「忠臣蔵とは何か」
丸谷才一(まるや さいいち 1925~2012)
株式会社講談社1984年10月発行・より
そして彼らの討入り装束の背後には、 大石慎三郎のいはゆる近世初期の衣料革命が控えてゐた。
ここからしばらくはこの歴史家の 『江戸転換期の群像』 その他によりかかつて記すことにするが、 日本の庶民衣料は戦国末から近世初期にかけて、 それまでの粗末な麻から丈夫で保温性に富む木綿に改まる。
一方、高級衣料も、 やはり近世初期、中国から上質の絹糸および絹織物が輸入され 、在来の山繭(やままゆ)系統の絹を追ひ払うことになり、 それが国民の全階層にひろがつて、 このため大量の金銀が費された。
当時、 富豪の妻たちのあひだで衣装くらべがはやつたのは、 全国民的な贅沢の、 いはば頂点の部分であつたと言へよう。
三井高利が延宝元年(1673)つまり忠臣蔵の事件の約三十年前、 江戸に越後屋といふ呉服屋を開いて(これが今日の三越のはじめ)、 「現金安値掛値なし」 の商法で巨利を博したのも、 日本人全体のさういふ嗜好を巧みにとらへたからであつた。
これは小説家の空想にすぎないけれど、 赤穂の浪士の衣装のなかには越後屋で求めたものもかなりあつたにちがひない。
光が丘公園(東京・練馬)のユリノキ 11月12日撮影