「 歴史からの発想 停滞と拘束からいかに脱するか 」
堺屋太一 (さかいや たいち 1935~2019)
日本経済新聞出版社 2009年1月発行・より
応仁の乱以来、室町幕府の権威と実力は消滅し、世の体制は崩壊した。
(略)
その上、この頃は著しい経済成長と技術革新の時代でもあった。
新しい技術と農作物が日本に流入し、農業形態と社会環境を急変させつつあったのである。
まず、新種の農作物としては綿と菜種が入ってきた。
養蚕(ようさん)技術も流入した。
これらの新種作物は、それまで農耕に適さないとされていた乾いた堅い土地にも育ったから、各地の農業生産力は飛躍的にはね上がった。
土木技術も急速に進んだ。
特に水利技術が進み、河川堤防や排水路の建設が大規模に行われた。
この結果、湿地帯が良田に変った。
さらにこの技術は鉱山開発にも利用された。
加えて新製錬技術(せいれんぎじゅつ)が明(みん)国からもたらされ、金・銀・銅・鉄の生産も大増大した。
航海術も進歩した。
最初は明の、のちには南蛮のそれがもたらされた。
指南魚(羅針盤らしんばん)を使った遠洋航海が行われるようになった。
そして何よりも貨幣経済が普及した。
新種の農産物の出現は商業生産を促したし、金・銀などの増大は貨幣量を拡大した。
土木・水利の発達は内陸の水路を開き、航海術の発達と相まって物資と人の移動を容易にした。
これらのことが、経済を成長させたことはいうまでもない。
十五世紀末から太閤検地(たいこうけんち)が行われる十六世紀末までの
約一世紀の間に、日本の農耕地面積はほぼ倍増し、国民総生産は三倍になったと見られている。
おそらく、明治維新以前において、これほど急速な経済成長を見た時代はほかにはあるまい。
1月4日 奈良公園にて撮影