~ 東洋史学者の岡田英弘の本はよく読んでいます、
主に中国関係の本が多いのですが、先日、図書館に行くと本棚に
岡田英弘著 「忘年会」 が あったので、彼は中国の本だけではなく
忘年会の本まで著すのかと驚いて、借りて、家に帰って、 よく見ると
・・・・・・・・岡田ではなくて・・・園田でした・・・ ~
「忘年会」
園田英弘(そのだ ひでひろ 1947~)
株式会社文藝春秋 2006年11月発行・より
この 「打入り」 の結果に関しては、不可解な部分が残る。
吉良邸には、討ち入りをした人数の約三倍の手勢がいたのにもかかわらず、赤穂浪士側は死者なし。
打撲傷を受けた者が三人とされている。
これに対して、襲われた吉良側は、上野介の 「首級(しゅきゅう)」 を取られただけではなく、討死が十六人、手負いが二十一人であったという
(谷田左一『敵討と切腹』)。
この文章は、赤穂事件について書くのが目的ではないから、事件そのものの事実関係については深く詮索しない。
なぜ、このような大敗を吉良側が被ったかだけを、少し考えてみたい。
前日の十三日に、吉良邸では 「煙払(すすはら)い」 をした。
これは、江戸時代には師走の十三日に、煤払(すすはら)いという大掃除をおこなうことが恒例化されていたためだ。
この本には書かれていませんが、旧幕時代には煤払いの後に 「乱交」 があったんですよ! 知ってました ? いちばん下をみてくだい
(人差し指)
吉良邸だけが行ったのではなく、江戸城でも商家でも新年を迎える準備として煤払いが行われていたのである。
翌日、「新春を改めて待つべき加祝の意を表す」 ために、「茶事」 を催したとされている。
「茶事」 のあと、ぐっすり寝込んでいるところを、万全の準備をした赤穂浪士が、寝込みを襲う形で 「打入り」 が開始されたのである。
(略)
昭和三十一年十二月十日号の 「週刊新潮」 に、『人生劇場』 の著作で有名な尾崎士郎が 「忘年会」 という冒頭のエッセイを書いているが、そこに次のようにある。
私の少年時代、忘年会という言葉は耳あたらしい響きを持っていた。私が史上、はじめて忘年会という言葉のあることを知ったのは、
元禄十四ママ年、十二月十四日の晩、本所松坂町の吉良上野介邸に催された忘年茶会である。
(略)
私は、江戸時代の文献で 「忘年茶会」 という表現を見たことはないが、尾崎士郎の(そして、多分、吉良の町での)言い分からすると、「忘年会」 で深酒をしていた上野介の家来が、寝込みを襲われてまともに戦えずに主君の首を刎(は)ねられたということになろう。
私は、ここで尾崎士郎に賛成したいわけではない。
わざわざ、「忘年茶会」 という言葉を使わなくとも、「茶会」 は優雅に茶を立てて、ついでにお菓子をつまむぐらいで済ませるようなものではなく、
そもそも飲食を伴った一種の宴会も、多かったのである。
吉良側の惨めな敗北は、忘年会のせいではなく、多分、オーソドックスで盛会な茶会のせいだったのではないか。
「煤払いの後には乱交という風習」 があったという説を丸谷才一が書いていたのでそれを6月26日のブログで紹介しましたコチラです↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12282088400.html
6月22日 朝霞中央公園(埼玉)にて撮影・ヤマモモの実です