フィリピンの東隣に位置する太平洋の島国、パラオ共和国。
パラオは、親日国として有名ですが、なぜでしょうか?
パラオ諸島は、もともとドイツの植民地でしたが、第一次世界大戦でドイツが敗戦した後、国連の指示により、日本の委託統治領となっていました。
委託統治領となった後、日本は、パラオ諸島に学校や病院や道路などインフラ整備を続け、農業指導なども行い、産業開発のための投資を積極的に行っていきました。
そのため、日本の委託統治時代に、パラオ諸島は、コロール島を中心にとても豊かになりました。
大東亜戦争が始まると、太平洋の島々で米軍と日本軍の戦闘が激しくなっていきました。
昭和19年(1944年)4月、中川州男陸軍大佐率いる水戸歩兵第2連隊は、極寒の満州から、南の島、パラオ諸島の守備隊に転属されました。
パラオ諸島の中でもペリュリュー島という小さな島に、日本海軍が大規模な飛行場を建設していたので、米軍がこの島に注目して奪いにきました。
米太平洋艦隊を指揮するニミッツ提督は、海兵師団長のウィリアム・H・リュバータス少将にペリリュー島占領を命令。
第三艦隊を指揮するハルゼー大将は、約800隻の艦艇を海兵隊支援のため、ペリリュー島に派遣されました。
連合軍総兵力、約5万4000人。
これに対し、迎え撃つ日本軍守備隊は、中川州男陸軍大佐が指揮する、陸軍の第14師団歩兵第2連隊を中心とする約1万900人。
中川州男大佐は、地元住民を全員、他の島に移住させて、これから始まる米軍との戦闘の犠牲とならないように配慮しました。
地元の島民たちは、「日本軍と一緒に戦いたい」と希望しましたが、その願いは叶えられませんでした。
「我々は戦いの専門家であるので、死ぬのは我々だけで十分でる。島民たちは一人も死ぬな」というようなことを言って説得したり、
「日本陸軍が、お前ら土人と一緒に戦えるわけがない」というきつい表現で、島民たちの強い願いを拒絶しました。
日本守備隊は、ペリュリュー島を守り抜くという使命を帯びていたので、玉砕覚悟で死ぬために戦うとは、口が裂けても言えなかったのです。
日本の兵隊さんたちが、この島を守るために戦うのであれば、島の住民たちはそのまま残っていてもいいのではないか、という理屈になりますけれども、玉砕を意識していた日本兵たちは、何としてでも、島の一般住民たちを助けたかったのです。
一人の犠牲者を出したくなかったのです。ですから、「日本陸軍が、お前ら土人と一緒に戦えるわけがない」というきつい表現を使って、島の人々を避難させました。
日本兵は、島民が船に乗り、島を離れる際、かつて一緒に歌った歌を歌って、パラオの人たちを見送りました。
もう二度と会うことができずに散っていく、自分たちの身を意識しながら。
昭和19年(1944年)9月15日、米軍最強と言われた第一海兵師団(海兵隊)が、ペリュリュー島に上陸開始。
当初、米軍は、ペリリュー島への上陸作戦は、2、3日で終わるだろうと考えていました。または、午前中で島の占領が終わり、午後からはビーチでバーベキューを楽しめる、とも考えていました。
海兵師団(海兵隊)が、島に上陸するまでに、島の形が変わるほどの蜂の巣のような爆撃を、戦闘機による空爆や艦砲射撃により行っていたので、ペリリュー島全土は焦土と化していました。
ペリュリュー島に生存している生き物はいないだろうと思われていました。
ところが、中川州男大佐率いる日本陸軍の兵隊たちは、地下に天然の洞窟を利用した陣地を、ツルハシだけで作り、米軍の爆撃の間、じっと地下で耐えていました。
中川大佐は、部下たちに常に語っていました。
「我々は、『祖国への愛』『家族への愛』『同胞を守る』ということのために戦っている。
我々が一日でも長く、ここで持ちこたえることができれば、祖国への攻撃を一日遅らせることになるのだ。われわれが死ぬ代わりに、祖国への人たちが何千、何万と死ぬのを食い止めているんだ」と。
米軍の第一海兵師団が、用意周到に上陸を始めました。
日本兵からの予想もしない迎撃にあい、最初の上陸部隊の約1万人のうち約6500名が死傷しました。
米軍では、6割の兵士が損傷を受けた場合、ほぼ全滅と報告されますので、米軍の中で最強と言われた第一海兵師団(海兵隊)が、ほぼ全滅してしまったのです。
負傷兵たちは、海上に停泊している病院船に運ばれ、次々と増援部隊が島に上陸していきました。
続出する死傷者をみて、米軍は「悪魔の島」と呼びました。
米軍は、火炎放射器を使って、島の至る所にある洞窟の中を焼き払っていきました。また、重油を洞窟に流し込みそれに火をつけて焼き払うということを行っていきました。
日本兵を火あぶりの刑にしていったのです。
この火あぶり戦法は、のちの硫黄島や沖縄戦でもやっていきました。
2、3日で落ちると思われていたペリリュー島攻略作戦は、9月15日の上陸以降、70日以上も戦い続きました。
マッカーサーは、当初、ペリリュー島を落としてから、フィリピンのレイテ島に向かう予定でしたが、なかなか落ちないので、ペリリュー島を諦めて、先にレイテ島に向かうことにしました。
それ以降、日本軍の守備隊が、ペリリュー島で戦う意義がなくなってしまったという見方もあります。
しかし、この日本軍のしぶとい戦い方を経験した米軍は、日本本土上陸を躊躇することとなります。
なぜなら、小さな島を落とすのに日本軍と同等の米軍兵士が犠牲となったので、このまま日本本土を上陸したら、数百万規模の米軍兵士が犠牲となると試算したからです。
昭和天皇陛下から、激励の御嘉賞(褒め称えること)の電報がペリリュー島守備隊に向けて11回も送られました。
しかし、11月になると、食料も弾薬も尽きたので、中川州男大佐は、次の電文を最後に、夜、敵陣に夜襲突撃を行いました。
11月22日、パラオ地区集団参謀長 多田督知大佐 宛
3、地区隊は、24日以降、統一ある戦闘を打切り、残る健在者約五十名を以て、遊撃戦闘に移行。
あくまで持久に徹して米軍撃滅に邁進せしむ。重軽傷者中戦闘行動不能なるものは自決せしむ。
4、将兵一同聖寿の万歳を三唱。皇運の弥栄を祈念し奉る。集団の益々の発展を祈る。
最後に「サクラ・サクラ」を打電して、11月24日、中川州男大佐は、古式に則って割腹し介錯をしてもらい、最後を遂げました。(戦死後、2階級特進)
そばにいた村井権治郎少将、飯田義栄中佐もそれに続き、根本甲子郎大尉率いる55名の決死隊も玉砕。
その後も日本軍の玉砕も知らずに、生き残った山口永少尉以下、三十四名の兵士たちは、終戦後の昭和22年4月22日まで、洞窟の中で暮らして、最後の最後まで戦いを続けました。
これは、中川州男大佐から「玉砕はならぬ。最後の最後まで生き抜いて戦え」という命令を、守っていたからです。
生き残った山口永少尉以下、三十四名の兵士たちが戦い抜いた戦場は、ペリリュー島の西海岸に位置し、米軍はこの海岸をオレンジビーチと名付けました。
それは、その海岸が、戦死した米軍兵士の血が流れて、オレンジ色に染まったからです。
ニミッツ提督は、のちにペリリュー島の戦いを、次のように回想しました。
「ペリリューの複雑極まる防備に勝つには、米国史における他の上陸作戦にも見られなかった戦闘損害比率(約40%)を甘受しなければならなかった。
すでに制海権制空権を握っていた米軍が、死傷者あわせて1万人超の犠牲者を出し、この島を占領したことは、今もって疑問である」と。
(『太平洋海戦史』ニミッツ著)
ペリリュー島にある神社の石碑には、次のように刻まれています。
「諸国から訪れる旅人たちよ、この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕したかを伝えられよ」
"Tourists from every country who visit this is and should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who have died defending this island."
米太平洋艦隊司令長官、C・W・ニミッツ提督
平成5年(1993年)、パラオ自治政府の大統領に、日系2世のクニオ・ナカムラ氏が選出され、翌年の平成6年10月、米国統治領であったパラオが、パラオ共和国として独立。国連にも加盟しました。
その時、ペリリュー島を守った日本軍守備隊を讃える歌が作られました。
「ペ島の桜を讃える歌」
作詩
オキヤマ・トヨミ
ショージ・シゲオ
作曲
トンミ・ウエンティ
一
激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
オレンジ浜を血で染めた
つわもの
強兵たちはみな散って
ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる
二
小さな異国のこの島を
死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち
弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない
三
将兵(ヘいし)は”桜”を叫ぴつつ
これが最期の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ
別れの”桜"に意味深し
四
日本の”桜"は春いちど
見事に咲いて明日(あす)は散る
ペ島(じま)の”桜"は散り散りに
玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に
五
今守備勇士(もののふ)の姿なく
残りし洞窟(じんち)の夢の跡
古いペ島(じま)の習慣で
我等勇士の霊魂(たま)守る
六
平和と自由の尊さを
身を鴻(こな)にしてこの島に
教えて散りし"桜花"
今では平和が甦る
七
どうぞ再びペリリューヘ
時なし桜花(さくら)の花びらは
椰子の木陰で待ち佗(わび)し
あつい涙がこみあげる
八
戦友遺族の皆さまに
永遠(いついつ)までもかわりなく
必ず我等は待ち望む
桜とともに皆さまを
参考図書
「パラオ諸島ペリリュー島守備隊長中川州男大佐の霊言」大川隆法著