日本企業の不祥事が相次いでいます。なぜ、不祥事は繰り返されるのでしょうか?
明治以降の日本の近代化を支えてきたものは、江戸時代に全国に普及した寺子屋だったと思います。
又、寺子屋だけでなく、百姓の人でも、自分の子供に仕事の合間に、四書五経などを教えることが出来ました。
江戸時代における、親から子への家庭学習と寺子屋での古典など詰込み学習により、日本の奇跡的な近代化と欧米列強と肩を並べる一等国への飛躍が出来たのだと思います。
明治の元勲は、皆国家100年の計を持っていました。
隣の中共も持っています。(2017年10月の中国共産党大会で、2035年には経済面でアメリカの優位に立ち、2049年にはアメリカを超えて「中華民族が世界の諸民族の上にそびえ立つ」と宣言)
しかし、今の日本の政治家に、国家100年の計を持っている人がどれだけいるのでしょうか?
目先のことに囚われて、もりかけ問題に莫大なエネルギーを費やしています。
そのことが、国家100年の計を考える上で、どれほど重要なことなのでしょうか?
「遠くをはかる者は富み、近くを図るものは貧す」
二宮尊徳
これは、目先の利益ばかりに囚われていると貧しくなり、長期的な利益を求めると豊かになる、という意味です。
四半期ごとに利益を上げることばかりを追い求め、株主への配当を最大化して行くことが資本主義の正義である、という考え方(MBA)では先がありません。
勤勉に働いて貯蓄(剰余金)を増やしていき、企業の財務を健全化していくこと(ダム式経営 by 松下幸之助)こそが、資本主義の正義ではないでしょうか?
二宮尊徳は、この松下幸之助が実践した、ダム式経営の創始者でした。
又、二宮尊徳は、勤労とともに「分度」というものを説きました。
分度とは、自らの立場や状況をわきまえて、節度を保つことです。収入に応じた予算を立てて、その範囲内で生活することの重要性を説きました。
人は、自分の分をわきまえずに、収入以上の予算を立てて、経営を行ったり、個人の生活をしたりしてしまいがちです。
そして、銀行からの借金に苦しんだり、カードローンに苦しんだりしてしまいます。
しかし、客観的に自分の立場や収入をわきまえて、その範囲内での生活を行なっていくことが大切ですよ、と二宮尊徳は説いていました。
二宮尊徳は、捨て苗を育てて、米一俵を収穫。それを元手にさらに収益を得ました。
この経験から、小さなことの積み重ねが大きな成果につながるということを実体験しました。(積小為大)
文政4年(1821年)、二宮尊徳は、小田原藩主の大久保忠真から、下野の国、桜町領(栃木県真岡市)の復興を依頼されました。
尊徳は何度も固辞しましたが、忠真からの三度に渡る丁重な要請により、ついにこの要請を引き受けました。
尊徳は、田畑と屋敷と家財道具を全て売り払い、妻の波子と3歳の息子の弥太郎を抱えて、桜町に赴任しました。尊徳37歳の時でした。
尊徳が私財を売り払って得た78両は、桜町の復興資金に当てられました。
かつて3000俵の年貢米を納めていた桜町でしたが、尊徳が赴任した時には、800俵にまで落ち込んでいました。
桜町100年にわたる衰退の結果、村人たちは、希望を失い、治安も悪化していました。日が登っても雨戸を開けない家が多数ありました。
桜町に赴任した尊徳は毎日朝4時に起床して、村中を隅々まで巡回することからはじめました。
夜は12時に就寝。食事は一飯一汁。このような生活は尊徳が70歳で亡くなるまで続けられました。
尊徳は、まず荒れ果てた神社仏閣の修復から始めました。桜町の衰退の原因は、村人たちの心の荒廃にあるとみて、心の拠り所である神社仏閣を修復することを最優先にしたのです。
又、家屋や便所などが壊れた家の修復にも力を入れました。なぜなら、このような状態が続くと、人々の勤労意欲が削がれてしまうと考えたからです。
このような活動を地道に続けていくと、次第に村人たちの勤労意欲も向上していきました。そして、尊徳に対しての信頼感も増していきました。
しかし、順風漫歩とはいかないのが世の常です。
小田原藩から桜町に派遣されてくる勤番の武士がいましたが、その勤番の武士に対して、尊徳の悪口を言う村人たちがいたのです。
尊徳が赴任してから6年目に勤番としてきた豊田正作は、反尊徳派の百姓と結託して、尊徳の政策にことごとく妨害活動をしてきました。
そのような妨害活動に対して、尊徳の心は、痛みました。
文政12年正月、尊徳は江戸に出て、小田原藩主に新年の挨拶を済ますと、そのまま消息を断ってしまいました。
桜町は大騒ぎとなり、村をあげて尊徳の行方を捜しました。
そんな桜町の騒動の中、尊徳は、成田山新勝寺にて、21日間の断食修行を行なっていたのです。
4月6日の満月の日、尊徳は、次のような悟りを得ました。
「不動尊とは動かざることと尊し。たとえ、背中に火がついていても桜町から離れない」と。
尊徳は不動尊の決心をして一杯のおかゆをすすって、成田山から20里(80キロ)の道を下駄で歩いて、下野国桜町まで帰っていきました。
その後、尊徳の反対者はいつのまにか消えてしまい、復興は急速に進んでいきました。
10年目の天保2年(1831年)、1894俵の年貢米を収めることができ、ついに桜町の復興は成し遂げられました。
悟りを得たあとの歌が残されています。
「見渡せば敵も味方もなかりけり、おのれおのれが心にぞある」
「打つ心あれば、打たるる世の中よ、打たぬ心の打たるるはなし」
尊徳が、21日間の断食修行を行なった後、桜町から逃げすに復興を成し遂げる、と”決断”した時から、不思議と抵抗勢力が消え失せていきました。
壁にぶつかり、どうしよかと迷って悩んでいるうちは、問題解決の打開策は開けませんが、一旦”決断”をしたならば、不思議と問題解決の打開策が開かれていくようです。
又、報徳記には次のような記載があります。
「一人の心は誠に僅々たるが如しといえども、その至誠に至りては、鬼神これが為に感じ、天地の大なるもの、これが為に感動す。」
(「報徳記」富田高慶著)
どのような権・謀・術・数を弄そうとも、一つの誠を貫くものにかなうものなどありません。
百術は一誠に如かず(百術不如一誠)
二宮尊徳は、これを実践した方でした。
企業経営を行う上で、二宮尊徳の百術は一誠に如かず(百術不如一誠)の精神が失われているのではないでしょうか?
日本企業の不祥事が繰り返されるのは、このあたりが原因なのかもしれません。
参考図書
月間「致知」2015年9月号 致知出版社
The Liberty 2018年2月号 幸福の科学出版