子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -14ページ目

あなたは、医者から「すぐに手術をしないとガンが転移してしまい手遅れになる」、といわれたらどうしますか?

 

ガンであるかどうかは、細胞診断や病理診断など検診で見つかります。しかし、このガンであるかどうかの診断は、診断医によってばらつきがあります。

 

ある人は乳がんと診断されました。マンモグラフィーや超音波検査、細胞診断などをおこないましたが、その診断医が下した結論が乳がんであるというものでした。

 

しかし、他のガン研究病院にセカンドオピニオンとして検査してもらうと、良性であるという診断結果でした。

 

グレーゾーンで判断が難しい症例ならわかりますが、明らかに違いがわかるような場合でも、残念ながら誤診がおきてしまっています。

 

また、誤診した担当医に検査の経緯を報告しても、「誤診したのは自分ではない。診断医が誤診したのだ」、といって全く反省をしない医者もいます。

 

ガンであるかどうかを判断するのは、細胞診や組織診の診断医なので、患者さんの担当医は、診断医の判断をそのまま鵜呑みにして患者さんに伝えているだけの場合が多いのです。

 

これでは、一体だれを信じてよいのかわからなくなってしまいます。

 

大きな病院では、細胞診断や病理診断を自前で行いますが、地方の中小の病院では、外部の業者に委託して診断してもらうので、患者さんが誤診した診断医と直接確認をとることが難しいです。

 

では、どのようなところで治療を受けたらよいのでしょうか?

 

「手術の症例数と手術の成績や安全性は相関する」と世界的に言われています。

 

手術をたくさん行っている病院では、それだけ経験値も上がり、安全性も高くなるということです。

 

このようなことはどの業界でもいえることでしょうが、医療もその例外ではないということです。

 

しかし、日本の多くの大学病院ではこの症例数を公表することに消極的です。

 

これは、大学病院での症例数が、実は意外と少ないということがばれれてしまうのが怖いからだと思います。

 

症例数が少ないということが公になると、患者の数に影響がでてきてしまうので、多くの大学病院では症例数を隠したがるのでしょう。

 

たとえば、大手の大学(国家資格)受験予備校では、どの大学(国家資格)に何人の合格者を出したかということを積極的に公表しています。

 

その数が多ければ多いほど、予備校の評価になりますし、生徒数に影響を与えるからです。

 

隠したがるということは、数が少ないからだということを明らかにしているようなものです。

 

また、治療を始める前に、疑問に思うことを素直に医者に聞くことがとても大事なこととなります。質問に親切に丁寧にこたえてくれる医者を探すことがとても大切です。

 

手術のリスクはないでしょうか?

手術の後遺症はどうなのでしょうか?

リンパ節を取ってしまうとどうなってしまうのでしょうか?

おなかはどのように切るのでしょうか?

いつごろ動けるようになるでしょうか?

などなど。

 

時間をかけてゆっくりと納得がいくまで質問をして話を聞きます。

 

そのような手順をふんでから治療に入ると、治療結果も比較的良い方向に向かうでしょう。

 

しかし、医者によっては、全く患者さんの質問に答えようとしない人もいます。それどころか怒り出すような医者もいます。

 

あなたは抗がん剤治療しか治る方法はないのです。

早く手術をしないと転移してしまいます。

今すぐにここにサインしなさい。

私の治療方針に不満でもあるのですか?

など。

 

患者さんを脅迫して追い詰めていくような医者からは離れたほうがよいでしょう。

 

実際、米国在住の知人で乳がんになった人がいますが、手術して胸を切り取った際に、リンパ節の細胞を取り病理検査しました。その検査結果、リンパ節にも小さなガンが見つかりました。

 

6週間以内に抗がん剤治療をしないと、転移が進行するのでここにサインしなさい、と医者から一方的にしかも高圧的に言われました。

 

急にそんなことを言われても判断に困るから、他の医者の意見も聞きたい(セカンドオピニオン)というと、それは良いといわれました。

 

しかし、6週間以内に抗がん剤治療をしなければならない、という脅迫観念が植え付けられてしまった上に、次の予約をとるのに3週間以上も待たされてしまったため、時間的余裕が無く、結局、その医者の言われるまま、その方は抗がん剤治療を受けることとなりました。

 

脅迫観念を植え付け、さらに時間的に追い詰めていって、患者さんに考える余裕を与えない医者。これは医者の戦略なのでしょうか?

 

たとえば、早期発見された大腸がんの方がいます。病理検査をした結果、ガンの深さが粘膜の下(sm)まで達していたとします。

 

リンパ節の転移がない可能性は80%、ある可能性は20%。

 

この場合、多くの外科医は手術をして大腸を切り取り、リンパ節も取ることを進めます。(郭清)

 

しかし、手術の結果、リンパ節への転移が無く、大腸にもがんがのこっていなければ、患者さんにとっては切られ損となってしまいます。

 

リンパ節に転移している可能性が20%。この場合、切るべきか、切らないべきか、の判断は、患者さんの価値観によって異なってきます。

 

年齢や家族構成によってもかわってくるでしょう。

 

このような場合、あなたは医者から一方的に「あなたは手術する道しか方法はありません」「手術しないとあなたは100%治りません」「早く手術しないと転移してしまいます」などと脅迫されてしまったらどうしますか?

 

おそらく混乱してしまうでしょう。恐怖のために歩けなくなってしまうかもしれません。思考が停止してしまって、何も考えられなくなってしまうかもしれません。

 

何しろ、あなたの命がかかっているのですから。

 

でも、あわてる必要などないのです。じっくり腰をすえていろいろな人に相談してみてあなたの考えをまとめていったらよいのです。

 

転移すると脅かす医者は避けたほうがよいです。そのような恐怖観念を植え付ける医者のいうことは、信じる必要などありません。

 

いろいろなデータをつかい、専門用語をならべて説明するかもしれませんが、ほとんどの場合、何の根拠もありません。

 

現在のがん治療に100%というものはないのですから。医者のいわれるままに治療を受けたとしても、治るか治らないかは、”やってみないとわからない”のです。それが、現代のガン治療なのです。

 

 

あなたの担当している医者に、「セカンドオピニオンを聞きにいきたいので、私の診療情報やレントゲンフィルムを提供してほしい」と素直に聞くのです。

 

本来、あなたの診療情報はあなたのものです。病院のものではありません。

遠慮する必要などないのです。

 

多くの人は、そんなことをしたら意地悪をされてしまう、と考えて遠慮して言えません。

 

多くの医者は、高圧的な態度で患者を精神的に拘束(ドクターハラスメント)

してしまっているので、患者さんは何もいえないのでしょう。

 

先程の米国の乳がんの方も、他の医者の意見を聞けなかったので、本当に6週間以内に抗がん剤治療を受けなければならなかったのかどうかわからないと言ってました。

 

精神的にも肉体的にも大きな損害をあたえてしまう抗がん剤。仕事も休みがちになり、経済的にも大きな打撃を与えてしまいます。さらに寿命にも大きな影響がでてきてしまいます。

 

抗がん剤治療を受けるか受けないかの判断は、人生の中で大きな選択です。

 

にもかかわらず、その選択は、医者からの一方的な脅迫により行われてしまっているのです。

 

あなたの疑問や質問に親身になって応じてくれる医者を探すこと。いろいろな意見を聞いてじっくりと自分の考えをまとめていくこと。医者からの脅迫観念におびえずに、あなたが納得した治療を行うことがとても大事です。

 

参考図書

「ドクターハラスメント」 土屋繁裕著 扶桑社

 

「あなたはガンです」、と宣告されたらどうしますか?

 

がん検診を受ける人は多いですが、そこでガンと診断されてしまったら一体どうすればよいのでしょうか?

 

医者の言われるまま、「お願いします」といいますか?

それとも、あなた自身で調べて考えて最善の方法をみつけようとしますか?

 

医療現場では、患者の無知をいいことに、医者や病院の都合の良い治療を進めようとします。(もちろん例外はありますが)

 

たとえば、がん細胞のある臓器を切り取る手術が行われますが、必ずしも必要最小限の臓器だけを切り取るわけではありません。

 

リンパ節手術では、周囲の組織と一緒にまとめて切り取ることをします。(郭清(かくせい))

 

組織をできるだけ大きく切り取るので(拡大手術)、もともとあった臓器の機能は低下してしまいます。

 

適切に必要な臓器だけを切り取る(適応)なら良いのですが、、切り取る必要のない臓器まで切り取ってしまい(拡大手術)、肝心のガンを残してしまうような手術を繰り返す外科医がいるのです。

 

このような手術を受けてしまった人は、手術後の比較的短い期間で命を落としていきます。

 

ガンの適正な治療は、ガンがどの程度広がっているのかを把握することと、患者さんの体力がどの程度なのかを把握することによって変わってきます。

 

ガンの広がり方も、水が地面にゆっくりとしみこんで時間をかけて地下水となるように、ガン細胞がゆっくりと周りに浸透している(浸潤(しんじゅ))のかどうかによっても変わってきます。

 

また、植物の種がばらばらとまわりに落ちるように、体の中にがん細胞がばらばらとこぼれ落ちるように広がっていっている(播種(はしゅ))のかどうかによっても変わってきます。

 

戦争に例えるならば、敵の戦力の把握(ガンの広がりの把握)と、味方の戦力の把握(患者さんの体力の把握)です。

 

敵の戦力と味方の戦力を計算して、勝てるみこみのある戦いなら戦い(手術をする)、負ける見込みが高い場合は戦わない(手術をしない)。

 

この計算を、事前にできるだけ正確に行って勝算の高い場合のみ戦う(手術をする)ようにしたほうがよいでしょう。

 

これは、医療従事者でなくてもわかります。

 

しかし、実際の医療現場では、勝算が低いにも関わらず戦いを挑む(手術をする)外科医がいます。

 

それも一部の少数派ではありません。

 

ガン手術をした後に他の臓器にがんがみつかる場合があります。(遠隔転移)

 

こうなったら、全身にがん細胞が転移している可能性が高いので、手術など一部の臓器を切り取っても(局所治療)治りません。

 

そこで、次に使われる治療が抗がん剤や放射線となります。

 

しかし、抗がん剤にしろ放射線にしろ、副作用が高いのに効果がうすいので、ガンを治すことはできません。

 

さらに、免疫力が低下してしまうため、他の病気になりやすくなり、多くの人はガン以外の病気で亡くなってしまいます。

 

抗がん剤は、生物化学兵器として戦争で使われたマスタードガスです。このような猛毒を医療現場では薬として認可されて、当たり前に使われています。

 

ガンが他の臓器に転移した、再発ガンの患者さんにも手術をする場合があります。

 

特に肝臓がんの場合はその傾向があります。なぜなら、他の臓器からの転移ではなく、最初から肝臓がんで発病した(原発性肝臓がん)患者さんに、適正な手術をする場合が少ないので、肝臓外科医はなかなか手術をする機会がありません。

 

なぜ、最初から肝臓がんになった(原発性肝臓がん)患者さんに適正な手術ができないかというと、肝硬変をともなっている場合がほとんどで、肝臓も硬くなり、その硬い肝臓を切ると多量に出血をしてしまうので、とても危険だからです。

 

手術をしたがる外科医にとっては、なんとかして適正な手術ができる患者さんを見つけたいのです。

 

そこで、肝臓に転移した患者さんをみつけると、適切な期間をおいて他にも転移がないかを十分に確認しないまま、切り取ってしまうのです。

 

ほかの臓器から肝臓に転移してきたガン(転移性肝臓がん)であれば、必ずしも肝硬変をともなっていないので、多量の出血も心配なく適正な手術と判断されるのです。

 

あなたは、別に転移性のガンでも、見つかった時点で早めに手術をして切り取ってしまえば、それでよいではないか、と思われるかもしれません。

 

でも、まだ他にも目に見えないほどの微小なガンが転移(微小転移)している可能性があるので、しばらく期間をおいて様子をみる必要があるのです。

 

早期発見といって早めに臓器を切り取った後、また転移が見つかったので切り取るとなると、患者さんにとって精神的にも肉体的にも大きな負担となってしまいます。

 

そして、この様子見の期間は、転移がみつかったと医者が患者さんに伝えないでいると、患者さんはガンの心配なく日常生活をおくることができます。

 

不安や心配をすることほど、精神的にまいってしまい、免疫力も低下してしまいます。

 

人はみな元々、自然療養力をもっているので、その自然療養力に任せて病気を治していくことがとても大事なのです。

 

遠隔転移や、播種(はしゅ)(植物の種がばらばらとまわりに落ちるように、体の中にがん細胞がばらばらとこぼれ落ちるように広がっていっている)のないガンを発見することが、がん治療の決め手といわれています。

 

まだ限られた場所にしかいないガン(局在ガン)を発見して、治療することで(局所療法)、ガンの直る確率が上がってきます。

 

局所療法は、手術が主流ですが、放射線も併用して治療していきます。

 

手術をするかどうかの判断基準は、ガンが根本的に治るかどうか、手術をすることで生命が保たれるかどうか、もともとの臓器の機能が保たれるかどうか、によって判断されていきます。

 

ガンの3大治療法の中では比較的有効であるとされる手術ですが、手術をする外科医のなかでも道徳的に問題な人がいるので、要注意です。

 

手術中に帰らぬ人のなる割合は数%といわれています。危険率は低いといえるかもしれませんが、それでも治る希望をもって手術をしたのにそのまま亡くなったとなれば、本人はもとより遺族もたまったものではありません。

 

このような事態になっても、全く反省しようとしない外科医がいるのです。

 

「少しは危険があるのだから仕方がない。」

「おれはきちんとやった。どこも失敗などしていない」

「材料が悪かった」

「イキが悪かった」

など。

 

まるで、魚をさばいているかのような言葉です。

 

たとえ手術に問題がなかったとしても、手術をすべきではなかった患者さんに無理やり手術を行ったことが問題です。

 

手術に耐えるだけの体力の無い人に無理に手術をおこなえば、結果は明らかです。そのような患者さんに手術をすすめた外科医に問題があるのです。

 

また、不必要に広い範囲で臓器を切り取ってしまう(拡大手術)外科医もいます。再発を恐れての処置ともいえますが、それだけの理由ではありません。

 

病院の経営も商売ですので、より高い保険請求ができるように治療をしていきます。

 

たとえば、胃ガンの患者さんに胃の一部だけを切り取ると保険請求額が低いので、切り取る必要ない周りのリンパ節も切り取ってしまいます。(郭清(かくせい)手術)

 

そうすることにより、より高い保険請求ができるからです。

 

ある外科医は次のように言います。

 

「患者さんは病院から生きて返せばいいんだ」と。

 

もともと病院まで歩いて通ってきたがん患者さんは、交通事故などで瀕死の重態で緊急に担ぎ込まれたわけではありません。

 

生きて家に帰るのは当然といえば当然です。

 

しかし、必要のない手術を受けることで、瀕死の重態になってしまい、そのまま帰らぬ人となる場合があるのです。

 

医学会では頻繁に学会がおこなわれます。そこではさまざまな事例が発表されます。特別に発表するようなネタのない場合、学会発表用に必要のない拡大手術が行われたりします。

 

その結果、患者さんが命の危険にさされててしまい、最悪の事態になってしまうこともあるのです。

 

また、最悪の事態にならないでも、必要のない手術を受けた患者さんの心には、大きな傷が残ってしまいます。

 

「ガンの大手術を受けるほどにガンが進行していた。また再発しないだろうか心配」、という不安と恐怖をもちながらの生活を送ることとなります。

 

不必要な拡大手術を繰り返して、それがたまたまうまくいくと、図に乗ってもっとやろうと考える外科医もいます。

 

仮に失敗して患者さんが命を落としてしまっても、もともと難しい大手術なので仕方が無い、と言い訳ができてしまいます。

 

切る必要も無い臓器をなるべく広範囲に切り取ったのに(拡大手術)、患者さんが生きていれば、外科医にとって自慢になるのです。

 

また、病院の経営にとってもそのほうが喜ばれます。

 

学会用のデータ取りやビデオ撮影のために、手術を行う外科医。病院経営のためと自身の自慢のために、なるべく広範囲に臓器を切り取ろうとする外科医。

 

これでは、患者さんはモルモットと同じです。

 

特に有名で大きな病院ほどその傾向は強いです。なぜなら、これほど有名な大病院でも、治らなかったのだから仕方が無い、と患者やその遺族の方々は思うので、病院や医者に対してうるさく文句を言わないからです。

 

ですので、有名で大きな病院ほどやりたい放題できる環境が整っているのです。

 

あなたは、それでも医者のいわれるままに「お願いします」といいますか?

 

自分の頭で考えて調べて、よりよい方法で治していったほうがよいでしょう。

あなたの命を守るのはあなた自身です。医者や病院ではありません。

 

参考図書

「がん病棟の真実」土屋繁裕著 経済界

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたは、あなたの父母や祖父母が亡くなると、もう存在していないと思っていませんか?

 

ほんとうは、肉眼でみえる世界だけが、実在しているのではないのです。

 

花を見て美しい、きれいを思う人がいます。

その一方で、花をみても何とも感じない人もいます。

その違いは何なのでしょうか?

 

芸術品はいろいろあります。陶芸や絵画、宝石類など。

 

そのようなものにとても興味があり、高価なものでもお金を出して買う人もいます。

 

そういう人は、美に対する感性が発達しているのかもしれませんし、もしかしたら見栄だけなのかもしれません。

 

また、将来の値上げを予測して、財テク目的の人もいるかもしれません。

 

芸術品に対する価値観は人それぞれですが、バラの花をみて、「わーきれい」と感じる人というのは、その人自身の「心」がきれいなのです。

 

きれいな「心」の持ち主ほど、花などをみて「わーきれい」と感じます。

 

花の美しさを感じるというのは、その人の「心」の美しさの反映であります。

 

ですから、生け花などを通して美を追求している人は、「心」をきれいに磨いているのでしょう。

 

その一方、猫が同じバラの花をみてきれいを感じるでしょうか?ねずみはどうでしょう?

 

猫やねずみが、花の前に座り込んで、じっとながめている光景をみたことがありません。

 

恐らく何も感じないのでしょう。

 

色盲の人に、この財布は青色であると説明しても、疑います。

なぜなら、その色盲の人は、青色を見たことがないからです。

 

神の存在を信じない人(心盲)もいます。なぜなら、そういう人は神をみたことがないからです。

 

人の心の反映として映し出された世界がこの世ですが、美しい心の持ち主ほど、バラの花をみて美しいと感じますし、道端に咲いているタンポポの花をみてもきれいと感じます。

 

そして、心の中に青色という色を持っていない人は、青色を認識しませんし、心の中に神の存在を否定する無神論者は、神を認識することができません。

 

夜になると月がみえます。月は、満月の時もあれば三日月のときもあります。また、太陽がのぼると見えなくなります。でも月は、三日月のときでも昼間でも、まん丸の形で存在しています。

 

人は、三日月をみて、月が欠けたと感じます。太陽が昇れば、月が隠れたと感じます。月食のときは、月が無くなったと感じます。

 

人はだれでも、いずれは寿命がきます。例外はありません。肉体がなくなると、その人はもうこの世に存在していないと感じます。

 

本当になくなってしまったのでしょうか?

 

霊の世界を信じる人は、魂は永遠に生き続けるものであると理解してますが、実際、肉眼で見えないので信じない人も多いです。

 

肉眼で見えないものは、存在していないと認識するのです。

 

本当でしょうか?

 

先程のお月様の話を思い出して下さい。月は月食になっても三日月になっても昼間でも、地球のそばにまん丸の形で存在しています。

 

このことは無神論者でも唯物論者でも、理解します。

 

それと同じように、あなたの父母や祖父祖母が亡くなって、肉眼では肉体が見えなくなっても、完全な姿で存在しているのです。

 

そしてあなたの側にいつでも寄り添っています。まるで月が、いつでも地球のそばに寄り添って周りつづけているように。

 

参考図書 「生命の実相 第2巻」 谷口雅春著 日本教文社

 

病は氣から

 

ある日、あなたは、医者から「乳がんです(または大腸がんです)」と宣告されたとします。

 

あなたは、その日から、常に乳がん(または大腸がん)のことばかり気にして生活するようになります。

 

それまでは何も気にせず、日常生活を送っていたのに、医者から病名を宣告されたときから、全く異なる生活となってしまいます。

 

意識は常に病気と診断された部位に向けられ、無意識にその部位に手を当てたりします。

 

これは、その部位に気が滞っている状態です。乳がんと診断されたら胸に氣が滞り、大腸がんと診断されたらおなかに氣が滞ります。

 

ある特定の箇所に氣が滞るとどうなるのでしょうか?

 

氣が滞り心がその部位に凝り固まっていると、病気の種を養い育てていることとなります。

 

世間には鍼灸療法というものがあります。鍼やお灸を体の特定の部位に刺したり焼いたりすることで病気を治すものです。

 

経穴といわれるつぼを刺激することで、そこにつながっている内蔵や各器官を刺激することで、病気が治ると説明されます。

 

鍼灸で病気が治るメカニズムは、物理的にいろいろと研究がされていますが、いずれにしても、病的に凝り固まっていた私たちの心を、病気の出ている部位から開放することにより、病気が治っていくのです。

 

鍼灸治療では、病気の症状のでている箇所から遠い部位に刺激します。

 

足の裏とか首筋とか、後頭部とか、たいていは患部から遠い部位に鍼を刺します。

 

また、施術者は「これで病気が治る」という強い信念をもって施術しますし、受診者も「これで病気が治る」と信じて治療を受けます。

 

この施術者の強い信念が、受診者に影響を与えているのです。物理的な理由で病気が治るのではありません。

 

施術者の「病気が治る」という強い信念で、受診者の病的な観念を取り除き、また、病気ではない遠い箇所を針灸で刺激することで、それまで患者の病気の部位に滞っていた心が自由に開放されていきます。

 

病気の箇所に滞っていた心が開放されることで、一生懸命に病気の種を養い育てていた心が自由になっていきます。

 

そして、病気の種を養い育てていた肥料(心)が、どこかへいってしまいなくなってしまうので、病気は自然に消えていってしまうのです。

 

鍼灸に限らず、どのような治療法によっても、病気というものは、気の滞りが形となってあらわれるので、気の滞りが開放されることで、病気そのものも消えてしまうのです。

 

その一方、ガン治療ではどうでしょうか?

 

一般的なガン治療法は、手術、放射線、抗がん剤となります。患者の症状にあわせて、この3つを組み合わせて治療が行われていきますが、そのどれも使っても完治する人はほとんどいません。

 

なぜでしょうか?

 

まず、大学の医学部では、ガンは治らない病気と教えられています。そのように学校で習った医者は、治療現場で「ガンは治る」と思って治療にあたっている医者はほとんどいません。

 

ガン患者が、「この治療でがんは治りますか?」と質問すると、多くの医者はこう答えます。

 

「やってみないとわからない」

 

ガンが治るかどうかは、やってみないとわからない。つまり、どの病院でも日常的に行われているガン治療というのは、治療ではなくギャンブルなのです。

 

抗がん剤は、戦争で使われた猛毒物質であるというのは一般的に知れれていますが、なぜ、そのような猛毒物質が、医薬品として許認可されるのでしょうか?

 

厚生労働省の担当責任者も、「抗がん剤ではガンは治りません」とはっきり言っています。

 

なぜ、ガンが治らないとわかっているような猛毒物質を、医療現場で当たり前のように使われているのでしょうか?

 

その答えはお金です。

 

猛毒物質(抗がん剤)を患者に投与することで、莫大な利益が病院に入りますので、ガン患者には効果がなくても、病院の経営にとっては特効薬なのです。

 

医療現場で治らないと思いながら治療している医者。そして、つらい副作用に耐えながら、もだえ苦しむ患者。

 

氣の滞りを開放することで病気は治っていくのですが、ガン治療をすることで、氣の滞りは増すばかり。

 

また、「これで治る」という信念をもって治療にあたる施術者の意識が、患者にも伝わって病気の観念が消えていくのですが、「ガンが治るかどうかやってみないとわからない」という医者の信念が患者にも伝わるので、ガンへの恐怖は増すばかり。

 

これでは治るものも治りません。

 

病は氣から。

 

氣の流れを意識して生活していくと、病気に対する世間の一般常識も変わっていきます。

 

参考図書

「生命の実相」第2巻 谷口雅春著 日本教文社

 

 

 

秀吉が朝鮮半島にむけて出兵しました。(朝鮮出兵)
これは、殿のご乱心とか老獪(年寄りのもうろく)などと言われています。
 
でも、実は、殿のご乱心でもなく、日本国を救うためにやむにやまれぬ決断だったのでした。
 
 
当時のアジア諸国はどのような状況だったのでしょうか?
 
日本以外の多くのアジア諸国は、スペインやポルトガルの植民地となっていました。
 
植民地化されていった経緯は、キリスト教宣教師たちが先遣隊として入っていったのちに軍隊が派兵されるといったパターンでした。
 
フィリピンも同じように侵略されました。
 
1591年秋、秀吉は、長崎で貿易商を行っていた原田孫七郎を、スペインに占領されたフィリピンの総督に、派遣しました。
 
原田孫七郎は秀吉からの書状とともに、浅野長吉と松浦鎮信からの書状も太守ダスマリナズに渡しました。
 
そののち、太守ダスマリナズは、スペインのフィリップ2世に報告書を送りました。
 
その書状の内容は、以下のとおりでした。
 
「城中、すべからく統一する也。これによって三韓、琉球、邦異域、塞を欺いて来亭す。
 
今や大明国を征せんと欲する。しかし、我がところに非ず。天の授くるところなり。
 
この国のごときはいまだ聴豊を通じず。
 
ゆえにまず、群卒をして、基地を打たしめんと欲するといえども、原田孫七郎商船の便をもって、時にこれに来往す。
 
故に近臣WPを紹介して曰く、某、早々、その国に至りて、備えに本朝発船の趣を説くべし。
 
然らばすなわち、解散献筒すべしとうんぬん。蚊帳を出でずして、勝を千里に決するは、故人の至言なり。
 
故に褐夫の言に聴いて而して暫く、将士に命ぜず。
 
来春、九州肥前に営すべく、時日を移さず、降幡を偃(ふ)せて来服すべし。
 
もし匍匐膝行(ほふくしっこう)遅延するにおいては、速やかに征伐を加うべきや、必せり。悔ゆるなかれ。不宣」
天正19年季秋15日
(「西班牙(スペイン)古文書を通じて見たる日本と比律賓(フィリピン)」奈良静馬 著 大日本雄弁会講談社) 
 
訳すると、来年の春に、九州の肥前に兵を集める。時を移さず、日本に朝貢するように。もし、それが遅れるならば、すぐにでも征伐する。後悔するなかれ。というような降伏を勧告するものでした。
 
朝貢とは、皇帝に対して周辺諸国(君主)が貢物を献上し、皇帝側は恩恵として返礼品をもたせて帰国させることで外交秩序を築くものです。(ウエキペディア)
 
秀吉は、当時の超大国であったフィリピンに対して、日本に貢物を献上して、臣下の礼をとることを要求したのです。
 
なぜ、秀吉はそのような行動をとったのでしょうか?
 
アジア諸国で、当時の最新鋭の武器であった鉄砲を自国で量産する国は、日本以外にありませんでした。
 
したがって、スペインやポルトガルがアジア諸国を侵略していくことは容易にできました。
 
しかし、日本だけはアジアで唯一、鉄砲を量産していた国です。しかもその鉄砲保有量は世界一でした。
 
また、日本は戦国時代でしたので、刀や鎧兜なども普及しており、戦いになれた武将が日本中にたくさんいました。
 
その現状を視察したスペインは、日本を侵略することに躊躇していました。
 
その一方で、秀吉は、スペインに占領されたフィリピンの現状を視察した、貿易商の原田孫七郎から、フィリピンを侵略すべしという進言を何度も受けていました。
 
秀吉は、その進言を受けて恫喝外交を行いました。
 
秀吉からの書簡を受け取ったフィリピンでは、秀吉が、ルソン島を1952年10月までに攻めてくると警戒していました。
 
フィリピンからは、フレー・ジュアン・コボスを使者として、原田孫七郎一行に同行させました。
 
コボスは、秀吉に服従することについてはっきりした意思を避けたため、秀吉は、原田喜右衛門をフィリピンのマニラに派遣して、つぎのような書面を太守に渡しました。
 
「この地球上、天が下に住む者はすべてわが家来なり。余に対して恭順の意を致す者は平和と安堵を得、何らの恐怖なくして住むことを得べし。
 
しかしながら、余に恭順を表せざる者に対しては、余は直に我が将卒を送りて、先ごろ朝鮮王に対して為せるが如く武力を行使すべし。
 
これ朝鮮王が余に恭順を表することを拒みたるが故にして、余はシナ王の王宮に近づき、朝鮮の旅屯まで略取し、
 
さらに城砦及びその地方を奪い、朝鮮全土を平静に帰せしめたり。」
(「西班牙(スペイン)古文書を通じて見たる日本と比律賓(フィリピン)」奈良静馬 著 大日本雄弁会講談社)
 
フランシスコ会派の宣教師であるゴンザレスたちは、原田一行の船に乗り、日本に向かいました。
 
そして、スペイン国王からの返答があるまで、人質として日本に滞在することを懇願しました。
 
この時の宣教師たちの活動の様子はどうだったのでしょうか?
 
「スペイン太守の使節は、人質の名義にて、上方に滞在し。さらに伏見において秀吉に謁したる際、彼ら専用の家屋を構えんことを願った。
 
秀吉は前田玄以をして、その地書を与えしめた。前田は諸教師に向かって、説教、および宣伝の事を禁ずる旨をつげ、旧南蛮時の敷地を与えた。
 
然るに彼らはその訓戒をも顧みず、礼拝堂一宇、密教所一宇、僧院一宇を建築し、これをノートルダム、ホルチュウンキュルと称し、
 
1594年(文禄3年)10月14日、初めてミサ教を誦し、爾後日曜日、及び祝祭日には、怠りなくおおっぴらに礼拝した」
(『近世日本国民 史豊臣氏時代. 庚篇』徳富蘇峰著)
 
日本滞在中に、フランシスコ会派の宣教師たちは、京都だけでなく大阪や長崎などで布教活動を続けていき、信者の数を大量に増やしていきました。
 
彼らは、人質とは名ばかりで日本国内の基盤つくりを目的としていたのです。
 
1596年に、フィリピン太守のダスマリナスが死去し、ドン・フランシスコ・テロ・デ・グズマンが新太守に就任。
 
新太守は、同年6月12日にメキシコに向けて船を出しましたが、東シナ海で遭難してしまい、日本の土佐(高知県)の浦戸に漂着しました。(サン・フェリーペ号事件)
 
当時の5奉行であった増田長盛が、遭難した船の取り調べをしました。そのとき、船の乗組員が地図を見せながら、スペイン国は、世界中を支配している超大国であると説明。
 
増田長盛が、一体どのようにして世界中を侵略していったのかと聞くと、次のように説明しました。
 
「スペイン国王は、まず宣教師を派遣して布教活動をおこない、地元住民をキリスト教に改宗させていく。
 
ある程度クリスチャンが増えてきたころを見計らって、軍隊をスペイン本国から送り込む。
 
派遣された軍隊と、クリスチャンに改宗した地元住民たちを使って内乱を起こさせて、その混乱のすきをついて、ねらった国の領土を侵略していく」と。
 
当時のキリスト教宣教師は、純粋に宗教の布教活動をおこなうというのではなく、軍事的に侵略していくための先遣隊という任務をもっていたのです。
 
増田長盛から報告を受けた秀吉は、フランシスコ会派のクリスチャン26人を逮捕して国外追放の処分をしました。
 
これに対して長崎を拠点として活動していたキリスト教のイエズス会派(ポルトガル人)は、26人の処分を取り消すように要求するのではなく、死刑にするように懇願しました。
 
なぜでしょうか?
 
1597年2月5日、長崎の西坂の丘にて、十字架に貼り付けにされた26人(日本人20人、フィリピンのフランシスコ会派の使者6人)は、処刑されました。(日本二十六聖人)
 
その処刑の話を、フィリピンで聞いたときの住民の様子は次のようでした。
 
「住民はこの報道を受け取って悲歎に沈むとともに、秀吉を無道者として大いに憤った。
 
サン・フィリップ号およびその積荷貨物は価格百万ペソと見積もられた。
 
フィリピンに帰った船員は、日本にいるポルトガル人(イエズス会派)は、スペイン人(フランシスコ会派)が日本から追い出されることを希望して、彼らになん等の援助も与えなかった、と憤慨して語った。
 
また、日本のイエズス会派の宣教師が彼らに対して冷淡であったことを訴えた。
 
また、ある者は、秀吉が、フランシスコ会司祭らを処刑する決心を固めた主な原因は、イエズス会(ポルトガル人)の宣教師がことさらにフランシスコ会(スペイン人)の宣教師のことを、悪しざまに伝えたためであると言った。」
(「西班牙(スペイン)古文書を通じて見たる日本と比律賓(フィリピン)」奈良静馬 著 大日本雄弁会講談社)
 
同じカトリック会ですが、イエズス会派とフランシスコ会派の宣教師は犬猿の仲だったのです。
 
(増田長盛の秀吉への報告も、イエズス会派の陰謀であるという説もあります。)
 
 
 
 
 
 

 

 

奈良時代、日本にとって大きな国難が起きましたが、その国難を命を賭けて救った人がいました。

 

称徳天皇の時代、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)という僧が、法王となって絶大な権力を振るっていました。

 

僧である道鏡は、女帝の孝謙(重祚して称徳)天皇から特別の深い愛を得て、僧籍のまま「太政大臣」となり、翌年(766年)には「法王」となりました。

 

そして、ついに自らが「天皇」となる野望を持ちました。

 

769年5月、道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と九州太宰府の主神(かんずかさ)習宜阿曽麻呂(すげのあそまろ)が、朝廷に「道鏡を天皇の位につければ天下は太平となる」というお告げ(神託)を伝えました。(道鏡事件)

 

称徳天皇は、驚きました。

 

そして、このお告げ(神託)が本当かどうか確かめるために、近江将監であった和気清麻呂公(わけのきよまろこう)を、大分県宇佐にある宇佐八幡(宇佐神宮)に派遣しました。

 

当時、和気清麻呂公(わけのきよまろこう)は37歳でした。

 

769年8月、天皇の勅使として宇佐八幡についた和気清麻呂公(わけのきよまろこう)は、禰宜(ねぎ)(祈祷する人)の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣。

 

すると、「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」と神示が示されました。

 

宇佐八幡から帰った和気清麻呂公(わけのきよまろこう)は、「道鏡を追放するべし」という神示があったことを、称徳天皇に報告しました。

 

これは、当時、絶対権力を持っていた道鏡への反逆行為であるので、死刑を覚悟の上での進言でした。

 

当時のほとんどの人は、道鏡への譲位に疑問をもっていたにも関わらず、だれも反対することはありませんでした。

 

皆、日本国の国難よりも、自分の命や地位、出世の方が大事だっったのです。

 

日本の国体は天皇を中心としたものですが、その天皇には絶対権力はなく、権威のみがありました。

 

そして、国民を大御宝(おおみたから)として、国民の繁栄を幸福を祈っていたのです。(しらす)

 

それに対して、欧州や中国大陸では、時の権力者は絶対権力を保持して、国民を奴隷として扱い搾取していました。(うしはく)

 

この日本の伝統である国体を、野心を持った道鏡によって破壊される寸前だったのです。

 

この国難に対して、たった一人で、命をかけて抗議したのが、和気清麻呂公(わけのきよまろこう)でした。

 

和気清麻呂公(わけのきよまろこう)の進言に対して怒った道鏡は、和気清麻呂公の足の筋を切断して、大隅国(鹿児島県)へ流罪にしました。

 

それでも道鏡の怒りは収まらず、大隅国(鹿児島県)へ向かう途中、和気清麻呂公(わけのきよまろこう)を暗殺するように刺客を送りました。

 

足を怪我していた和気清麻呂公は、旅の途中に宇佐八幡に立ち寄りました。

 

その途中、不思議な出来事が起きました。

 

豊前国(福岡県東部)の宇佐郡楉田村に着くと、山中から白鹿が

現れて、和気清麻呂公(わけのきよまろこう)を背中に乗せて、どこからか2百頭のいのししが現れました。

 

いのししたちは、和気清麻呂公(わけのきよまろこう)の周りを囲み、道鏡からの刺客たちから守りながら、十里(約40km)を道案内してくれたのです。(『日本後紀』巻八)

 

無事に宇佐八幡にたどり着くことができた和気清麻呂公(わけのきよまろこう)は、宇佐八幡の神殿の前でお祈りしていると、八幡神が現われて、

 

「これより西方十七里の規矩郡竹和山の山麓に温泉あり、此所に浴せばず癒る」と神示が示されました。

 

和気清麻呂公(わけのきよまろこう)は、その神示にしたがって竹和山の山麓の温泉に入ると、数日後には立って歩けるようになりました。

 

この温泉のある山を「足立山」(福岡県北九州市小倉)と呼ぶようになりました。

 

一年後の宝亀元年(770年)、称徳天皇の崩御(ほうぎょ)によって、道鏡は下野国(栃木県)の薬師寺へ左遷されました。

 

和気清麻呂公(わけのきよまろこう)は、都に呼び戻されて桓武天皇の信頼を得ながら、長岡京の造営、摂津河内両国の治水工事に当たりました。

 

延暦13年(794年)、和気清麻呂公(わけのきよまろこう)の立てた案により、都を平安京に遷都。造宮大夫として新京の建設に力を発揮しました。

 

5年後の延暦18年(799年)、和気清麻呂公(わけのきよまろこう)永眠。享年67歳でした。

 

和気清麻呂公(わけのきよまろこう)は次の言葉を残されています。

 

「我独慙天地(われひとりてんちにはず)」

(直筆の拓本は、湯川水神社に保管。)

 

世の中の人がどうあっても、自分ひとりだけは天地の澄み切った心に照らして恥じることのないように、

 

また、自粛自戒を心がけ謙虚に正しい道を歩もうという、和気清麻呂公(わけのきよまろこう)の心境を表しています。

 

出身地の岡山県和気郡和気町と、流刑地の鹿児島県霧島市牧園町にある、”和気神社”は、和気清麻呂公(わけのきよまろこう)を御祭神としてます。

 

和気清麻呂公(わけのきよまろこう)の足が治った温泉のある地(福岡県北九州市小倉)には、葛原八幡神社(湯川水神社)が作られて、和気清麻呂公(わけのきよまろこう)を御祭神にしています。

 

京都にある”護王神社”は、和気清麻呂公(わけのきよまろこう)を御祭神としており、境内には、和気清麻呂公を守った霊猪像(狛いのしし)が奉納されています。

 

この国難に立ち向かった和気清麻呂公(わけのきよまろこう)の行動と精神は、今の時代に生きる私たちに必要とされています。

 

戦前の日本人なら誰でも知っていた、和気清麻呂公(わけのきよまろこう)。

 

終戦後の占領政策により、この物語は闇に葬られてしまいました。

 

なぜでしょうか?

 

それは、戦勝国にとって、日本の国難を救う英雄が再び現れては困るからです。

 

 

 

 

中国共産党は、チベットをどのようにして支配していったのでしょうか?

 

昭和24年(1949年)10月1日、中国共産党は建国直後に、北京放送により次のような声明を発表。

 

チベットは中国の一部であり、チベット人を外国の帝国主義者より解放するためにチベット目指して人民解放軍が進軍するであろう」と。

 

そもそも、チベットは中国の一部ではなく、完全な独立国でした。それにチベットを侵略していた外国の帝国主義者というものもありませんでした。

 

この放送を聞いたチベット政府は、チベット代表団を北京に送り、中国共産党に対して次のように説明を求めました。

 

「中国の内戦中、我が国の平和は敗残兵の侵入に脅かされてかき乱されてきた。1949年9月29日にチベット外務局は毛沢東国家主席に対して、中国兵がチベット国境に侵入しないように要請したが、何も返答がなかった。

 

それどころか、北京放送を通じて、チベットは中国の一部であると宣言した。

 

ダライ・ラマ継承制度に関して、いかなる介入も受け入れるつもりはなく、チベットの独立維持の意思を中国政府に通告する」と。

 

これに対して中国共産党は、「チベットは中国の一部であることを認めよ」と迫り、交渉は決裂。

 

昭和25年(1950年)10月7日、4万人の人民解放軍が、東チベットの州都チャムドに侵略し、チベットは完敗。(Battle of Chamdo)

 

10月25日、中国共産党は、「300万のチベット人を帝国主義者からの弾圧より解放するため、人民解放軍のチベット進軍を命令した」と発表。

 

この「帝国主義者からの弾圧」とは、どこの国を指すのでしょうか?

 

人民解放軍の侵略の前に、チベットにいた西洋人はわずか6人でしたが、皆、人民解放軍のチベット侵略の前までに国外に出ていました。

 

11月7日、チベットは、国連に救済を求めて打電したが、国連は全く動きませんでした。

 

昭和26年(1951年)4月、チベット政府は、交渉のために北京に代表団を送りましたが、中国共産党は、代表団を拘束し、チベット政府との連絡する手段を断絶して隔離してしまいました。

 

チベット政府との連絡ができない中で、中国共産党は、17か条からなる協定案を、チベット代表団に提示しました。

 

これに著名しないなら軍事行動をとると、事実上の最後通牒を突きつけられたチベット代表団たちは、仕方なく著名してしまいました。

 

それまで、チベットは独立国家を維持してきました。

 

しかし、この17か条協定により、チベットは中国共産党の地方政府に格下げされてしまいました。

 

まだ15歳のダライ・ラマ法王とチベット政府は、北京放送により、チベット代表団が17か条協定に署名したことを知りました。

 

そして、人民解放軍がチベットの首都ラサに進駐し、東トルキスタンと東チベットにも進駐してきました。

 

ダライ・ラマ法王は、中国共産党と再交渉を求めましたが、中国共産党は聞く耳を持ちませんでした。

 

そればかりか、中国共産党はチベット政府に対して、人民解放軍の駐屯用地と兵士たちの食料を要求してきました。

 

決して裕福とは言えないチベット経済は、この理不尽は要求により疲弊していきました。

 

さらに、中国共産党は四川からラサまでの道路(成蔵公路)と蘭州からラサまでの道路(青蔵公路)を整備していきました。

 

これは、人民解放軍が、チベット侵略を迅速に行うためのインフラ整備でした。

 

昭和29年(1954年)、中国共産党は北京で第一回全国人民代表大会を開催し、ダライ・ラマ法王を招待しました。

 

同年7月、ダライ・ラマ法王は、北京を訪れ、毛沢東や周恩来と会談。

 

昭和31年(1956年)4月、チベット自治区準備委員会が発足。

 

人民解放軍のチベット侵略により、チベット経済の疲弊、民衆の困窮、政治介入に不満を抱いたチベット人たちは、全土で、中国共産党に対して反乱を起こしました。

 

この反乱を鎮圧するために、人民解放軍は、チベット人たちを弾圧していきました。

 

そのような中、昭和34年3月1日、人民解放軍は、ダライ・ラマ法王に対して、ラサ郊外にある中国軍司令部での観劇の誘いをしました。

 

そして、人民解放軍は、その観劇の際にチベット人の武装警備隊を同行させないことを要求。

 

これは、拉致計画があると察知したチベット市民たちが、3月10日、約3万人のチベット人が、ダライ・ラマ法王を守るために、ノルブリンカ宮殿の周りを取り囲みました。

 

3月17日夜、生命の危機を感じたダライ・ラマ法王は、中国軍の目を盗んで密かに、ノルブリンカ宮殿から脱出。

 

3月19日、中国軍は、ダライ・ラマ法王の脱出に気づかないまま、ノルブリンカ宮殿を砲撃。

 

宮殿内に残っていた僧侶や民衆はほとんど全員が殺害されてしまいました。

 

もし、この時に、ダライ・ラマ法王が脱出していなかったら、殺されていたでしょう。

 

人民解放軍が、はじめからダライ・ラマ法王の殺害を目的にしていたことが明白でした。

 

人民解放軍は宮殿の破壊に続いて、チベットの一般市民を虐殺していきました。

 

その虐殺数は、昭和37年(1962年)3月までの間に、中央チベットだけで約93、000人にのぼりました。

(「新中国軍事活動紀実(1949年 − 1959年)」鄧礼峰 著 中共党史資料出版社)

 

周恩来首相は、「西蔵(チベット)地方政府」を廃止して、中国共産党の支配下に起きました。

 

昭和34年4月29日、ダライ・ラマ14世と8万人のチベット人はインドへの亡命をして、チベット亡命政権(中央チベット政権)を樹立。

 

翌年5月に、インドのダラムサラに移りました。

 

その後、昭和37年(1962年)までにチベット寺院の99%が、人民解放軍により破壊されてしまいました。

 

また、僧侶や尼僧の99.9%が地位を剥奪されてしまいました。

 

このころから、中国共産党は、チベット人に人民服の着用を義務付けるようになりました。

 

中国共産党に反抗するチベット人に対して、人民解放軍は、過酷な弾圧を繰り広げていきました。

 

「人々のもたらした空恐ろしい話の数々は、あまりに残酷で何年も信じる気になれなかったほどだった。

 

1959年に、国際法曹家委員会が出した報告書を読み、私の耳にしたことが本当であったことをやっと受け入れたくらいだ。

 

磔(はりつけ)、生体解剖、腹を裂き内臓を暴き出す、手足の切断などざらであり、

 

打首、焙り殺し、撲殺、生き埋め、馬で引き摺り回して殺したり、逆さ吊り、手足を縛って凍った水に投げ込み殺すといった残酷さは枚挙にいとまがなかった。

 

処刑の際に「ダライ・ラマ万歳と叫べないように舌を引き抜いたりもした」

(「ダライ・ラマ自伝」ダライ・ラマ著)

 

昭和41年(1966年)、中国共産党は、中国人民へ数千万人規模の大虐殺を行いました(文化大革命)が、チベット人虐殺とチベット寺院の破壊活動は、その数年前から行われていたのです。

 

このように、中国共産党は、チベットの文化と伝統を物理的に完全に破壊して、また精神的にも破壊して中国に吸収させようとしました。

 

これは現在進行形で、今も続けられています。

 

参考図書

「チベット自由への戦い」櫻井よし子著

 

参考画像

1959年のラサ蜂起

 

 

 

 

 

昭和20年8月の終戦を迎えたとき、北朝鮮に滞在していた日本人家族。ソ連兵が突然、蜂屋さんの家にきて、スパイの疑いで逮捕すると言われました。

 

妻には、「何かの間違えだから必ず帰ってくるから、心配しなくていい」と言い残して、そのまま連行されてしまいました。

 

生まれたばかりの赤ん坊を抱えて、その奥さんは日本に引き揚げましたが、夫から、必ず帰ってくるという言葉を信じて、再婚もせずに、子供を育て上げて、なんと51年間待ち続けました。

 

平成9年、51年ぶりに日本に帰国した蜂谷 彌三郎さんは、ソ連での生活を次のように振り返りました。

 

「雲をつかむような微かな希望でしたが、生きてさえすれば必ず帰れるかもしれない、もし死んだとしても、日本人の恥になってはいけない、と心がけていました。

 

服役中は、終始一貫無実を主張しました。しかし、無実を主張すればするほど、ますます、疑惑が生まれ、執拗に取り調べを受けました。

 

KGBの厳しい取り調べに、時折日本人としての心の拠り所を失い、挫折しそうになりました。

 

そんな時は毛布を被り、小声で何回も教育勅語を唱えました。すると日本人としての気概がふつふつと蘇ってきました。

 

教育勅語と五箇条のご誓文は毎朝、毎晩唱えることにしていましたが、一日に何十回繰り返したこともあります。

 

収容所を出て以降は、日本語を話す人は誰一人いない中、日本語を忘れてしまたら、日本人で無くなると漢字の書き取りもしました。

 

今日は木編の字、次の日は言編の字、という具合に100字ずつ、書きました。

 

教育勅語と五箇条の御誓文は月に一度、必ず清書しました。

 

日本の歌もたくさん歌いました。童謡や唱歌、謡曲など覚えていた日本の歌を毎日、林の中で2時間も3時間も歌っていました。

 

そうすると辛いことがあっても心が落ち着きました。」

 

蜂谷 彌三郎さんは、決してエリートではありませんでした。ごく一般の庶民でしたが、教育勅語を空で言うことができ、筆記することができました。

 

戦前の日本人にとって、教育勅語は、それほどまでに心の強い柱となっていたのです。

 

そのような教育勅語は、どのようにして作られていったのでしょうか?

 

岩倉使節団が欧米列強に訪問しましたが、日本と比べ比較にならないほど、文明が発達している現状を目の当たりにします。

 

どうしたら、日本が、この進んだ欧米の文明国家と肩を並べることができるのか、と岩倉使節団の参加者たちは、毎日激論しました。

 

明治の新政府は、江戸時代の学校教科書を全て廃棄して、新しく教科書を作りました。それは全て、米国やイギリス、フランスなどの欧米列強の学校で使っている教科書の翻訳本でした。

 

なぜ、そのように極端に外国の翻訳本を使おうとしたのかと言うと、過去の江戸幕府の権威の破壊を行うという目的もありますし、

 

また、あまりにもかけ離れてしまった欧米列強との産業格差を早く埋めるために、その文明国の真似をして殖産工業をして行こうという考えがあったからです。

 

そして、初代文部大臣となった森 有礼(もり ありのり)らが、日本が遅れているのは、日本語を使っているからだとして、

 

日本の公用語を英語にしようと言う意見も出て(国語外国語化論)、学校教育でも英語を熱心に教えるようになりました。

 

明治天皇が、地方の生活の実態を知るために、まだ鉄道が敷かれていない時代に、日本諸国を御巡幸に回られました。

 

その際、ある小学校の授業参観をされました。そこでは英語の授業を行っていましたが、天皇陛下が、その子供に次のような質問しました。

 

「今話した英語は、日本語ではどう言う意味なの?」

 

その質問された子供は答えられませんせした。

英語を学ぶ前に日本語が理解できていないことを、陛下は心配されました。

 

また、次のように質問されました。

 

「君は将来、どのような人になりたいの?」

 

すると、質問された子供は、「田舎の百姓にはなりたくないので、東京に出て出世したい」とか

 

「親が大工をやっているが、そのような仕事に就きたくないので、知識を身につけて出世したい」といったような答えが返ってきました。

 

自分の親の仕事を軽蔑して、また、自分の生まれ育った故郷を離れ、立身出世することを目的にすることが、本当の教育であろうかという疑問が発せられました。

 

明治天皇の御巡幸に御付きで同行していた、元田 永孚(もとだ ながざね)は次のように語りました。

 

「明治維新以来、教育の趣旨定まらず、国民の方向ほとんど支離滅裂にいたらんとす」

 

このままで行ったら、日本は終わっていたかもしれません。

 

明治天皇は、教育の本末が失われていると憂いました。

 

確かに欧米列強の真似をして追いかけることは必要だけれども、本末が転倒しているのではないかと憂いていました。

 

平成13年、明治神宮鎮座80周年祭に際して、皇后陛下の御歌

「外国(とつくに)の風を招きつつ、国柱(くにはしら)太しくあれと守り給ひき」

 

これは、明治維新の後,明治天皇が広く世界の叡智に学ぶことを奨励なさると共に,日本古来の思想や習慣を重んじられ,国の基を大切にお守りになったことへの崇敬をお詠みになった御歌です。

 

第1次山縣内閣の下で文部大臣に就任した芳川は、女子高等師範学校学長の中村正直に、道徳教育に関する勅語の原案を起草させた。

 

この草案を閣議決定をするために、内閣法制局長官だった井上毅(こわし)に意見を求めました。

 

井上毅(こわし)は、「この勅語は、陛下のお言葉によるものでなければならない。このようなキリスト教色の強い、学者の書いたような文言では、誰も感激しない」と言って、中村正直の書いた草案を猛反対しました。

 

そこで、山縣は、では井上毅(こわし)が草案を書いてくれと頼み、教育勅語を作成しました。

 

教育勅語を作成した、井上毅(こわし)とはどのような人物だったのでしょうか?

 

井上毅(こわし)は鎖国論者でして、儒教ばかり勉強していましたが、このままではいけないと考えを改め、フランス後を猛勉強しました。

 

欧米列強の文明を日本に取り入れる際、日本にとってどのような副作用があるかを常に考えた。西欧文明をそのまま受け入れるのではなく、日本人にあった形で咀嚼して取り入れる事を重視しました。

 

井上毅(こわし)は、ただ横文字を縦文字に直すだけの学者を軽蔑しました。

日本の伝統風俗にあった形で直す必要があると主張しました。

 

伊藤博文とともに明治憲法の作成に取り掛かりました。そのために、国学の勉強を一から始めました。国学とは古事記、日本書紀です。

 

東京帝国大学の教授であり国学者であった、小中村 清矩(こなかむら きよのり)の婿養子の池辺 義象(いけべ よしかた)を助手として使いました。

 

古事記の中の国譲りの話で、天照大神(あまてらすおおみかみ)の使者として、建御雷神(たけみかずちのかみ)が、大国主命(おおくにぬしのみこと)に対して、出雲国を譲ってほしいと言われた。

 

その時、建御雷神(たけみかずちのかみ)が、大国主命(おおくにぬしのみこと)に次のように言いました。

 

「天照大御神の命もちての使せり。汝(な)が”領(うしは)け”る葦原の中つ国に、我(あ)が御子の”知らさむ”国と言よさしたまへり。かれ汝が心いかに。」

 

”領(うしは)け”(ウシハク)とは、中国の皇帝のような、力でその土地を支配する事であり、主人が私的に支配するという統治の形態のことをいいます。

 

シナ、ヨーロッパでは、一人の豪傑が現れて多くの土地を占領して、一つの政府を立てて、征服して支配する国家を形成します。

 

一方、”知らさむ”(しらす)とは、天皇という最高権威のもとに、民衆を「大御宝(おおみたから)」とすることにより、民衆自身が権力者からの自由を得るという統治形態を言います。

 

自分の心を鏡のようにして、自分の心を無にして、国民の現状を写す、神々の心を写す、つまり、君(皇室)と民(国民)とが一体である、君徳に基づくものであります。

 

”シラス”の国家成立の原理は君民の約束にあらずして、一つの君徳なり。国家の始まりは君徳にあり、という事であります。

 

大国主命(おおくにぬしのみこと)の統治手法は、”ウシハク”でしたので、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、”シラス”の統治手法によって国を納める事にしました。

 

天照大神は、鏡(三種の神器の一つ)を見ることで我が心を見ることとしなさい、と言いました。

 

そこに一切の私心は無い。ただひたすら国民の平安を願っている。それが天皇である。

 

井上毅(こわし)は、天皇の徳によって、日本は始まったのであるという事を、国学を学んでいくうちに理解していきました。

 

井上毅(こわし)は、明治憲法の草案の中で、その第一条に次のように書きました。

 

第一条

大日本帝国憲法は万世一系の天皇の”シラス”ところなり

 

”シラス”とは、天皇という最高権威の元で、君(天皇)と民(国民)とは一体であり、民を宝とする事で、民自身が権力者から自由を得るという統治形態を言います。

 

しかし、近代憲法を発布するにあたり、”シラス”という古語を用いるのはいかがなものかということになり、”シラス”が”統治す”という表現になりました。

 

明治憲法は、明治23年11月29日に発布されましたが、その前に、教育勅語についてまとめることになりました。

 

教育に関する勅語は、他の政治上の勅語とは異なるものである。

 

教育に関する勅語が発布されるにあたり、明治天皇から、これからこの考え方に従って生活をしていく事、と命令されるものと思われていました。

 

君主(天皇)が臣民(国民)の良心の自由に干渉せず。

 

これは政治上の命令では無い、天皇の著作広告でなければならない。

 

例えば、天皇は御歌を発表されます。これは命令ではありませんが、そこから天皇のお考えを知ることができます。

 

教育勅語は、そのようなものでなければならない、と。

 

また、教育に関する勅語を作成するにあたり、次のような条件を井上毅(こわし)自ら定めました。

 

1、この直後には天をうやまり、神を敬うという言葉を慎む事。

これを入れてしまうと、宗教宗派同士で争いが起こってしまうため。

 

1、哲学上の理論を避ける事。

このような文言を入れてしまうと、哲学者同士での争いになってしまう。

 

1、政治的なことを入れないこと。

政治上の言葉を入れてしまうと、これは天皇の言葉ではなく、山縣有朋の言葉ではないかと思われてしまうため。

 

1、見るからに儒教、明らかにキリスト教というような文章を書いてはいけない。

 

1、あれしてはいけない、これしてはいけない、というようなことを書いてはいけない。

 

1、明治天皇からのありがたいお言葉である、というような感激するような文章でなくてはならない。

 

1、長文であってはならない、凝縮された短い文章でなくてはならない。

 

1、天皇のお言葉にふさわしい文章でなくてはならない。

 

このような条件に従って、井上毅(こわし)は草案を作成し、明治天皇に御裁可を仰ぎます。

 

明治天皇は、井上毅(こわし)が作成した草案に対して、当時儒学者の権威であった元田永孚(もとだながざね)に相談します。

 

その後、井上毅(こわし)が作成した草案を元田永孚(もとだながざね)が添削し、その添削された文章を、さらに井上毅(こわし)が、再添削して、お互いに加筆訂正していきました。

 

元田永孚(もとだながざね)と井上毅(こわし)はお互いに儒学という共通思想が土台にあったとはいえ、必ずしも意見が一致していたわけではありませんでした。

 

井上毅(こわし)は元田永孚(もとだながざね)に次のような手紙を送りました。

 

「自説に固執するのは、人間の捨てがたい癖であります。固執心こそ悪魔です。ただただ国家のために考えましょう」、と。

 

元田永孚(もとだながざね)は「その通りです。」と返信します。

 

この二人がお互いを尊重しつつ、意見を出し合い、教育勅語の一字一句を精魂込めて磨いていったのです。

 

「教育に関する勅語」

 

朕(ちん)思うに、我が皇祖皇宗、國を肇(はじ)むること、宏遠(こうえん)に徳を樹(た)つること、深厚(しんこう)なり、

 

我が臣民、克(よ)く忠に、克(よ)く孝に、億兆心(こころ)を一にして、世世(よよ)その美を濟(な)せるは、

 

此(こ)れ我が國體(こくたい)の精華(せいか)にして、教育の淵源亦実(えんげんまたじつ)に此(ここ)に存(そん)す。

 

爾(なんじ)臣民父母に孝(こう)に、兄弟(けいてい)に友(いう)に夫婦相和(ふうふあいわ)し、朋友相信(ほういうあいしん)し、

 

恭倹(きょうけん)己(おの)れを持し、博愛衆に及ぼし、学を修め、業を習い、以って智能を啓発し、徳器を成就し、

 

進んで公益を廣(ひろ)め、世務(せいむ)を開き、常に國憲(こくけん)を重んじ、國法(こくほう)に遵(したが)い、

 

一旦緩急あれは、義勇公に奉し、以って天壤無窮(てんじゃうむきゅう)の皇運を扶翼(ふよく)すべし、

 

是(かく)の如(ごと)きは、獨り朕(ちん)が忠良の臣民たるのみならず、又以って爾(なんじ)祖先の遣風(いふう)を顕彰(けんしょう)するに足らん。

 

この道は實(じつ)に我が皇祖皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶(とも)に遵守すべき所、之を古今に通じて謬(あやま)らず。

 

之(これ)を中外に施して悖(もと)らず、朕(ちん)、爾(なんじ)臣民と倶(とも)に、拳々(けんけん)服膺(ふくよう)して、

 

咸(みな)其(その)徳を一(いつ)にせんことを庶幾(こいねが)う。

 

明治23年10月30日

御名(ぎょめい) 御璽(ぎょじ)

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教育勅語 口語訳

 

私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。

 

そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、

 

もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。

 

国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、

 

そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、

 

また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。

 

そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

 

このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、

 

この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、

 

私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。

 

(国民道徳協会訳文)

 

参考図書:「教育勅語の真実」伊藤哲夫著 致知出版

 

参考動画

【教育勅語】山口采希&塚本幼稚園の園児たち 「大切な宝物」

 
 
 
私は、ほとんどテレビを見ないのですが、大晦日に食事中、NHK紅白の番組が放送されていたので、少し見てしまいました。
 
そこで、番組内容を審査する部署の責任者のような人が、スーパーマンのように登場して、4人の悪をやっつけるというパフォーマンスをやっていました。
 
4人の悪には、「暴力」「差別」「圧力」「忖度」と文字でかいてありました。
 
いずれもNHKが最も嫌う言葉だそうです。
 
これを見て、「えっ!」と思ってしまいました。
 
NHk受信料の未払世帯数が全国で900万件以上もあるそうです。
 
なぜ、テレビを買ったという理由だけで、NHKを見ないのに、受信料をはらわなくてはいけないのかという、素朴な疑問があるからだと思います。
 
そのような家庭には、NHKから督促状が届きます。
 
その内容は、例えば、「いま契約していただければ、今月分の支払いからで大丈夫ですよ。もし契約しないということだと、裁判になり、テレビを設置された月から今までの分もお支払いいただくことになります。どちらがいいですか?」
 
といったように、裁判をちらつかせて脅かすようなものだそうです。
 
法律的なことはよくわかりませんが、裁判をちらつかせて脅迫するということは、「圧力」になるのでは?と思いました。
 
また、NHKは、大東亜戦争に関連するドキュメンタリー番組をときどき放送しますが、その内容は、日本軍、特に日本陸軍の軍閥に対して誹謗中傷するといった、お決まりのシナリオとなります。
 
これは、日本軍に対する「差別」ではないかと思います。
また、言葉や映像による「暴力」ではないかと思います。
 
かつて、日本に占領軍が駐留していたころ、昭和20年12月から昭和21年2月にかけて、NHKは「真相はこうだ」というラジオ番組を放送しました。
 
続く昭和21年2月から昭和23年1月までは、「眞相箱」「質問箱」として、放送されました。
 
この「真相はこうだ」「眞相箱」とは、占領軍の民間情報教育局 (CIE) がそのシナリオを描いたのですが、そのことを表に出さず、NHKが番組制作して放送するという形態をとりました。
 
内容は、日本軍がシナ大陸や南方戦線でいかにひどい残虐行為を行ったのかを暴露する、という構成で作られました。
 
しかし、これは真実ではなく、占領軍が、日本軍閥を誹謗中傷ことにより、日本国民に自虐史観を植え付ける、という洗脳プロパガンダ(宣伝)でした。
 
昭和27年4月28日、サンフランシスコ講和条約の発効により、占領軍が日本から去り、日本は主権を回復しましたが、いまだにNHkは、手を替え品を替えて、かつての「真相はこうだ」「眞相箱」を放送しているように思います。
 
NHkによる、日本軍閥への「差別」、言葉や映像による「暴力」、裁判をちらつかせる「圧力」には屈しないようにしたいものです。

 

 
 
 

 

 

 
 
 
 
天安門事件(六四天安門事件)では、どれほどの学生が虐殺されたのでしょうか?
 
天安門事件とは、平成元年(1989年)6月4日、北京市内にある天安門広場(Tiananmen Square)で、7週間にわたりハンガーストライキをつづけていた、無防備の学生たちに向けて、人民解放軍が出動して武力で鎮圧した事件です。
 
6月末、中国共産党は、北京市内で起きた「反革命暴動」を鎮圧し、市民200人と治安部隊数十人が死亡したと発表しました。
 
その後、死者数は数百人~1000人以上と、様々に推計されていましたが、中国共産党は、厳しい情報統制を敷いているので、事件の真相はいまだに明らかになっていませんでした。
 
2017年10月、ロンドンの英国立公文書館に保管されていた、以下の天安門事件に関する機密文書が公開となりました。
 
事件直後の6月5日、アラン・ドナルド(Alan Donald)駐中国英国大使(当時)は、極秘電文で英国政府に報告。
 
その報告には、中国人民解放軍が殺害した学生の人数は少なくとも1万人に上るとありました。
(Minimum estimate of civilian dead 10,000)
 
アラン・ドナルド大使は、「中国国務院委員を務める親しい友人から聞いた情報を伝えてきた」とし、「事実と憶測と噂を慎重に区別」した人物から入手した数字だと説明。
 
ちなみに中国国務院とは、内閣に相当 します。
 
アラン・ドナルド駐中国英国大使の極秘電文には、つぎのような報告がありました。
 
「事件の前日の6月2日、39軍が2,3日以内に天安門広場に進軍する指令を受けた」と打電。
 
「6月3日の夜、既に、天安門広場に入っていた瀋陽軍区の兵士の第1グループは、学生を一般の人から分離し、学生は1時間以内に天安門広場から退去するように案内した。
 
しかし、その5分後には山西省の第27軍の装甲兵員輸送車(APC)が学生と兵士に向けて無差別に発砲。兵士は散弾銃を乱射しました。
 
生き残った1000人の学生は、逃げ道を案内されたが、そこで待ち伏せていた兵士により機関銃による掃射を受けた。
 
装甲兵員輸送車(APC)は、瀋陽軍区(SMR)の兵士たちに追いついた。
 
学生たちは腕を組んで対抗しようとしたが、兵士たちを含めてひき殺されてしまった。
 
そして、装甲兵員輸送車(APC)は何度も何度も遺体をひき、『パイ』を作り、ブルドーザーが遺体を集めていった。
 
遺体は焼却され、ホースで排水溝に流されていった。
 
負傷した女子学生4人が命乞いをしたが、銃剣で刺されてしまった。
 
楊尚昆(よう・しょうこん)党国家主席と、友人の鄧小平最高指導者は、内戦勃発の危機が迫っている(imminent)と考えていた。
 
中国当局は、山西省の第27軍を最も信用しているので、天安門広場に第27軍を送り込んだと思われる」と。
 
事件当時、軍隊の出動を命じたのは、”改革開放”のスローガンで有名な、鄧小平最高指導者でした。
 
鄧小平最高指導者が進めた”改革開放”により、松下電器など多くの日本企業が中国に進出していきました。
 
また、欧米諸国からも積極的に外資を受け入れることにより、中国は経済発展をしてきました。
 
ところで、なぜ多くの学生たちは、天安門広場に集まったのでしょうか?
 
平成元年(1989年)4月に胡耀邦元党総書記が死亡したことがきっかけになって、民主化を求めて、天安門広場に集まってきたのです。
 
しかし、中国共産党は、学生たちの民主化を求める声を全く無視して、武力を行使して、暴力により鎮圧しました。
 
これが中国共産党の実相です。
 
参考図書
「64機密文書」香港01