なぜ吃音の症状が治るか | ひろせカウンセリング若手ブログ

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吃音自助グループ廣瀬カウンセリング東京教室の、若手メンバーによるブログです。

こんばんは。今日は廣瀬カウンセリングにおいて、私がまだうまく説明できていないことについて書きます。

それはなぜ吃音の症状が治るか、です。

廣瀬カウンセリングに参加していると、吃音の症状が治っていきます。これは驚くべきことですが、程度の差はあれ、本当に治っていきます。

ただ、人によって速度に差があります。年単位で時間がかかる場合もあります。それを許容してもらえれば、どんな人であっても基本的に症状は改善します。

治らないケース①は、その前にドロップアウトしてしまう場合です。途中でやめてしまう人は、ほとんどの場合、はじめの数回で来なくなります。これは、その人の求めているスピードや方法論と、カウンセリングという療法が噛み合わなかったということで、ある意味仕方ない。もちろん、いつまた来てもいいように門戸は開いています。

治らないケース②は、これは廣瀬先生の本にも出てきますが統合失調症などの精神病である場合です。カウンセリングは、頭脳よりも「心」に働きかけるものですから、その心の部分が機能していないと治すことはできません。ただ、私の見たところでは、精神病にもいろんな人がいて、無理な人となんとかなるタイプの人がいるように思います。

では、なぜ治るかについてです。

これは論理的に説明するのがものすごく難しい。

廣瀬先生は「自然治癒力」という言葉で説明していて、ご本人はそれで完全に納得されていました。

ところが、私などがテキストを読むと、途中からいきなり自然治癒力という言葉が出てきて、それで治るんだという説明をされると、論理がそこでいきなりジャンプするような印象を受けます。

しかも「自然治癒力」なるものは、最後までいったいどういうものなのか説明されないまま終わるのです。

これは「科学」としては成立していません。「自然科学」としてはもちろんのこと、「社会科学」としても論理的に通用する構造になっていません。

しかし、不思議なことに吃音は確かに治るのです。これがすごいところです。

体系としてあまりきちんとした整理はされていないものの、その方法をとっていると確かに吃音の症状が治る、という一手法を確立したところに、廣瀬先生の偉さがあると思います。

私が廣瀬カウンセリングに来た理由の一つは、HPや本に「治った」と明記してあったからです。他の療法や医療機関では「治る」という言葉にかなり慎重で、「治ります」とはまず書いてありません。
(書いてあるとすれば、よほど胡散臭い情報商材くらいです)

ところが廣瀬カウンセリングのHPにはわりあい普通に「治った」という言葉が並んでいました。

私は、いわゆる民間療法などで医学的には解明されていないが疾病が治ることがあることを知っており、廣瀬カウンセリングにもそういった「何か」があるのだろうと思い、門をたたきました。

実際に我々は、吃音の症状が劇的に改善し、まったく吃音が苦にならないというか、吃音であったことを忘れてしまったような人を、廣瀬カウンセリングの修了生に少なからず知っています。

私自身も、ここ数年に入会された方からするとあまり吃っていない印象しかないので、入会当初のことを知っている人に「証言」してもらうと、「そんなに吃りがひどかったのか」と驚かれることがあります。

いくら論理的に整合していないとはいえ、ここまで治るというのはとてつもなくすごい。

吃音の心理面の改善(吃音を心の苦にするか等)については、既に様々な研究があり、それらを用いることでうまく説明することができます。

しかし、症状面の改善を説明するのはかなり難しい。

吃音の人の多くは、吃音の症状を「練習」だとか「訓練」だとか「場慣れ」だとかによって解決しようとしますが、なぜそういう方法がとられるかというと、論理的に納得しやすいからです。

そこへ行くと、「吃音の症状が生じたときに、自分にとって何が刺激で何が反応だったか感じてください」などという廣瀬カウンセリングの方法は、実に分かり難い。

これを何とかうまく普通の人でも論理的に納得できるような形で説明できないか、数年前から苦慮してきました。

しかし、誰にも分かりやすい論理というのはなかなか思い浮かびません。

内部的には、参加している方が日々改善していく姿が見られるので、それが何よりも強力な証拠になり、どんなに論理的に飛躍していようと説得力を持たせることができます。しかし、対外的には言葉で説明するしかないので、「分かりやすく納得できる論理」というのが極めて重要になります。

認知行動療法がこれだけ興隆したのは、論理が分かりやすく、検証もしやすかったからでしょうね。逆にロジャーズ流のカウンセリングが心理療法の第一線から後退したのは、そこに論理的な展開が無かったからでしょうね。ロジャーズのカウンセリングはいくつかの基本的な原則があるだけなので、あるレベルまで行くとそこから先はカウンセラーの「境地」の問題になってしまい、科学的に議論できるものではなくなります。

2年前に吃音・流暢性学会で発表するために論文を書いたときには、廣瀬カウンセリング本体の論理構造がうまく説明できないので、フォーカシングなどの既に地位を確立した他の療法に当てはめることによって傍証する、というような書きぶりにせざるを得ませんでした。

廣瀬カウンセリングの体系の再構成は、私にとって廣瀬先生からの「宿題」のようなものになっています。なんとかこれを解いて、世間の人に分かりやすい形で提供したいものです。