「徳川家が見た幕末の怪」
徳川宗英(とくがわ むねふさ 1929~)
株式会社 KADOKAWA 2014年6月発行・より
ところで、小栗忠順は安政年間に、徳川家の財産を赤城山中に埋めたといわれている。
いまだにテレビなどで取り上げられる 「徳川埋蔵金」 だ。
その額、およそ三百六十万両。
慶喜が造船所の建設を決めたとき、外国奉行の栗本鋤雲(じょううん)が 「造船所をつくるような金があるのか?」 と聞くと、小栗はニヤリと笑い、「心配無用」 と答えたという。
この伝説に取りつかれて、ずっと堀り続けりている人もいるらしいが、
いまだに発見されていない。
いったいどこに消えたのだろう? まだどこかに眠っているのだろうか?
勝海舟が残した 『解難録』 という記録には、慶応二年(1866)のこととして、こんなことが書かれている。
長州征伐以来、国費を空費し、江戸城内の金庫は皆、空だ。
ついに大坂で造幣することになり、鉱塊や職人を大坂に送ったため、
江戸の経済状態はますます悪くなった。
幕閣たちは、いざとなったら本丸の隠し金庫を開ければいいと思っている。
隠し金庫の中が空っぽだとは、よもや知るまい
それに、小栗忠順は慶喜の命を受けて、フランスに総額六百万ドルもの借金の申し込みをしている。
これは大政奉還によって実現しなかったが、三百六十万両のありかを知っている人が、借金の申し込みをしようとは思えない。
仮に新政府の手中に入ったとするならば、維新後の日本の財政はもっと楽だったろう。
やはり、「徳川埋蔵金」 は何かの誤解から生まれた伝説ではないだろうか?
1月4日に「埋蔵金はない・徳川恒考」 と題して紹介しましたコチラです↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12233932667.html
徳川宗英氏は田安徳川家、徳川恒考氏は徳川宗家です。
7月12日 朝霞中央公園(埼玉)にて撮影