大石内蔵助は民衆心理を読む | 人差し指のブログ

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「知ったかぶり日本史」

谷沢永一(たにざわ えいいち 1929~2011)

PHP研究所 2005年2月発行・より

 
 
 
世は元禄である。
幕初以来、文化の進展は著(いちじる)しい。
民衆は自分の考えを持ち大公儀に批判的である。
 
 
特に江戸の市民は成熟していた。
松の廊下の当日すでに同情が浅野家へ傾いたことを聞き及んでいる。
 
 
このままでは済まないぞ。
赤穂の連中が何かやるのではないか。
 
 
江戸ではその噂(うわさ)がしきりであることを諜報(ちょうほう)で心得ている。
その機運がじっくりと熟するのを待とう。
 
 
大石の遅延作戦は民衆対策だったのである。
 
 
情報に反応するのが即刻である現代とは違う。
世論が成熟するのにはかなり時間がかかったであろう。
 
 
もうひとつ重要な大石の作戦がある。
 
討入りの人数を調整し、
多すぎもせず少すぎもしない五十人前後にまとめた計算である。
 
 
吉良の首をとるだけが目的であれば、こんなに多くは必要ない。
 
 
それこそ安兵衛がかねて言うように五人か六人の仲間が夜中ひそかに忍びこむだけで用は済むだろう。
 
 
しかしそれでは夜盗(やとう)にすぎない。
密事(みそかごと)のようにこそこそ動いたのでは、
世に広く訴えるという目的に反する。
 
 
是非(ぜひ)とも堂々と一隊を組み、民衆の喝采(かっさい)と歓声を浴びなければならない。
 
 
元禄十五年十二月十五日朝、本所(ほんじょ)吉良邸から泉岳寺(せんがくじ)へ、四十六人が粛々(しゅくしゅく)と行進するのを、黒山の人だかりになって見守っている民衆の、その感動は四十六人という、ちょうどまとまりのよい人数であればこそである。
 
 
これが五人か六人でぼそぼそと歩いていたのではサマにならない
 
 
また、すでに夜が明けていたからこそ、人びとは飛び出して集まったのである。
 
 
私は大石が時間を怠りなく測っていたと思う。
人数といい装束といい時間といい、すべては大石の計画通りであった。
 
 
そして有難いことに、民衆は自分たちを支持してくれている。
これにて主君内匠頭への臣下の義理を果たすことができた。
 
 
赤穂浪士の武士としての意地を見せることができた。
 
 
民衆のこの興奮したどよめきが、大津波のように幕閣に届き、帰らぬこととはいえ、何程かの反省を促(うながさ)さずにはおれないであろう。
 
 
民衆は武士というものの存在を再確認するであろう。
 
 
大石良雄は、民衆の心理動向を梃子(てこ)として活用した史上最初の政治家であるかもしれない。
 
 
                                                      
 
 
 
 
 
では吉良邸のほうはどうだったのか・について2017年12月19日に
「赤穂浪士の討入り」と「吉良邸の前日の忘年会」と題して紹介しましたコチラです↓
 
 
 
 
2016年12月31日に「赤穂浪士と衣料革命と三越」と題して丸谷才一の文章を紹介しましたコチラです↓
 
 
 
 
昨年11月27日 平林寺(埼玉・新座)にて撮影