子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -13ページ目

 

 

聖徳太子(厩戸皇子(うまやどのみこ))は、いなかったという人がいます。

架空の人物であり、日本の歴史書(古事記、日本書紀)にも記載がないといいます。

 

本当でしょうか?

 

西暦600年前後の時代、日本(倭国)の最有力の豪族で精強な軍事氏族あった 物部守屋(もののべ の もりや)と、豪族の蘇我馬子(そがのうまこ)が対立していました。

 

その対立の主な原因は、仏教でした。

 

百済の王から日本(倭国)の欽明天皇に仏教の経典が送られました。

(仏教伝来)

 

百済の王は伝えました。

「仏教はあらゆる教えの中で、最も優れている。遠くインドから朝鮮半島にいたるまでこの教えにしたがっている」と。

 

朝廷内で大連(おおむらじ)という役職を務める、物部氏は主張しました。

「天皇は、日本古来の神々をお祭りされています。他国の神をお祭りすると、日本の神々が怒るでしょう」と。

 

蘇我氏は主張しました。

「西方の国々はみな仏教を礼拝しています。日本だけがそれにそむくわけにはいきません。」と。

 

また、物部氏は、朝鮮半島にあった高句麗、新羅からの使者を暗殺し、友好国であった百済からの使者も暗殺してしまうという、排外的な外交政策をとりました。

 

物部守屋(もののべ の もりや)は、敏達天皇に上奏しました。

「疫病が蔓延して民の多くが死んでいます。これは蘇我氏が仏教を広めたことが原因であります。」と。

 

敏達天皇は指示しました。

「最もなことである。仏法をやめさせよ」と。

 

物部氏は、仏像や経典を次々に焼き払っていきました。

 

585年、仏教を排斥した敏達天皇が崩御。

 

用明天皇が皇位を継承しましたが、587年4月、病に倒れました。そして、神道を尊びながら、仏教にも帰依するようになっていきました。

 

物部守屋(もののべ の もりや)は、用明天皇が仏法に帰依したことを聞いて、朝廷の会議で次のように語りました。

 

「どうして日本古来の神々に背いて、他国の神を敬うのか。そのようやことは聞いたことがない。」と。

 

蘇我馬子(そがのうまこ)は反論しました。

「天皇のご意向に沿って、お助けすべきである」と。

 

587年7月、物部守屋と蘇我馬子がついに戦争をはじめました。しかし、蘇我軍は三度も撃退されてしまいました。

 

これを見た聖徳太子(厩戸皇子)は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓いました。

 

また、蘇我馬子(そがのうまこ)も、戦いに勝利したら、「諸天と大神王の奉為(おほみため)に寺塔(てら)を起立(た)てて、三宝を流通(つた)へむ」と誓願しました。

 

蘇我軍は物部軍を攻め立て、物部守屋(もののべ の もりや)は、迹見赤檮に射殺されました。大将を失った物部軍は逃げ散り、大豪族であった物部氏は滅びました。

 

この戦いの後、蘇我馬子は泊瀬部皇子(崇峻天皇)を皇位につけました。しかし政治の実権は蘇我馬子(そがのうまこ)が持ち、これに不満な崇峻天皇は蘇我馬子(そがのうまこ)と対立するようになりました。

 

592年、蘇我馬子(そがのうまこ)は、崇峻天皇を暗殺。

 

崇峻天皇は、日本の歴史上で唯一暗殺された天皇でした。(安徳天皇は、数え年8歳で入水自害をしていますが、敵である源氏に殺されたわけではないので、敵に暗殺された天皇という意味では唯一となります。)

 

その後、蘇我馬子(そがのうまこ)は、豊御食炊屋姫(推古天皇)を擁立して皇位につけました。

 

推古天皇は、史上初の女帝でした。聖徳太子(厩戸皇子)は皇太子となり、蘇我馬子と共に天皇を補佐するようになりました。

 

厩戸皇子(聖徳太子)は、皇太子となったと日本書紀には記載がありますが、この当時、皇太子という制度はなかったといって、日本書紀は誤りであると主張する人がいます。

 

それをもって、聖徳太子は架空の人物であるという論理を展開されています。

 

また、日本書紀の中には、他と異なる文章の書き方をした箇所がいくつもみられる。これは、後に誰かが書き換えた可能性が高い。

 

よって、日本書紀の内容は信用性が低い。だから、その日本書紀に書かれている話は架空の物語である、と。

 

たしかに聖徳太子という名前は、日本書紀にも古事記にもありません。記載があるのは厩戸皇子(うまやどのおうじ)という名前です。

 

しかし、日本書紀は日本の歴史書として、日本に伝存する最古の正史であり、その内容が間違っているという論拠には無理があります。

 

もし、正式に認められている歴史書が誤りであるから、そこに登場する人物はいなかった、という論理が通ってしまいますと、すべての歴史書に対して、そのような論理をあてはめることができてしまいます。

 

それでは、自分の都合の良いように簡単に歴史をかきかえることができてしまい、歴史修正主義者が世にはばかることとなってしまうでしょう。

 

そもそも日本書紀は、天武天皇が、川島皇子以下12人に対して編纂を命じたものであります。

 

今でも複数の人が本を編纂する場合、それぞれ異なる単元を分担して書いていきます。書き手によって、言い回しのくせなどが異なりますので、それをもって、「後から書き直したものである!」と断言するのは、乱暴すぎます。

 

もし、どうしても日本書紀の内容は間違っていると断言したいのであれば、いつ誰がどのように書き換えたのかが、明らかとなる証拠が必要となります。

 

592年、聖徳太子(厩戸皇子)は、物部氏との戦いの際に誓ったことを守り、摂津国難波に四天王寺を建立して、施薬院、療病院、悲田院、敬田院の四箇院を作りました。

 

また、蘇我馬子(そがのうまこ)が、物部守屋(もののべ の もりや)との戦いの際に祈願した寺院も、百済から日本へ僧と技術者(寺工2名、鑢盤博士1名、瓦博士4名、画工1名)が派遣されて、604年、現在の奈良県高市郡明日香村に建立しました。(飛鳥寺)

 

高句麗の僧侶である慧慈が来日し、中国大陸に誕生した巨大帝国、隋の情勢を伝えました。

 

598年、随(大唐国)は朝鮮半島の高句麗と戦争を開始。

 

600年、日本(倭国)は、随(大唐国)に使者を派遣しました。このときは国書を持参しませんでした。(第一回遣隋使)(中国の歴史書「隋書」「東夷傳俀國傳」)(「日本書紀」に記載なし)

 

隋の皇帝である文帝は、倭国の政治体制について説明をうけると、次のように語りました。

 

「これ、おおいに義理なし。教えてこれを改めるべし」と。

(此大無義理 訓令改之)(「随書」)

 

つまり、当時の倭国(日本)の政治体制は未熟であるので、教育して改善していく必要がある、と指摘されました。

 

随(大唐国)は、長安を首都におき、世界一大きな仏教寺院(大興善寺)を建立していました。周辺国はみな、随(大唐国)に服従していました。

 

文明大国である随(大唐国)の視察から帰国した蘇我馬子(そがのうまこ)は、聖徳太子(厩戸皇子)とともに日本(倭国)の近代化を推進していきました。

 

603年12月5日、それまでの官僚体制を改める改革を行いました。

(冠位十二階)

 

冠位十二階とは、それまでの官僚体制は、氏族ごとに定められた姓(大臣、大連(おおむらじ)など)の世襲制でしたが、個人の才能や功績、忠誠に応じて位階が与えられて、世襲もされずに、昇進も可能というものでした。

 

604年4月3日、それまで日本人が培っていた普遍的な道徳的観念を、明文化して憲法という形にしてまとめました。(十七条憲法)(「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」)(『日本書紀』)

 

十七条憲法とは、どのような内容だったのでしょうか?

 

第一条 和(やわらぎ)を持って貴しとなす。忤(さか)うること

    無きを宗とせよ。「以和為貴」

     “忤”とは「みだれる」つまりバランスを崩すという意味。世の中の

    物事は、すべて調和ということが大切である。決して片方にだけ

    偏ることなく、常に公平に見て、双方の納得できるバランス

   (即ち“調和”)を考えなければならない。

 

第二条 あつく三法(仏法僧)を敬え「篤敬三賓」

    三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)のこと。

 

第三条 みことのりを受けては必ずつつしめ「承認必謹」

第四条 うやまうことを根本とせよ「以豊為本」

 

第五条 むさぼりを絶ち、欲を棄てよ「絶賓棄欲」

第六条 悪をこらしめ善を勧めよ「懲悪勧善」

 

第七条 人各々任あり「人各有任」

    人はみな、この世にうまれてきた使命があります。その使命を全う

   することで、人は幸せになり、世の中が良くなっていくのであります。

 

第八条 朝早く出社し遅くに退せよ「早朝遅退」

第九条 まことはことわりのもとなり「信是義本」

    信とはまこと、義とはことわり。 

 

第十条 心の怒りを絶ち、表の怒りを棄てよ「絶忿棄瞋」

     忿(こころのいかり)を絶ち、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て

     人の違う意見を怒らないように。

 

第十一条 功過を明らかに察せよ「明察功過」

     功と過(あやまち)を明らかに察(み)て、

     賞罰を必ず当てるように。

 

第十二条 国に二君なし「国非二君」

第十三条 もろもろの官に任ずる者は、同じく職掌を知れ「同知職掌」

 

第十四条 嫉妬あるなかれ「無有嫉妬」

第十五条 私に背き公に向え「背私向公」

    私心を棄てて公に奉仕しましょう。

 

第十六条 古の良典を用いよ「古之良典」

第十七条 独断不可「不可独断」

    どこかに間違えがあるかもしれないという前提をもって、

    謙虚な心で話し合いをもって、行動していきましょう、

    というような意味。

 

607年、小野妹子は、随(日本書紀では「随」を「大唐国」と記載)に渡り、隋の皇帝である煬帝に、推古天皇からの国書を渡しました。(第二回遣隋使)

 

その国書の内容は、「日出(いず)る処の天子、書を日没(ぼっ)する処の天子に致す。つつがなしや」(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)というもので、聖徳太子が書きました。

 

隋の煬帝は、没落を意味する「日没する処」という言葉を見たて、「無礼である、二度と取り次がせるな」と大いに怒りを顕わにしました。(「帝覽之不悅 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞」)

(『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」)

 

煬帝が怒りをあらわにしたのに対して、小野妹子は、物怖じせずに動じない態度でいました。

 

「皇帝」という名称は、中国大陸を支配している国だけが使うことができるものであり、その周辺国であり遅れた国が、対等な名称を使うことは許されないことでした。

 

「日出(い)ずるところ」と「日沒(ぼっ)するところ」という表現は、仏教の『摩訶般若波羅蜜多経』の『大智度論』に、「日出処是東方 日没処是西方」とあります。

 

聖徳太子は、この仏教の法典から引用して、ただ単に東西の方角を表す意味で書いただけだ、という人もいます。

 

しかし、この国書は、俀國(日本)が隋との対等の外交を目指したものであり、隋(大唐国)の冊封体制に入らないことを意味する、日本の独立宣言なのであります。

 

このような日本(俀國)の独立宣言である国書を受け取り、怒った隋(大唐国)の煬帝は、なぜ、日本を侵略しようとしなかったのでしょうか?

 

当時、隋(大唐国)は、朝鮮半島の高句麗との戦争が間近にせまっており、その背後にある日本(俀國)を敵にすることはできない事情がありました。

 

翌年の608年、その国書の返礼のため、隋の煬帝から使者として裴世清が日本を訪れました。

 

その国書には、つぎのように書かれていました。

 

「皇帝、倭皇に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。

 

倭皇は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。」(「日本書記」)

 

「皇帝 倭皇に問ふ」(「皇帝問倭皇」)とあります。以前の国書にあった「倭王」から、「倭皇」に記載が変化しています。

 

”王”というのは隋(大唐国)の周辺国(衛星国)に対してつけた称号であり、隋(大唐国)の皇帝の家臣という位置づけでした。

 

それに対して、”倭皇”という称号は隋(大唐国)の皇帝と同じ位という意味になります。

 

608年、小野妹子は再び、隋(大唐国)の皇帝に国書と携えて、派遣されました。(第三回遣隋使)

 

その国書には「東の”天皇”、 つつしみて西の”皇帝”にもうす」(「東天皇敬白西皇帝」)と書かれていました。(日本書紀)

 

隋の皇帝だけが使うことが許されている称号、”皇帝”。それを倭国(日本)が使うとなると、軍事侵略して滅ぼされてしまう可能性もありました。そこで、苦肉の策として、”天皇”という称号を使うことにしました。

 

”天皇”という称号は、”倭皇”と同じで、隋の皇帝と同等であるという意味になります。

 

日本の歴史で、初めて使われた”天皇”という称号でした。

 

中国大陸の皇帝の家来になることなく、日本の独立を維持するという、重要な功績を残した、聖徳太子(厩戸皇子(うまやどのみこ))。

 

聖徳太子は、蘇我馬子(そがのうまこ)とともに、日本国内の政治体制を大きく変えていきました。

 

また、仏教を日本国内に大きく広めていきました。

 

もし、蘇我馬子(そがのうまこ)が勝利することなく、物部守屋(もののべ の もりや)が勝利していたら、日本全国に広く浸透している仏教寺院は無かったかもしれません。

 

もし、聖徳太子がいなかったら、日本は、他の多くのアジア諸国と同様に、中国大陸の皇帝の属国となっていたかもしれません。

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今から約830年ほど前、源平合戦に勝利した弟の源義経を、鎌倉に受け入れることなく討伐してしまった兄、源頼朝。

 

それは、義経の人気に嫉妬したからなどと言われています。

 

実は、源頼朝が、日本の国体を維持するための苦渋の決断だったのです。

 

元暦元年(1184年)8月6日、源義経は、後白河法皇より左衛門少尉、検非違使(けびいし)(律令制の下での役職で、京都の治安維持などを担当した)に任じられました。

 

元暦2年(1185年)2月、義経は、暴風雨の中を少数の船で出撃。瀬戸内海にある平氏の拠点である屋島を奇襲し、山や民家を焼き払って、大軍が奇襲してきたと見せかけて、平氏を敗走させませた。(屋島の戦い)

 

元暦2年(1185年)3月24日、義経は水軍を編成して彦島に向かい勝利。(壇ノ浦の戦い)

 

この戦いにより、栄華を誇った平氏はついに滅亡しました。

 

4月24日、平氏から取り戻した八尺鏡(やたかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を京都に持ち帰りました。

 

しかし、3種の神器の一つである、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は、海の中に沈んだまま見つけることができませんでした。

 

源頼朝は、範頼に充てた書状の中で、平氏が三条高倉宮(以仁王)、木曽義仲が「やまの宮・鳥羽の四宮(後白河法皇皇子の円恵法親王)」を殺害したこと(皇親の殺害)が、没落につながったと考えていました。

 

そして、安徳天皇の保護を厳命(『吾妻鏡』「文治元年正月六日源頼朝書状」)し、剣璽(三種の神器)の確保の命令を出していました。(『吾妻鏡』文治元年3月14日条)

 

義経にも同様の命令が出されたとみられています。

 

それにもかかわらず、義経は安徳天皇を保護できず、さらに行方不明の宝剣に関しても宇佐八幡宮に発見の祈願を行っただけで、積極的に捜索しませんでした。(『延慶本平家物語』)

 

なお、頼朝と朝廷は、範頼や佐伯景弘らに命じて、以後2年以上に渡り海人(あま)を使って、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の捜索を行いましたが、

 

文治3年(1187年)9月27日、佐伯景弘の宝剣探索失敗の報告を受けて、捜索は事実上断念されました。

(『吾妻鏡』、『玉葉』)

(「後鳥羽院政の展開と儀礼」谷 昇著 思文閣出版)

 

なぜ、源頼朝は、それほどまでして天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の確保に力を入れたのでしょうか?

 

平家は、都から逃げ落ちる際に、安徳天皇を伴っていました。

 

安徳天皇は、数え歳3歳(満1歳4か月)で天皇に即位したばかりの幼子でした。

 

安徳天皇は、平家一門に連れられ大宰府を経て屋島に行き、

1183年、現在の屋島東町にある高台に行宮を置きました。

 

(この行宮跡地には安徳天皇をお祭りした神社「安徳天皇社」があります。)

 

壇ノ浦の戦いで平家の敗戦が確実となった時、母方祖母・二位尼(平時子)は最後を覚悟しました。

 

そして、神璽と宝剣を身につけて、安徳天皇をだき抱えました。

 

まだ数え歳8歳の安徳天皇は、「どこへ行くの?」と聞きました。

 

二位尼は、「君は、前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。

 

この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と涙ながらに言いました。

 

それを聞いた安徳天皇は、小さな手を合わせ、東を向いて伊勢神宮を遙拝し、続けて西を向いて念仏を唱えました。

 

二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じました。

 

歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月、6年124日)で崩御した

安徳天皇。(「平家物語」)

 

安徳天皇の母である建礼門院(平徳子)も海に身を投げましたが、源氏の将兵によって引き上げられました。

 

そして、三種の神器のうち八尺鏡(やたかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を回収しましたが、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は、見つけることができませんでした。

 

この安徳天皇崩御より前の、寿永2年8月20日(1183年9月8日)、三種の神器がないにもかかわらず、後鳥羽天皇が践祚(せんそ)して、元暦元年(1184年)7月28日に即位していました。

 

なぜ、まだ天皇が在位している中、新たに天皇を即位させる必要があったのでしょうか?

 

「天子の位は一日たりとも欠くことができない」とする後白河法皇をはじめとする公卿たちの意見から、三種の神器とともに都落ちした安徳天皇の代わりに、新たに天皇を即位させることにしたのです。

 

日本の歴史上初めて、二人の天皇が同時に存在することとなりました。

 

そして、後鳥羽天皇が正統な天皇であることの証として、三種の神器が必要不可欠だったのです。

 

義経が平家から取り返したものは、八尺鏡(やたかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)のみ。

 

残りの一つである、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は安徳天皇の自害とともに海の中に沈んでしまいましたので、源頼朝としては、血眼になってなんとしてでも探し出す必要があったのです。

 

元暦2年(1185年)、平氏追討の際、義経の補佐を務めた梶原景時は、鎌倉にいる頼朝に宛てて、次のような書状を送りまし

た。

 

「判官殿(義経)は、君(頼朝)の代官として、その威光によって遣わされた御家人を従え、大勢の力によって合戦に勝利したのにもかかわらず、自分一人の手柄であるかのように考えている。

 

平家を討伐した後は常日頃の様子を超えて猛々しく、従っている兵達はどんな憂き目にあうかと薄氷を踏む思いであり、皆真実に和順する気持ちはありません。

 

自分は君(頼朝)の厳命を承っているものですから、判官殿(義経)の非違を見るごとに関東の御気色に違うのではないかと諫めようとすると、かえって仇となり、ややもすれば刑を受けるほどであります。

 

幸い合戦も勝利したことなので、早く関東へ帰りたいと思います。」と。

 

義経は、鎌倉に帰る途中、鎌倉郊外の山内荘腰越(現鎌倉市)の満福寺にて足止めを受けました。

 

源頼朝は、義経を鎌倉に入れさせないように、関所に指令を出していました。

 

なぜ、頼朝は、弟の義経に対してそのような厳しい態度を取ろうとしたのでしょうか?

 

梶原景時など関東武士が、義経に対して不満を持っていたからでしょうか?

 

それも確かにあるでしょう。

 

または、後白河法皇より検非違使(けびいし)(律令制の下での役職で、京都の治安維持などを担当した)に任じられたことへの反感でしょうか?

 

それも理由の一つかもしれません。

 

しかし、最も大きな理由としては、三種の神器の一つである天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を、回収できなかったことにあります。

 

三種の神器の一つが紛失してしまったということは、万世一系の正統な天皇の皇位継承ができないということとなり、日本の国体を揺るがしてしまう重大なことだったのです。

 

5月24日、腰越(現鎌倉市)の満福寺にて足止めを受けた義経は、以下のような頼朝に宛てて書いた手紙を、頼朝の側近大江広元に渡しました。(腰越状)

 

「左衛門少尉義経、恐れながら申し上げます。私は(頼朝の)代官に選ばれ、勅命を受けた御使いとして朝敵を滅ぼし、先祖代々の弓矢の芸を世に示し、会稽の恥辱を雪ぎました。

 

ひときわ高く賞賛されるべき所を、恐るべき讒言にあい、莫大な勲功を黙殺され、功績があっても罪はないのに、御勘気を被り、空しく血の涙にくれております。

 

つくづく思うに、良薬は口に苦く、忠言は耳に逆らうと言われています。

 

ここに至って讒言した者の実否を正されず、鎌倉へ入れて頂けない間、素意を述べる事も出来ず、徒に数日を送っています。

 

こうして永くお顔を拝見出来ないままでは、血を分けた肉親の縁は既に空しくなっているようです。私の宿運が尽きたのでしょうか。はたまた前世の悪業のためでしょうか。悲しいことです。

 

そうはいうものの、亡き父上の霊がよみがえって下さらなければ、誰が悲嘆を申し開いて下さるでしょうか。

 

憐れんで下さるでしょうか。今更改まって申し上げるのも愚痴になりますが、義経は身体髪膚を父母に授かりこの世に生を受けて間もなく父上である故左馬の頭殿(義朝)が御他界され、

 

孤児となって母の懐中に抱かれ、大和国宇多郡龍門の牧に赴いて以来、一日たりとも心安らぐ時がありませんでした。

 

甲斐無き命を長らえるばかりとはいえども、京都の周辺で暮らす事も難しく、諸国を流浪し、所々に身を隠し、辺土遠国に住むために土民百姓などに召し使われました。

 

しかしながら、機が熟して幸運はにわかに巡り、平家の一族追討のために上洛し、まず木曾義仲と合戦して打ち倒した後は、平家を攻め滅ぼすため、

 

ある時は険しくそびえ立つ岩山で駿馬にむち打ち、敵のために命を失う事を顧みず、ある時は満々たる大海で風波の危険を凌ぎ、身を海底に沈め、骸が鯨の餌になる事も厭いませんでした。

 

また甲冑を枕とし、弓矢をとる本意は、亡き父上の魂を鎮めるというかねてからの願いである事の他に他意はありません。

 

そればかりか、義経が五位の尉に任ぜられたのは当家の名誉であり、希に見る重職です。

 

これに勝る名誉はありません。そのとおりと言えども、今や嘆きは深く切なく、仏神のお助けの外は、どうして切なる嘆きの訴えを成し遂げられるでしょうか。

 

ここに至って、諸神諸社の牛王宝印の裏を用いて、全く野心が無い事を日本国中の神様に誓って、数通の起請文を書き送りましたが、なおも寛大なお許しを頂けません。

 

我が国は神国であります。神様は非礼をお受けにはなりません。他に頼る所は無く、偏に貴殿の広大な御慈悲を仰ぐのみです。

 

便宜を図って(頼朝の)お耳に入れていただき、手立てをつくされ、私に誤りが無い事をお認めいただいて、お許しに預かれば、善行があなたの家門を栄えさせ、栄華は永く子孫へ伝えられるでしょう。

 

それによって私も年来の心配事も無くなり、生涯の安穏が得られるでしょう。言葉は言い尽くせませんが、ここで省略させて頂きました。

 

ご賢察くださることを願います。義経恐れ謹んで申し上げます。

元暦二年五月 日 左衛門少尉源義経

進上因幡前司殿」

(『吾妻鏡』第4巻)

 

源頼朝は、どこまでも日本の国体を護持することを重視していました。そして、その責務を果たすことができなかった源義経に対して、武士としての責任を取らせたかったのでしょう。

 

もし、源頼朝に三種の神器の確保がどれほど重要なのかという認識がなく、源義経を鎌倉に受け入れてたくさんの褒美も与えていたならば、日本の国体の維持は難しかったかもしれません。

 

画像

源頼朝

源義経

 

 

 

 

 

日本の国歌である「君が代」は、朝鮮半島で作られたという人がいます。

 

本当でしょうか?

 

実は、古事記が編纂された今から約1300年前よりはるか昔から、日本において、その源流となる歌が作られていました。

 

 

「君が代」の歌詞は、三番まであります。(法律上の国歌は一番のみ)

 

一、 君が代は  千代に八千代に  さざれ石の

 

            巌となりて  苔の生すまで

 

二、 君が代は  千尋(ちひろ)の底の  さざれ石

 

            鵜のゐる磯と  あらはるるまで

 

三、 君が代は  限りもあらじ  長浜の

 

         真砂(まさご)の数は  よみつくすとも

 

一番は、「君が代」が「我が君」となっていますが、「古今和歌集(905年)」と「和漢朗詠集、(1013年)」に詠み人知らずとして掲載されています。

 

二番は、源頼政の詠んだ和歌とされています。三番は「古今和歌集」の詠み人知らずの歌で、光孝天皇の大嘗祭で伊勢の国より奉られた和歌です。

 

三番の類似した和歌として、「わが恋は よむともつきじ 荒磯海の 浜の真砂は よみつくすとも」という歌も「古今和歌集」に掲載されています。

 

古事記が編纂された時代よりはるか古代より伝わる「ほつまつたえ」というものがあります。「ほつまつたえ」とは、「ヲシテ」文字といわれる「神代文字」を使って書かれた書物になります。

 

その中に以下のような和歌(ほつま歌)が書かれています。

 

第1番

 しわかみ(磯輪上)の 心ほつまと 成る時は

         花咲く御代の 春や来ぬらん

(「ほつまつたえ」三輪の臣 大直根子作)

 

第2番 

 

 磯の輪の まさご(真砂子)は読みて 尽くるとも

          ほつまの道は 幾代尽きせじ 

(「ほつまつたえ」三輪の臣 大直根子作)

 

第3番

 

 カカン(神明)なす 春の等しく 巡り来て 

       磯の真砂子は  いわ(巌)と成る 

       世々ノンテン(法典)の  ほつま書かな

(「ほつまつたえ」三笠臣伊勢の神臣 大鹿島作)

 

「しわかみ」とは、海岸の磯の上から広い地平線をみながら、という感じ。

 

「心ほつまとなる時」は心がおだやかで素直な状態。大自然と一体となって溶け込んでいるような様子。

 

この3つの歌を訳しますと、 

 

人は、しわかみ(磯輪上)の心、大自然と一体となって素直でおだやかな心で生きていく。そうすれば春に花が咲くように平和で安定した世の中が現れるだろう。

 

このほつまの道(大自然と調和した素直でおだやかな心)から外れてしまったとしても、それに目を覚まして、原点に帰るならば、再び春のような平和で安定した世の中になるでしょう。

 

天照らす神(太陽)のおかげで、春のような暖かくおだやかな世の中が巡ってきた。海岸の砂粒のような小さな存在(国民)は、まとまって岩のような硬い盤石なもの(国)となる。そのような世の中になるための法典が、ほつま伝えである。

 

このほつま歌と比較して、君が代の歌はどう訳することができるでしょうか?

 

一、 君が代は  千代に八千代に  さざれ石の

 

            巌となりて  苔の生すまで

 

二、 君が代は  千尋(ちひろ)の底の  さざれ石

 

            鵜のゐる磯と  あらはるるまで

 

三、 君が代は  限りもあらじ  長浜の

 

         真砂(まさご)の数は  よみつくすとも

 

「君が代」のきみとは、天皇陛下お一人のことであるという人もいます。

 

したがって君が代の歌とは、天皇を個人崇拝し讃える歌であり、戦前の軍国主義を象徴する戦争賛美の歌である、と主張されます。

 

でも実は、「君が代」のきみとは、イザナギ、イザナミ、という古事記にでてくる神様の名前で、最後の「き」と「み」をとってつけた大和言葉(やまとことば)になります。

 

イザナギとイザナミは男性と女性をあらわし、「イザナ」とは誘う(いざなう)という意味であります。

 

男性が女性を誘う(その逆も?)ことで、夫婦となり子どもができて家族できていきました。

 

つまり、「き」と「み」とを合わせた大和言葉である「きみ」は、家族であったり、国民というような意味であり、もっと広い意味では人類全体をさす言葉となります。

 

「千代に八千代に」はいつの時代になってもという意味であり、「さざれ石」は「真砂子」と同じように砂浜の砂粒(人や国民)というような意味です。

 

君が代の歌を訳すと、国の民(たみ)ひとり一人は、磯浜の小さな砂であり微力ですが、それが集まり天皇も国民も一体となって(君民一如)代々続いていくならば、日本は硬く盤石となり平和で安定した世の中が続いていくことでしょう。

 

ほつまの道(大自然と調和した素直でおだやかな心)をわすれないならば。

 

画像

賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)にある、さざれ石

 

 

1281年、元(もんごる)の皇帝フビライハンは、2度目の日本侵略計画を実行しました。(弘安の役)

 

当時の元・高麗連合艦隊は、世界史上最大の艦隊でしたが、元・高麗連合軍の日本侵略作戦は失敗しました。

 

なぜでしょうか?

 

フビライハンは、一度目の日本侵略を実行する前に、何度か日本の執権、北条

時宗氏に向けて使者を送っていました。

 

これに対し北条時宗は、全国の御家人に対して次のような書状を送りました。

 

「蒙古人がよこしまな考えを起こして、日本を狙っているので、全ての御家人たちに用心するように伝えるように。」と。

 

南宋の僧侶である大休正念(だいきゅうしょうねん)は、「巨大な敵を打ち払い、国家の安定をはかれ」と北条氏に助言していました。

 

鎌倉幕府は、南宋の僧侶である大休正念(だいきゅうしょうねん)を、国政の重要なブレーンとして扱っていたので、8代執権についたばかりの北条時宗は、彼の意見に従うことにしたのです。

 

フビライハンは、中国南部を支配していた南宋国を侵略するために、日本と平和的な同盟関係を結びたいと考えていた、という人もいます。

 

フビライハンが北条時宗宛てに書いた手紙には「不宣、これを臣とせざるなり」と書かれてありました。(モンゴルの歴史書「国朝分類」)

 

「不宣」(相手国を元国と対等の国とみなす、最大限の譲歩した言葉)という文字が書かれていたので、フビライハンは、臣下の礼をとって元国の属国となるように脅迫したのではない、というのがその理由です。

 

本当でしょうか?

 

当時の元国は、周辺国を次々に征服していき、世界の四分の一の国土と世界の二分の一の人口を支配していました。

 

周辺国を支配する際に、対等な同盟関係を結ぶということはしませんでした。

 

世界中の国は、支配されるか支配するかの二者択一しかありません。これは世界の常識です。

 

日本以外の国で、対等な同盟関係を結び共存共栄していこう、という発想がありません。

 

特に中国人にとって、「平和」や「友好」という言葉は良い言葉と認識されません。なぜなら、まだ力が不十分のときは友好的に接して、十分な力をつけたら平らげてやる(征服する)、という意味だからです。

 

かつて、中国の国力がまだ貧弱であって時代、日本は、「日中友好」とか「平和」という言葉をスローガンに掲げて中国と接してきました。

 

しかし、気がついたら中国は、日本より経済力も軍事力もはるかに凌ぐほどの力をつけて、今では、”日本(尖閣諸島や沖縄)を征服する”という姿勢を、裏ではなく表に堂々と出すようになりました。

 

中国にとって、支配するか支配されるかの二者択一しかないのです。

 

フビライハンにとって、南宋国を征服するために周辺国と平和的な対等の同盟関係を結んで、お互いに共存共栄していこうという考えは、全くありえない発想でした。

 

フビライハンからの国書に、「不宣」という譲歩する言葉が書かれていたので、表面上は友好で平和的な関係を結ぼうという意図があったかもしれませんが、南宋を征服したのち、今度は、日本を征服しようという意図が見え見えです。

 

1281年、フビライハンは、軍隊をふたつに分けて日本征伐に出航しました。

 

1つは東路軍の司令官で東征都元帥の洪茶丘率いる艦隊が900艘、

 

江南軍の范文虎(ファン・ファンファン)率いる艦隊は、長江南部で10万人の兵士と、清遠(現在の寧波市、浙江省)からは3,500個の軍艦を、日本に向けて派兵しました。

 

軍船4400艘、モンゴル人、高麗人(朝鮮人)、漢民族あわせて15万人に上る大軍団でした。

 

5月21日、東路軍は、対馬を侵攻し、続いて5月26日、壱岐を襲撃しました。

 

その後、江南軍の到着を待ってから、博多湾を攻撃をする予定でしたが、なかなか到着しないので、東路軍の単独で博多湾を目指すことにしました。

 

東路軍は博多湾に入った後、海岸沿いに約20kmにも及ぶ石築地(元寇防塁)があったため、上陸を断念。

 

元・高麗軍が再び侵略してくることを予想して、日本沿岸の重要な地域に「灯篭の壁」(石の盛土)を建設していたのです。

 

この「灯篭の壁」が、大きな防衛的役割を果たしました。

 

肥後の御家人である竹崎 季長(たけざき すえなが)は、肥後国守護代・安達盛宗(泰盛の子)の指揮の下で、上陸しようと試みる元・高麗軍兵士と戦いました。

 

日本軍は、石の壁を盾にして元の攻撃を絶えず打ち返し、元・高麗軍の多くの兵士が殺されて、戦闘は1ヶ月以上続きました。

 

元の東路軍は、大きな犠牲を払ったにもかかわらず、石の壁を突破することはできませんでした。

 

6月6日、元の東路軍の偵察隊は、志賀島と寧夏島が防衛上弱く、石造を建造していないことを発見し、東路軍船は志賀島付近へ錨泊しました。

 

その夜、松浦氏の家族二郎二郎は少数の軍隊を襲撃し、船に火を付けて元・高麗軍に損害を与えました。

 

東路軍の司令官、洪茶丘は馬を捨てて敗走しましたが、日本軍の追撃を受け危うく討ち死にする寸前まで追い込まれました。

 

6月7日の朝、香港のチャクティは陸軍を率いて志賀島に上陸しました。志賀島は長く狭く、干潮時に露出した海岸は直接陸地とつながりました。

 

元・高麗軍は、博多を後ろから攻撃するために、この海岸から上陸しようとしたのです。

 

数日間の海岸戦で、元・高麗軍は莫大な損失を被って1000人以上の兵士が戦死しました。

 

元・高麗軍は、食料の補給も困難であり、このまま戦闘をつづけても不利と判断して、6月15日、志賀島から撤退しました。

 

7月下旬になり、温家宝(ファン・ウンフ)と李清(リ・ティン)が率いる江南軍10万が、志賀島沖に到着。

 

7月27日、日本側は、元・高麗軍が鷹島に向かう途中に攻撃を行い、夜明けまで戦闘が続きました。(鷹島沖海戦)

 

別々の航路を辿ってきた 東路軍と江南軍は、合流した後、直ちに大宰府を攻撃する予定でしたが躊躇しました。

 

なぜかというと天気が悪いと推定されたので、台風と艦隊が衝突するのを避けるために、しばらく博多湾沖に船を停泊しました。

 

8月1日、台風が襲ってきたので、元・高麗軍の船の多くが破損してしまいました。

 

なぜ、元・高麗軍の軍船の多くが、難破してしまったのでしょうか?

 

ほとんどが海洋船ではなく内陸輸送に適した平底船であるため、台風で転倒しやすいものでした。

 

また、フビライハンは、日本への攻撃を命じてから、わずか1年の準備時間しか与えませんでした。

 

そして、 わずか1年の短期間で4400隻もの船が造船されました。大規模な生産能力を持たなかったので、期間内に目標を達成する見込みがありませんでした。

 

その目標を達成するためには、粗悪で品質が劣る欠陥品を作ることも必要不可欠でした。バランスのとれていない欠陥船は、少し風があるだけで揺れ続けてしまいます。

 

元軍の戦艦のほとんどは、平底の川用のボートであり、海の航海には適していませんでした。平らな川用のボートは海の波に耐えられず、簡単に転覆してしまいます。

 

海底から見つかった元軍の船の破片には、 "Chuanchuan"という言葉が見つかりました。 "Chuanchuan"とは川のボートという意味です。

 

沈没船の中にはいくつかのよく作られた軍船も発見されましたが、その多くは、海船の竜骨を持っていませんでした。

 

700隻もの元軍の沈没船を研究している、米国テキサス農業大学の考古学者、ランダル・ササキ氏(Randall Gon Sasaki)は、次のように語りました。

 

「海上で嵐に遭遇した場合、内陸輸送のために設計された船は、どのような混乱を招くのか容易に想像できます。」と。

 

当時、造船業が発展していた中国の江南と沿岸地域は、フビライハンによって完全に征服されておらず、一部の地域は南宋軍の支配下にありました。

 

したがって、フビライハンは、技術的に劣る高麗人(朝鮮人)に造船の任務を与えなければなりませんでした。

 

高麗人にとっても、この造船はとても重い負担でした。造船技術の劣る高麗人が、短期間でこの任務を達成することはとても難しいことでしたので、出来上がった船の品質が欠陥品で劣化したものとなるのは当然だったのです。

 

話を戻します。

 

高麗の司令官は、すぐに伊万里湾に行き、元・高麗軍の艦隊を撤収させました。

 

少贰景资が率いる軍隊は、撤退した元・高麗艦隊を迎撃して、鷹島に上陸して、元・高麗軍を掃討しようとしました。

 

竹崎竹市率いる軍隊は、撤退した元・高麗軍の艦隊が、伊万里湾に集結して休息しているところを見つけたので、攻撃を開始。

 

8月5日の早朝、日本艦隊は、伊万里湾に停泊していた元・高麗艦隊を攻撃しました。激しい戦闘が行われた後、元軍隊の艦隊の大半が破壊され壊滅しました。

 

鷹島に避難している元軍約10万は、木を切り倒して撤退するための船を建設する準備をしました。

 

日本軍は、これを知り攻撃をしました。

 

8月7日の朝、日本軍は、島の様々な防衛要塞を壊して攻め込み、元軍は壊滅的打撃を受けました。

 

日本軍は、降参してきたモンゴル人、シーリ族、ユルチェン人、高麗族、漢民族を捕虜として収容しました。

 

2回にわたる日本への侵略戦争は失敗に終わりましたが、フビライ・ハーンは、日本を征服する事をあきらめきれずに、3回目の日本侵略のための準備をしました。

 

これに対して、民衆からの蜂起や、政権内部からの反対意見がたくさんあったので、フビライ・ハーンは、それらを抑えこむのに大変苦労しました。

 

1294年1月、元の皇帝フビライ・ハーンが亡なると、日本を征服する計画は中止となりました。

 

一方、その後の鎌倉幕府はどうなったのでしょうか?

 

実は、この元寇が起きるまでは、北条氏に対する御家人や公家の不平不満は多くあり、鎌倉幕府は存続の危機にありました。

 

しかし、元・高麗軍による侵略戦争が起きたために、天皇に権力を戻すのではなく、鎌倉幕府が存続するための口実となりました。

 

皮肉ですが、元寇は、北条氏による政権を延命するために、とても役に立ったのです。

 

そして、ふたたび元・高麗軍が襲来してくることに備えて、九州防衛の強化を続けていきましたが、元・高麗軍が襲来してくることは2度とありませんでした。

 

 

元寇から約700年後の現在、中国からたくさんの船団が、日本の尖閣諸島に押し寄せています。

 

日本は、かつての北条時宗のように、石の防塁を築いて武士をたくさん配置して、敵の上陸を阻止するような対策を、ほとんどしていません。

 

このまま無策でいたら、中国船団は尖閣諸島に上陸して占領してしまうでしょう。

1281年、元(もんごる)の皇帝フビライハンは、2度目の日本侵略計画を実行しました。

 

当時の元・高麗連合艦隊は、世界史上最大の艦隊でしたが、元・高麗連合軍の日本侵略作戦は失敗しました。

 

なぜでしょうか?

 

2人の軍隊を派遣し、1つは東路軍の司令官で東征都元帥の洪茶丘率いる艦隊が900艘、

 

江南軍の范文虎(ファン・ファンファン)率いる艦隊は、長江南部で10万人の兵士を派遣し、清遠(現在の寧波市、浙江省)からは3,500個の軍艦を、日本に向けて派兵しました。

 

合計、モンゴル人45,000人、高麗人(朝鮮人)5万人、中国人10万人。

 

5月21日、東路軍は、対馬を侵攻し、続いて5月26日、壱岐を襲撃しました。

 

その後、江南軍の到着を待ってから、博多湾を攻撃をする予定でしたが、なかなか到着しないので、東路軍の単独で博多湾を目指すことにしました。

 

東路軍は博多湾に入った後、海岸沿いに約20kmにも及ぶ石築地(元寇防塁)があったため、上陸を断念。

 

元・高麗軍が再び侵略してくることを予想して、日本沿岸の重要な地域に「灯篭の壁」(石の盛土)を建設していたのです。

 

この「灯篭の壁」が、大きな防衛的役割を果たしました。

 

肥後の御家人である竹崎 季長(たけざき すえなが)は、肥後国守護代・安達盛宗(泰盛の子)の指揮の下で、上陸しようと試みる元・高麗軍兵士と戦いました。

 

日本軍は、石の壁を盾にして元の攻撃を絶えず打ち返し、元・高麗軍の多くの兵士が殺されて、戦闘は1ヶ月以上続きました。

 

元の東路軍は、大きな犠牲を払ったにもかかわらず、石の壁を突破することはできませんでした。

 

6月6日、元の東路軍の偵察隊は、志賀島と寧夏島が防衛上弱く、石造を建造していないことを発見し、東路軍船は志賀島付近へ錨泊しました。

 

その夜、松浦氏の家族二郎二郎は少数の軍隊を襲撃し、船に火を付けて元・高麗軍に損害を与えました。

 

東路軍の司令官、洪茶丘は馬を捨てて敗走しましたが、日本軍の追撃を受け危うく討ち死にする寸前まで追い込まれました。

 

6月7日の朝、香港のチャクティは陸軍を率いて志賀島に上陸しました。志賀島は長く狭く、干潮時に露出した海岸は直接陸地とつながりました。

 

元・高麗軍は、博多を後ろから攻撃するために、この海岸から上陸しようとしたのです。

 

数日間の海岸戦で、元・高麗軍は莫大な損失を被って1000人以上の兵士が戦死しました。

 

元・高麗軍は、食料の補給も困難であり、このまま戦闘をつづけても不利と判断して、6月15日、志賀島から撤退しました。

 

7月にはいり、温家宝(ファン・ウンフ)と李清(リ・ティン)が、江南軍を10万人以上の艦隊に導いて、勢力と滋賀の島に到着し、坂東と洪茶の本部と会った。

 

7月27日、日本側は、元・高麗軍がイーグル島に向かう途中に攻撃を行い、夜明けまで戦闘が続きました。

 

別々の航路を辿ってきた 東路軍と江南軍は、合流した後、直ちに大宰府を攻撃する予定でしたが躊躇しました。

 

なぜかというと天気が悪いと推定されたので、台風と艦隊が衝突するのを避けるために、しばらく博多湾沖に船を停泊しました。

 

8月1日、台風が襲ってきたので、元・高麗軍の船の多くが破損してしまいました。

 

なぜ、元・高麗軍の軍船の多くが、難破してしまったのでしょうか?

 

ほとんどが海洋船ではなく内陸輸送に適した平底船であるため、台風で転倒しやすいものでした。

 

また、フビライハンは、日本への攻撃を命じてから、わずか1年の準備時間しか与えませんでした。

 

そして、 わずか1年の短期間で4400本もの船が建設されていきました。当時はまだ大規模な生産能力を持たなかったので、目標を達成する可能性はありませんでした。

 

その目標を達成するためには、粗悪で品質が劣る欠陥品を作ることも必要不可欠でした。バランスのとれていない欠陥船は、少し風があるだけで揺れ続けてしまいます。

 

元軍の戦艦のほとんどは、平底の川用のボートであり、海の航海には適していませんでした。平らな川用のボートは海の波に耐えられず、簡単に転覆してしまいます。

 

海底から見つかった元軍の船の破片には、 "Chuanchuan"という言葉が見つかりました。 "Chuanchuan"とは川のボートという意味です。

 

沈没船の中にはいくつかのよく作られた軍船も発見されましたが、その多くは、海船の竜骨を持っていませんでした。

 

700隻もの元軍の沈没船を研究している、米国テキサス農業大学の考古学者、ランダル・ササキ氏(Randall Gon Sasaki)は、次のように語りました。

 

「海上で嵐に遭遇した場合、内陸輸送のために設計された船は、どのような混乱を招くのか容易に想像できます。」と。

 

当時、造船業が発展した中国の江南(Jiangnan)と沿岸地域は、フビライハン(Kublai Khan)によって完全に征服されておらず、一部の地域は南宋軍の支配下にありました。

 

したがって、フビライハンは、技術的に劣る高麗人(朝鮮人)に造船の任務を与えなければなりませんでした。

 

高麗人にとっても、この造船はとても重い負担でした。造船技術の劣る高麗人が、短期間でこの任務を達成することはとても難しいことでしたので、出来上がった船の品質が欠陥品で劣化したものとなるのは当然だったのです。

 

話を戻します。

 

高麗の司令官は、すぐに伊万里湾に行き、元・高麗軍の艦隊を撤収させました。

 

少贰景资率が率いる日本軍は、撤退した元・高麗艦隊を迎撃して、イーグル島に上陸した。陸上、海上ともに優勢な軍隊が集中して攻撃し、元・高麗軍を掃討しようとしました。

 

竹崎竹市率いる日本軍は、撤退した元・高麗軍の艦隊が、伊万里湾に集結して休息しているところを見つけたので、攻撃を開始。

 

竹崎竹市は、船団を3つに分けて1つは竹崎竹市、残りの2つは、コスケとフジワラユキによって統率しました。

 

8月5日の早朝、日本艦隊は、伊万里湾に停泊していた元・高麗艦隊を攻撃しました。日本軍は船舶と人員の数で明らかに勝っており、1日間の激しい戦闘が行われた後、元軍隊の艦隊の大半が破壊され壊滅しました。

 

日本側は、一部の船舶が破壊されました。

 

ファン・ウンフーをはじめとする人たちは、ボートで逃げるために非難していますが、鷹島には約10万人の元軍の兵士がいました(ほとんどファン・ウンフの兵士で、残りはモンゴル人、高麗人、ユルツェン人です)。

 

軍隊は将軍の兵士と同等です。しかし、コーチから放棄された元軍は、驚くほど落ち着いたままであった。彼らは張氏であると主張して暫定司令官として張氏を公然と押し出した。

 

元軍はまず、島にいる敵を排除し、木を切り倒し、撤退するための船を建設する準備をしました。

 

日本軍は、鹰岛に避難している元軍が、木材を切って船を建てようとしていることを知った後、すぐに攻撃を開始することを決めました。

 

この時、北条氏は既に少なくとも25万人もの軍隊を編成している。日本軍隊の数はあまりにも多く、小さな島には完全に配置できないため、戦術的配備に関しては、少贰景资も軍隊全体を3つの階級に分けました。

 

まず、ファンジャと陸家父の父親と息子の両方に、第一陣がイーグルアイランドの東方に着陸し、元の注意と火力を引き付けるための地位を確立するよう命じると同時に、第二陣は永田義也によって島津で長年設立された。

 

第1陣と第2陣が争って橋頭堡を奪い、陸地の面積を広げ、第1陣を護衛した。第三陣は伊万里湾の海上戦闘に参加した藤原が率いていた。

 

また、福田氏は、陸上部隊を海上に導き、島に近い陸軍艦隊を破壊する責任を負い、海軍の陸軍が破壊されると、軍隊を陸上に導いて戦場に出なければならない。

 

8月7日の朝、日本軍は、以前の戦略的展開に従って操業を行った。日本人は圧倒的多数の人を占めており、島の様々な防衛要塞が崩れています。

 

残りの元軍は最終的に完全に破壊されるまで最終的な抵抗に従うために東遠と中川の狭い地域に追い詰められました。

 

その日の戦さで、元軍は壊滅的打撃を受けて、日本軍は、降参してきたモンゴル人、シーリ族、ユルチェン人、高麗族、漢民族を捕虜として収容しました。

 

第2回の元九戦はついに台風に見舞われ、失敗しました。この失敗の主な理由は次のとおりです。

 

まず、制御が容易で、誰も指揮しなかった。当時の非常に未開発のコミュニケーションツールの条件の下、このような大規模な海上着陸作業が行われた。コーチは一人もなく、失敗する理由はなかった!第2は、2つの軍隊が独自の方法を持ち、緊密な協調作業をしていないことです。第三は、団結が恐れており、欲張りな学生は死を恐れているということです。 4番目は、劇場の水文学的および気象学的な状況に精通していません。

 

2回にわたる日本への侵略戦争は失敗に終わりましたが、フビライ・ハーンは、日本を征服する事をあきらめきれずに、3回目の日本侵略のための準備をしました。

 

これに対して、民衆からの蜂起や、政権内部からの反対意見がたくさんあったので、フビライ・ハーンは、それらを抑えこむのに大変苦労しました。

 

1294年1月、元の皇帝フビライ・ハーンが亡なると、日本を征服する計画は中止となりました。

 

一方、その後の鎌倉幕府はどうなったのでしょうか?

 

実は、この元寇が起きるまでは、北条氏に対する御家人や公家の不平不満は多くあり、鎌倉幕府は存続の危機にありました。

 

しかし、元・高麗軍による侵略戦争が起きたために、天皇に権力を戻すのではなく、鎌倉幕府が存続するための口実となりました。

 

皮肉ですが、元寇は、北条氏による政権を延命するために、とても役に立ったのです。

 

そして、ふたたび元・高麗軍が襲来してくることに備えて、九州防衛の強化を続けていきましたが、元・高麗軍が襲来してくることは2度とありませんでした。

 

 

 

鎌倉時代に元(モンゴル)が日本に侵略したとされる元寇。

 

実は、その日本への侵略軍の中心は、元軍(モンゴル)ではなく高麗軍(朝鮮軍)だったのです。

 

元の属国であった高麗の世子椹(後の忠烈王)は、元(モンゴル)の皇帝であるフビライ・ハン(チンギスハンの孫)に盛んに東征(日本への侵略)を煽り立てました。(元の歴史書『元史』)

 

元(モンゴル)の皇帝フビライ・ハンは、元への服属を求める国書を携えて、日本へ使者を何度か送りましたが、この時の鎌倉幕府執権・北条時宗は、明解な回答をしませんでした。

 

その国書には、もし、元に服従をしないのならば軍隊を送り込むという脅迫文を書いていたので、フビライ・ハンは、日本へ進軍することを決断しました。

 

当時は、大陸から日本に渡るのに船を使うしかありませんでした。

 

そこで、文永11年(1274年)年1月、軍用船300隻を造ることを高麗に命じました。

 

元から派遣されたホン・タグの指揮の下、高麗は、約3万人の労働者を動員して、昼夜関係なく突貫工事をして造船作業をしていきました。

 

現場を監督するキム・バンギョンは、強固な船だと期限内の完成は難しいと判断して、費用が安くて簡単な構造の高麗船を大小900隻、建造しました。

 

文永11(1274年)10月3日、総司令官キントの指揮の元、総勢3万人以上の兵士を収容した船団が、合浦(がっぽ)(現在の馬山)から出港。(文永の役)

 

元軍(モンゴル)と、元の属国であった高麗軍(朝鮮人)の連合軍は、日本の九州に向かう途中、日本の対馬と壱岐に侵攻しました。

 

「入対馬島、撃殺甚衆」(高麗(朝鮮)の歴史書)と記録されています。

 

つまり、キム・バンギョンが率いる高麗軍(朝鮮軍)が、島根の対馬で島民を皆殺しにしてしまいました。

 

山に逃れた島民をしつこく捜す高麗軍(朝鮮軍)の兵士が、赤ん坊の泣き声などをたよりに見つけ出すと全員を殺害し、赤ん坊も股裂きなどにしました。

 

高麗(朝鮮)軍は、命乞いを懇願する妊婦の腹を蹴破り、胎児をつかみ出し殺しました。

 

また、高麗(朝鮮)軍は、壱岐、対馬の人々を、男女とも素裸にして、男は手に穴を開けて船縁に吊るし、女は髪の毛で船縁から吊るしました。

 

なぜ、このような残虐なことをしたのでしょうか?

 

高麗(朝鮮人)は、食料として、人間の肉を食べる習慣がありました。そこで、多くの兵隊の食料を確保するために、途中の壱岐、対馬で虐殺してきた日本人の肉を天日干しにしていたのです。

 

まるで、豚や牛の肉のように。

 

高麗(朝鮮)軍に生け捕りにされた女性は、手のひらに穴が開けられ、ひもを通されると“数珠つなぎ”にされました。

 

これは朝鮮半島特有の風習でした。

 

日蓮宗の宗祖・日蓮聖人が、関係者から聞いた話をまとめた『高祖遺文録』にも、同様のことが書かれていました。

 

壱岐でも同様の行為がありました。元・高麗(朝鮮)連合軍が暴れ回った後は武士だけでなく一般島民の死体の山で埋まり、生存者はわずか65人だったといわれています。

 

このように、高麗軍(朝鮮軍)の兵士は、武装していない無抵抗な女、子供、老人など一般住民を虐殺して生きました。

 

対馬、壱岐での敗戦の報告を受けた御家人らは、ただちに大宰府へ向かいました。

 

その結果、九州の御家人を統括する鎮西奉行・少弐資能(しょうにすけよし)の3男、景資(かげすけ)を総大将にして、約1万人の武士が集まりました。

 

文永11(1274年)10月20日、博多湾に集まった元・高麗連合軍の兵隊は、早朝に早良郡(さわらぐん)に上陸を始めました。

 

日本側は、鎌倉と京都へ敵襲来の知らせと援軍を求める急使を送ると、大宰府に本陣を置いて、集まった周辺の御家人ら総勢5千数百人で待ち構えました。

 

当時の武士は、われ真っ先に敵陣に突っ込んで功を競うことこそが潔(いさぎよ)い戦い方とされました。

 

「やあやあ、我こそは、・・・」と名乗りを上げてから、敵陣に突撃していく戦法です。

 

これに対して、元・高麗連合軍は、組織ごとに動く集団戦法だったので、先陣を切って突撃していった御家人らが、敵に取り囲まれては討ちとられていきました。

 

また、日本には馬に乗った武士団がいて、馬上から弓矢を放つことを得意とする騎兵隊に、元軍は恐れをなして背中を向けて逃げ回っている様子が、絵巻に書かれています。

 

「騎兵は結束す。人はすなわち勇敢にして、死をみることを畏(おそ)れず」と、日本の武将を評価した記録が、元の歴史書にあります。

 

元軍の弓矢は、小さいけれども矢の先に毒を塗っていたために、殺傷能力が高かったです。

 

戦さは、元・高麗連合軍が優位のまま夜になりましたが、元軍の副将であった劉復亨(りゅう ふくこう)が負傷しました。

 

夜、高麗船に帰ると、元の総司令官クドゥンと、副司令官ホン・タグと、高麗軍司令官キム・バンギョンが、今後の作戦行動について話し合いました。

 

高麗軍司令官キム・バンギョンは「敵地に入って士気も上がり、必死の覚悟で戦っている」と、戦闘の継続を主張したのですが、

 

元の総司令官クドゥンは「疲弊している兵士をこれ以上使い、日増しに増える敵と戦うのは良策ではない」として、撤退を決断。

 

元・高麗連合軍は、陸地に前線基地を設けることもなく、全軍、博多湾に停泊していた船に戻り、そのまま朝鮮に帰っていきました。

 

なぜ、優位に戦さを展開していた、元・高麗(朝鮮)連合軍が、あっさりと引き返していったのでしょうか?

 

元軍の副将であった劉復亨(りゅう ふくこう)が負傷したのが原因かもしれません。

 

また、もともと、この侵略戦争は、高麗(朝鮮)王である忠烈王が、元の皇帝フビライ・ハ-ンに強く勧めたことがきっかけでした。

 

そこで、元としては、高麗軍(朝鮮)に戦わせて、高麗軍(朝鮮)に被害で出ても構わないが、元軍が多くの被害を出してまで戦うことに消極的だったのでしょう。

 

ある程度戦った時点で、見切りをつけて、さっさと引き返してしまったのです。

 

そして帰国途中に、暴風雨により多くの高麗船が沈没してしまいました。

 

この戦さによる元・高麗軍の被害はというと、失った兵士の数が、派遣時の約半数の約1万3500人にのぼりました。(高麗の歴史書「高麗史」)

 

戦さそのものは、元・高麗軍が優勢だったのですが、貧弱な高麗船で海を渡ってきたので、多くの兵士が犠牲となりました。

 

また、高麗(朝鮮)軍は、日本で200人もの童男童女を奴隷として生け捕りにして、高麗(朝鮮)の忠烈王とその妃に献上しました。(高麗の歴史書「高麗史」)

 

このような高麗(朝鮮)軍による日本人拉致が、大々的に行われていきました。

 

この時の高麗(朝鮮)の国内の状況はどうだったのでしょうか?

 

「働き盛りの男は船の建造にとられ、兵士の多くは戦いで負傷したほか、帰国中の暴風雨で溺死したため、今では国内には老人と子供だけ。

 

しかも日照りなどが続き稲も実らず、草や葉で飢えをしのいだ」とあります。(高麗の歴史書「高麗史」)

 

もともと、高麗(朝鮮)王である忠烈王が、元の皇帝フビライ・ハ-ンに強く勧めたことにより始まった、日本への侵略戦争。

 

そして、日本への侵略軍の多くを構成していた高麗軍(朝鮮軍)。

 

この元と高麗(朝鮮)軍による日本への侵略戦争で、日本と高麗(朝鮮)に多くの傷跡を残してしまいました。

 

 

 

終戦後も日本軍人としての魂を捨てなかった朝鮮人がいました。

韓国政府から親日派としてひどい仕打ちを受けてもです。

 

なぜでしょうか?

 

昭和25年(1950年)6月25日、北緯38度線において北朝鮮軍が南に向けて進軍。

 

それは、事前に宣戦布告もなく、突然、開始された侵略でした。

 

約11万人の北朝鮮軍が、38度線を越境して、3日後の6月28日には、韓国の首都ソウルが陥落。

 

韓国は、ソウル南方の水原という場所に、一時的に首都を移しました。

 

ソウル陥落の際、韓国大統領であった李承晩は、ソウル市内の漢江にかかる橋を爆破するように指示。

 

橋を爆破すれば、北朝鮮軍の侵略を防ぐことができると思ったから、そのような指示を出したのでしょうが、まだ多くの韓国軍兵士や一般人がソウル市内に残っていました。

 

李承晩は、同胞であるはずの韓国人が犠牲になっても何とも思わなかったのでしょう。

 

なぜなら、武器を持たない一般人である韓国保導連盟員を、全員北朝鮮のスパイだと決めつけて、約20万人以上もの韓国人を虐殺してしまったからです。(保導連事件)

 

武器を持った屈強な北朝鮮軍の前では、敵前逃亡を繰り返す李承晩。

武器を持たない無抵抗な韓国人に対しては、虐殺を繰り返す李承晩。

 

敵と戦う気概を全く持たずに、しかも守らなくてはいけない同胞であるはずの韓国人を、何の抵抗もなく虐殺していく李承晩。

李承晩を初代大統領として建国された韓国は、とても不幸な国でした。

 

その後、韓国軍は釜山まで追い詰められました。国連決議により、韓国を支援するために米国を主力とする多国籍軍が編成されました。

 

なぜ、韓国軍はこれほどまでに弱かったのでしょうか?

 

朝鮮戦争当時、韓国軍には日本統治時代に旧日本陸軍に在籍していた兵士が多数いました。

しかし、反日思想で凝り固まっている李承晩は、旧日本陸軍で屈強に鍛え上がられた朝鮮人兵士を避けました。

 

旧日本陸軍に所属していた朝鮮人兵士は、韓国軍の将校にもされず、横の繋がりも断絶するように仕向けられていました。

 

ブルドックのようなどんなに屈強な兵士達が集まっても、それを統率するリーダーが、羊のような戦闘能力に欠けた人ですと、貧弱な軍隊となってしまいます。

 

逆に、羊のような軍事訓練をまともに受けたことのない兵士達が集まっても、それを統率するリーダーが、戦闘能力を持った狼ならば、強い軍隊となります。

 

当時の韓国軍には、ブルドックのような旧日本陸軍で屈強に鍛え上げられた兵士達が多数いたのにもかかわらず、それを統率するリーダーが李承晩だったので、とても弱い軍隊となってしまったのです。

 

釜山近郊の釜山橋頭堡まで追い詰められてしまい、大韓民国が北朝鮮に占領されるのが時間の問題となったその時、旧日本陸軍で屈強に鍛え上げられたある男が、李承晩に直談判をしました。

 

「我々、旧日本陸軍兵士達で師団を編成して、北朝鮮人民軍との戦闘を任せてほしい」、と。

 

反日思想に凝り固まっている李承晩は、旧日本陸軍で活躍した男の進言を”仕方なく”受け入れました。

 

もはや、大韓民国の消滅は時間の問題でしたので、「好きにしろ」と投げやりの気持ちだったのでしょう。

 

その旧日本軍で活躍した男は、どのような人物だったのでしょうか?

 

彼は、大正4年(1915年)に陸軍士官学校を卒業したエリートでした。

 

昭和12年(1937年)、日本と中国国民党軍との戦い(日華事変)では、大隊長(少佐)として一個大隊を統率。

 

約1000名の日本人兵士を指揮して活躍し、朝鮮人としては初の功三級金鵄勲章を授与されました。

 

中国軍では「金部隊と戦うより逃げろ」と言われていたというほどです。

 

日本軍では、朝鮮人将校が、日本人兵士1000名を指揮していたのです。

 

欧米列強が、植民地支配していた現地人を、差別することなく宗主国の正規軍の将校にまで出世させて、宗主国の兵士を指揮させていた国があるでしょうか?

 

昭和25(1950年)7月6日、彼は、元日本兵だけを集めて1個師団(首都師団)を編成。

 

北朝鮮人民軍は、この男を最も恐れていたと言われ、鎮川で韓国軍と交戦した人民軍の崔賢は「ああ、いかん。やつとぶつかった」と嘆いたといいます。

 

昭和25(1950年)7月末ごろから、横須賀や米国本土からも続々と米軍の増援部隊が朝鮮半島に送られていきました。

 

昭和25(1950年)8月8日、男は釜山橋頭堡の戦いの最中に第三師団に着任。盈徳をめぐり北朝鮮人民軍と戦っていた韓国軍の第三師団が、退路を断たれて孤立してしまいましたので、海上から撤退することとなりました。

 

ソ連製の戦車で武装した北朝鮮軍を相手に、勝つ見込みのない絶対絶命の状態で戦いに挑んで行きました。(長沙洞(チャンサドン)撤収作戦)

 

8月17日、海岸線まで追い詰められると、事前に極秘に米陸軍の第8軍司令官であったウォルトン・ウォーカー中将との打ち合わせ通り、

 

第3師団の兵士9000名と警察官1200名、避難民1000名全員を、釜山近海に待機していた4隻のLST(戦車揚陸艦)に乗せて、米軍艦隊から艦砲射撃を行いました。

 

北朝鮮人民軍は総崩れとなり、重装備を放棄して敗走をして行きました。

 

米軍の力を借りたとはいえ、見事な戦略戦術を持って戦いに挑んだ男の逆転勝利でした。

 

この撤収作戦の際、1隻のLST(戦車揚陸艦)が最後まで離岸しませんでした。

 

最後の一人まで救助するまで動こうとしなかった男を、待っていたからです。

 

そして、男が最後にLST(戦車揚陸艦)に乗船したら、そこにはなんと旧日本海軍の兵士が、米軍に協力するために乗船していました。

 

実は、朝鮮戦争には、日本は極秘に掃海艇などを派兵して米軍に協力していたのです。

 

昭和31年(1956年)、韓国軍の予備役となった彼は、城南高等学校の理事長を務めました。

 

彼の長男である金泳秀陸軍大尉は、昭和20年(1945年)、フィリピン戦線で戦死して靖国神社に合祀されています。

 

昭和55年、彼は、偕行社(旧日本陸軍将校の親睦団体)の総会に招かれた際に、「自分の長男は戦争に参加して戦死した。それは軍人として本望である。本人も満足しているであろう」と挨拶しました。

 

乃木将軍が、自分の息子が2人とも戦死した際、同様のことを話して、外国人から尊敬されましたが、彼の挨拶を聞いた、旧人陸軍将校たちは感動しました。

 

昭和55年、彼は、長男である金泳秀陸軍大尉が合祀されている靖国神社に参拝しました。

 

彼と彼の長男である金泳秀陸軍大尉は、2002年2月28日、韓国国会「民族精気議員の会」が発表した、親日派708人名簿に掲載されました。

 

そして、この親日派名簿に掲載されたことをきっかけにして、城南高等学校の敷地内にあった、彼の銅像が撤去されてしまいました。

 

盧武鉉大統領のときに、チンイルパ(親日派)弾劾運動が活発に行われ、2005年、反民族特別法が成立。

 

この反民族特別法に基づき、民族問題研究所から発表された親日人名辞典に、彼と彼の長男である金泳秀陸軍大尉が、日本の韓国植民地統治に協力した親日派として掲載されました。

 

そして、、2005年に成立した「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」に基づき、親日派に指定された彼の財産は、その遺族から没収されてしまいました。

 

日本統治時代には、彼とその遺族達は、朝鮮人にもかかわらず、高く評価されました。

 

彼を称える記事が何度も新聞報道され、崔南善の作詞で「金少佐を思う」という歌までが作られたほどです。

 

しかし、韓国建国後には、同じ同胞である朝鮮人から、親日派としてひどい仕打ちを受けてきました。

 

大韓民国存亡の危機に立ち上がり、絶望的な状況にもかかわらず、朝鮮人民軍を蹴散らした男。

 

その男の名は、金錫源(キム・ソグォン)。

 

旧日本陸軍にて鍛え上げられた金錫源(キム・ソグォン)陸軍大佐は、日本終戦後、韓国からどのようなひどい仕打ちを受けても、日本軍人としての誇りを捨てずに生き続けました。

 

参考図書

「朝鮮戦争/韓国編 下巻」佐々木春隆著

昔から「病は気から」といいます。

 

気持ち次第で病気になったり、病気が治ったりすることを言い表しています。

 

では、病気になる気(心)とはどういうものなのでしょうか?

 

不平、不満、ぐち、泣き言、文句、心配、嫉妬、怒りなどです。

 

このような心を持って生活していると、免疫力も低下してきまして、病気になりやすくなります。

 

一方、病気にならない気(心)とはどういうものなのでしょうか?

 

うれしい、楽しい、ありがとう、感謝します、許します、しあわせ、といった感情です。

 

このような心で常に生活していますと、免疫力も高くなるので、病気になりにくくなります。また、病気になっても回復が早いです。

 

あなたは、普段の日常生活の中で、どのような気(心)で生活していますでしょうか?

 

普段から健康に気を使っている人もいます。一見すると、そういう人は病気になりにくいと思います。

 

でも、意外とガンなど重病になって早死にしてしまう人もいます。

 

なぜでしょうか?

 

それは、気(心)が病気になりやすい状態で、生活していたからです。

 

いくら食事を気にして、健康でいようと心がけていても、気(心)にまったく無頓着で気にしていなければ、意味がありません。

 

川にたとえると、食事に気を使って体の状態をきれいに保とうとしているのは、川の下流を一生懸命にきれいにそうじしている様子です。

 

でも、不平、不満、ぐち、泣き言、文句、怒りなどの感情で日常生活を送っていると、気(心)が汚れてしまっています。

 

その気(心)の汚れは川の上流からながれてきます。

 

いくら川の下流をきれいに掃除していても、川の上流から汚染物質が常に流れてきたら、どうでしょうか?

 

すべての努力が水の泡になってしまいます。

 

健康に気を使うことも大切ですが、それよりもっと大切なことは、気(心)を汚さないように気を使うことが大事なのです。

 

好きなものをたべたり飲んだりしているのに、意外と元気で長生きしている人も多いです。

 

そういう人の言動は、うれしい、たのしい、ありがとう、感謝します、許します、幸せ、というような言葉を口癖のように使い、気(心)も常にそのような状態で日常生活を送っていたりします。

 

病は気から

 

川の上流から、常にきれいなものを流すようにしていけば、下流が多少汚れていても、健康を維持することができるのでしょう。

 

この世に起きることは、すべて心の影であります。

 

たとえて言うと、プロジェクターを通して映し出された映像は、この世の世界です。その映像の元は、パソコンの中にあるパワーポイントなどで作られた画像です。

 

プロジェクターやパソコンの電源を切ると、スクリーンに映し出されていた画像も消えてなくなります。

 

しかし、パソコンの中には、先程まで映し出されていた画像が記録されています。

 

人は病気になったり、病気が治ったりします。それはあなたの心(パソコンの中)に病気という画像が作られ、その画像をプロジェクターを通して、スクリーンに映し出されたものが、あなたの体に症状としてあらわれた状態なのです。

 

あなたの心(パソコンの中)に病気がなくなれば、あなたの体(スクリーン)にも病気という症状は消えてしまいます。

 

すべては、気(心)次第ということになります。

 

そんなこと言っても、気休めにしかならない。実際に病気で苦しんでいたら、気(心)で思い描いていた病気を消すことなんてできない、と思われるかもしれません。

 

確かにそうかもしれません。

 

私も偏頭痛でつらい症状が出たときは、その痛みをずっと意識してしまいます。

 

気(心)の持ちようで、なんとかこの症状を和らげよう、無くそうと思ってもなかなかできるものではありません。

 

現実に、偏頭痛という症状が”ある”わけなので、それが心の影などだから本当は”無い”のだ、といわれても理解できないでしょう。

 

”ない”と思っているものは実はある、”ある”と思っているものは実はない、という考え方は仏教にもあります。

 

それは、般若心経というお経の中にあります、「色即是空 空即是色」という言葉です。

 

色とは物質とか現象としてある、というような意味でして、空とは無い、というような意味です。

 

「色」(物質)は、すなわちこれ「空」(ない)、「空」(無い)は、すなわちこれ「色」(ある)。

 

あなたは、なんだかよくわからないと思ったかもしれません。

わかったようなわからないような、そんな感じかもしれません。

 

でも、パソコンの中に作った画像を、プロジェクターを通してスクリーンに写しだすことで、実際にその画像をみることができる、という理屈は理解できると思います。

 

パソコンの中に画像がなければ、、スクリーンには何も映し出されません。

 

それと同じように、あなたの体(スクリーン)に映し出された症状は、すべてあなたの心(パソコンの中)にある画像なのです。

 

あなたの心の中にある画像をすべて、うれしい、たのしい、ありがとう、感謝します、許します、幸せ、という言葉に書き換えたなら、スクリーンに映し出される画像(あなたの体)は健康な状態となるでしょう。

 

その事に気づけるようになると、たとえ、あなたの体に病気の症状があらわれても、早く回復することができるようになるかもしれません。

 

 

 

 

 

「八紘一宇」とは、軍国主義の象徴であり戦争をするための危険な考え方であるといわれています。

 

本当でしょうか?

 

実は、「八紘一宇」の考え方は、武力を使わずに世界平和を実現しようとする考え方だったのです。

 

古神道では、自我と真我を細かく分類した、一霊四魂(いちれいしこん)という考え方があります。

 

一霊四魂(いちれいしこん)とは、人の霊魂は天と繋がる一霊「直霊」(なおひ)と、4つの魂から成り立っているという考え方です。

 

「直霊」(なおひ)は、真我、または内なる神のことであります。

 

この日本古来から伝えられてきた古神道の一霊四魂(いちれいしこん)の考え方は、幕末から明治時代に生きた儒学者の権威、平田篤胤(あつたね)の弟子の本田親徳が、体系的にまとめました。

 

4つの魂は、武人である荒御魂(あらみたま)・商工人である和御魂(にぎみたま)・農耕人である幸御魂(さきみたま)・漁人である奇御魂(くしみたま)であり、この四魂(しこん)を直霊(なおひ)という霊が管理しています。

 

四魂(しこん)のそれぞれの意味として、荒御魂(あらみたま) (aramitama)は、活動(courage)を意味し、

 

和御魂(にぎみたま) (nigimitama)は、調和( friendship)を意味し、幸御魂(くしみたま) (kushimitama)は、霊感(wisdom)を意味し、奇御魂(さきみたま) (sakimitama)は、幸福(love)を意味しています。

 

昭和15年(1940年)、神武天皇が即位してから2600年(皇紀2600年)になることを祝うため、国は紀元二千六百年奉祝事業として、宮崎神宮の拡大整備事業を行うことになりました。

 

当時の相川勝六宮崎県知事も、”八紘一宇”の精神を体現した日本一の塔(八紘之基柱(あめつちのもとはしら))を作る事を提案。

 

彫刻家である日名子実三(ひなご じつぞう)氏に依頼して、昭和15年(1940年)11月25日に完成し、高松宮宣仁親王を迎えて落成式典が行われました。

 

日名子実三(ひなご じつぞう)氏は、日本サッカー協会のシンボルマークである八咫烏(やたがらす)をデザインした方です。

 

”八紘一宇”の大きな文字が塔の中央にあり、その周りには、一霊四魂(いちれいしこん)の荒御魂(あらみたま)・和御魂(にぎみたま)・幸御魂(さきみたま)・奇御魂(くしみたま)が祭られています。

 

終戦後、八紘之基柱(あめつちのもとはしら)は、占領軍の監督下に置かれ、解体されてしまう予定となっていました。

 

昭和20年12月15日、占領軍からの「神道指令」によって「八紘一宇」の熟語の使用も禁止されてしまいました。

 

ハーグ陸戦条約では、「被占領地の信仰と慣習に干渉すべきでない」("should not intervene in the religious faith or customs of an occupied area")、と定められています。

 

占領軍による神道の弾圧は、国際法からみても違法でした。

 

また、ハーグ陸戦条約の”敵国の領土における軍の権力”の条文の中で、建設物、歴史上の記念建造物、技芸及び学術上の製作品を故意に押収、破壊または毀損することはすべて禁止されています。

 

占領軍は、ハーグ陸戦条約など一切無視して、八紘之基柱(あめつちのもとはしら)の記念碑を破壊しようとしたのです。

 

宮崎神宮の神官たちは、何とかして、この八紘之基柱(あめつちのもとはしら)を守ろうと相談しました。

 

たまたま、占領軍が近くでキャンプをするので、警備が手薄になるときがありました。

 

その隙をねらって、塔の内部に納められていた、秩父宮雍仁親王殿下が書かれたご親筆「八紘一宇」を、宮崎神宮の神官が密かに持ち出しました。

 

そして、この「八紘一宇」のご親筆が収められていた木枠だけを塔の前で燃やして、秩父宮雍仁親王殿下の書かれた「八紘一宇」のご親筆そのものは見つからないように、森の中の地面深くに埋めました。

 

神官たちは、秩父宮雍仁親王殿下が書かれたご親筆「八紘一宇」を燃やしました、と占領軍に報告。

 

それを聞いた占領軍は、日本人の手でそこまでやったのなら、武人の象徴であった荒御魂(あらみたま)像を撤去することを条件に、八紘之基柱(あめつちのもとはしら)を解体することを免除しました。

 

宮崎神宮の神官は、占領軍により処刑されてしまうだろうと予想していました。

 

なぜなら、ウソの報告をしていたのですから。

 

そして、あらかじめ、残された家族の面倒をみてくれるように親戚たちに頼んでいたのです。

 

宮崎神宮の神官が、命がけで守ろうとした八紘之基柱(あめつちのもとはしら)。

 

その八紘之基柱(あめつちのもとはしら)に書かれた、”八紘一宇”とはどういう意味なのでしょうか?

 

神武天皇(初代天皇)が熊野の地から八咫烏(やたがらす)に導かれて、大和朝廷を創りました。

 

そして、神武天皇のご即位二年前に「橿原建都の詔」を公表しましたが、そこには、つぎのように書かれています。

 

「上(かみ)ハ乾霊(あまつかみ)ノ国ヲ授ケタマヒシ徳(みうつくしび)ニ答ヘ、

 

下(しも)ハ皇孫(すめみま)ノ正(ただしきみち)ヲ養ヒタマヒシ心(みこころ)ヲ弘メム。

 

然(しかう)シテ後ニ、六合(くにのうち)ヲ兼ネテ以ッテ都ヲ開キ、

 

八紘(あめのした)ヲ掩(おほ)ヒテ宇(いへ)トセムコト、又可(またよ)カラズヤ」

(『日本書紀』巻第三神武天皇の条)

 

「紘」とは冠の紐とか縄張りという意味。

 

「八紘」となると、杭を(四方に)打って縄を張り巡らし、境界を示す意味。

 

従って、元々の神武天皇詔勅の意味するところは、上は天つ神(皇祖神・天照大御神)が国をお授けになった御徳に答え、下は皇孫(天孫・瓊瓊杵尊)が正しきを養われた御心を広めてゆこう。

 

その後、六合(天地と四方)を統合して都を開き、八紘(天下)を覆って宇(家)となすことは、とても良いことではないか、という意味になります。

 

つまり、国民が一家のごとく仲睦まじく暮らせるような平和国家の建設、これが神武天皇の建国の理想なのです。

 

日本書紀には、「八紘為宇」(はっこういう)とあります。

 

「八紘一宇」という言葉は、大正二年に日蓮在家教団「国柱会」(こくちゅうかい)の田中智学(ちがく)が、「八紘為宇」(はっこういう) の言葉を元に造った造語になります。

 

「八紘を掩ふて宇と為す、われ必ず諸刃の威を借りず、座りながらにして天下を平らげむ。」

 

武力を使わないで、平和に世界をひとつの屋根のもとに統治しようではないか、と神武天皇は、今から2600年以上も前におっしゃいました。

 

今を生きる私たち人類が、この神武天皇の建国の精神に沿って生きていけば、世界は光明化していき、きっと戦争や争いの無い平和な世界が顕現することとなるでしょう。

 

画像:紀元二千六百年奉祝 八紘之基柱(あめつちのもとはしら)の落成式典

あなたは、医者から抗がん剤治療を薦められたら、「お願いします」といいますか?

 

抗がん剤を使ったガン治療は一般的ですが、5年生存率は50%(ガンになった臓器により異なります)前後といわれ、完治することはできません。

 

そもそも抗がん剤とは、ガンに効く特効薬ではありません。

 

抗がん剤とは、人を殺す目的の為に戦争で使われた殺人化学兵器であり、猛毒物質なのです。

 

第二次世界大戦中、ナイトロジェンマスタードという化学兵器を積んだ米軍の輸送船(ジョン・E・ハーヴェイ号)が、イタリアのバーリ港でナチスドイツ軍からの攻撃により沈没しました。

 

その際に、積んでいた毒ガス兵器であるナイトロジェンマスタードが外に漏れて、米兵士617人が被爆。

 

被爆した米兵士は、血圧の低下、末梢血管の急激な減少、白血球が大幅に減少して、被爆から数日の間で83人が死亡。

 

米軍は、この経過報告を受けて、この毒ガス化学兵器であるナイトロジェンマスタードが、悪性リンパ腫の治療に転用できるのではないかと考えました。

 

1946年8月、米軍は、米国陸軍医療センターにおいて、末期がん患者に対して、ナイトロジェンマスタードガスを薄めたもの(HN-3)を10日間投与してみました。

 

悪性リンパ腫は2週間後に、見事に完全に消えてなくなりました。しかし、その後、患者は全員、死亡してしまいました。

 

1949年、東京帝国大学 医学部教授であった石館守三氏が、ナイトロジェンマスタードを過酸化水素で酸化して薄めた薬を開発。

 

ナイトロミンという名前で吉富製薬から抗悪性腫瘍剤として発売されました。

 

その他に、ナイトロジェンマスタードを元に開発された抗がん剤として、メルファラン、ウラシルマスタード、クロラムブシルがありますが、現在の医療現場でも抗がん剤として使われています。

 

つまり、抗がん剤は毒ガスなのであります。

 

1990年、米国政府内の調査期間である技術評価局OTA(Office of Technical Assessment)が、抗がん剤治療についての経過報告書をまとめて公表しました。

 

米国東部の20の大学で、抗がん剤の効果測定が行われました。実験対象者は、第4期の肺がん患者743名でした。

 

抗がん剤を投与する量と回数が多ければ多いほど、生存期間が短くなり、再発率が高くなる結果が出たのです。

 

その報告書では、抗がん剤の有用性を完全に否定。米国議会とNCIに代替医療の調査と助成について国立がん研究所の議会に勧告しました。

 

この報告があってから、米国内でのガン死亡者数が急速に減少し始めました。

 

2007年10月、東京で行われました医療経済フォーラムジャパンにて、厚生労働省 保険局医療課長の麦谷真里氏は、次のように語りました。

 

「抗がん剤治療に保険適用する必要はない。なぜなら抗がん剤をいくら使っても効果がないからだ」

 

また、厚生労働省の抗がん剤担当技官である紀平氏は、つぎのように語りました。

 

「抗がん剤でガンが治せないことは周知の事実です。」

 

日本の厚生労働書の抗がん剤行政のトップの方々が、抗がん剤はがん治療に効果がありませんとはっきりと明言しているのです。

 

あなたは、それでも抗がん剤を打ちますか?それとも、他の治療方法を探しますか?

 

医療現場でがん治療に使われている抗ガン薬とは、人を生かす薬ではなく、人を殺す薬だったのです。