秀吉と利休の関係   | 人差し指のブログ

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「 脱亜入洋のすすめ      山崎正和対談集 」

山崎正和 (やまざき まさかず 1934~)

株式会社 ティビーエス・ブリタニカ 1995年6月発行・より

 

 

~利休がめざし、挫折したもの 会田雄次あいだ ゆうじ 1916~1997)~

 

 

 

崎 これは野上弥生子さんの 『秀吉と利休』 に異を唱えることになり

    ますが、要するに実の世界と虚の世界というか、力の世界と美の世

    界が正面衝突し、美の世界に殉じた人間が利休であり、秀吉がそ

    れを殺したというふうな見方は、いささか浅薄でしょうね。

 

 

     政治というもの自体が、もともと実と虚で成り立っているわけです

    からね。

 

 

    さっきも申し上げたように、実だけでは天下は取れますが、維持は

    できないんですね。

 

 

    なんらかの意味で権威づけが必要です。

    いろんな技術を使って精神的権威であろうとしていますよね。

 

 

会田 それは、現代でもまったく同じことですね。

 

 

山崎 一方、美の世界というのも、本来的に人を呪縛しようという衝動をも

    っているわけです。

 

 

    自分のつくったものを人に見せて感心させよう、うっとりさせよう、あ

    る意味で人の感受性を支配しようという潜在的なものをもっている。

 

 

    ですから、これはある意味で政治なんです。

 

 

    秀吉と利休は同質であって、お互いに妬(ねた)み合ったり、しかも

    お互いに相手を必要とし合ったりする。

 

 

会田 大変微妙な関係になるわけですよね。

 

 

山崎 現に利休流の茶というものは、秀吉の権力があってこそ広がった

    わけですね。

 

 

    これは芸術の呪縛力に政治の呪縛力がうまく重なったという感じで

    すね、ところが、秀吉の側からみると、自分の力で得たものは、晩年

    になってくると永遠のものではないという感じがしてきますよね。

 

 

    いったい自分は何をやったんだろうと。

 

 

会田 同感ですね。その寂しさから権力者というものは自分の権威や事業

    というものをなんとか永遠に続かせようと望むわけですね。

 

 

    そしてなによりも、跡継ぎとなる子どもがほしくなる。

 

 

山崎 秀吉には、気の毒になかなか子どもができませんでしたからね。

 

 

    そんなときに、虚の美の世界にいる利休を秀吉は妬ましく思った

    かもしれませんね。

 

 

    利休の流儀や彼が目利きした茶器などは、永遠性があるように

    みえますからね。

 

 

     利休が切腹を命じられた時期と秀吉の前の子ども、鶴松が死んだ

    時期は、ほぼ重なっています。

 

 

会田 それに権力者は、自分がつくりあげた城郭だとか屋敷だとか芸術品

    だとかを自己の権威権力のシンボルとして永遠に残したいと思う

    わけでしょう。

    ヨーロッパ人もみんなそうですね。

 

 

    もちろん、自分じゃつくれないわけですから、最高の芸術家を呼んで

    つくらせるわけですけれど。

 

 

    秀吉も同じだと思います。

    大坂城や聚楽第(じゅらくだい)がそうです。

 

 

    お茶でも、自分のつくった型というものを永遠の存在として残すこと

    を望んだと思います。

 

 

山崎 利休にそれをやらせたかったんですね。

 

 

会田 絢爛(けんらん)豪華たるお茶ですね。

    つまり、富と権威とカネをそのまま誇示できる。

 

 

    ところが利休のほうは、秀吉に対する対抗意識があったと思いま

    す。

 

 

山崎 あったでしょうね。

 

 

会田 でも、悲しいかな利休には正面から秀吉に対抗する実力はありませ

    ん。

 

 

    スケールの大きさ、絢爛豪華さでは太刀打ちできません。

 

 

    しかし、佗茶の世界であれば、おれも対抗できると思ったのでは

    ないでしょうか。

 

 

山崎 私の見方は少し違うんです。

 

    佗茶というもの自体が、もともと利休の言葉によれば 「藁屋(わらや)

    に名馬をつなぎたるがごとし」 なんですね。

 

 

    村田珠光の言葉だといわれているんですが、「月も雲間のなきは

    いやにて候」 ともいう。

 

 

    つまりもとに絢爛豪華なもの、月なり名馬なりというものがあって、

    その名馬のために質素な藁屋を立てる、あるいは月に雲をかけると

    いうところが、詫びの本質だと思うんですよ。

 

 

    だから珠光は 「和漢の境いをまぎらわせよ」 といった。

    「詫びすぎたるはいや」 だといってるわけですよね。

 

 

    ですから利休自身にも、秀吉の豪華さというものが決して不必要

    だったとは思いません。

 

 

会田 そうそう、たしかに必要ではあったでしょうね。

 

 

山崎 対抗はしながら相手が必要だ。

 

    つまり大坂城内に金の茶室をつくったのが秀吉で、田舎家のような

    茶室をつくったのが利休だというのは、俗説だと思います。

 

    金の茶室も利休がつくったんじゃないかと思うんです。

 

 

会田 それは賛成。大徳寺の山門を豪華絢爛につくったでしょう。

    利休は二つ好みがあったと思うんですよ。

 

 

山崎 そうです。秀吉と利休はほとんど同じなんだけれども、そのなかで非

    常に微妙な歪みをもっていますね。

 

    ですから利休と秀吉の関係について、私はふとこういうことを思うん

    です。

 

 

    『手錠のままの脱獄』 という映画で、白人と黒人の犯人が片手錠を

    かけられて、二人つながれたまま逃げていくんですね。

 

    お互い憎み合っているけど、手錠でつながれていますから助け合わ

    ないと逃げられないんです。

 

 

    その関係に似ているという気がするんですね。

 

                           『プレジデント』 89年9月号

 

 

 

 

 

                         1月5日 奈良市内にて撮影