「 完本 梅干しと日本刀 日本人の知恵と独創の歴史 」
樋口清之(ひぐち きよゆき 1909~1997)
祥伝社 平成16年2月発行・より
当時、元禄(げんろく)の少し前だが、日本では大名各藩、大きな代官所、
とくに大きな豪商などは 「藩札(はんさつ)」 という名前で一括される紙幣を発行していた。
この藩札は全部、兌換券(だかんけん)、つまり現金または現米の預り証のようなものであった。
したがって、藩札を持って現金に換えに来られた場合は、即刻、交換しなければならない。
しかし、ほとんどの藩の場合は、財政が窮乏してから藩札を発行するので、現金には換えてもらえないというのが実情であった。
赤穂藩は窮乏していたわけではないが、当時の商取引きの支払いが年二回の節季(せっき)制度だったから、その中間の端境(はざかい)期には現金が不足する。
そこで、それを補うために藩札を発行していた。
そのうち、元禄14年の有名な浅野家の殿中刃傷(でんちゅうにんじょう)で 「藩お取潰(とりつぶ)し」 になった。
幕府からは榊原采女(さかきばらうねめ)という旗本などが藩を引取りにきた。
このとき、赤穂藩が彼に出した書類が残っているが、じつに緻密(ちみつ)な藩の内情が書いてある。
陣屋の面積、建坪(たてつぼ)はもちろん、城内で飼っている犬の数まで記録してある。
当時の将軍は犬公方(いぬくぼう)といわれた綱吉(つなよし)だったから、赤穂藩が犬をひじょうに大切に保護していることを知り、義士を助けようとしたというエピソードがあるくらいである。
その赤穂藩が、藩明渡(あけわた)しのとき、まず第一に何をやったかというと、義士の退職金を支給する以前に、領民に発行している赤穂藩の藩札の回収を行ったのである。
藩札はだいたい、領内だけの通用が基本だが、塩を専売する藩だから、赤穂藩札は塩流通圏全体に広がっていた。
とくに赤穂藩の塩を取扱う商人が、藩との連携を深めるために赤穂藩札をたくさん持っていて、大阪、京都で流通させていた。
その結果、赤穂藩札は信用が厚く、近畿(きんき)地方一円に出回っていた。
その藩札の回収を行うわけである。
これは大石内蔵助の良心的な行動である。
私の考えでは、大石は討入りの三ヶ月前まで討入りしようとは思っていない。
彼はあくまで浅野家再興を主張していた人物である。
したがって、大石は後のためにも、領民や町人を敵に回さない第一の手段として、経済的信用をい確保し、迷惑をかけないことを基本に、藩札の回収を行ったのだ。
大石はこれをじつに徹底的に行う。
たちまち近畿一円の藩札が赤穂に集まって、すべて換金されてしまったのである。
今日、換金されなかったために残った赤穂藩札はわずかに二枚しかない。
一枚は赤穂の華岳(かがく)寺に、もう一枚は日本銀行に保存されている。
これはたいへん、珍しいできごとである。
他藩の藩札などは何万枚も残っているし、幕末、藩が解体したとき、維新をいい口実に、全部、不換紙幣、紙クズにしてしまったというのが実情である。
赤穂藩の場合は、動機はどうであれ、藩札を徹底的に回収することで、民衆や町人の信頼に対して信をもって返したのである。
「 忠臣蔵と日本の仇討ち 」
池波正太郎 他
中央公論新社 1999年3月発行・より
~ 大石内蔵助の真意 藤沢周平(ふじさわ・しゅうへい) ~
江戸城中で、浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷におよんだのが、元禄十四年三月十四日。
事件を知らせる第一の急使が赤穂に到着したのが三月十九日の夜明けであった。
つづいて同じ日の夜になって、第二の使者が着いた。
第一の使者、早水藤左衛門と萱野三平が携行してきたのは、内匠頭の弟浅野大学の手紙で、大石内蔵助・大野九郎兵衛両家老あてのものだった。
中身は、内匠頭が吉良を刃傷したこと、家中、城下騒動しないようにということ、および藩札の引き替えをうまくやるように、というものだった。
奈良・氷室神社の蓮の花 6月8日撮影