どうもご無沙汰しております。
しばらくブログを書けていませんでしたが、今日は久しぶりに書きます。
最近ふと思うのは、今の自分は吃音なのかということです。
私はかなり吃音が治ってしまっていて、普段の生活で吃音が苦になることはありません。
自己紹介とか、自分の名前を言うとか、そういう場面ではまだ吃音のことが意識に登ってきますが、だからといってその場面を避けることはありません。
その場面で時たま吃ることもありますが、まったく気にしていません。
こうなってくると、自分は吃音者であるという意識がどんどん薄れてきて、感覚的にはもはや自分を吃音者とは思ってない、という状態になります。
別の見方をすると、そもそも吃音が意識に登ることが殆どないので、吃音者かそうでないかという問題意識自体が無くなった、ともいえると思います。
吃音の苦しみは、発話を吃音とそうでないものに分けて、自分の話し方がだめだと思うことから始まります。
吃音者の話にはいろんなバリエーションがありますが、還元すると「自分が吃るのが苦しい」ということに集約されます。
なぜ苦しいかというと、吃りをなにか否定的なものだと捉えているからですね。
だからその捉え方(認知)を変えれば、仮に吃音の症状はそのままでも、吃音の苦しみは無くなります。
話が少し脱線しましたが、こんな状態になった今、ふと自分はいったい吃音者なのかと思うときがあります。
自分の自覚としては、吃音をもはや苦にしていないし、ほとんど吃らないので、主観的な感覚としては吃音者ではない。
より厳密にいうと、そもそも吃音ということがほぼ意識に登らないので、「私は吃音者ではない」とも思ってません。ただ普通に生きてるだけ。
しかし、一方ではまだ吃ることはあるので、そこに着目すれば吃音者である。
これは一体どっちなのでしょう。
まあどっちでもいいのかもしれませんね。
そもそも、どっちかに分ける、という発想がよくないのかもしれない。
今のように、吃音のことをもはや考えない、忘却の彼方に去りつつある、というのが私にとっての吃音の克服であるのかもしれません。