子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -15ページ目

 

日本企業の不祥事が相次いでいます。なぜ、不祥事は繰り返されるのでしょうか?

 

明治以降の日本の近代化を支えてきたものは、江戸時代に全国に普及した寺子屋だったと思います。

 

又、寺子屋だけでなく、百姓の人でも、自分の子供に仕事の合間に、四書五経などを教えることが出来ました。

 

江戸時代における、親から子への家庭学習と寺子屋での古典など詰込み学習により、日本の奇跡的な近代化と欧米列強と肩を並べる一等国への飛躍が出来たのだと思います。

 

明治の元勲は、皆国家100年の計を持っていました。

 

隣の中共も持っています。(2017年10月の中国共産党大会で、2035年には経済面でアメリカの優位に立ち、2049年にはアメリカを超えて「中華民族が世界の諸民族の上にそびえ立つ」と宣言)

 

しかし、今の日本の政治家に、国家100年の計を持っている人がどれだけいるのでしょうか?

 

目先のことに囚われて、もりかけ問題に莫大なエネルギーを費やしています。

 

そのことが、国家100年の計を考える上で、どれほど重要なことなのでしょうか?

 

「遠くをはかる者は富み、近くを図るものは貧す」

二宮尊徳

 

これは、目先の利益ばかりに囚われていると貧しくなり、長期的な利益を求めると豊かになる、という意味です。

 

四半期ごとに利益を上げることばかりを追い求め、株主への配当を最大化して行くことが資本主義の正義である、という考え方(MBA)では先がありません。

 

勤勉に働いて貯蓄(剰余金)を増やしていき、企業の財務を健全化していくこと(ダム式経営 by 松下幸之助)こそが、資本主義の正義ではないでしょうか?

 

二宮尊徳は、この松下幸之助が実践した、ダム式経営の創始者でした。

 

又、二宮尊徳は、勤労とともに「分度」というものを説きました。

 

分度とは、自らの立場や状況をわきまえて、節度を保つことです。収入に応じた予算を立てて、その範囲内で生活することの重要性を説きました。

 

人は、自分の分をわきまえずに、収入以上の予算を立てて、経営を行ったり、個人の生活をしたりしてしまいがちです。

 

そして、銀行からの借金に苦しんだり、カードローンに苦しんだりしてしまいます。

 

しかし、客観的に自分の立場や収入をわきまえて、その範囲内での生活を行なっていくことが大切ですよ、と二宮尊徳は説いていました。

 

二宮尊徳は、捨て苗を育てて、米一俵を収穫。それを元手にさらに収益を得ました。

 

この経験から、小さなことの積み重ねが大きな成果につながるということを実体験しました。(積小為大)

 

文政4年(1821年)、二宮尊徳は、小田原藩主の大久保忠真から、下野の国、桜町領(栃木県真岡市)の復興を依頼されました。

 

尊徳は何度も固辞しましたが、忠真からの三度に渡る丁重な要請により、ついにこの要請を引き受けました。

 

尊徳は、田畑と屋敷と家財道具を全て売り払い、妻の波子と3歳の息子の弥太郎を抱えて、桜町に赴任しました。尊徳37歳の時でした。

 

尊徳が私財を売り払って得た78両は、桜町の復興資金に当てられました。

 

かつて3000俵の年貢米を納めていた桜町でしたが、尊徳が赴任した時には、800俵にまで落ち込んでいました。

 

桜町100年にわたる衰退の結果、村人たちは、希望を失い、治安も悪化していました。日が登っても雨戸を開けない家が多数ありました。

 

桜町に赴任した尊徳は毎日朝4時に起床して、村中を隅々まで巡回することからはじめました。

 

夜は12時に就寝。食事は一飯一汁。このような生活は尊徳が70歳で亡くなるまで続けられました。

 

尊徳は、まず荒れ果てた神社仏閣の修復から始めました。桜町の衰退の原因は、村人たちの心の荒廃にあるとみて、心の拠り所である神社仏閣を修復することを最優先にしたのです。

 

又、家屋や便所などが壊れた家の修復にも力を入れました。なぜなら、このような状態が続くと、人々の勤労意欲が削がれてしまうと考えたからです。

 

このような活動を地道に続けていくと、次第に村人たちの勤労意欲も向上していきました。そして、尊徳に対しての信頼感も増していきました。

 

しかし、順風漫歩とはいかないのが世の常です。

 

小田原藩から桜町に派遣されてくる勤番の武士がいましたが、その勤番の武士に対して、尊徳の悪口を言う村人たちがいたのです。

 

尊徳が赴任してから6年目に勤番としてきた豊田正作は、反尊徳派の百姓と結託して、尊徳の政策にことごとく妨害活動をしてきました。

 

そのような妨害活動に対して、尊徳の心は、痛みました。

 

文政12年正月、尊徳は江戸に出て、小田原藩主に新年の挨拶を済ますと、そのまま消息を断ってしまいました。

 

桜町は大騒ぎとなり、村をあげて尊徳の行方を捜しました。

 

そんな桜町の騒動の中、尊徳は、成田山新勝寺にて、21日間の断食修行を行なっていたのです。

 

4月6日の満月の日、尊徳は、次のような悟りを得ました。

 

「不動尊とは動かざることと尊し。たとえ、背中に火がついていても桜町から離れない」と。

 

尊徳は不動尊の決心をして一杯のおかゆをすすって、成田山から20里(80キロ)の道を下駄で歩いて、下野国桜町まで帰っていきました。

 

その後、尊徳の反対者はいつのまにか消えてしまい、復興は急速に進んでいきました。

 

10年目の天保2年(1831年)、1894俵の年貢米を収めることができ、ついに桜町の復興は成し遂げられました。

 

悟りを得たあとの歌が残されています。

 

「見渡せば敵も味方もなかりけり、おのれおのれが心にぞある」

「打つ心あれば、打たるる世の中よ、打たぬ心の打たるるはなし」

 

尊徳が、21日間の断食修行を行なった後、桜町から逃げすに復興を成し遂げる、と”決断”した時から、不思議と抵抗勢力が消え失せていきました。

 

壁にぶつかり、どうしよかと迷って悩んでいるうちは、問題解決の打開策は開けませんが、一旦”決断”をしたならば、不思議と問題解決の打開策が開かれていくようです。

 

又、報徳記には次のような記載があります。

「一人の心は誠に僅々たるが如しといえども、その至誠に至りては、鬼神これが為に感じ、天地の大なるもの、これが為に感動す。」

(「報徳記」富田高慶著)

 

どのような権・謀・術・数を弄そうとも、一つの誠を貫くものにかなうものなどありません。

 

百術は一誠に如かず(百術不如一誠)

 

二宮尊徳は、これを実践した方でした。

 

企業経営を行う上で、二宮尊徳の百術は一誠に如かず(百術不如一誠)の精神が失われているのではないでしょうか?

 

日本企業の不祥事が繰り返されるのは、このあたりが原因なのかもしれません。

 

参考図書

月間「致知」2015年9月号 致知出版社 

The Liberty 2018年2月号 幸福の科学出版

 

 

「子供に正月の着物でも買ってください。」

〜戦線より妻への手紙〜

 

陸軍軍曹 杉村菊雄命

昭和14年4月1日 中支那にて戦死

 

「拝啓 その後度々お手紙ありがとう。何分今度の戦闘は、うかい作戦で全滅するか大勝利を得るかの2つに一つの大覚悟の作戦で、

 

敵に囲まれること数十日間という激戦でしたので、お便りすることもできなかったのです。

 

右は山、左は千の谷というような所があるかと思えば、鳥も通らぬような高い山あり、いたるところに、我等の食料を積んで前進する馬が死んでいるのには、実に涙なくては見られなかったです。

 

いよいよ食料も尽き、芋を掘って食べ、又支那住民の家に取り残されている、もみを鉄かぶとの中でついて米にしては食べ、

 

この難行軍を続けると十数日間ついに四方を敵に取り囲まれ、後方部隊との連絡は切れ、日々死傷者は続出して兵は減り食料はなく、

 

2日位は何一つ食べず敵と戦い、3日目位にやっと唐芋一つ食べるという、有様で約1ヶ月ほど戦った頃、友軍の援護と我等の決死の戦闘の効あって目出度く、大勝利を得ました。

 

戦闘の出来ない様な傷もなく実に私は運が強いことを喜んでいます。

 

私ども下士官の仕事が非常に多く、手紙などもなかなか書けませんから内田様はじめ集団所の人々なほ村の人方にもよろしく申してください。

 

はつの様

 

金30円をお送りいたします。

子供に正月の着物でも買ってください。

 

それから、父母様方に何かうまい物でも食べさせてください。

少ないですが何卒御受け取りを願います。足らぬ時は又お送りいたしますよ。

 

御達者でお暮らしあれ。」

 

参考図書

「英霊の言の葉」靖国神社

 

 

 

 

 

 

 

1970年代から1980年代にかけて多数の日本人が失踪した拉致事件に対し、北朝鮮はその関与を否定し続けてきました。

 

日本社会党も同様に、拉致など存在しないと断言していました。

 

しかし、平成14年(2002年)、平壌で行われた、金正日朝鮮労働党総書記と小泉首相との会談において、金正日朝鮮労働党総書記は、日本人を拉致したことを公式に認めて謝罪し、再発の防止を約束しました。

しかし、日本政府が認定している拉致被害者17人に対し、北朝鮮が認めているのはこのうち13人。

 

5人が日本に帰国しているが、残り12人については「8人死亡、4人は入境せず」としています。

 

また、死亡したとされる8人についても、死亡日時が一貫しなかったり、遺骨のDNA鑑定をしたところ別人のものと判明するなど、北朝鮮の説明は嘘ばかり。

日本政府は、「我が国の国家主権及び国民の生命と安全に関わる重大な問題であり、この問題の解決なくして日朝の国交正常化はあり得ない」として、

 

すべての拉致被害者の帰国を目指していますが、平成14年(2002年)に5人が日本に帰国して以来、平成29年(2017年)12月現在、一人も帰ってきていません。

拉致被害者は今も日本に帰れず、家族の苦しみも続いています。

国家というものは、外国から自国民の生命と安全が脅かされたら、責任を持って守るというのは当然のことだと思います。

 

昭和20年8月15日までの日本は、当然のこととして軍隊を出動して、大陸にいる日本人居留民を命がけで保護しました。

 

しかし、戦後の日本は、それができなくなっています。

 

北朝鮮は、何もできない日本の足元を見て、堂々と日本人を拉致してきました。また、核・ミサイル開発を進めて日本や米国に脅威を与えています。

 

北朝鮮の国民には一切の人権や自由がなく、国家体制に反抗すれば投獄や処刑されてしまいます。

こうした悲惨な状況は北朝鮮だけではなく、北朝鮮を庇護している中国も同様です。

 

もうすぐ起きるであろうと言われている第二次朝鮮戦争では、中国は、北朝鮮を見殺しにするかもしれません。

 

もしそうなったら、その後が問題です。

 

北朝鮮が崩壊した後、、北朝鮮の人権も自由もない悲惨な実態は、世界中のマスコミが報道することとなり、世界中に知れ渡ることになるでしょう。

 

そして、そのことは中国にも影響を与えるでしょう。

 

なぜなら、「中国共産党に支配された国では、人権も自由も奪われて、人民が搾取されて苦しむ」という現実に、世界中が気づき始めるからです。

 

参考図書

The Liberty H29.12.03 「中国は北朝鮮を見殺しにする 北問題の次を見通す」

 

 

フィリピンの東隣に位置する太平洋の島国、パラオ共和国。

 

パラオは、親日国として有名ですが、なぜでしょうか?

 

パラオ諸島は、もともとドイツの植民地でしたが、第一次世界大戦でドイツが敗戦した後、国連の指示により、日本の委託統治領となっていました。

 

委託統治領となった後、日本は、パラオ諸島に学校や病院や道路などインフラ整備を続け、農業指導なども行い、産業開発のための投資を積極的に行っていきました。

 

そのため、日本の委託統治時代に、パラオ諸島は、コロール島を中心にとても豊かになりました。

 

大東亜戦争が始まると、太平洋の島々で米軍と日本軍の戦闘が激しくなっていきました。

 

昭和19年(1944年)4月、中川州男陸軍大佐率いる水戸歩兵第2連隊は、極寒の満州から、南の島、パラオ諸島の守備隊に転属されました。

 

パラオ諸島の中でもペリュリュー島という小さな島に、日本海軍が大規模な飛行場を建設していたので、米軍がこの島に注目して奪いにきました。

 

米太平洋艦隊を指揮するニミッツ提督は、海兵師団長のウィリアム・H・リュバータス少将にペリリュー島占領を命令。

 

第三艦隊を指揮するハルゼー大将は、約800隻の艦艇を海兵隊支援のため、ペリリュー島に派遣されました。

 

連合軍総兵力、約5万4000人。

 

これに対し、迎え撃つ日本軍守備隊は、中川州男陸軍大佐が指揮する、陸軍の第14師団歩兵第2連隊を中心とする約1万900人。

 

中川州男大佐は、地元住民を全員、他の島に移住させて、これから始まる米軍との戦闘の犠牲とならないように配慮しました。

 

地元の島民たちは、「日本軍と一緒に戦いたい」と希望しましたが、その願いは叶えられませんでした。

 

「我々は戦いの専門家であるので、死ぬのは我々だけで十分でる。島民たちは一人も死ぬな」というようなことを言って説得したり、

 

「日本陸軍が、お前ら土人と一緒に戦えるわけがない」というきつい表現で、島民たちの強い願いを拒絶しました。

 

日本守備隊は、ペリュリュー島を守り抜くという使命を帯びていたので、玉砕覚悟で死ぬために戦うとは、口が裂けても言えなかったのです。

 

日本の兵隊さんたちが、この島を守るために戦うのであれば、島の住民たちはそのまま残っていてもいいのではないか、という理屈になりますけれども、玉砕を意識していた日本兵たちは、何としてでも、島の一般住民たちを助けたかったのです。

 

一人の犠牲者を出したくなかったのです。ですから、「日本陸軍が、お前ら土人と一緒に戦えるわけがない」というきつい表現を使って、島の人々を避難させました。

 

日本兵は、島民が船に乗り、島を離れる際、かつて一緒に歌った歌を歌って、パラオの人たちを見送りました。

 

もう二度と会うことができずに散っていく、自分たちの身を意識しながら。

 

昭和19年(1944年)9月15日、米軍最強と言われた第一海兵師団(海兵隊)が、ペリュリュー島に上陸開始。

 

当初、米軍は、ペリリュー島への上陸作戦は、2、3日で終わるだろうと考えていました。または、午前中で島の占領が終わり、午後からはビーチでバーベキューを楽しめる、とも考えていました。

 

海兵師団(海兵隊)が、島に上陸するまでに、島の形が変わるほどの蜂の巣のような爆撃を、戦闘機による空爆や艦砲射撃により行っていたので、ペリリュー島全土は焦土と化していました。

 

ペリュリュー島に生存している生き物はいないだろうと思われていました。

 

ところが、中川州男大佐率いる日本陸軍の兵隊たちは、地下に天然の洞窟を利用した陣地を、ツルハシだけで作り、米軍の爆撃の間、じっと地下で耐えていました。

 

中川大佐は、部下たちに常に語っていました。

 

「我々は、『祖国への愛』『家族への愛』『同胞を守る』ということのために戦っている。

 

我々が一日でも長く、ここで持ちこたえることができれば、祖国への攻撃を一日遅らせることになるのだ。われわれが死ぬ代わりに、祖国への人たちが何千、何万と死ぬのを食い止めているんだ」と。

 

米軍の第一海兵師団が、用意周到に上陸を始めました。

 

日本兵からの予想もしない迎撃にあい、最初の上陸部隊の約1万人のうち約6500名が死傷しました。

 

米軍では、6割の兵士が損傷を受けた場合、ほぼ全滅と報告されますので、米軍の中で最強と言われた第一海兵師団(海兵隊)が、ほぼ全滅してしまったのです。

 

負傷兵たちは、海上に停泊している病院船に運ばれ、次々と増援部隊が島に上陸していきました。

 

続出する死傷者をみて、米軍は「悪魔の島」と呼びました。

 

米軍は、火炎放射器を使って、島の至る所にある洞窟の中を焼き払っていきました。また、重油を洞窟に流し込みそれに火をつけて焼き払うということを行っていきました。

 

日本兵を火あぶりの刑にしていったのです。

 

この火あぶり戦法は、のちの硫黄島や沖縄戦でもやっていきました。

 

2、3日で落ちると思われていたペリリュー島攻略作戦は、9月15日の上陸以降、70日以上も戦い続きました。

 

マッカーサーは、当初、ペリリュー島を落としてから、フィリピンのレイテ島に向かう予定でしたが、なかなか落ちないので、ペリリュー島を諦めて、先にレイテ島に向かうことにしました。

 

それ以降、日本軍の守備隊が、ペリリュー島で戦う意義がなくなってしまったという見方もあります。

 

しかし、この日本軍のしぶとい戦い方を経験した米軍は、日本本土上陸を躊躇することとなります。

 

なぜなら、小さな島を落とすのに日本軍と同等の米軍兵士が犠牲となったので、このまま日本本土を上陸したら、数百万規模の米軍兵士が犠牲となると試算したからです。

 

昭和天皇陛下から、激励の御嘉賞(褒め称えること)の電報がペリリュー島守備隊に向けて11回も送られました。

 

しかし、11月になると、食料も弾薬も尽きたので、中川州男大佐は、次の電文を最後に、夜、敵陣に夜襲突撃を行いました。

 

11月22日、パラオ地区集団参謀長 多田督知大佐 宛

 

3、地区隊は、24日以降、統一ある戦闘を打切り、残る健在者約五十名を以て、遊撃戦闘に移行。

 

あくまで持久に徹して米軍撃滅に邁進せしむ。重軽傷者中戦闘行動不能なるものは自決せしむ。

 

4、将兵一同聖寿の万歳を三唱。皇運の弥栄を祈念し奉る。集団の益々の発展を祈る。

 

最後に「サクラ・サクラ」を打電して、11月24日、中川州男大佐は、古式に則って割腹し介錯をしてもらい、最後を遂げました。(戦死後、2階級特進)

 

そばにいた村井権治郎少将、飯田義栄中佐もそれに続き、根本甲子郎大尉率いる55名の決死隊も玉砕。

 

その後も日本軍の玉砕も知らずに、生き残った山口永少尉以下、三十四名の兵士たちは、終戦後の昭和22年4月22日まで、洞窟の中で暮らして、最後の最後まで戦いを続けました。

 

これは、中川州男大佐から「玉砕はならぬ。最後の最後まで生き抜いて戦え」という命令を、守っていたからです。

 

生き残った山口永少尉以下、三十四名の兵士たちが戦い抜いた戦場は、ペリリュー島の西海岸に位置し、米軍はこの海岸をオレンジビーチと名付けました。

 

それは、その海岸が、戦死した米軍兵士の血が流れて、オレンジ色に染まったからです。

 

ニミッツ提督は、のちにペリリュー島の戦いを、次のように回想しました。

 

「ペリリューの複雑極まる防備に勝つには、米国史における他の上陸作戦にも見られなかった戦闘損害比率(約40%)を甘受しなければならなかった。

 

すでに制海権制空権を握っていた米軍が、死傷者あわせて1万人超の犠牲者を出し、この島を占領したことは、今もって疑問である」と。

(『太平洋海戦史』ニミッツ著)

 

ペリリュー島にある神社の石碑には、次のように刻まれています。

 

「諸国から訪れる旅人たちよ、この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕したかを伝えられよ」

 

"Tourists from every country who visit this is and should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who have died defending this island."

 

米太平洋艦隊司令長官、C・W・ニミッツ提督

 

平成5年(1993年)、パラオ自治政府の大統領に、日系2世のクニオ・ナカムラ氏が選出され、翌年の平成6年10月、米国統治領であったパラオが、パラオ共和国として独立。国連にも加盟しました。

 

その時、ペリリュー島を守った日本軍守備隊を讃える歌が作られました。

 

「ペ島の桜を讃える歌」

 

作詩

オキヤマ・トヨミ

ショージ・シゲオ

作曲

トンミ・ウエンティ

 

    一

激しく弾雨(たま)が降り注ぎ

オレンジ浜を血で染めた

つわもの

強兵たちはみな散って

ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる

 

    二

小さな異国のこの島を

死んでも守ると誓いつつ

山なす敵を迎え撃ち

弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない

 

    三

将兵(ヘいし)は”桜”を叫ぴつつ

これが最期の伝えごと

父母よ祖国よ妻や子よ

別れの”桜"に意味深し

 

    四

日本の”桜"は春いちど

見事に咲いて明日(あす)は散る

ペ島(じま)の”桜"は散り散りに

玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に

 

    五

今守備勇士(もののふ)の姿なく

残りし洞窟(じんち)の夢の跡

古いペ島(じま)の習慣で

我等勇士の霊魂(たま)守る 

 

    六

平和と自由の尊さを

身を鴻(こな)にしてこの島に

教えて散りし"桜花"

今では平和が甦る

 

    七

どうぞ再びペリリューヘ

時なし桜花(さくら)の花びらは

椰子の木陰で待ち佗(わび)し

あつい涙がこみあげる    

 

    八

戦友遺族の皆さまに

永遠(いついつ)までもかわりなく

必ず我等は待ち望む

桜とともに皆さまを

 

参考図書

「パラオ諸島ペリリュー島守備隊長中川州男大佐の霊言」大川隆法著

 

 

 

 

戦前の日本は、アジアを侵略して、植民地にして、現地人を奴隷として扱い、搾取して、略奪強姦をして、アジアの人々に多大な迷惑をかけてきた悪い国であった、とレッテルを貼られてしまっています。

 

本当に日本は悪い国だったのでしょうか?

 

実は、日本は、アジアを白人の植民地支配から解放し、大家族主義のもと、人種差別のない自由で平等で平和な社会を実現し、ともに繁栄していこうとしていたのです。

 

昭和15年(1940年)、近衛文麿内閣の時、「大東亜共栄圏」という言葉がスローガンとして使われ、翌年の昭和16年(1941年)12月、日米開戦直後の東條内閣の会議において、「大東亜戦争」と命名されました。

 

昭和18年(1943年)11月5日から7日にかけて、東京にて「大東亜会議」が開催されました。

 

「大東亜会議」とは、重光葵外相の発案で、東条英機首相の主導のもとに開催された、東アジア地域のサミットのようなものでした。

 

参加者は、東条英機(日本)、

自由インド仮政府(チャンドラ・ボーズ)、

インドはこの時期、まだイギリスから独立しておらず、独立を目指した亡命政府の代表として、チャンドラ・ボーズ氏が出席しました。

タイ(ワンワイタヤーコーン親王(首相代理))、

ビルマ(バー・モウ内閣総理大臣)、

フィリピン(ホセ・ラウレル大統領)、

満州国(張景恵国務総理大臣)、

中華民国(汪兆銘南京政府)

 

重光外相は、大東亜戦争の大義名分について次のように語っています。

 

「日本の戦争目的は東方の解放であり、アジアの復興である。この他に日本は何ら野心を持たない。

 

これが、日本が大東亜戦争という戦争に突入して行った戦争目的であってこれさえ実現すれば、日本はいつでも戦争終結の用意がある、というのが我が主張であった。」

(「重光葵著作集」重光葵著)

 

大東亜会議に出席した、ビルマ王国のバー・モウ首相は、会議の感想を次のように語りました。

 

「会合は極めて感動的な雰囲気を作り出していた。

 

私はみんなと過ごしたこの短時間の夜が、これまでの感情は全て脇に置いて、ただ毎日、その国と国民の現実のみを考えることを強制されてきた、

 

地域の果ての国からやってきたばかりの人間たちの中に、かくも大変様々で、広範囲の考えと感慨を掻き立てるとは考えても見なかった。

 

今や人々はこれらの現実を超えて、広いアジアそのものを一つのものとしてとらえる思いに、満たされていたのであった。

 

大部分の人は初対面の人たちだった。にもかかわらず、お互いに全ての生涯を知りあい、失っていたものを今再発見した。」と。

(「ビルマの夜明け」バー・モウ著)

 

それまで、数百年の長きにわたって、欧米列強の白人から植民地奴隷扱いを受けて、搾取され続けてきたアジアの人々。

 

白人たちは、お互いにアジアのどの地区を、自国の植民地とするかを話し合っていました。

 

しかし、植民地支配を受けてきたアジア人たちは、お互いに話し合い、白人に対抗すべく協力するということをしてきませんでした。

 

そういう意味で、東京で開催された大東亜会議というものは、アジア諸国が一致団結して、白人に対抗しようという初めての国際会議だったのです。

 

昭和18年10月21日、シンガポールにおいて、設立されたばかりの自由インド仮政府にはまだ領土がなく、インドから逃れた亡命政府でしかなかったので、チャンドラボーズ氏はオブザーバーとして大東亜会議に参加していました。

 

東条英機首相は、大東亜会議の席上、自由インド仮政府にアンダマン諸島とニコバル諸島の割譲を約束して、領土を与えました。

 

また、東條英樹首相は、会議の最後に、スバス・チャンドラ・ボーズ氏にインドの大義について言及してくれるように、バー・モウ氏に頼んでいました。

 

その依頼に応じて、バー・モウ氏は、大東亜会議の終わりに次のように発言しました。

 

「インドの独立なくして、アジアの自由は無し、インドとビルマの共同の敵は英国帝国である。

 

歴史の流れの中で、権力者は次々に入れ替わる。しかし、年月とともに生き続け、育ち続ける言葉を語ることができる人間はごくわずかである。

 

そうした人間こそが国民にとっての物語となるのである。

 

私の闘争の経験から武力ない抵抗は無力であると痛感するに至った。

 

インドの武力による奪還を主張されて、闘争してきたスバス・チャンドラ・ボーズ氏こそ、インド独立の指導者として最もふさわしい稀有な人物である。」と。

 

スバス・チャンドラ・ボーズ氏は、次のように演説しました。

「議長(東條首相)閣下、私が昨日及び本日、この大東亜会議の議事を傾聴している際、私の目の前には「パオラマ」のごとく世界の歴史が去来してきました。

私は過去100余年もの間、開催された数多くの国際会議を回想しました。

 

そしてかつて私がインドの自由の叫びに耳を傾けてくれる者を求めて、幾日も虚しくさまよったことのある国際連盟の会議。

そして、その廊下やロビーを想起しました。

 

加えてさらにこの歴史的会議(大東亜会議)の議事を聞いていて、私はこの会議とかつて、世界史上に現れた類似の諸会議との間に、大きな差があることを思います。

議長閣下、本会議は、戦勝者間で行われる戦利品分割の会議ではないのです。

 

それは弱小国家の犠牲に供する、陰謀、謀略の会議でもなく、また弱小である隣国を騙そうとする会議でもないのです。

本会議は解放された諸国民の会議であり、正義、主権、国際関係における互恵主義、及び相互扶助等の原則に基づき、世界のこの地域に新秩序を創建しようとする会議です。

 

私はこのような原則に基づく会議が、日出ずる国(日本)にて開催されたことは、偶然ではないと考える者です。

そもそも世界が光明と指導とを東洋に求めたということは、これを持って初めてではないからです。

世界新秩序建設は、過去において、かつ他の地域において、何度も試みられてきましたが、全て失敗に終わりました。

それは新秩序創建の指導的立場に立つべきものに利己欲、強欲、及び猜疑心があったためです。

それゆえに、ここに世界が再び光明を東亜に仰がなければならないことになったのは、誠に当然の理であり、歴史的必然なのです。」と。

 

アジアの民がアジア自身の手によって集まった大東亜会議において、民族自立の機運は高まっていましたが、この演説によって、それは決定的となりました。

 

ではなぜ、日本がアジア解放のために立ち上がり、白人からの黄色人種の解放を主導していったのでしょうか?

 

東条英機首相が、東京裁判において残した宣誓供述書には次のような記述があります。

 

「そもそも世界の各国が各々そのところを得て、相寄り相助けて万邦共栄の楽を共にすることが、世界の平和確立の根本要義である。

 

しかして、特に大東亜に関係深き諸国が互いに助け、各自の国礎に培い共存共栄の紐帯を結成すると共に、

 

他の地域の諸国家との間に、共和偕楽の関係を設立することが、世界平和の最も有効にしてかつ実際的の方途である。

 

これが大東亜政策の根底をなす思想であります。」

(「東条英機 歴史の証言」渡辺昇一著)

 

アジア各国が自立して、お互いに助け合いながら共存共栄して繁栄していこう、という理想を、日本は根本思想として掲げていたのです。

 

そこに、白人のような侵略や植民地支配による搾取や奴隷などといった思想は、全くありませんでした。

 

日本書紀の皇都経営の詔には、次のような記載があります。

 

「六合(くにうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)にせむこと、亦可(またよ)からずや」

 

「あめのしたをおおいていえにせんこと」、から八紘一宇の言葉が生まれました。

 

これが、日本国建国の理念であります。

 

世界は、一つ屋根の下の家であり大家族である。人類皆兄弟。人種や肌の色にかかわらず、人種差別や奴隷もなく、お互いに平和に繁栄していこうという、理想国家の建設を目指しました。

 

昭和12年(1937年)に発行された「八紘一宇の精神」には次のような解説があります。

 

「「八紘」は「八荒」ともいい、前者は八方の隅、後者は発方の遠いはてという字義であって、共に「世界のはて」とか「天の下」という意味である。

 

「一宇」は「一家」という字義で、全体として統一と秩序とを有する親和的共同体という意味である。

 

従って、「八紘一宇」とは、皇化にまつろわぬ一切の禍を払い、日本はもちろんのこと、

 

各国家・各民族をしてそれぞれそのところを得、その志を伸ばさしめ、かくして各国家・各民族は自立自存しつつも、

 

相より相助けて、全体としてあい然たる一家をなし、以って、生成発展して止まないという意味に外ならない。」と。

(「国民精神総動員資料」「八紘一宇の精神」内閣・内務省・文部省編)

 

八紘一宇は、それぞれの国や民族は自立して、それぞれのいいところを伸ばし、お互いに助け合い、発展していこうという意味です。

 

 

大東亜会議で採択された「大東亜共同宣言」には次のようにあります。

 

「1、アジア諸国は共同してアジアの安定を確保し、道義に基づく”共存共栄”の秩序を建設する。

 

2、アジア諸国は”相互に自主独立”を尊重し、互いに助け合い、アジア諸国の親睦を確立する。

 

3、アジア諸国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、アジア諸国の文化を高め合う。

 

4、アジア諸国は互いに緊密に提携し、それぞれの国の経済発展を図り、アジア諸国の繁栄を増進する

 

5、アジア諸国は世界各国との交流を深め、”人種差別を撤廃し”、互いによく文化交流し、”進んで資源を解放し”、世界の発展に貢献する

 

”相互に自主独立を尊重し”とは、植民地支配から脱却して再び旧宗主国からの支配を受けることがないようにという願いも込められていました。

 

”人種差別の撤廃”は、大正8年(1919年)パリ講和会議において、国際連盟設立に向けての話し合いの中、その規約前文に「各国民の平等及びその国民に対する公正待遇の主義を是認する」との一文を挿入することを、日本は主張しました。

 

しかし、16名中11名の過半数の賛成を得たのにもかかわらず、ウイルソン議長により全会一致ではないとして、否決されてしまいました。

 

日本は、首尾一貫して人種差別撤廃を大義名分としていたのです。

 

また、”資源の解放”は、日本がABCD包囲網により経済封鎖されてしまったことが戦争への引き金となってしまったので、そのようなことを防ぐ目的で規定されました。

 

このように、日本は人類皆兄弟という大家族思想のもと、人種差別のない平和で繁栄した国づくりを目指しました。

 

そして、白人の植民地支配により数百年もの長い間、搾取され続けていたアジア諸国の有色人種たちは、日本が掲げた新世界秩序を理想とし、希望の光としたのです。

 

チャンドラ・ボーズ氏は、大東亜会議にて次のように演説しました。

「会議参加の閣下各位の既にご承知のように、元来、インド思想並びに文化は普遍主義を持って、その特色とするものでして、遠き昔にはインドは仏教及びこれを中心とするあらゆる文化を通じて全アジアに光を放ったのであります。

 

議長閣下、そして私はここに大東亜共栄圏の建設は単に東亜民族のみならず、請われれば全アジア民族と全人類に取って重大関心事たることを指摘したいのです。

 

私は、新自由亜細亜創建の使命が十二分に完遂がなされることを祈る次第です。終わりに鑑み、私の希望するがごとく、

 

閣下(東条英機首相)並びに閣下の優れたる同僚各位がこの使命を達成できた暁には、各位はまさに新日本の建設者、新東亜、更に新亜細亜の建設者としてのみならず、実に新世界の創造建設者として、永くその名を歴史に残すことを確信しています。」と。

 

その一方、当時の連合国である英国と米国は、どのような新世界秩序を計画していたのでしょうか?

 

日米開戦前の昭和16年(1941年)8月9日から12日、カナダの東海岸に位置するニューファンドランド島沖合に停泊中の、戦艦プリンス・オブ・ウェールズ上で、英米首脳が会談。(大西洋会談)

 

その会談で、英国首相のチャーチルと米国大統領のルーズベルトは、以下の8項目の新世界秩序を取り決めました。(大西洋憲章)

英国と米国は、日米開戦前の時期に、世界大戦後の新世界秩序を定めたのでした。

1、合衆国と英国の領土拡大意図の否定

2、領土変更における関係国の”人民の意思の尊重”

3、政府形態を選択する”人民の権利”

4、自由貿易の拡大

5、経済協力の発展

6、恐怖と欠乏からの自由の必要性

 (労働基準、経済的向上及び社会保障の確保)

7、航海の自由の必要性

8、一般的安全保障のための仕組みの必要性

 

一見すると、良いことばかりが書かれていて問題ないようにも思えます。

 

しかし、この中の”人民の権利”や”人民の意志の尊重”と規定された”人民”とは、あくまで東ヨーロッパの”白色人種”を対象としたものであり、経済協力の発展や自由貿易の拡大といったものも、アジアやアフリカの植民地に住む、”有色人種”を対象としたものではありませんでした。

 

事実、英国のチャーチルは、アジアやアフリカの植民地にこの原則が適用されることを拒みました。

 

また、米国のルーズベルトも、「大西洋憲章は有色人種のためのものではない。ドイツに主権を奪われた東欧白人国家について述べたものだ」と側近に語っていました。(『白い人が仕掛けた黒い罠』高山正之著)

 

白人は、有色人種を奴隷として使用し、搾取の対象としか認識していませんでした。その白人が作った世界秩序に対抗した唯一の有色人種が、日本だったのです。

 

スバス・チャンドラ・ボーズ氏は、大東亜会議が開かれる前の昭和18年(1943年)6月19日に来日した際、次のように述べました。

 

「インド人の日本に対する感情をお知りになりたいでしょう。日本は、他の大陸の国家が、アジア大陸に侵略するのを食い止めた最初の国です。

 

過去2000年の間、インドと日本は文化的に密接な関係を保ってきました。英国がインドを支配したため、この絆は中断されてしまいました。

 

しかし、インドが自由を獲得すれば、この関係は再び強まるでしょう。

 

両国が完全な自由を享受し、それぞれの国家の命運を切り開くに当たって、インド人が日本と協力することは全く自然なことなのです。

 

この機会に申し上げておかねばならないのは、昭和17年(1942年)3月に東條英機首相がインドに関して行った声明は、インド人の心に深く染み渡り、自由独立運動に勇気を与えてくれたということです。」と。

 

しかし、日本は、かつて、アジアを侵略して、植民地にして、現地人を奴隷として扱い、搾取して、略奪強姦をして、アジアの人々に多大な迷惑をかけてきた悪い国であった、とレッテルを貼られて謝罪を繰り返しています。

 

参考図書

「大川隆法の大東亜戦争論」大川真輝著

『白い人が仕掛けた黒い罠』高山正之著

「国民精神総動員資料」「八紘一宇の精神」内閣・内務省・文部省編

「東条英機 歴史の証言」渡辺昇一著

「ビルマの夜明け」バー・モウ著

 

 

 

終戦後、英国やオランダに恨まれて、復讐心から戦犯の汚名を着せられて、処刑されてしまった陸海軍の空挺団の指揮官と陸軍大将。

 

しかし、彼らは戦犯ではなく、数百年に及ぶ白人による植民地支配を終わらせた、歴史的戦闘の指揮官だったのです。

 

スマトラ島南部にあるパレンバンには、オランダ植民地時代にインドネシアの85%の石油を生産していたプラジュ油田とロイヤル・ダッチ・シェル製油所があリました。

 

資源のない日本が戦争をする上で油田を制圧し、石油供給基地を確保することは、日本軍の南方作戦における最も重要な戦略目標だったのです。

 

昭和17年(1942)1月11日、海軍の横須賀鎮守府第一特別陸戦隊が、セレベス島メナドに敵前落下傘降下。

 

海軍に続いて、昭和17年2月14日午前九時、援護戦闘機を含む八十八機は、500人の日本陸軍第1挺進団(挺進第2連隊)を乗せて、マレーシア南部のカハン飛行場を飛び立ち、マラッカ海峡を横断、スマトラ島を海岸沿いに南下し、パレンバンを目指しました。

 

パレンバン上空に侵入、落下傘降下が始まったとき、通常高度の半分以下の約200メートルという低空だった。

 

午前11時26分、降下間隔0・五秒で機から飛び出しパレンバン近郊のジャングルや湿地帯に落下傘降下した。

 

奥本中尉は小隊標旗の日の丸に、次のように書きました。

 

「本日ノ休養ハ、靖国ニ於イテス」

 

これは、靖国神社まで休まず絶対に戦闘を続けて任務を完遂する、と全員で誓ったのでした。

 

地上の連合軍はオランダ軍と英軍を合わせ2千人だった。第2中隊の蒲生清治中尉は飛行場の西側に降下。

 

陸軍による事前の調査では、落下傘で着地する場所は平地で草地でした。ところが2月は雨季のため胸まで水に浸かる湿地になっていて、草がぼうぼうでした。

 

隊長ですから一番に飛び降り、着地後は3人が1組になり深い草むらをかき分け進みました。

 

降下した第2中隊60人のうち蒲生中尉以下7人が戦死した。パレンバン作戦での日本兵の戦死者数は34人、全員が20代の若者だった

 

インドネシアには、古くから「ジョヨボヨ王の予言」というものが言い伝えられてきました。

 

「我らの王国は白い人々に支配される。彼らは離れたところから攻撃をする魔法の杖を持っている。

 

白い人々からの支配が長く続くが、空から黄色い人がやってきて白い人々を追い払ってくれる。

 

この黄色い人も我らの王国を支配するがトウモロコシの寿命と同じくらいの期間しか居ない」。

 

日本が大東亜戦争を始めるにあたり、最優先事項だったのは石油の確保でした。

 

なぜなら、昭和16年8月から米国をはじめとする連合国は、日本に対して、石油の全面禁輸政策を実行していたので、日本の石油備蓄量は残りわずかとなっていたからです。

 

当時の日本は、石油の約80%を米国に依存していました。

 

石油がなければ、戦艦や戦闘機、戦車などはスクラップ同然となってしまいます。

 

日本が米国などの植民地となってしまう危機が、間近に迫っていたのです。

 

その危機を打開するために、当時のアジアで唯一、石油が採掘されていた国である、オランダ領インドネシアの油田と発掘製造施設を奪う必要があったのです。

 

また、この施設は破壊せずに無傷のまま占領しなければなりませんでした。

 

なぜなら、占領する際に破壊してしまったら、その後の石油採掘の計画に影響が出てしまうからです。

 

すなわち、石油の発掘製造施設を速やかに無傷のまま占領することが、必要不可欠でした。

 

昭和16年11月15日、大本営政府連絡会議に於いて決定した「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」では、次のように規定されました。

 

一、南方の資源地帯を制圧して自存自衛を確立する南方作戦

二、インド洋制圧と蒋介石支援ルート切断と、

  インド独立による英国の屈服を狙う西亜作戦

三、アメリカを近海迎撃して彼の継戦意思の喪失を計ること

 

すでに昭和16年8月から、アメリカからの石油を全面禁輸されてしまっていたので、イギリスの植民地であったマレー半島と、オランダの植民地であったインドネシアを制圧して、南方資源地帯を確保することは、国の存亡をかけた作戦だったのです。

 

また、それは同時に、数百年にわたる白人によるアジアの植民地支配をひっくり返してしまった歴史的なことでした。 

 

戦闘機から降下した落下傘部隊が、地上に到着するまでの数十秒間は、地上の敵に討ちまくられました。

 

奥本中尉の落下傘にも、ぷすぷすと弾が通り抜けました。

 

そして、搭乗機が地上砲火を回避するなかで降下したので、ジャングルの森の中に落ちてしまいました。

 

兵隊が携行する武器は、拳銃と手榴弾だけで、小銃、機関銃、弾薬、将校の軍刀(指揮刀)は別の箱に入れて投下します。

 

しかし、ジャングルのかなでその箱は何処に落ちたか分かりませんでした。

 

箱どころか、仲間の兵が何処に降りたかも分からない。

 

そのような状況の中で、奥本中尉は、巡り会った五名と共にジャングルから抜け出して、トラックに乗って向かってきた約百五十名オランダ兵に対し、手持ちの拳銃と手榴弾だけで戦いました。

 

「甲村連隊長は『突っ込め!』と号令して自ら突撃する場面が発生した。

 

降下挺進部隊には、第一線先陣も、予備隊もない。

 

特にジャングル内に於いては、連隊長自身も第一線の散兵線の一兵士であることを如実に物語っていた」

 

2月14日午後9時、空挺団たちは、パレンバン飛行場を制圧。

 

それまで突撃を続けてきた空挺団は、制圧した飛行場で停止しました。

 

奥本中尉は、この時の様子を次のように書き残しました。

 

「戦死した戦友の勇敢な働きを思い浮かべて不覚にも泣き出す兵、ずっと前進していた部隊が、一旦停止すると、必ず感傷が襲うのである」

 

次に、石油所制圧とパレンバン市内の制圧に向かい、パレンバン市内も制圧することができました。

 

この活躍によって、赤道下の広大なインドネシアは、日本軍の管理下に入り、数百年に及ぶオランダ人による植民地支配は終わりました。

 

このニュースを聞いた日本国民は熱狂しました。

 

なぜなら、石油を獲得できるかどうかが、日本が生き残れるかどうかの生命線だったからです。

 

そして、彼ら空挺団の兵士たちを「空の神兵」と呼びました。

 

敵前に奇襲降下した、わずかの空挺団の兵士たちが、日本を救い、世界史を塗り替えたのです。

 

この敵前落下傘降下作戦を指揮したのは、海軍の堀内豊秋海軍大佐と、陸軍の挺進第二連隊長、甲村武雄陸軍少佐でした。

 

また、同じ時期の昭和17年2月15日、日本陸軍が、英国の植民地だったシンガポールを陥落させて、英国による植民地支配を終わらせました。

 

この作戦の指揮官は、山下奉文陸軍大将でした。

 

英国やオランダは、堀内豊秋海軍大佐、甲村武雄陸軍少佐、山下奉文陸軍大将を、なんとしてでも復讐したかったのでしょう。

 

なぜなら、数百年に及ぶ植民地支配により、搾取してきたインドネシアやマレー半島の資源を、あっけなく奪われてしまったのですから。

 

これら歴史的快挙を遂げた指揮官たちは、終戦後、英国、オランダの怨念を晴らすために、戦犯として処刑されてしまいました。

 

参考図書

「空の神兵」田中舘貢橘著 心のかけはし 平成25年5−6月号

 

「なぜ 大東亜戦争は起きたのか?インドネシア・パレンバン落下傘部隊の記録 空の神兵と呼ばれた男たち」高山正之、奥本實共著

 

 

 

A級戦犯の靖国神社への合祀のあと、天皇皇后両陛下による靖国神社への参拝ができなくなったと言われています。

 

実は、天皇皇后両陛下は、靖国神社への合祀のあとも、七人の士への墓参りを自らの意思で行っていたのです。

 

昭和21年4月29日、東京裁判において七人の士が起訴されました。

 

4月29日は、昭和天皇のお誕生日になります。

 

七人の士とは、

土肥原賢二(陸軍大将、特務機関)

松井石根(陸軍大将、中支那方面軍司令官)

東条英機(陸軍大将、内閣総理大臣)

武藤章(陸軍中将、第一四方面軍参謀長)

板垣征四郎(陸軍大将、関東軍参謀長)

広田弘毅(文民、内閣総理大臣)

木村兵太郎(陸軍大将、ビルマ方面軍司令官)

です。(処刑された順)

 

七人の士のうち6人が陸軍大将でした。

 

昭和23年(1948)12月23日、絞首刑の判決を受けた七人の士の刑が、巣鴨プリズン(池袋サンシャインビル)にて執行されました。

 

12月23日は、当時皇太子殿下であった今上天皇のお誕生日になります。

 

絞首刑となった七人の士は、その日のうちに横浜の久保山火葬場で火葬によりご遺体は焼かれました。

 

以下は、「天皇と東条英機の苦悩 」から引用です。

 

全部の遺体が焼けたのは、一時間半ほど経ってからだった。

 

窯の扉が火夫によって開けられ、長い鉄のカキ棒で白骨が取り出されると、火葬場長の飛田は、七人の遺骨の一部を七つの骨壷に入れて他の場所に隠した。

 

ところが、この隠した骨壷は、誰かがA級戦犯を憐れんだのか、線香を供えたために、香り煙のために監視の米兵に見つかってしまった。

 

このため骨壷は米兵の手もとへ移った。

 

米兵は、鉄製の鉢の中へ遺骨を入れると、鉄棒のような物で上から突いて、骨を細かく砕きはじめた。

それはまさに死者にムチを振る惨い行為であった。

 

米軍がA級戦犯の骨を砕いて、空から東京湾へ撒くという噂があった。

 

それは日本人が英雄崇拝の対象になるのを恐れて海にばら撒くというのである。

 

遺骨を隠すことに失敗した飛田は、内心穏やかでないあせりがあった。

 

骨を砕き終えた米兵は、黒い箱を七つ出して、砕いた骨を入れた。

そして箱の上に1から7までの番号を書き入れた。

 

この遺骨の入った箱は、A級戦犯の遺体を巣鴨から運んでんきた米兵が持ち去った。

 

台の上に灰と一緒に残っていた小さな骨は、米兵の監視つきで火葬場にある共同骨捨て場に捨てるように命じられたのである。

 

A級戦犯の遺骨を奪う計画は、小磯国昭大将の弁護人だった三文字正平によって進められていた。

 

三文字弁護士は、米人弁護士のブルウェットに相談し、彼を通じてGHQに処刑されたA級戦犯の遺骨を遺族たちに渡せるように嘆願していたのである。

 

ところが、マ元帥は一向に首を振らなかったため実現はしなかった。

 

そこで三文字弁護士は、巣鴨プリズンにおいて処刑されたA級戦犯が、久保山で火葬されることを探りあてた。

 

三文字は火葬場のすぐ上にある興禅寺を訪ねて住職の市川伊雄と会った。

 

市川住職は東京裁判にも傍聴に行き、裁判の不公平さに怒りを抱く一人であった。

 

三文字弁護士が市川住職に協力を求める説明にも熱が入った。

 

このA級戦犯の遺骨が米軍の手から戻されないと、国民が不公平だった東京裁判の結果を認めたことになる。

 

彼らの命令で戦場に駆り出された三百万の英霊さえ、辱めを受けて浮かばれなくなる。

 

市川住職も日本人として耐えがたいことだったので、三文字に協力することを引き受けた。

 

市川住職は、火葬場長の飛田を三文字に紹介したのである。

 

久保山火葬場の内部に働く人の協力で、はじめはA級戦犯の遺骨を分けて隠すことができたのが、米兵の監視に見つかり失敗した。

 

今度は、火葬場の共同骨捨て場に捨てられているA級戦犯の骨を持ち出さなくてはならない。

 

次の新しい骨が捨てられるまでは、一応、少しは他の骨も混ざってしまったとはいえ、七人の遺骨は残っている。

 

これを盗み出すのは12月25日の夜と決めた。

米軍の監視がクリスマスで気がゆるんでいる隙に実行しようというのである。

 

暗くなり、頃合を見計らって、三文字弁護士と市川住職は勝手知ったる飛田火葬場長の案内で火葬場の骨捨て場に忍び込んだ。

 

三人は米軍の監視に見つからぬように、闇夜の中で外套を頭からかぶり、身をかがめながら作業を始めた。

 

三人は暗がりの中で音を立てないように、根気よく手探りで遺骨を探し集めた。

 

七人の遺骨は全体の一部でありながら、大きな骨壷に一杯分を集めることができた。

 

火葬場から盗み取ってきた遺骨は、湿気をとるために再度焼かれた。

 

遺骨のことが世間に漏れては米軍の咎めを受けることになる。

 

そこで三文字の甥で、上海の戦線で戦死した三文字正輔の名前を骨壷に書いた。

 

これを興禅寺に預けて供養することになったのが、A級戦犯として処刑された七名の秘められた供養であった。

(「天皇と東条英機の苦悩 」塩田 道夫著)

 

その後、三文字氏は、松井大将の他、七人の士の遺族らと相談し、翌年5月3日、廣田氏、東條大将、武藤大将の未亡人とともに興亜観音を訪れました。

 

興亜観音とは、松井大将が生前、南京城攻略のあと支那大陸から戻ってきてから、熱海伊豆山の山中に建立したものです。

 

松井大将は、興亜観音にて、南京城攻略で戦死した日本兵だけでなく支那兵をも平等に、毎日、戦没者供養していました。

 

興亜観音を訪れた、三文字氏と廣田氏、東條大将、武藤大将の未亡人は、先代堂守である伊丹忍礼師に「知り合いの方の遺骨だが時期が来るまで秘蔵しておいて欲しい」と、頼みました。

 

伊丹忍礼師は、その遺骨を一目みて、七人の士のものと直感。

 

こころよく承諾されました。

 

昭和27年4月28日、サンフランシスコ講和条約の発効により、日本の主権が回復しました。

 

しかし、講和条約には次のような規定がありました。

 

第11条、関係国の同意なくして、日本政府は勝手に戦争受刑者(戦犯)を釈放してはならない。

 

この規定の為、日本の主権が回復した後も、巣鴨プリズン、モンテンルパ(フィリピン)、マヌス島(オーストラリア)において、1224名の日本人及び、戦時中日本国籍を有していた朝鮮人と台湾人が、釈放されることなく、A、B、C級戦犯として服役していました。

 

昭和27年(1952)6月5日、東京裁判で戦犯とされた方々の、名誉回復のための署名運動が全国規模で起こり、4000万人の署名が集まりました。(戦争受刑者の助命、減刑、内地送還嘆願運動)

 

この4000万人の署名は国会を動かしました。

 

昭和28年(1953)8月、衆院で「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が全会一致で採択。

 

東京裁判で戦犯とされた方々は、「日本にとっては戦犯ではない」という名誉回復が、国会において正式に決議されたのです。

 

そして、日本政府は関係各国と交渉して、死刑を免れたA級戦犯とBC級戦犯を、昭和33年までに釈放しました。

 

昭和34年4月19日、七人の士の遺骨が安置されていた、伊豆の興亜観音に「七士の碑」が建立されました。

 

昭和35年(1960)4月28日、三文字正平弁護士らは、東京の日比谷で開かれた東京裁判弁護団解散記念会において、三河山頂に七人の士の墓碑を建てる計画を発表。

 

ご遺族の方の同意のもとに、各方面の有志の賛同を得て、愛知県幡豆郡幡豆町(はずぐんはずちょう)の三ヶ根山(さんがねさん)山頂に合祀墓がつくられ、伊豆の興亜観音から七人の士の遺骨が分骨されました。

 

そして、昭和35年8月16日静かに関係者と遺族が列席の元、「殉国七士廟」の前で墓前祭が行われました。

 

昭和54年5月26日、昭和天皇皇后両陛下は、豊田市内で行われる植樹祭にご出席されるために、愛知県の三ヶ根山頂にある「グリーンホテル」にご宿泊されました。

 

植樹祭の会場は豊田市内なので、宿泊先も豊田市内にあるホテルが便が良いと思います。

 

しかし、昭和天皇の強いご意向(御内意)により、わざわざ三ヶ根山頂にある「グリーンホテル」にご宿泊されたのです。

 

なぜでしょうか?

 

当日の朝6時すぎ、同行していた元政府高官の方が、ご案内のためにお部屋に行くと、天皇皇后両陛下は、三ヶ根山頂にある七人の士の眠る「殉国七士廟」の方角に対して、直立不動のままに佇立(ちょりつ)されていました。

 

直立不動のままに佇立(ちょりつ)されていた時間は、元政府高官の方がお部屋についてから15分間でしたので、実際はそれ以上、佇立(ちょりつ)されていたと思われます。

 

天皇皇后両陛下は、殉死された七人の士に対して、どのような思いで佇立(ちょりつ)されていたのでしょうか?

 

この前年の昭和53年10月17日、七人の士(A級戦犯)の靖国神社への合祀が行われていました。

 

靖国神社への合祀の後も、天皇皇后両陛下は、七人の士への墓参りを行なっていたのです。

 

参考図書

「日本人が知ってはならない歴史」若狹和朋著

「天皇と東条英機の苦悩 」塩田 道夫著

 

 

 

 

 

 

かつて、「地上の楽園」と騙されて、北朝鮮に渡った在日朝鮮人や日本人妻の人たち。

 

「地上の楽園」どころか、人権弾圧をやりたい放題の北から命がけで脱出する人が絶えません。

 

朝鮮総連や朝日新聞が、「地上の楽園」と騙した北朝鮮では、どのような人権弾圧が行われていたのでしょうか?

 

昭和35年(1960年)9月23日、朝鮮の済州島出身の両親の元、政美さんは、次女として、大阪市生野区に生まれました。

 

当時は、朝鮮総連や朝日新聞などが、北朝鮮を「地上の楽園」と宣伝して、在日朝鮮人と日本人妻を、北朝鮮に帰国させる事業を盛んに行っていました。

 

昭和37年(1962年)に父親を亡くし、子供3人を抱えたお母さんは、在日朝鮮人の男性と再婚しました。

昭和38年(1963年)10月18日、「地上の楽園」である北朝鮮に行けば生活が楽になると説得されて、家族と共に北朝鮮に向かうことになりました。

新潟港から乗船して、北朝鮮の清津港に到着。

 

清津港は古く、出迎えの人たちの姿は貧しかったそうです。

 

そのような状況を見て、まだ10代後半だったお兄さんは、「船から降りない。日本に返してくれ!」と言い張りました。

 

そして、そのままどこかへ連れ去られてしまいました。

それから4年半経ったある日、政美さんは、、精神病患者専用の病院で、髪は伸び放題でボロボロの服を着たお兄さんに再開しました。

 

薬漬けにされて、生きるのもやっとの状態にさせられてしまったのでしょう。間も無くお兄さんは亡くなってしまいました。

 

北朝鮮では、生まれた時から思想教育が徹底されます。

 

幼稚園では、ハングル文字を憶える前に「キム・イルソン」「キム・ジョンイル」の名前を暗記させられます。

在日帰国者は、朝鮮人たちから「チョッパリ(日本人の蔑称)」などと差別されました。

 

「神様は我々を助けてくれないが、キム・イルソンは我々を助けてくれる」と教育されました。

 

政府に反抗すれば、政治犯として殺害されてしまいますので、誰でも、政府に反抗する意志をなくして行きました。

昭和55年(1980年)、政美さんは、新義州第1師範学校を卒業して、新義州内の大学の体育教師として働き、マス・ゲームの指導教官になりました。

 

平成7年(1995年)5月、政美さんは、餓死者の「遺体処理」に動員されました。

この年、北朝鮮では、大規模の飢饉が起きました。

 

餓死者は90年代を通して合計300万人以上とも言われました。平壌以外の地方都市の多くで配給がストップしました。

当局からは「絶対に仕事内容を外に漏らさないように」と誓約書にサインをさせられ、政美さんは、秘密裏に遺体処理の仕事に携わりました。

 

新義州駅前の旅館内には遺体が山のように運ばれ、夜になると学生たちと4班に分かれ山間部に遺体を捨てに行きました。

 

遺体の数は、35日間で2千体を超えました。

 

平成8年(1996年)11月、政美さんは、突然解雇されてしまい、山奥への追放を言い渡されてしまいました。

 

大学入試を控えていた娘と、高校生の息子も一緒に追放されてしまいました。

 

子供の将来まで潰されてしまうのは耐え難かったそうです。

 

各部署に必死に掛け合いましたが、無駄でした。

 

政美さんは、この時、ついに脱北を決意しました。

中朝国境を流れる鴨緑江(アムノッカン)河口付近で、引き潮の時間を見計らって、川を渡ろうと計画しました。

 

平成12年(2000年)12月1日午前5時。

国境付近に、子供たち3人と身を潜め、引き潮の時間まで待ちました。

 

真冬の鴨緑江周辺は、マイナス20度以下になる日もある極寒でした。

 

持ってきたお弁当は凍ってしまい、両手、両足は感覚が無くなり、紫色に変色していきました。これは、凍傷の症状でした。

政美さんは、心の底から次のように祈りました。

 

「仏様、本当にお忙しいとは思いますが、しばらくこの3人に目を向けては頂けませんでしょうか。この運命を、命を、どうかお助け下さい!」と。

熱心な仏教徒だったお母さんの言葉を思い出しました。

「仏教の神様は何億という自分の子供たちを常に見ているよ。

 

人生で本当に困ったときには、心から祈ったら助けてくれるんだよ。それを信じて、あなたは生きていかなくてはならないよ」と。

生前、お母さんが、よく話してくれていた言葉が、このとき、心の底から湧き上がってきました。

 

涙が止まりませんでした。

午後6時を過ぎたころ、土手で警戒に当たる警備兵がいないのを確認して、脱北を決行しました。

 

境界線にある土手を一気に駆け上がると、電気鉄条網の鉄線を古木で押し拡げて、息子と娘を通しました。

 

脱北後に着替える衣類を詰めたバッグを持って、3人は境界線を越えました。

しかし、中国領側の土手の向こうは、干潟が遙か遠くまで続いていました。

立ち止まっている暇はありません。

 

凍傷で指先の感覚がなくなった両足を動かして、泥沼をかき分けていきました。

 

黙々と歩いていると、海水がすでに腰周りまで満ちてきているのに、ハット気がつきました。

 

娘は、すでにのど元まで海水に浸かっていました。

このままでは溺れてしまう。

 

身の危険を察知して周りを見渡すと、たまたま、岸に繋がれていた木製の小舟を見つけました。

 

子供を乗せて叫びました。

「チン・ジューミン!(清救命)」

しばらくして、中国人の老人が、岸へと引き上げてくれました。

 

直後に「ザザザーッ」という流水音が聞こえ、河は海水で一気に満たされていきました。まさに間一髪でした。

その後、政美さんは、新義州にある国家保衛部の留置所に拘束されてしまいました。

 

決死の覚悟で脱北したのに、中国公安によって、北朝鮮に強制送還されてしまったのです。

留置所内での拷問は、想像を絶するものでした。

 

顔面への殴打で目は潰れ、歯はすべて抜け落ちた。舌は口から出たまま元に戻らず、肛門は開いたままでした。

身体は、糊のように床に貼りついてしまい、動くことすらできませんでした。

 

声も出ません。

 

死体同然になり果てた中で、心の声はささやきました。

 

「大丈夫です。死ぬことはありません」

「あなたは死なない。生きてその経験を世界に伝えなさい。あなたをここから助けてあげますので、その大事な仕事をしっかりと果たしなさい」と。

息が閉じようとする、まさにその瞬間、心の内側から響いてきた厳かな「言葉」でした。

平成15年(2003年)11月、政美さんは、2度目の脱北を果たしました。

 

平成17年(2005年)7月28日、日本のNGO「脱北帰国者の生命と人権を守る会(以下「守る会」)などの支援で、息子と共に日本への帰国を果たしました。

 

そして、娘さんは、同年11月末に日本に帰国。

お母さんとともに、『地上の楽園」と騙されて、新潟港から北朝鮮に渡った政美さん。

 

政美さんと同じように、在日朝鮮人と日本人妻93、340人が、朝鮮総連や朝日新聞などから騙されて、公的に誘拐されて、北朝鮮に渡っていきました。

 

93、340人の人々は、北朝鮮でどのような人生を送ったのでしょうか?

 

このような北朝鮮の人権弾圧に対して、非難すらしようとしない反日日本人の方々。

 

「地上の楽園」と騙して公的に誘拐したあとも、北朝鮮の実態を報道しようとしてこなかった朝日新聞。

 

「人権侵害だ!」、「差別だ!」と、何かと日本政府に対して大きな声を上げる朝鮮総連。

 

日本は、北朝鮮によって、半世紀以上にもわたり、生命と財産と人権を奪われてきたのです。

 

参考図書

The Liberty 2010年5月号

 

 

 

 

There are over 50% of Americans who believe that "It was not a mistake that we dropped the atomic bomb in Hiroshima and Nagasaki."

 

For Americans who assert that they do not need to apologize, the reason is "Remember pearl harbor".

 

The Japanese army attacked pearl harbor in Hawaii on 7 December 1941, without declaring war on war. It is the Japanese army that is bad.

 

But in fact, before that, the United States and the allied nations had declared war against Japan.

 

The battle between Japan and the United States began with the "economic blockade" such as restrictions on the export of scrap iron and fuel to Japan, the freezing of assets in the US, and the full embargo of oil to Japan.

 

"Economic blockade" is a restriction to export to Japan such as scrap iron and aircraft fuel, due to the expiration of the Japan-U.S. Commercial Navigation Treaty in January, 1940, full embargo of iron scraps in September 1940, July 1941 Japan's economic sanctions against Japan by the United States of America(A), the British(B), China(C),and the Dutch(D), such as the freezing of US assets in Japan, the freeze of assets in the UK, the freezing of assets in the U.S., the disposal of the Japan-UK Trade Navigation Treaty, etc. and the full embargo of oil in August 1941, It was done already.

(ABCD enclosing network)

 

Mitsui and others tried to acquire oil fields and mines such as Brazil by the private sector, but abandoned by the pressure of the United States.

 

At that time, Japan relied on imports from the United States of 80% of the oil, so if it was completely embargoed from the United States, oil stockpiles were in a situation of bottoming out in less than three years in peacetime and one and a half year in wartime .

 

Could it be said that this economic blockade is a war act?

 

In 1928, in Paris, the "General Treaty for Renunciation of War as an Instrument of National Policy" (Kellogg-Briand Pact) was signed in 15 countries including Japan.

 

The joint proposal for this Kellogg-Briand Pact was the Secretary of State of Frank Kellogg of the United States and Foreign Minister Brian of France.

 

Secretary Kellogg explains that judgment on whether "aggression war" or "self-defense war" has each country equipped with "Right of Self Interpretation", it is nothing else to judge on their own. did.

 

Also on December 7, 1928, at the US Senate Parliament, discussions were held over ratifying the Treaty of Paris.

 

Secretary of State Kellogg answered as follows to the question that the lawmakers asked, "What will happen if the state receives" economic blockade "instead of being militarily attacked?"

 

"It is not usually thought to do just" economic blockade "without fighting the war.

 

In addition, Secretary of State Kellogg asked the question "Do you think that" economic blockade "is equivalent to" act of war "?"

 

"Of course, (economic blockade is war act itself)" I affirmed.

 

Even in Kellogg-Briand Pact, it was declared that "economic blockade is the act of war itself".

 

However, during the Occupation Tokyo trial, Japan was condemned as having carried out an aggressive war in violation of Kellogg-Briand Pact.

 

Former US president Huber met with MacArthur after Japan's defeat and stated as follows.

 

"I said" All of the war with Japan was the desire of a madman (Roosevelt) who wants to set up a war, "MacArthur also agreed.

 

MacArthur said, "The financial sanctions against Japan in July 1941 was not only provocative, but if we do not cancel that sanction,

 

Even if it is a suicidal act, Japan has been forced to war. Economic sanctions are not subject to slaughter and destruction, but they are war acts,

 

Even in any country, if it was a country that took pride in, I could not bear it. "

 

"Economic Blockade" against Japan did not shoot bullets, but in essence it was a war ".

 

MacArthur left Japan and returned to the United States as President Truman dispatched all posts.

 

And, as of May 1951, a short time after returning home, the US Senate Military Diplomatic Joint Committee testified as follows.

 

"They (Japan) were afraid that there would be 12 million people unemployed if the supply of raw materials such as oil and scrap iron were broken.

 

Therefore, the motivation for Japan to jump into the war was that most of it was forced by the need for security. "

 

Japan suffered from the economic sanctions due to the strength, suffered, could not stop stopping, and had to fight for self defense.

 

However, the Japanese government did not give up to the end in order to avoid war by talks.

 

Between April and November 1941, the negotiations between Japan and the U.S. were continued as much as possible.

 

On November 26, 1941, US Secretary of State Cordell Hull handed the documents to Yoshaburo Nomura and Saburo Kurusu, Japanese ambassador to plaintiffs plenipotentiary.

(Common name Hull note)

 

In the document, as a conclusion condition for the war avoidance, it is necessary for Japan to withdraw all Japanese military deployed in China and Buddhasmark, dismiss the Japan - Germany - Italy alliance, Japan 's puppet regime, Nangjing' s Wang Trident administration It was written to deny.

 

This content was the de facto final notice, which invalidated all Japanese concessions in the Japan-US negotiations that had been accumulated until then.

 

The 8 th Meeting was held on September 6, 1941 before receiving this "Hull note".

 

Emperor Hirohito took out a piece of paper from his pocket and read it himself.

 

"Ocean sea

Everyone in the world is brother and sister

To happen wave with wind

Why it is happen?"

 

This is poem by the Emperor Meiji who is the grandfather of Hirohito.

 

It means that the waves of strife will happen though the ocean in all directions (the world) think that they are all the same family and brothers.

 

Afterwards, Osami Nagano, the president of the Navy's Army Order, asked for remarks and said:

 

"According to the government statement, if we succumb to America's assertion it is inevitable to destroy the country, but war will also destroy the country.

 

That is, I will destroy Japan without war. However, in the war it will definitely destroy Japan. To destroy Japan without war, the body and mind are the eternal destruction of the Japanese nation.

 

However, if we stick to the spirit of warfare to protect Japan, even if we lose the war, the spirit of protection of our country is over and the descendants of Japanese people will always come back.

 

As I said earlier as the head of administration, I hope that diplomatic negotiations will achieve the objective of avoiding the battle between Japan and the United States,

 

If the Japanese government unhappily decides to open the battle and if orders are to be issued, I will go fight and fight to the last soldier. "

(The truth of post war history Toru Maeno, Fusosha)

 

Dropping the atomic bomb is not a mistake. And the United States which unilaterally evacuates by saying "surprise attack with Japanese army without declaration of declaration of war" "Remember pearl harbor".

 

Japan, which was forced into "Economic Blockade" by the Allied Powers, chose not to fight without fighting, to fight and to pass away.

 

Also, until then, the Japanese Navy was opposed to participating in the US, and 90% of US public opinion was against opposing war.

 

President Roosevelt, who declared war on the "Economic Blockade," planned to fight the US citizens and the Japanese army, to drive Japan, as if it were the first blow from Japan.

 

Reference book

"Why did America launch a war against Japan" Hideaki Kase, co-author Henry Scott Stokes

 

Reference video

"It is not bad that the US dropped the atomic bomb., Japanese should rather apologize. You should be happy to be able to survive."

 

 

 

 

 

 

「広島と長崎に原爆を投下したのは間違えではない」、と考えている米国人は、今現在でも50%以上います。

 

謝罪する必要はないと断言する米国人は、その理由として、「リメンバーパールハーバー」と答えます。

 

日本軍は、昭和16年12月8日、宣戦布告なしにハワイを奇襲攻撃した。悪いのは日本軍であると。

 

しかし、実は、それより以前に日本に宣戦布告していたのは、米国をはじめとする連合国だったのです。

 

日米開戦は、その前のくず鉄や燃料の対日輸出制限、在米資産凍結や、石油の対日全面禁輸といった”経済封鎖”から始まっていました。

 

”経済封鎖”は、昭和15年1月の日米通商航海条約の失効に伴う、くず鉄や航空機燃料などの対日輸出制限、昭和15年9月の鉄くずの対日全面禁輸、昭和16年7月の日本の在米資産凍結、在英資産凍結、在蘭資産凍結、日英通商航海条約等の廃棄、同年8月の石油の対日全面禁輸といった、米国、英国、オランダ、シナによる対日経済制裁が、すでに行われていました。

(ABCD包囲網)

 

三井物産など民間による、ブラジルなどの油田や鉱山を獲得しようとしましたが、米国の圧力により断念。

 

当時の日本は、石油の8割を米国からの輸入に頼っていたので、米国から全面禁輸されてしまったら、平時で3年弱、戦時で1年半で石油備蓄は底をつく状況でした。

 

果たして、この経済封鎖は、戦争行為と言えるのでしょうか?

 

昭和3年、パリにおいて、「戦争放棄に関する条約」(パリ不戦条約)が日本を含む15カ国において調印されました。

 

このパリ不戦条約を共同提案したのは、米国のフランク・ケロッグ国務長官とフランスのブリアン外相でした。

 

ケロッグ国務長官は、”侵略戦争”か”自衛戦争”かについての判断は、それぞれの国家が「自己解釈権」(Right of Self Interpretation)を備えており、自ら判断するほかはない、と説明しました。

 

また、昭和3年12月7日、米国上院議会にて、パリ不戦条約を批准することを巡り議論がされました。

 

議員から「国家が軍事的に攻撃されるのではなく、”経済封鎖”を受けた場合はどうなるのか?」との質問に対し、ケロッグ国務長官は、次のように答えました。

 

「戦争を戦わないで、”経済封鎖”だけを行うことは普通考えられない。」と。

 

さらに、「”経済封鎖”は、”戦争行為”に当たると思うがどうか?」との質問に対し、ケロッグ国務長官は、

 

「もちろん、(経済封鎖は)戦争行為そのものである」と断言しました。

 

パリ不戦条約においても、”経済封鎖は戦争行為そのものである”と断言されたのです。

 

しかし、占領期の東京裁判において、日本はパリ不戦条約に違反して侵略戦争を行なったとして糾弾されてしまいました。

 

フーバー元米国大統領は、日本敗戦後、マッカーサーと会って、次のように述べました。

 

「私が『日本との戦争の全てが、戦争を仕掛けたいという狂人(ルーズベルト)の欲望だった』と述べたところ、マッカーサーも同意した。

 

マッカーサーは『1941年7月の日本に対する”金融制裁”が、挑発的だったばかりでなく、その制裁を解除しなければ、

 

たとえ自殺行為であったとしても、日本を戦争をせざるを得ない状態まで追い込んだ、経済制裁は殺戮と破壊が行われないものの、戦争行為に当たるものであって、

 

どのような国であっても、誇りを重んじる国であったとすれば、耐えられることではなかった』と述べた。

 

日本に対する”経済制裁”は、弾こそ撃っていなかったが、本質的には戦争であった」と。

 

マッカーサーは、トルーマン大統領からすべての役職を罷免されたので、日本を去り米国に帰国ました。

 

そして、帰国して間もない、昭和26年(1951年)5月3日、米国上院軍事外交合同委員会において、次のように証言しました。

 

「彼ら(日本)はもし、これらの石油やくず鉄などの原料の供給が断ち切られたならば、1000万人から1200万人の失業者が発生するだろうことを恐れていた。

 

したがって、日本が戦争に飛び込んでいった動機は、その大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった」と。

 

日本は、列強による経済制裁にもがき苦しみ、止むに止まれず、自衛のために戦わざるを得なかったのです。

 

しかし、日本政府は、話し合いにより戦争回避をしようと、最後まで諦めませんでした。

 

昭和16年4月から11月まで、日米交渉がなんども続けられました。

 

昭和16年11月26日、米国務長官コーデル・ハルは、日本側全権大使の野村吉三郎と来栖三郎に書類を渡しました。

(ハルノート)

 

その書類には、戦争回避のための妥結条件として、中国および仏印に展開しているすべての日本軍の撤兵、日独伊三国同盟の廃棄、日本の傀儡政権である、南京の汪兆銘政権を否認することが書かれていました。

 

この内容は、それまで積み上げられてきた日米交渉において、日本側の譲歩をすべて無効にするような、事実上の最後通牒でした。

 

このハルノートを受け取る前の、昭和16年9月6日に第8回御前会議が開かれました。

 

昭和天皇は、懐から紙片を取り出し、自らお読みになられました。

 

 四方の海

 みなはらからと

 思ふ世に

 など波風の

 たちさわぐらむ

 

これは明治天皇の御製です。

 

四方の海(世界中)は、みんな同じ家族であり兄弟であると思うのに、なぜ争いの波風が起こるのだろうか、という意味です。

 

その後、海軍軍令部総長の永野修身(おさみ)元帥は、発言を求められ次のように発言しました。

 

「政府側陳述によれば、アメリカの主張に屈服すれば亡国必至であるとのことであったが、戦うもまた亡国であるかも知れない。

 

すなわち戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れぬとすれば、戦わずして亡国にゆだねるは身も心も民族永遠の亡国であるが、

 

戦って護国の精神に徹するならば、たとい戦い勝たずとも祖国護持の精神がのこり、われらの子孫はかならず再起三起するであろう。

 

統帥部としてはもとより先刻申したとおり、あくまで外交交渉によって目的貫遂を望むものであるが、

 

もし不幸にして開戦と決し大命が発せられるようなことになるならば、勇躍戦いに赴き最後の一兵まで戦う覚悟である。」

(『戦後歴史の真実』前野徹著、扶桑社)

 

原爆投下は間違えでない。そして、日本軍による宣戦布告なき奇襲攻撃を「リメンバーパールハーバー」と言って、一方的に避難する米国。

 

連合国による経済封鎖に追い込まれた日本は、戦わずして亡国する道を選ばず、戦って亡国する道を選びました。

 

また、それまで日本海軍は、対米参戦に反対でしたし、米国世論の90%もが、参戦することに反対でした。

 

経済封鎖という宣戦布告をしていたルーズベルト大統領は、はじめの一撃を打たせるために日本を追い込んでいき、米国世論と日本軍を、日米開戦に引きずり込んでいったのでした。

 

 

参考図書

「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」加瀬秀明、ヘンリーストクス共著

 

参考動画
「原爆投下は悪くない、むしろ謝れ。 生き残れただけ幸せですよ。」