奈良時代の日本の国難を救った英雄 | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

 

奈良時代、日本にとって大きな国難が起きましたが、その国難を命を賭けて救った人がいました。

 

称徳天皇の時代、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)という僧が、法王となって絶大な権力を振るっていました。

 

僧である道鏡は、女帝の孝謙(重祚して称徳)天皇から特別の深い愛を得て、僧籍のまま「太政大臣」となり、翌年(766年)には「法王」となりました。

 

そして、ついに自らが「天皇」となる野望を持ちました。

 

769年5月、道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と九州太宰府の主神(かんずかさ)習宜阿曽麻呂(すげのあそまろ)が、朝廷に「道鏡を天皇の位につければ天下は太平となる」というお告げ(神託)を伝えました。(道鏡事件)

 

称徳天皇は、驚きました。

 

そして、このお告げ(神託)が本当かどうか確かめるために、近江将監であった和気清麻呂公(わけのきよまろこう)を、大分県宇佐にある宇佐八幡(宇佐神宮)に派遣しました。

 

当時、和気清麻呂公(わけのきよまろこう)は37歳でした。

 

769年8月、天皇の勅使として宇佐八幡についた和気清麻呂公(わけのきよまろこう)は、禰宜(ねぎ)(祈祷する人)の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣。

 

すると、「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」と神示が示されました。

 

宇佐八幡から帰った和気清麻呂公(わけのきよまろこう)は、「道鏡を追放するべし」という神示があったことを、称徳天皇に報告しました。

 

これは、当時、絶対権力を持っていた道鏡への反逆行為であるので、死刑を覚悟の上での進言でした。

 

当時のほとんどの人は、道鏡への譲位に疑問をもっていたにも関わらず、だれも反対することはありませんでした。

 

皆、日本国の国難よりも、自分の命や地位、出世の方が大事だっったのです。

 

日本の国体は天皇を中心としたものですが、その天皇には絶対権力はなく、権威のみがありました。

 

そして、国民を大御宝(おおみたから)として、国民の繁栄を幸福を祈っていたのです。(しらす)

 

それに対して、欧州や中国大陸では、時の権力者は絶対権力を保持して、国民を奴隷として扱い搾取していました。(うしはく)

 

この日本の伝統である国体を、野心を持った道鏡によって破壊される寸前だったのです。

 

この国難に対して、たった一人で、命をかけて抗議したのが、和気清麻呂公(わけのきよまろこう)でした。

 

和気清麻呂公(わけのきよまろこう)の進言に対して怒った道鏡は、和気清麻呂公の足の筋を切断して、大隅国(鹿児島県)へ流罪にしました。

 

それでも道鏡の怒りは収まらず、大隅国(鹿児島県)へ向かう途中、和気清麻呂公(わけのきよまろこう)を暗殺するように刺客を送りました。

 

足を怪我していた和気清麻呂公は、旅の途中に宇佐八幡に立ち寄りました。

 

その途中、不思議な出来事が起きました。

 

豊前国(福岡県東部)の宇佐郡楉田村に着くと、山中から白鹿が

現れて、和気清麻呂公(わけのきよまろこう)を背中に乗せて、どこからか2百頭のいのししが現れました。

 

いのししたちは、和気清麻呂公(わけのきよまろこう)の周りを囲み、道鏡からの刺客たちから守りながら、十里(約40km)を道案内してくれたのです。(『日本後紀』巻八)

 

無事に宇佐八幡にたどり着くことができた和気清麻呂公(わけのきよまろこう)は、宇佐八幡の神殿の前でお祈りしていると、八幡神が現われて、

 

「これより西方十七里の規矩郡竹和山の山麓に温泉あり、此所に浴せばず癒る」と神示が示されました。

 

和気清麻呂公(わけのきよまろこう)は、その神示にしたがって竹和山の山麓の温泉に入ると、数日後には立って歩けるようになりました。

 

この温泉のある山を「足立山」(福岡県北九州市小倉)と呼ぶようになりました。

 

一年後の宝亀元年(770年)、称徳天皇の崩御(ほうぎょ)によって、道鏡は下野国(栃木県)の薬師寺へ左遷されました。

 

和気清麻呂公(わけのきよまろこう)は、都に呼び戻されて桓武天皇の信頼を得ながら、長岡京の造営、摂津河内両国の治水工事に当たりました。

 

延暦13年(794年)、和気清麻呂公(わけのきよまろこう)の立てた案により、都を平安京に遷都。造宮大夫として新京の建設に力を発揮しました。

 

5年後の延暦18年(799年)、和気清麻呂公(わけのきよまろこう)永眠。享年67歳でした。

 

和気清麻呂公(わけのきよまろこう)は次の言葉を残されています。

 

「我独慙天地(われひとりてんちにはず)」

(直筆の拓本は、湯川水神社に保管。)

 

世の中の人がどうあっても、自分ひとりだけは天地の澄み切った心に照らして恥じることのないように、

 

また、自粛自戒を心がけ謙虚に正しい道を歩もうという、和気清麻呂公(わけのきよまろこう)の心境を表しています。

 

出身地の岡山県和気郡和気町と、流刑地の鹿児島県霧島市牧園町にある、”和気神社”は、和気清麻呂公(わけのきよまろこう)を御祭神としてます。

 

和気清麻呂公(わけのきよまろこう)の足が治った温泉のある地(福岡県北九州市小倉)には、葛原八幡神社(湯川水神社)が作られて、和気清麻呂公(わけのきよまろこう)を御祭神にしています。

 

京都にある”護王神社”は、和気清麻呂公(わけのきよまろこう)を御祭神としており、境内には、和気清麻呂公を守った霊猪像(狛いのしし)が奉納されています。

 

この国難に立ち向かった和気清麻呂公(わけのきよまろこう)の行動と精神は、今の時代に生きる私たちに必要とされています。

 

戦前の日本人なら誰でも知っていた、和気清麻呂公(わけのきよまろこう)。

 

終戦後の占領政策により、この物語は闇に葬られてしまいました。

 

なぜでしょうか?

 

それは、戦勝国にとって、日本の国難を救う英雄が再び現れては困るからです。