えた朱子学の解釈があるせいで、

    主君の仇を討たなければならないという思想が浸透してしまった。

 

 

    それやこれやで、見物人の要求が無言のうちに、彼らを圧迫した

             という解釈なんですけどねぇ。

 

 

井上 長島みたいなもんですね。

 

 

    いいところでホームランを打て打てって言うと ほんとうに打ってしま

    う。

 

 

丸谷 ハハハ。

 

                                    

 

 

2018年10月13日に 「悪いのは大石内蔵助」 と題して谷沢永一の文章を紹介しました。コチラです。 

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12395297912.html

 

 

 

 

                          6月8日 奈良公園にて撮影