宮廷文化と遊女  | 人差し指のブログ

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「 久保田淳座談集 心あひの風 いま、古典を読む 」

久保田淳 (1933~国文学者) 他

有限会社 笠間書院 2004年2月発行・より

 

 

 ~  丸谷才一(作家1925~2012) * 宮のうた、里のうた  ~  

 

 

 

 

丸谷  遊女が出入りしなくなってから宮廷文化は駄目になった。

 

 

     天皇が和歌が下手になったのは遊女が出入りしなくなってからで

     すよ。

 

 

      これは面白い現象だと思うんですけど、日本の王様というもの

     は、非常に エロティックな存在なんですね。

 

 

     そのエロティックな存在であるってことを最もよく示すものは、一夫

     多妻制と、遊女の出入りが自由であるということ、それから恋歌

     と、この三つともなくなったわけですよ。

 

 

     だから、天皇制は本当に変ったんだな。

 

 

     教育勅語を出す都合上、その三つはやめるしかなかったわけで

     す。

 

 

     薩摩長州の武士たちが、天皇を自分のものにしたわけでしょう。

 

 

     すると薩摩長州の武士たちの趣味に合わせた天皇をつくったわけ

     ですよ。

 

 

     それは在来の天皇とは全く違うものだった。

 

 

     辺土の趣味に合わせた天皇だったわけでね。

 

 

久保田 鄙(ひな)の天皇。

 

 

丸谷  そうそう、鄙の天皇なんだな。

 

 

     あのときに僕は国体は変ったと思うんだけどなあ。

 

 

久保田 またちょっと後鳥羽院に戻りますけど、その後宮関係を調べてる

     と、白拍子(しらびょうし)(男装で歌舞を演じた女の芸能者)出身という

     のが多い。

     結構いるんです。

 

 

丸谷  ええ、多いですよ。

 

 

久保田 堂々と、『本朝皇胤紹運(こういんじょううん)録』 っていう天皇家の

      系図に載ってる。

 

 

     これはやっぱり歴代の天皇のなかで異色ですよ。

 

 

     誰でも一度や二度、召したことはあると思うけど、系図には載らな

     い。

 

 

     ところが後鳥羽院の場合は、皇子が記載されたときに”その母は

     白拍子石とかなびき”とか、いろんなのが出てくる (笑)。

 

 

丸谷  そうそう。

 

 

久保田 そういうことを考えても、白拍子や遊女、傀儡と皇室っていうのは

     非常に交流している。

 

 

     ということは里のうたと宮のうたとはしょっちゅう交流してたという

           ことになると思うんですね。

 

 

丸谷   それがむしろ日本の天皇家のエロティックな存在を非常によく示

      すもんだと思う。

 

 

       つまり高度にエロティックは存在で、呪術的な存在で・・・・・。

 

 

久保田  呪術ってのはエロティックですよね。

 

 

丸谷   そうなんです。

 

 

      先日、東大の前野直彬先生にお目にかかったときに伺ったら、

      中国の天子というものは日本の天子に比べて官僚のトップという

      感じがはるかに強い、とおっしゃった。

 

 

      これを逆に言うと、日本の天子は中国の天子に比べて、呪術的

      な、エロティックな性格がずっと強いと思うんです。

 

 

      ですから、楊貴妃のような人が現れても、日本の天子なら、皇位

      を失うことに決してならないと思うな、玄宗さんはつまり官僚の

      トップだから、”色に耽ったばっかりに”(笑) 皇位を失うわけです

      よ。

 

 

久保田 なるほどね。

 

 

丸谷   中国ではエロティックであってはいけないんですよ。

 

 

      ところが日本の天皇だったらいくらエロティックでもかまわない。

 

 

      むしろそれが天皇としての職務に非常に忠実なことである。

 

 

      みんな天子を真似て色にはげめ、色にはげめば国中が平和で

      あって、五穀豊穣であって非常にいい。

 

 

      そういうものなんじゃないかしら、日本の古代の考え方というの

      は。

 

 

       そこのところが日本の天皇と和歌との関係の、基本的な関係だ

       と思うんですよ。

 

 

      ところがわれわれは明治維新以後の教育勅語的天皇がどうして

      も頭にあるから、その性格を見失ってしまいがちになる。

 

 

久保田 明治維新以後は、上方風から関東風に変るわけですね。

 

 

 

 

 

 

                 1月2日 奈良・東大寺大仏殿付近にて撮影