古い系図を見てゾッとする  | 人差し指のブログ

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「 戦国乱世 対談 」

海音寺潮五郎 (かいおんじ ちょうごろう 小説家 1901~1977)

桑田忠親 (くわた ただちか 歴史学者 1902~1987 )

株式会社 角川書店 昭和51年4月発行・より

 

 

 

 

 桑田  ところで、いわゆる戦国時代に生きていた人間の人生観といい

      ますか、処世観といいますか、人生をどういうふうに考えていた

      か、それと世渡り術です。

 

 

      そういうものは、どうだったんでしょうか。

 

 

海音寺 ああいう戦争から戦中に明けくれるような時代ね。

 

 

      ぼくは、古い系図を薩摩で見たことがあります。

 

 

      ぼくの家の系図じゃないけれども、それを見たら、五代ぐらい

      全部戦死ですよ。

 

 

      日州何々において戦死、どこどこにおいて戦死、五代ぐらいずっ

      と戦死が続いている。

 

 

      あれを見て、ぼくはゾッとしました。

      こんな時代もあったのかいなあ と思いましたよ。

 

 

 桑田  ぼくも、東京大学の史料編纂所に勤めていましたときに、島津家

      の家臣系譜かなんか見たことがあります。

 

 

      それまでは伊集院にしても、伊地知にしても、樺山にしても、

      戦国時代の人物としては、それぞれ二、三人ぐらいしか知らなか

      った。

 

 

      ところが、それを見ると、無数に出てきます。

 

 

      島津家のことですから、九州陣、朝鮮両度の役、それから関ヶ

      原、そういうところでみな戦死していますが、年ごろはたいてい

      十七、八歳です。

 

 

      樺山だけれども、三十人くらいダーッと並んでいる。

 

 

      それを見ると、生き延びたのは、百人に一人ぐらいじゃないかと、

      思ったわけです。

 

 

      つまり、歴史の表面には出てこない無名の青年が、無数に死ん

      でいる。

 

 

      さすがに女はいませんが、あれを見て、ぼくもゾッとしました。

 

 

海音寺 それでね、勇ましくなければ、男として一人前として考えられない

      時代ですから、みんな勇ましくしようと心がけたでしょうけれども、

      戦争はきらいな人が多かったらしい。

 

 

 桑田  薩摩武士でもそうですか。 (海音寺は薩摩出身)

 

 

海音寺 いや、先日ちょっと読んだものに 森武蔵守。

 

 

 桑田  鬼武蔵、森長可(ながよし)のことですか。

 

 

海音寺 あれが小牧合戦に出ていくときの遺言状を見ましたけれども、

      おれが死んだら侍(さむらい)はやめろと書いてあるんだ。

 

 

      それで息子がいなかったらしくて、弟が跡継ぎになっているんで

      すよ。

 

 

      これには大名にはなるな、妻は池田家から来た人だから、池田

      家に送り帰せ、娘は京都あたりの町人に縁づけろ、医者がよか

      ろうと書いて あるんだ。(笑)

 

 

      鬼武蔵といわれたほどの武将でも、戦争というのはいやだったら

      しいですね。

 

 

      それはそうでしょう。

      戦場に出ていれば明けても暮れても死と直面している。

      これは いやですよ。

 

 

      われわれも、この戦争中 いやでしたものね。

 

      ほんとうに空襲というと、身の毛もよだつ感じがしたもの。

 

 

 

~ ウィキペディアより [森長可~小牧・長久手の戦い] ~

 

天正12年(1584年)、羽柴秀吉と織田信雄との間で軍事的な緊張が高まり戦が不可避となった際には、岳父である池田恒興と共に秀吉方に付いた。

(略)

後に膠着状態の戦況を打破すべく羽柴秀次を総大将とした三河国中入り部隊に第2陣の総大将として参加。

この戦に際して長可は鎧の上に白装束を羽織った姿で出馬し不退転の覚悟で望んだ。

徳川家康の本拠岡崎城を攻略するべく出陣し、道中で撹乱の為に別働隊を派遣して一色城長湫城に放火して回った。

その後、岐阜根より南下して岩崎城の戦いで池田軍に横合いから加勢し丹羽氏重を討つと、手薄な北西部の破所から岩崎城に乱入し、城内を守る加藤景常も討ち取った。

しかしながら中入り部隊を叩くべく家康も動いており、既に総大将である秀次も徳川軍別働隊によって敗走させられ、その別働隊は第3陣の堀秀政らが破ったものの、その間に家康の本隊が2陣と3陣の間に割り込むように布陣しており池田隊と森隊は先行したまま取り残された形となっていた。

もはや決戦は不可避となり長可は池田隊と合流して徳川軍との決戦に及び、奮戦するも鉄砲で眉間を撃ち抜かれ即死した。享年27

 

 

 

 

                        1月4日 奈良公園にて撮影