「 いじめを粉砕する九の鉄則 」
谷沢永一 (たにざわ えいいち 1929~2011)
株式会社幻冬舎 2007年1月発行・より
時代は下って、江戸城松の廊下、浅野内匠頭(たくみのかみ)の事件を考えてみる。
「鮒(ふな)だ、鮒だ、鮒侍だ。ハッ、ハッ、ハ 」
(『仮名手本忠臣蔵』三段目)
吉良上野介(きらこうずけのすけ)(役名=高師直(こうのもろなお)
のいじめは徹底して、百忍一断の内蔵助に同情が集まる。
しかし、上野介のやり方は形態としてはいじめだが、実質は教育である。
要するに 「賄賂(わいろ)をよこせ」 であって、この場合の賄賂というのは、当時の常識では、正当収入なのである。
つまり高家(こうけ)というのは、各大名にいろいろな礼儀作法を教える。
それに対して禄高をもらっているのだが、その役を承った浅野内匠頭をはじめ他の大名に教える場合に、当然、授業料は必要なものなのである。
だが、浅野内匠頭はその授業料を払わなかった。
だから 『忠臣蔵』 で一番いけない人物は、大石内蔵助(くらのすけ)だという説がある。
つまり江戸家老が大馬鹿者だったわけで、江戸家老が無能であり、
世の中を弁(わきまえ)ていない人物だということを、国家老上席だった大石内蔵助は弁えていなかったわけである。
大石が、もし もっと明敏な人物だったら、心利きたる者を江戸家老に派遣して、 「こうせい、ああせい」 と教えれば、何事もなかったのである。
高家の指南を受け、賄賂を差し出すことは、当時の社会のしきたりで、
授業料と思って払うのは、当然なのである。
今でこそ、学校制度が完備しているけれど、昔は月謝とか授業料でなく、全部、お包みなのだ。
たとえば、お布施(ふせ)。昨今のお坊さんは堂々と請求するが、昔はお経をあげながら、
「今日のお布施はなんぼやろな」
と、お坊さんが胸算用したという話しがあるくらいで、つまり、出すほうが心積もりして差し上げるもので、いわずもがなのしきたりなのである。
そのしきたりを、浅野家がおこたったわけである。
とにかく江戸時代というのは、露骨に人に指図しない。
それから 「分を弁えろ」 とか 「こういうことをしなさい」 とは言わない。
それを非常に遠回しに教える。これが当時の社会のやり方なのである。
たとえば、会社で何か会議があるとする。
その時、かなり席次の下の人が、突然に会社の今後の基本方針とか、
一大営業方針をぶったら、おかしいことは自明の理だろう。
今だったら、
「きみ、ちょっと立場を考えろ」
ということになるのだろうが、昔はどうしたかというと、皆で笑うのである。
武士は笑わないという。げらげら笑うというようなことは、普段決してなかった。
その笑わない武士が 「ハッハッハッ」 と微(かす)かに笑う。
それは 「黙れ」 とうことなのである。皆でたしなめているのである。
『忠臣蔵』 はそういう時代の出来事だった。
だから、形態としてはいじめだが、私に言わせれば、あれは教育で、
しかも教育のしそこないであったと思う。
サラリーマンの世界でも、出来の悪い部下を厳しく指導すると、周りから何かいじめているように見えてくることがあるはずだ。
今子供のいじめで一番多いのは、ものを言ってくれないというのである。
これなどは、武士社会では日常茶飯事で 「何々殿」 と相手に声をかけても、知らん顔される。
それで 「何々殿、何々殿」 と声を荒らげると 「何か言われたかな」 ととぼける。
それで聞きたいことを質問すると 「あ、拙者(せっしゃ)は存ぜぬ」 で終り。
今よりもっと、つき合い方の難しい社会であったのである。
吉良邸では討入りの前日に忘年会があって酔いつぶれていたので吉良側は奮戦できなかったという説があります。
2017年12月19日に~「赤穂浪士の討入り」と「吉良邸の前日の忘年会」と題して園田英弘の文章を紹介しました。コチラです。 ↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12336496856.html?frm=theme
1月29日に 「大石内蔵助は民衆心理を読む」 と題して谷沢永一の文章を紹介しました。 コチラです。 ↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12347284019.html
2016年12月31日に 「赤穂浪士と衣料革命と三越」 と題して丸谷才一の文章を紹介しました。コチラです。 ↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12232989047.html
10月6日 朝霞市内(埼玉)にて撮影