子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -12ページ目

日露戦争が起きる13年前に、日本とロシアは軍事衝突の危機が起きました。

 

その国家存亡の危機を救ったのは、明治天皇のご英断でした。

 

明治24年(1891年)ロシア皇帝のニコライ皇太子は、シベリア鉄道の極東地区起工式典に出席するため、ロシア海軍を率いてウラジオストクに向かう途中、日本を訪問しました。

 

ニコライ皇太子御一行は、長崎と鹿児島に立ち寄った後に神戸に上陸して、京都に向かいました。

 

人力車に乗り大津町内を通過中、警備を担当していた滋賀県警の津田三蔵が突然サーベルを抜いてニコライ皇太子に斬りかかりました。(大津事件)

 

ニコライ皇太子は、慌てて人力車から飛び降りて逃げましたが、津田三蔵は逃げるニコライ皇太子を追いかけて斬りかかろうとしました。

 

そして、人力車夫の向畑治三郎と北賀市市太郎の二人が、津田三蔵を取り押さえました。

 

この事件の電報を受け取った明治天皇は、すぐに行動しました。

 

京都へ行幸する手配をして、翌日の5月12日早朝、東京の新橋駅から汽車に乗り同日夜には京都に到着。

 

その日のうちにニコライ皇太子を見舞う予定でしたが、ニコライ側の侍医の要請により翌日へ延期されて、明治天皇は京都御所に宿泊。

 

翌5月13日、明治天皇は、ニコライ皇太子が宿泊していた京都の常盤ホテルを訪れてお見舞いをしました。そして、神戸港に停泊しているロシア軍艦に戻る、ニコライ皇太子をお見送りしました。

 

5月18日夜、人力車夫の向畑治三郎と北賀市市太郎は、ロシア軍艦に招待されて、ニコライ皇太子から直接聖アンナ勲章を授与されました。

 

身分の低い人力車夫に対して勲章を与えることはきわめて異例なことでした。2人は「帯勲車夫」と呼ばれて英雄として扱われました。

 

明治天皇は、神戸港に停泊中のロシア軍艦を訪問することにしました。

 

重臣達は外国軍艦に乗船する危険を諭して「拉致されてしまうのでやめてください」と進言しました。

 

なぜ重臣達は危険だと言って反対したのでしょうか?

 

1882年、朝鮮にて興宣大院君が清に拉致された事件があったためです。

 

李氏朝鮮において、朝鮮国王高宗の王妃閔妃を中心とする閔氏政権が転覆して、興宣大院君政権が誕生。

 

その後、清国は、朝鮮の漢城府に清国兵を派兵して、興宣大院君を拉致。中国の天津に連行後、朝鮮に圧力をかけて大院君政権を再び転覆させ、閔氏政権を復活させました。(壬午軍乱(じんごぐんらん))

 

明治天皇は、「いや、ロシア軍艦に乗船して謝罪する。日本人として誠意を示す。」と言い「ロシアは先進文明国である。そのロシアがなぜ汝らが心配するような蛮行をしなければならないのか。」と周りの反対を押し切ってまでしてロシア軍艦に乗船しようとしました。

 

ニコライ皇太子の軍艦には、日本中から謝罪の手紙と贈り物が届ききました。

 

5月19日、明治天皇は、ロシア軍艦「パーミャチ・アゾーヴァ」に乗り込み、ニコライ皇太子に対して再び謝罪をしました。

 

5月20日、東京の日本橋区(中央区)室町の魚問屋で働いていた畠山勇子は、この事件を知り国家の一大事と憂い、仕事をやめて京都に向かいました。

 

彼女は、「露国御官吏様」「日本政府様」「政府御中様」宛てに書いた嘆願書を京都府庁に出して、京都府庁前で剃刀で咽喉と胸部を深く切って自害しました。(「房州の烈女」)

 

彼女は、まだ27歳の若さでした。

 

なぜ、彼女はそのような行動をとったのでしょうか?

 

畠山勇子は、京都に向かう前に、「このまま帰られたのでは、わざわざ京都まで行って謝罪した天皇陛下の面目が立たない」と伯父に言いました。

 

伯父は、「一介の平民女性が、国家の大事を案じてもどうなるものでもあるまい」と諭したのですが、彼女は言うことを聞かずに汽車で京都に向かいました。

 

憂国の女子としては、居ても立っても居られなかったのでしょう。

 

当時の日本はまだ極東の小国でしたので、この事件を口実に大国ロシアに宣戦布告されてしまってもおかしくない状況でした。

 

もしそれが現実となったら日本国の滅亡の危機だったのです。

 

ロシアのシェービッチ公使は、津田を死刑にするように強硬に要求してきました。

 

日本政府は、裁判官に対し、旧刑法116条に規定する天皇や皇族に対して危害を与えたものに適用される、大逆罪によって死刑を類推適用するよう圧力をかけました。

 

伊藤博文は、「死刑に反対するなら、戒厳令を発してでも断行すべきである」と主張。

 

後藤象二郎は、「津田を拉致し拳銃で射殺することが善後策になる」と言いましたが、伊藤博文から、日本は法治国家であるのでそのようなことはできない、と叱られました。

 

旧刑法116条は日本の皇族に対して適用されるものであって、外国の皇族に対する犯罪は想定されてませんでした。よって、法律上は民間人と全く同じ扱いになり、怪我をさせただけで死刑を宣告するのは法律上不可能でした。

 

大審院院長(現在の最高裁判所長官)の児島惟謙は、「法治国家として法は遵守されなければならない」とする立場から、「刑法に外国皇族に関する規定はない」として政府の圧力に反発。

 

事件から16日後の5月27日、津田に無期徒刑(無期懲役)の判決が下されました。

 

当時の明治政府は、三権分立の制度が確立されたばかりでしたので、政府の圧力に従わずに裁判所の判断で判決が下されたのです。

 

シェービッチ公使は、津田の無期徒刑が決定したことを知ると「いかなる事態になるか判らない」との発言。

 

暗に、宣戦布告を示唆しましたが、日本が懸念するような軍事行動は起きませんでした。

 

この事件以来、ロシアの新聞は「皇太子殿下を守ったのはゲオルギオス王子であり、日本人は傍観しているだけだった」といった記事を載せ続けたため、ロシア国内では反日世論が高まって行きました。

 

しかし、明治天皇がニコライ皇太子のお見舞いしたとの報告を受けたロシア政府は、報道管制をしいて反日的な報道を止めさせました。

 

拉致される危険があるとの側近の反対を押し切ってまでして、ニコライ皇太子のお見舞いをして謝罪した明治天皇の行動が、日本を救ったのです。

 

この事件以後、ロシアの公文書には、日本人のことを「マカーキー(猿)」と記されるようになりました。

 

そして、この事件から13年後の明治37年(1904年)2月8日、日露戦争が勃発。

 

その日のニコライ皇帝の日記には次のようにあります。

 

2月8日「この夜、日本の水雷艇が旅順に投錨中の我が軍に攻撃を加え損害を与えた。これは宣戦布告無しで行われた。”卑怯な猿(マカーキー)”め。神よ我等を助けたまえ」。

 

明治天皇の行動力により、危機的状況を免れた日本。しかし、その後、ロシアとの軍事衝突が現実に起きてしまいました。

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インディアンの祖先は、日本の縄文人だった?

縄文人(Jomon)は、紀元前16000から3000年前の時代に、北海道から沖縄にかけて生活していた人々です。

1996年、米国ワシントン州のコロンビア川の河畔で、9300年以上前の人骨が発見されました。(ケネウィック人,Kennewick man)

その人骨の特徴は、日本のアイヌ人ととても似ていました。(ジョセフ・パウエル ニューメキシコ大学教授)(「Kennewick Man: The Scientific Investigation of an Ancient American Skeleton」)

米国オレゴン州のペイズリー洞窟(Paisley Five Mile Point Caves)で、14,500年前に生きた人間の糞が発見されました。

これは、現在、北米大陸と南米大陸で発見された、最古の人の糞となります。

縄文人はどのようにして日本から米国に渡ったのでしょうか?

北海道の根室から千島列島に沿って北上して、カムチャッカ半島に到着。そこからシベリア沿岸に沿って北上して、ベーリング海峡を渡りアラスカに到着。その後陸路で北米大陸を南下していった、という説があります。

実際にこのルートを、1999年から2000年にかけてシーカヤックを使って航海した人がいます。

この航海の途中、大きな波が襲い何度も転覆しました。海上に9日間の滞在したこともありましたが、島つたいにわたり、ついに、アラスカ州のセントローセンス港までたどり着きました。
(「縄文人は太平洋を渡ったか」(In the Wake of the JOMON) ジョン・ターク氏(Jon Turk))

シーカヤックに比べれば、何倍も重い重量の丸木船(一本の丸太をくりぬいた船)を使って縄文人たちは航海していきました。

なぜ、危険をおかしてまで移動したのでしょうか?

日本には、豊富な海洋植物があり、住まいにも困っていなければ、わざわざ危険を冒してまで、海を渡る動機がないのではないかと思うかも知れません。

縄文時代の遺跡からは、物を削ったり加工したりするための石器は出土しています。

しかし、石槍など打製石器が出土していますが、人間を殺すことができるような大きさのものではありません。

縄文時代の遺跡からは、人を殺すことを目的にしたような武器は見つかっていないのです。

よって、縄文時代は、人間同士が殺しあうような殺戮の時代ではなく、平和に暮らしていた時代といわれています。

たとえ殺し合いがなく、食料や住まいなど生活に困っていなくても、あるとき、冒険心にかられて、危険をおかしてまで移動したくなることがあります。

縄文人は、そのような衝動にかられて海を渡ったのではないでしょうか?

米国カルフォルニア州のチャンネル諸島(Channel Islands)からは、多くの石器が出土しています。

その中で、約15000年前に作られた有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)と呼ばれる石槍(いしやり)と、日本の縄文時代に作られた石槍が全く瓜二つでした。

千島列島からベーリング海峡、北米大陸の太平洋沿岸には、海草のケルプがたくさん生い茂る海域です。

縄文人たちは、そのケルプが生い茂る海域を丸太船を使ってわたってきたのでしょうか?

あるいは、氷河期(18000年前)には、この海域は陸続きで、歩いて渡ってきたのかもしれません。

日本とカリフォルニア沿岸の海産物の90%に共通点があるといわれます。
(ジョン・アーランドソン(Jon M. Erlandson) オレゴン大学自然・文化史博物館教授)

主に海産物を食べていた縄文人たちにとっても、米国大陸沿岸は住みやすい土地だったのでしょう。

米国先住民のDNAをしらべると、その起源はシベリアに住んでいた人々であると言われます。

縄文人が北上して海(陸?)を渡り、シベリアの人々と交わり、そこから北米大陸を南下していったかもしれません。

そうすると、シベリアに住んでいた人々の中にも、日本から移動してきた縄文人たちがいた、といえるかもしれません。

今から10000年以上も昔、縄文時代の石器が、北米と南米にて出土している事実から、縄文人が太平洋を渡り移動していたということが十分推測されます。

そんなこと無理だろう、GPSもない時代に数千キロの航海などできるはずがない、と思うかもしれません。

しかし、陸続きであったら、徒歩での移動は可能となりますし、海草で生い茂っていた浅瀬でつながっていたのなら、丸木船での移動も可能となります。

インディアンなど米国先住民の祖先たちは、実は日本から移動してきていたとなると、親近感も増します。

これからも、DNAや考古学的な発見によって、今までの常識が覆るような歴史がつくられていくことでしょう。

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現代では、2人に1人はがんになるといわれています。死亡原因の1位もガンです。また、医療費も毎年1兆円規模で増え続けています。

 

ガンは完全に治る病気、ガンは怖くない病気、という時代は、いったいいつになったらくるのでしょうか?

 

実は、今から80年以上も昔、末期がんの患者さんが100%治ってしまったという、奇跡のような治療法が開発されていたのです。

 

1920 年、ロイヤル・レイモンド・ライフ博士(Royal Raymond Rife)は、 人間にがんを作るウイルスを発見。 正常な細胞をがん化させる研究を 2 万回以上も試みました。

 

さらにこの微生物の培養液から 、400 種類もの腫瘍を作りだすことにも成功しました。

 

そして、これらの過程をすべてフィルムや写真に収め、その詳細にいたるまで記録に残していきました。

 

1929 年、新聞に「ライフ博士が開発した顕微鏡で、ウイルスの生態の観察に成功した」いう見出しで記事が掲載されました。

 

その新聞記事をみたミルバンク・ジョンソン博士は、友人からの依頼もありライフ研究所を訪問してライフ博士の協力者となりました。

 

また、アーサー・ケンダル博士も、ウイルスを培養して、生きたまま観察できる培養液(K- medium) を開発し、ライフ博士と共同研究をはじめました。

 

バージニア・リビングストン博士は、ニュージャージ 州からライフ博士の研究所のある米国サンディエゴに引っ越して、頻繁にライフ博士の研究所を訪れました。

 

1931 年 11 月 20 日、ミルバンク・ジョンソン博士の主催で晩餐会が催され、米国内で最も尊敬される医学界の権威、 44 人が集まりました。

 

そして、ライフ博士とアーサー・ケンダル博士の2人を「ウイルスを培養し、生きたまま観察できることに成功した」共同研究の功績をお祝いました。

 

1934 年、南カリフォルニア大学は、ライフ博士のがん治療を行うための特別医療研究チームを作りました。

 

そして、カリフォルニア州パサデナ郡立病院において、ミルバンク・ジョンソン博士が治療している末期がん患者を対象にして、ライフ博士のがん治療を行いました。

 

ライフ博士のがん治療をはじめてから3ヶ月後に、86.5 %の末期がん患者が完全に治癒し、さらにその4 週間後には、残りの 13.5 %の末期ガン患者が完治したと報告しました。

 

つまり、ライフ博士のがん治療による治癒率は、100 %だったのです。

 

そのような驚くべき治療法が開発されたのですが、その治療法が全世界に普及してしまうことを最も恐れた人物がいましたた。

 

米国医師会(American Medical Association)(AMA)の理事長であり、医師会のすべての株を所有していたモーリス・フィッシュベイン氏です。

 

1934 年 、彼は、ライフ博士の治療法の独占権を売ってほしいと要求。

 

ライフ博士はその要求を拒否。

 

医薬品業界は、副作用も治療費用もほとんどかからずに末期がんを 100 %完治させてしまうという、奇跡のような治療法が世の中に流通してしまうことをも最も恐れました。

 

なぜ、医薬品業界はそれを最も恐れたのでしょうか?

 

医薬品業界は、巨大な利権です。

 

彼らは、他の業界のメーカーと同様に、物(薬)を売り利益を得ることを商売としています。その薬を全く使わずに、ガンが完全に治ってしまうとなると、多くの医薬品メーカーは大打撃をうけてしまいます。

 

そこで、ライフ博士の研究により、利権を侵されると感じたモーリス・フィッシュベイン氏は、薬を使わない代替医療に対して圧力をかけていったのです。

 

また、医薬品業界の背後には、世界の富を支配しているといわれる、ある大物人物がいました。彼は、石油王と呼ばれた男です。

 

医薬品と石油。一見すると何のつながりがあるのだろうと思いがちですが、実は西洋医学の薬というのは、石油から作られた化学合成物質なのです。

 

1938年5月6日付のイブニング・トリビューン紙には次のような大見出しで、ライフ博士の研究成果を述べた記事を掲載しました。

 

「サンディエゴ在住の科学者、恐怖の病原菌は光で破壊できると宣言」

 

小見出しには「医学界への福音」とありました。

 

ライフ博士は、 すべての物質と同様に、目には見えないレベルでウイルスもそれ独自の振動数で、振動していることに着目しました。そして、そのウイルスと共振する周波数の光を照射して、ウイルスをさらに振動させました。

 

微生物が、その構造的な形を維持するのに耐えきれなくなるまで照射レベルをさらに上げてやると、ウイルスの形は歪み、崩壊してしまうのです。

 

この周波数の光(致死反応振動数(MOR))は、ウイルス以外の周りの正常な細胞を破壊することはありませんでした。

 

全てのものは、その物質個有の振動数で振動しています。

 

ある一定の周波数の音をワイングラスにかけると、その音波の影響を受けてワイングラスは割れてしまいますが、他の物質は破壊されません。

 

物質にはそれぞれ固有の振動数があり、その固有の振動数に影響を与えるとピンポイントで破壊されてしまうのです。

 

ライフ博士は、ヘルペスや小児麻痺、脊髄膜炎、破傷風、インフルエンザなどのウイルスの病原菌を破壊する、特定の周波数を発見するために、寝る間を惜しんで研究に没頭していきました。

 

また、 電気を使用した治療法なので、実質的にわずかな電気代しかかからないため、治療費もたいへん安いものでした。

 

脱毛などの副作用に苦しんだりすることもなく、無事に家族の元にもどることができました。抗がん剤や放射線療法など、現在一般的に行われているがん治療に比べて、患者さんの負担は大幅に軽減されました。

 

当時の顕微鏡の倍率は、2,500倍が限界でした。2,500倍では、実際に病気を引き起こしているウイルスを見ることはできませんでした。

 

しかし、ライフ博士は、独学で 60,000 倍もの倍率を誇る光学顕微鏡を開発してしまいました。(ユニバーサルマイクロスコープ、Universal Microscope)

 

このユニバーサルマイクロスコープは、生きているウイルスを観察できました。ライフ博士は、生きたままウイルスを観察した世界初の人間となったのです。

 

また、ライフ博士は、「ビーム線」装置を発明しました。この「ビーム線」装置は、物質を構成している科学物質に対して、ある特定の周波数で共鳴エネルギーを与えることによって、病原体を弱体化または破壊することが可能であると報告しました。

 

ライフ博士の開発した、生きたままウイルスを観察できるユニバーサルマイクロスコープとビーム線装置により、多くの病原体となる細菌を駆除することができるようになったのです。

 

これは、人類史に残る画期的は発明でした。

 

しかし、ある日、ライフ博士の研究所(サンディエゴ)から、フィルムや写真や研究書類の多くが盗まれるという事件が起きました。

 

そして、ライフ博士の研究成果を生かすために設立された、バーネット研究所(ニュージャージー州)が放火されてしまいました。

 

ライフ博士は、失ったデータを復元するために苦労しましたが、再びライフ博士の研究所に誰かが侵入して、ユニバーサルマイクロスコープが破壊されてしまい、 5682点の部品が盗まれてしまいました。

 

当時はパソコンなど無い時代です。バックアップデータを取っておくことなど、簡単にはできないことでした。

 

そして、ライフ博士の研究所は、警察から令状なしに捜索を受けて、50年かけて蓄積してきた資料のすべてが、没収されてしまいました。

 

ライフ博士が、命をかけて研究に没頭して画期的な発明をして、きちんと整理整頓して残していた研究成果のすべてが、何者かの指示によって闇に葬られてしまったのです。

 

1939 年、フィリップ・ホイランド氏は、ある人物から依頼されて、ライフ博士の周波数治療器を製造していた唯一の会社である、ビームレイ・コーポレーション社を訴えました。

 

結果的に、ホイランド氏は敗訴しましたが、ビームレイ・コーポレーション社は、莫大な訴訟費用の負担に耐えられずに倒産してしまいました。

 

世界で唯一、ライフ博士の開発した治療器具を生産していた、ビームレイ・コーポレーション社が倒産したことにより、世の中にライフ博士の開発した治療器具を流通させることが、できなくなってしまいました。

 

米国で出版されている医学雑誌は、 ライフ博士の研究成果について掲載されることはありません。なぜなら、医学雑誌は、製薬会社の広告収入によって経営を維持しており、AMAの支配下にあるためです。

 

よって、大学の医学部で学ぶ学生のほとんどは、ライフ博士の研究成果について全く学ぶことなく、医者になっていきました。

 

また、かつてライフ博士と共同研究を行ったバージニア・リビングストン博士やミルバンク・ジョンソン博士、アーサー・ケンダル博士や、その功績を称賛していた多くの医師たちは、皆、ライフ博士の研究について口を閉ざしてしまいました。

 

ノースウェスタン大学医学部の理事であったアーサー・ケンダル(Arthur Kendall)博士は、約25億ドルを受けとり、メキシコに引退。

 

ライフ博士の研究に協力してきたDr. George Dockは、AMAが与えることができる最高の栄誉と巨額の助成金を受取ることと引き換えに、ライフ博士の研究成果について一切話しませんでした。

 

1950年、ライフ博士は、AMAや公衆衛生局、医薬品業界などが、同僚を洗脳して脅かしていたと主張。しかし、科学的な根拠がないとして、ライフ博士の主張は拒否されて、非難されてしまいました。

 

1971 年8月5日、ライフ博士は、精神安定剤とアルコールの過剰摂取により死亡。 83 歳でした。

 

ライフ博士が、癌を完全に治癒するのに成功した人類史に残る輝かしい業績は、米国医師会(American Medical Association)(AMA)の強力な陰謀によって、すべて抹殺されて闇に葬られてしまいました。

(「The Cancer Cure That Worked」Barry Lynes 1987年出版)

 

この本「The Cancer Cure That Worked」が出版された1987年以降、闇に葬られていたライフ博士の研究への関心が高まっていきました。そして、「Rife」という名前を付けた装置が、がんやAIDSなどの疾患の治療に効果がある、としていくつも販売されるようになりました。

 

その中には、がん治療に効果が疑問視されるものがあり、訴訟問題に発展してしまったものもありました。

 

ライフ博士は、自らが発明した治療器を使っていたため、不摂生な生活を過ごしていたにもかかわらず、83歳まで生きることができたといわれています。

 

ガンになったら、抗がん剤、放射線、手術、といった3大治療法が主流となっています。それ以外の代替療法もいろいろ試されており、それぞれ成果が出ているものもあります。しかし、末期がんが完全に治るという治療法はいまだに発見されていません。

 

巨大な利権を守る為に、がん治療の完全な治癒ができた画期的な発明を闇に葬ってしまった、米国医師会(AMA)理事長モーリス・フィッシュベイン氏。そして、その背後にいた世界の石油王。

 

2人に1人がガンになるといわれる時代。

 

もし、ライフ博士の治療法が世界中に普及していたら、抗がん剤や放射線治療などの副作用により、もだえ苦しむガン患者はいなくなり、その家族も含めて多くの人々が救われていたことでしょう。

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日本の保守政党の中では、北方領土4島の返還を要求すべきか、2島返還で妥協すべきかと意見が分かれています。

 

北方4島は日本の固有の領土であり、歴史的に見ても日本以外の国が主権を持った事実がありません。

 

サンフランシスコ講和条約において、日本は、南樺太と千島列島の領有権を放棄しました。

 

北方4島は千島列島に属するのかどうかという議論もありますが、どちらにしても、この講和条約に当時のソ連は著名しておりません。

 

つまり、国際法上では、北方4島の領有権は日本に属しているのです。さらに、南樺太の主権もロシアにはありません。

 

南樺太は、どの国にも属していない空白地帯なのです。

 

ロシアは、不法に南樺太と北方4島を占拠し続けていることになります。

 

なぜ、ソ連は、不法に南樺太と北方4島を占領し続けているのでしょうか?

 

昭和19年(1944年)2月4日から11日まで、クリミア半島のヤルタにおいてルーズベルト米国大統領とスターリン(ソ連)とチャーチル(英国)が会談しました。(ヤルタ会談)

 

その際、ソ連の日本への参戦と、満州の主権は中国(蒋介石政権)が保持すること、南樺太と千島列島の領土はソ連に引き渡されること、などがルーズベルトとチャーチル、スターリンとの間で密約されました。(ヤルタ協定)

 

ソ連軍は、このヤルタ協定に従い、昭和20年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄して、満州、外蒙古、南樺太、千島列島を侵略して占領しました。

 

ロシアは、次のように主張し続けています。これは、ルーズベルトとチャーチルと密約したヤルタ協定に従った、正当な行為である、と。

 

しかし、ルーズベルト大統領がスターリンと交わした密約については、事前に米国議会の承認を得ているわけではなく、当時の政権中枢にいたものでさえしらされていない話でした。

 

終戦後、日本にやってきた占領軍の司令官、マッカーサーも知りませんでした。

 

この事実を知っていたのは、ルーズベルトの側近中の側近である、アルジャー・ヒスなど数人だけでした。

 

1995年、アメリカの国家安全保障局が、ソ連軍の暗号文(ヴェノナ文書)を解読し公開しましたが、その中で、アルジャー・ヒスは、コミンテルンのスパイであったということが明らかとされました。

 

また、日米開戦が始まる前の昭和13年(1938年)7月、ニューヨーク総領事であった若杉要は、宇垣一成外務大臣に対して次のような機密文書を送りました。

 

「アメリカ共産党(コミンテルンのスパイ)の真の狙いは、日米関係を悪化させてシナ事変を長期化させて、日本がソ連に対して軍事的圧力を加えることができないようにすることであります。

 

(ルーズベルトの反日政策の背後には、アメリカ共産党員がいることを指摘して)、共産党による日米分断策動にのらないようにすべきである」と。

 

日本の外交官は、すでにルーズベルト政権の中枢、特に民主党内に共産党員がスパイとして暗躍していることを掴んでいました。

 

当時の米国の指導者、ルーズベルト大統領は、ソ連のスパイ達の意向に従って米軍を動かしていたのです。

 

1952年3月20日、サンフランシスコ講和条約の批准を承認する際、米国の上院議会は、「南樺太及びこれに近接する島々、千島列島、色丹島、歯舞群島及びその他の領土、権利、権益を、ソ連の利益のために、サンフランシスコ講和条約を曲解し、これらの権利、権限及び権益をソ連に引き渡すことを、この条約は含んでいない」との決議宣言を行いました。

 

1953年、アイゼンハワー大統領は、年頭の一般教書演説において「あらゆる秘密協定を破棄する」と宣言。

 

また、1956年、アイゼンハワー政権は、次のような国務省声明を発表しました。

 

「(ソ連による北方領土占有を含む)ヤルタ協定は、ルーズベルト個人の文書であり、米国政府の公式文書ではなく無効である」と。

 

2004年、ブッシュ大統領は、アメリカ保守主義同盟40周年大会の記念講演で、ルーズベルトの側近アルジャー・ヒス(ソ連のスパイ)らを告発した『タイム・マガジン』記者のチェンバースを、アメリカ保守主義のリーダーとして高く評価。

 

2005年、ブッシュ大統領(息子)は、ラトビアで演説した際、ヤルタ協定は史上最大の過ちの一つだと強く非難。

 

米国政府が、無効であり最大の過ちであったとしたヤルタ協定。

 

コミンテルンのスパイを信頼して、側近においていたルーズベルト大統領は、ソ連の利益が最大限になるように、戦後の新しい世界秩序を作りました。

 

その世界秩序を作るための大きな役割を果たしたのが、ヤルタ協定だったのです。

 

日本は、いまだにヤルタ協定に従った世界秩序から、抜け出すことができずにいます。

 

北方領土は、4島ともに日本の固有の領土です。

 

2島返還で妥協するのではなく南樺太の返還要求をしてから、その後、妥協して4島返還で合意する。

 

それぐらいの外交交渉をしてほしいです。

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戦時中、性奴隷にあった女性を救済するようにと、執拗に日本に要求している国や団体があります。彼ら彼女らは、国連人権委員会などを通して、世界中に日本を貶める活動を積極的に行なっています。

 

その一方、ソ連参戦後、日本への引き揚げの途中に、婦女暴行(レイプ)にあった日本女性がたくさんいました。

 

日本内地への上陸後、性被害にあった日本女性たちはどのような行動をしたのでしょうか?

 

昭和20年8月9日、ソ連軍160万人の兵が、満州、蒙古、樺太など日本国境をこえて侵略してきました。

 

昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を受託して、満州をはじめ大陸の各都市の治安を維持し統括していた関東軍(日本陸軍)が武装解除。

 

関東軍(日本陸軍)の武装解除に伴い、無法地帯となってしまった満州や朝鮮半島、中国大陸の各地では、ソ連兵や朝鮮人、中国人たちによって、民間の日本人に対する略奪、婦女暴行(レイプ)、虐殺が日常的に行われていきました。

 

昭和20年8月24日になると、朝鮮半島の38度線を境にして封鎖されてしまい、北朝鮮から南下することができなくなりました。

 

その年の秋から冬にかけて、家や財産を棄てて着の身着のままで避難してきた日本人難民たちは、北朝鮮から南下することも出来ずに、各地で空き家を探して、すし詰め状態で共同生活を送り、飢餓と寒さに耐え忍んでいました。

 

また、近くに住む朝鮮人たちやソ連兵によって、定期的に略奪が行われ、婦女子は連れ去られて強姦されていきました。

 

例えば、一晩に10人ほどの若い女性が連れて行かれ、翌日、戻されました。戻って来た女性の中には、精神的な苦痛により自殺してしまう人もいました。

 

また、自分の娘や、妻が連れ去られそうになるのを抵抗した男性が暴行を受けて、殺されてしまうこともありました。

 

着の身着のままで避難してきたので、限られた食料しか持っていない日本人難民に対して、定期的に略奪が行われて、強姦の目的で婦女子たちは連れさられて行きました。

 

食料がないなら、外で働きにでればよいではないかと思う人もいるかもしれません。

 

しかし、日本が降伏した日(8月15日)を境にして、朝鮮人や中国人たちは手のひらを返したように、日本人に対してひどい仕打ちをしていったので、日本人が働けるような環境ではなくなってしまいました。

 

また、中には差し入れをしてくれるようなやさしい朝鮮人もいましたが、その行為が朝鮮人の保安隊に見つかると厳しく罰せられていたので、日本人難民を援助したりしてかかわろうとする人はいませんでした。

 

そのような環境の中、かろうじて生き延びていった日本人難民たちですが、大陸や北朝鮮の各地で、腸チフスなどの伝染病や栄養失調のために、多くの人が死亡していきました。

 

昭和20年12月から翌年3月にかけて、旧京城(ソウル)帝国大学の医学部で働いていた泉靖一氏は、釜山港までたどり着いた日本人難民を検診していきました。

 

そこで、885人の日本の婦女子を検診したところ、婦女暴行(レイプ)被害者が70名、性病患者が19名でした。約1割の婦女子が強姦(レイプ)の被害にあっていたのです。

 

この当時、大陸にいた日本女性は、みな丸坊主にして服装も男性の服を着ていました。胸にはさらしなどをきつく巻いて、胸のふくらみを無くし、女性であることを気づかれないようにしていました。

 

やっとの思いで引き揚げ船に乗り込み、博多港に到着したのに、ソ連兵や朝鮮人などに強姦(レイプ)されて身ごもった日本女性が、どうしていいかわからず、海に投身自殺する人たちもいました。

 

日本人には恥の精神があるので、帰国後、社会的に差別を受けることを恐れての行動だったのでしょう。

 

朝鮮半島から博多に引き揚げた泉靖一氏は、占領軍と交渉して移動医療局を作る許可を得ました。

 

昭和21年春、泉靖一氏は、連合軍の監視の目を盗み、押し寄せる引揚者を救護するため、昭和21年春に再び朝鮮半島に潜入しました。

 

京城(ソウル)にて、掘立て小屋に小旗をたてただけの簡単な診療所をつくり、治療にあたりました。旧京城帝国大学医学部の教職員や教学生らが協力して活動していきました。

 

また、栄養失調の孤児にたいして食事を配給でできるようにもなりました。しかし、少ない活動資金のために思うような活動が出来ないでいました。

 

博多にいる孤児たちはどうしたでしょうか?

 

日本政府が行っていた引き揚げ援護局とは別に、民間でも引き揚げ援護を行っていました。

 

その活動は、一番力の弱い子どもたちや婦女子を中心に救援していきました。

 

親を失った戦争孤児たちは、おちつける環境と暖かい励ましの手、栄養補給が必要でした。

 

しかし、博多の町は一面が焼け野原。

 

孤児を世話する保母さん達も、自分のことで精一杯でした。孤児や婦女子など引揚者は、毎日、博多港や佐世保港に上陸してきました。

 

港には上陸待ちの引き揚げ船が、ぎっしりと埋め尽くされていました。

 

泉靖一氏は、引揚者のための仮設住宅を建てる話を聞き、そのひとつを借り受けて、博多駅近くの日本最古の禅寺と言われる聖福寺の境内に立てました。(「聖福寮」)

 

婦人の友から保母さんとして3名が参加しました。終戦から1年後の昭和21年8月15日、引揚者孤児のための施設「聖福寮」が活動を開始しました。

 

そのような中、京城(現在のソウル)生まれの山本良健医師は、昭和21年末、京城からの病人引揚者を引率して博多港に上陸。その後、聖福寮の寮長として活動していきました。

 

孤児たちは、精神的は疲労と飢餓のために、なかなか落ち着きませんでした。夜中に起きて、ゴミだめをあさり、食べるものを探したりしてました。

 

ほとんどの孤児たちは、自分の親の遺骨を持っていました。

 

そして保母たちがその遺骨を預り、まとめて一箇所に安置しようとしましたが、なかなか手放そうとしませんでした。

 

いつも、自分の親のそばにいたかったのでしょう。

 

遺骨を安置した部屋には、孤児たちが入りたがりました。

 

ある12歳の女の子は、病気で自分でたべることができない2才の弟のために、一度食べ物を自分の口で十分に噛んで、やわらかくしてから弟に食べさせていました。

 

おそらく、亡くなった親が、いつも弟にしていたのを真似したのでしょう。

 

しかし、その弟さんは、5日後になくなってしまいました。

 

ある日、田中医師と泉氏のところに、ボロボロに衣服で疲れ切った女性が来て言いました。

 

「先生、娘が婦女暴行(レイプ)を受けて妊娠してしまいました。どうか、この子を元の体に戻してあげてください」と。

 

彼女は朝鮮の京城(ソウル)師範学校の教え子でした。

 

早速、堕胎手術が行われましたが、彼女の娘は、赤ん坊とともに死亡してしまいました。

 

これをきっかけとして、昭和21年3月25日、強姦(レイプ)をうけて妊娠してしまった婦女子に対して、堕胎手術をする診療所を福岡県筑紫郡二日市町(現在の筑紫野市)に開設しました。(二日市保養所)(現、済生会二日市病院)

 

当時の日本では、堕胎手術(人口妊娠中絶)は法律で禁止されていましたので、犯罪をおかしてまで、堕胎手術を行う医師もいませんでした。

 

しかし、誰かがやらなければならない、という使命感があったのでしょう。京城(現在のソウル)帝国大学の医学部医局員たちにより治療を行っていきました。

 

診療所を開設したとはいえ、堕胎手術は違法でした。

 

一体どのようにして、法律違反の堕胎手術を引揚者たちの広報して行ったのでしょうか?

 

引き揚げ船の医師を通じて、パンフレットを配布していきました。

 

そこには「不法な暴力と脅迫で体に異常を感じつつある方は、診療所へ収容して健全なる体にする。」と記されました。

 

「婦女暴行(レイプ)」という直接的な表現を使わずに、あえて婉曲的な表現を使いました。被害にあった日本女性の心の傷に配慮したためです。

 

また、15歳から55歳までの引き揚げ女性たちに対して、博多港や佐世保港に設置された婦人相談所への相談が義務化されていきました。

 

これは、大陸や朝鮮半島での婦女暴行(レイプ)の被害にあった、日本人女性がとても多かったための措置でした。

 

新聞広告も出して、診療所の存在を告知していきました。先ほどのパンフレットと同様に、婉曲的な表現を使って。

 

物資の不足のために麻酔もない状況で、歯を食いしばり痛みに耐えながらの堕胎手術を受けていきました。

 

彼女たちは、看護師の手をぎゅっと握りしめて、爪が食い込むくらいになりながらも、堕胎手術の痛みに耐えていました。

 

中には、死亡してしまった人もいました。

 

二日市保養所では、風呂場を改造して手術室として使っていました。妊娠8ヶ月以降の赤ちゃんの中には、生まれてから鳴き声をあげた子もいました。

 

妊娠後期の堕胎手術によって生まれた赤ちゃんは、毛布などに包んで丘の上の高台にある旧海軍病院に運ばれて、注射による自然消滅と呼ばれる方法によって、殺されました。

 

開拓団として満州に渡ったある人の話です。ソ連軍が突然侵略して来たために、着の身着のままに家を出て日本へ避難する途中、38度線封鎖のために開拓団たちの集団生活が始まりました。

 

その開拓団の中から若い娘を連れてくるようにと、ソ連軍や朝鮮保安隊から執拗に要求がありました。

 

無防備な日本人難民たちは、その要求を断りきれずに、渋々、娘を差し出しました。

 

翌年、38度線を越えて南下できるようになったので、差し出した娘を親が迎えに行くと、その娘は日本に帰りたくないと言い出しました。

 

なぜなら、連日のように強姦(レイプ)されて辱めを受けて来たので、このような体になってしまっては、日本へ帰ることなどできない、と言うのです。

 

日本内地では、占領軍によって日本女性は婦女暴行(レイプ)され放題であると言う噂が流れていました。

 

二日市保養所が開設されてから2ヶ月の間に、堕胎手術を受けた日本人女性に対して、婦女暴行(レイプ)を犯した男性の国籍の内訳は、朝鮮人28人、ソ連人8人、シナ人6人、米国人3人でした。

(橋爪将医務主任の報告書)

 

秦医師の話

「声を上げる女性はいなかった。皆、我慢して耐えていた。とても可哀想だった。僕らがやらなければ誰がやるんだ、という使命感で行動していました。なんとかして、女性たちの体を軽くして家に帰してやりたい、という思いだけでした。」と。

 

堕胎罪という罪に問われるかもしれない状況にもかかわらず、医師たちは堕胎手術をおこなっていったのです。

 

昭和21年3月25日から12月の約9ヶ月間だけでも、218人の婦女暴行(レイプ)の被害にあった女性を治療しました。

 

昭和22年4月、最後の引き揚げ船が博多港に到着。戦争孤児たちの新たな上陸はなくなりましたが、引き続き孤児を預るために施設の運営は継続していきました。

 

博多港からは、満州、中国、朝鮮半島や南方などから1日平均して約4000人の引揚者が上陸して、合計139万2429人にのぼりました。

 

長崎県佐世保港ではどうだったのでしょうか?

 

ここでも、15歳から50歳までの女性が、外地(大陸や朝鮮半島など)での性被害について問診を受けることが義務付けられました。

 

昭和21年5月から22年4月までの約11ヶ月間で、婦女暴行(レイプ)の被害を受けたために、堕胎(人工妊娠中絶)が必要な女性は、214人にのぼりました。(佐世保引揚援護局)

 

被害にあった女性は、佐賀療養所(現在の国立 東佐賀病院)において堕胎手術が行われました。

 

佐賀療養所には、九州大学医学部 産婦人科教室から医師が派遣されました。

 

医師たちには、堕胎手術を行っても堕胎罪には問わないということを、国が超法規的に密約しました。

 

「引き揚げ婦女子に対して心身疲労があり、また、事情により正規分娩が適さない人に対しては、極力、妊娠中絶を実施すること」と。

(引き揚げ婦女子医療救護実施要領)

 

外地で婦女暴行(レイプ)を受けて出産した混血児は、被害女性と同様に、日本内地で差別を受けてしまうだろうという配慮があったのでしょう。

 

佐世保港からは、139万6468人もの引揚者が上陸。

 

ようやく佐世保に上陸した後も、栄養失調や病気のために力尽きて亡くなった人の遺体、約6500体は、荼毘(だび)に付され埋葬されました。

 

あたかも性奴隷が実際にあったと主張し続けて、日本をいつまでも貶めている国や団体がある一方、実際に婦女暴行(レイプ)を受けたにもかかわらず、何の要求もせずに黙って耐え偲び、密かに堕胎手術をして、ひっそりと生きて来た日本女性。

 

現在でも、二日市保養所の「水子慰霊祭」が、毎年5月14日に筑紫野市二日市温泉街の福祉施設「むさし苑」駐車場にある水子地蔵前で、ひっそりと行われています。

 

参考図書

「水子の譜―引揚孤児と犯された女たちの記録」上坪隆著

歴史を学び日本人の誇りを育む 斎藤ひろゆきのメルマガ

 

 

 

 

占領期間中、日本民族を劣化させるための、さまざまな政策が行われていきました。

 

その日本民族を劣化させる上で一番役に立ったのが、実は「母子手帳」だったのです。

 

1915年、米国の乳業会社が母子手帳を作りました。米国政府が作成したのではありません。

 

その後、米国内では牛乳製品の普及に力を注いでいきましたが、普及に伴い米国市民の病気も増大していきました。

 

1945年、日本を占領統治した米国は、日本民族を劣化させていく政策を次々と打ち出していきました。

 

なぜ、日本民族を劣化させる必要があったのでしょうか?

 

戦争に勝利したとはいえ、米軍の被害も相当なものにのぼりました。そこで、二度と日本が米国に歯向かうことができないようにしようと考えたのです。

 

1915年から1945年までの間、母子手帳の普及に伴いたくさんの病気が広まっていき、米国民が劣化していきました。

 

その失敗を教訓にして、米国製の母子手帳を翻訳したものを、日本に普及させていきました。

 

失敗を教訓にして、改良を加えてより良いものにしていくというのならわかりますが、米国の失敗例をそのまま日本に導入していったのです。

 

すべては日本民族を劣化させる政策のためだからです。

 

終戦後、日本を占領した米国主導の占領軍が、日本によいことをしてくれたおかげで、戦後日本が経済的に繁栄することができた、という人がいます。

 

そういった側面も、もしかしたらあるのかもしれません。

 

しかし、欧米列強が、アジアや南米、アフリカ諸国を植民地していった1945年までの時代に、どのような植民地政策をおこなってきたかを知れば、その答えは明らかです。

 

欧米列強は、植民地からの搾取できるだけ搾取していき、原住民を豊かに繁栄させようという発想は全くありませんでした。

 

また、植民地が、自ら強力な軍隊を持ち、宗主国から自主独立するのを手助けしようという発想もありませんでした。

 

(占領軍が、憲法9条2項に「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と規定させたのをみれば、その意思は明らかです。)

 

占領中の昭和22年(1947年)児童福祉法が施行され、翌年から米国製の母子手帳をそのまま訳したものを、日本全国の妊婦に向けて発行。

 

昭和17年(1942年)から妊産婦手帳制度というものがありましたが、その内容は全く異なるものでした。

 

昭和23年(1948年)、占領軍の公衆衛生福祉局(PHW)の指導により、予防接種法が制定され、予防接種が義務化されました。さらに、違反した人には罰則(罰金)が課せられるようになりました。

 

一方、米国では母子手帳は破棄されています。

 

母子手帳には、「牛乳(粉ミルク)を飲ませるように」と記載があり、また、どの時期にどのような予防接種をしなければならないかということが記載されてあります。

 

まじめなお母さんは、この母子手帳にかかれてあるとおりに、赤ん坊に粉ミルクを与え、予防接種を受けさせてきました。

 

予防接収は、大変危険なワクチンです。私自身の体験でも、インフルエンザに過去2回感染しましたが、その2回ともに予防注射をうけた年でした。

 

予防注射を受けた年だけ、感染したのです。

 

ワクチンを接種した子どもと、そうでない子どもの病気の発症率を調べた統計(VaccineInjury.info、13753人のワクチンを受けていない子どもの統計)があります。それによると、たとえば、自閉症については、ワクチンを摂取した子どもが、そうでない子どもの2倍の発症率であったそうです。

 

どんな薬やワクチンでも、副作用は必ずあります。また、効果があるかどうかも疑わしいものもあります。(インフルエンザ予防接種の例)

 

今では、予防接種を受けるかどうかは、定期摂取や任意摂取にかかわらず、強制ではなく努力義務となっています。

 

ここでいう努力義務とは、受けようと努力したけれども受けなかった、ということでよいのです。

 

もしかしたら、児童相談所に目をつけられてしまうかもしれませんが、ワクチン反対派の医者に相談するなど、努力義務をしていれば、大きな問題とならないでしょう。

 

保健所や医者のいうことに流されずにしていきたいものです。

 

粉ミルクの話に戻りますと、占領期間中の昭和20年から27年、全国の保健所で働くことができた栄養士は、乳業メーカーの専属の栄養士でなければなりませんでした。

 

また、母子手帳の表紙には森永乳業、雪印乳業、明治乳業など乳業メーカーのコマーシャルが載っていたのです。

 

1946年11月から1952年6月までの約6年間、日本は脱脂粉乳の援助を受けました。(ララ物資)

 

1949年から1964年の約15年間、ユニセフから脱脂粉乳の援助を受けました。

 

牛乳を飲むことで、子供の成長に欠かせないカルシウムを摂取することができる、という宣伝が、占領軍の指導のもと、大々的に行われていきました。

 

その結果、終戦時(昭和20年)までの日本国内でほとんど飲まれることがなかった牛乳が、全国的に普及していきました。

 

今でも、牛乳は体に良いという説と、有害であるという説が出回っています。

 

どちらを信じて良いのかわからないという人も多いと思います。

 

そもそも牛乳は、牛の子供が飲む飲み物です。そして母乳というものは血液が変化したものです。それを他の種である人間が飲むということが、不自然な行為です。

 

ただ、それだけの理由ならば、少量のミルクを飲むことは大した問題となりません。

 

問題なのは、牛が食べる飼料に入れられる成長ホルモン剤と、トウモロコシにあります。

 

成長ホルモン剤は、牛を早く成長させるために飼料に入れられています。

 

昔の牧畜は、成長ホルモン剤なども入れられてませんでしたし、牧草を餌にして食べていました。しかし、現在の牛の主な餌はトウモロコシとなっています。

 

トウモロコシは、本来の牛の食べ物ではありません。草食動物であるキリンや象などが肉を食べたら病気になり死に至るでしょう。

 

肉食動物であるトラやライオンなどが、穀物や草などばかり食べていたら、病気になり死に至るでしょう。

 

本来、動物が食べる食べ物は、その種によって決まっているのです。それを無視してしまうと、その種は絶滅してしまうでしょう。

 

さらに、牛の飼料として普及してしまっているトウモロコシは、モンサント社の遺伝子組み換え作物(GMO)となっています。

 

遺伝子組み換え作物を食べ続けると、病気になることは明らかとなりつつあります。(モンサント社は否定していますが。)

 

現在の牧畜農家ではどのように牛を飼育しているのでしょうか?

 

生後、2年も経たないうちに人工授精を施されます。子牛を出産してからは、牛舎に繋がれっぱなしの生活をおくるようになります。

 

出産後、2~3カ月たつと再び人工授精されます。そして、妊娠しながら乳を搾り取られていきます。これは牛にとっては大きな負担となります。

 

子牛を生み、乳を搾り取られたうえに、様々な病気を発生した牛は、最後は肉食として殺傷されていきます。

 

牛の搾乳量は、1頭あたり7,300kgを生産されます。これは、自然界の10倍相当にあたります。

 

本来の自然な姿で飼育された牛から絞られた、成長ホルモン剤も入れられていない牛乳であれば、人間が飲んでもそれほど問題ではありませんが、お店に流通している牛乳の中から、それを見つけることはとても難しいです。

 

粉ミルクや牛乳、小麦を材料としたコッペパンといった食べものを、学校給食を通して、日本全国の子どもたちに普及させていった占領軍。

 

こどもの頃に食べたものは、大人になっても食生活に影響を及ぼします。そして、その食の習慣は次の世代にも引き継がれていきます。

 

昭和20年まで、米を主食としていた日本人は、気力体力ともに強かったといわれています。

 

米国をはじめとした連合国は、そのような日本人の強靭さを恐れて、米から小麦を使ったパンや、病気の原因として挙がられている牛乳など乳製品の普及を積極的に行っていったのです。

 

そして、その大きな役割を果たしたのが、母子手帳でした。

 

参考図書

「母子手帳のワナ―知られざる母子保健の真実」高野弘之著

歴史を学び日本人の誇りを育む 斎藤ひろゆきのメルマガ

 

どこで作られたでしょう、国はどこですか?

「アメリカ」

 

アメリカの誰が作ったものですか?

乳業会社です

 

だからワクチンの弊害、母子手帳の大きな問題は牛乳のことなんですけども、もう一つが今日のテーマですね。

 

アメリカは1945年日本で戦争で勝ってる。戦争では勝ったけれども日本という国がアメリカに比べていかに優れた国なのか。

日本人がアメリカ人よりいかに優れた民族なのかということをマッカーサーとかルーズベルトが昭和20年の段階1945年の段階知るわけです。

 

その日本の優れた文化が繋がっていくとまた第2の真珠湾攻撃が受けるようになるかもしれない。それをするには日本人を劣化させなくてはいけない。劣化させる上で一番役に立てたのが母子手帳なんです。

 

1915年、米国の乳業会社が母子手帳を作りました。米国政府が作成したのではありません。

 

その後、米国内では牛乳製品

占領期間中、日本民族を劣化させる政策が行われました。

 

日本民族を劣化させる上で、一番役に立ったのが「母子手帳」でした。

 

1915年、米国の乳業会社が母子手帳を作りました。米国政府が作成したのではありません。

 

その後、米国内では牛乳製品の普及に力を注いでいきましたが、普及に伴い米国市民の病気も増大していきました。

 

1945年、日本を占領統治した米国は、日本民族を劣化させていく政策を次々と打ち出していきました。

 

なぜ、日本民族を劣化させる必要があったのでしょうか?

 

戦争に勝利したとはいえ、米軍の被害も相当なものにのぼりました。そこで、二度と日本が米国に歯向かうことができないようにしようと考えたのです。

 

1915年から1945年までの間、母子手帳の普及に伴いたくさんの病気が広まっていき、米国民が劣化していきました。

 

その失敗を教訓にして、米国製の母子手帳を翻訳したものを、日本に普及させていきました。

 

失敗を教訓にして、改良を加えてより良いものにしていくというのならわかりますが、米国の失敗例をそのまま日本に導入していったのです。

 

すべては日本民族を劣化させる政策のためだからです。

 

終戦後、日本を占領した米国主導の占領軍が、日本によいことをしてくれたおかげで、戦後日本が経済的に繁栄することができた、という人がいます。

 

そういった側面も、もしかしたらあるのかもしれません。

 

しかし、欧米列強が、アジアや南米、アフリカ諸国を植民地していった1945年までの時代に、どのような植民地政策をおこなってきたかを知れば、その答えは明らかです。

 

欧米列強は、植民地からの搾取できるだけ搾取していき、原住民を豊かに繁栄させようという発想は全くありませんでした。

 

また、植民地が、自ら強力な軍隊を持ち、宗主国から自主独立するのを手助けしようという発想もありませんでした。

 

(占領軍が、憲法9条2項に「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と規定させたのをみれば、その意思は明らかです。)

 

占領中の昭和23年(1948年)、米国製の母子手帳をそのまま訳したものを、日本全国の妊婦に向けて発行。

 

昭和23年(1948年)、予防接種法が制定され、予防接種が義務化されました。さらに、違反した人には罰則(罰金)が課せられるようになりました。

 

一方、米国では母子手帳は破棄されています。

 

母子手帳には、「牛乳(粉ミルク)を飲ませるように」と記載があり、また、どの時期にどのような予防接種をしなければならないかということが記載されてあります。

 

まじめなお母さんは、この母子手帳にかかれてあるとおりに、赤ん坊に粉ミルクを与え、予防接種を受けさせてきました。

 

予防接収は、大変危険なワクチンです。

 

占領期間中の昭和20年から27年、全国の保健所で働くことができた栄養士は、乳業メーカーの専属の栄養士でなければなりませんでした。

 

また、母子手帳の表紙には森永乳業、雪印乳業、明治乳業など乳業メーカーのコマーシャルが載っていたのです。

 

1946年11月から1952年6月までの約6年間、日本は脱脂粉乳の援助を受けました。(ララ物資)

 

1949年から1964年の約15年間、ユニセフから脱脂粉乳の援助を受けました。

 

牛乳を飲むことで、子供の成長に欠かせないカルシウムを摂取することができる、という宣伝が、占領軍の指導のもと、大々的に行われていきました。

 

その結果、終戦時(昭和20年)までの日本国内でほとんど飲まれることがなかった牛乳が、全国的に普及していきました。

 

今でも、牛乳は体に良いという説と、有害であるという説が出回っています。

 

どちらを信じて良いのかわからないという人も多いと思います。

 

そもそも牛乳は、牛の子供が飲む飲み物です。そして母乳というものは血液が変化したものです。それを他の種である人間が飲むということが、不自然な行為です。

 

ただ、それだけの理由ならば、少量のミルクを飲むことは大した問題となりません。

 

問題なのは、牛が食べる飼料に入れられる成長ホルモン剤と、トウモロコシにあります。

 

成長ホルモン剤は、牛を早く成長させるために飼料に入れられています。

 

昔の牧畜は、成長ホルモン剤なども入れられてませんでしたし、牧草を餌にして食べていました。しかし、現在の牛の主な餌はトウモロコシとなっています。

 

トウモロコシは、本来の牛の食べ物ではありません。草食動物であるキリンや象などが肉を食べたら病気になり死に至るでしょう。

 

肉食動物であるトラやライオンなどが、穀物や草などばかり食べていたら、病気になり死に至るでしょう。

 

本来、動物が食べる食べ物は、その種によって決まっているのです。それを無視してしまうと、その種は絶滅してしまうでしょう。

 

さらに、牛の飼料として普及してしまっているトウモロコシは、モンサント社の遺伝子組み換え作物(GMO)となっています。

 

遺伝子組み換え作物を食べ続けると、病気になることは明らかとなりつつあります。(モンサント社は否定していますが。)

 

現在の牧畜農家ではどのように牛を飼育しているのでしょうか?

 

生後、2年も経たないうちに人工授精を施されます。子牛を出産してからは、牛舎に繋がれっぱなしの生活をおくるようになります。

 

出産後、2~3カ月たつと再び人工授精されます。そして、妊娠しながら乳を搾り取られていきます。これは牛にとっては大きな負担となります。

 

様々な病気を発生した牛は、肉食として殺傷されます。

 

牛の搾乳量は、1頭あたり7,300kgを生産されます。これは、自然界の10倍相当にあたります。

 

本来の自然な姿で飼育された牛から絞られた、成長ホルモン剤も入れられていない牛乳であれば、人間が飲んでもそれほど問題ではありませんが、お店に流通している牛乳の中から、それを見つけることは難しいです。

 

の普及に力を注いでいきましたが、普及に伴い米国市民の病気も増大していきました。

 

1945年、日本を占領統治した米国は、日本民族を劣化させていく政策を次々と打ち出していきました。

 

なぜ、日本民族を劣化させる必要があったのでしょうか?

 

戦争に勝利したとはいえ、米軍の被害も相当なものにのぼりました。そこで、二度と日本が米国に歯向かうことができないようにしようと考えたのです。

 

1915年から1945年までの間、母子手帳の普及に伴いたくさんの病気が広まっていき、米国民が劣化していきました。

 

その失敗を教訓にして、米国製の母子手帳を翻訳したものを、日本に普及させていきました。

 

失敗を教訓にして、改良を加えてより良いものにしていくというのならわかりますが、米国の失敗例をそのまま日本に導入していったのです。

 

すべては日本民族劣化政策のためだからです。

 

終戦後、日本を占領した米国主導の占領軍が、日本によいことをしてくれたおかげで、戦後日本が経済的に繁栄することができた、という人がいます。

 

そういった側面も、もしかしたらあるのかもしれません。

 

しかし、欧米列強が、アジアや南米、アフリカ諸国を植民地していった1945年までの時代に、どのような植民地政策をおこなってきたかを知れば、その答えは明らかです。

 

欧米列強は、植民地からの搾取できるだけ搾取していき、原住民を豊かに繁栄させようという発想は全くありませんでした。

 

また、植民地が、自ら強力な軍隊を持ち、宗主国から自主独立するのを手助けしようという発想もありませんでした。

 

(占領軍が、憲法9条2項に「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と規定させたのをみれば、その意思は明らかです。)

 

占領中の昭和23年、米国製の母子手帳をそのまま訳して日本全国に普及。

 

一方、米国では母子手帳は破棄されています。

 

母子手帳には、どの時期にどのような予防接種をしなければならないかということ記載されてあります。

 

まじめなお母さんは、この母子手帳にかかれてあるとおりに、赤ん坊に予防接種を受けさせてきました。

 

予防接収は、大変危険なワクチンです。

 

昭和20~27年の占領期間中、保健所に勤めることのできた栄養士の条件は、乳業の専従栄養士であることでした。

 

昭和23年には「母子手帳」を乳業メーカーに作らせ、「牛乳(粉ミルク)を飲ませるように」と明記し、

 

カバーには森永乳業、雪印乳業、明治乳業などのコマーシャルが載っていたのです。

 

ララ物資は1946年11月から1952年6月までに行われ日本は脱脂粉乳の援助を受けた。

 

ユニセフから日本は、1949年から1964年にかけて、脱脂粉乳などの援助を受けた。

 

全く裏付けのない「牛乳=カルシウム摂取=子供の成長に欠かせない」というメディアを使った刷り込み活動で日本に牛乳文化を根付かせた。

 

1948年に予防接種法が制定され、接種義務、なんと罰則(罰金)あり!で、それに合わせ同年1948年に「母子手帳」が発行され全国のお母さんに配られた

 

牛達の飼料は、炭水化物の成分を大量に摂取させる必要がある為、トウモロコシが飼料の半分を占めるそうです。が、このトウモロコシこそ超危険!あのモンサント社の遺伝子組み換え輸入トウモロコシ

 

2年も経たないうちに人工授精を施された牛は、分娩して、牛舎に繋がれっぱなしの生活をおくるようになる。能力として望ましいのは一年に一産のペースとされる。

 

分娩後、2~3カ月後に再び人工授精され、妊娠しながら乳を搾り取られるということになるのだ。これは牛にとっては大きな負担で、2~3回それが繰り返されれば牛の体はボロボロ。内臓はフル稼働で休む暇もない。

 

疲れきった牛は様々な病気を発生し、能力も限界を迎え、用無しとなった牛は肉として売られて一生を終える。人間でいえばまだ30代くらいの若さだろうか。残念ながら、これが日本にいる牛の現実。

 

この搾乳量も自然界の10倍相当で1頭あたり7,300kgを量産させるそうです。

 

 

 

 

朝鮮半島の情勢により、たくさんの朝鮮人難民が日本に押し寄せてくることが懸念されています。

 

実は、このような事態は、今から1000年以上の昔にも起きていました。

 

698年、朝鮮半島と大陸の付け根から北東沿岸にかけて、渤海国(ぼっかい)が建国されました。初代王は大祚栄。

 

721年、朝鮮半島の新羅(しらぎ)が、北の渤海国との国境付近に長城を築城。

 

新羅は、かつての百済全土及び高句麗の一部を占領していましたが、さらに元の高句麗全土を支配下に置こうという野心を持っていましたので、近隣の渤海国と緊張関係にありました。

 

また、渤海国は、中国大陸を支配していた唐による、侵略の脅威にも怯えていました。

 

そこで渤海国は、日本と軍事的な同盟関係を結ぶことで、新羅を背後から牽制しようとしました。

 

727年、渤海国は、高仁義を筆頭とした24名の使節団を倭国(日本)に派遣しました。(渤海使(ぼっかいし))(「続日本記」)

 

彼ら渤海使は、日本に到着し、翌年聖武天皇に拝謁しました。

 

728年、引田虫麻呂を筆頭とした62名の使節団が、初めて倭国(日本)から渤海国に派遣されて、軍事的な同盟関係が築かれて行きました。(遣渤海使(けんぼっかいし))(「続日本記」)

 

755年から唐に内乱が起こりました。(安史の乱)

 

この内乱により、唐の属国であったチベットやウイグル、新羅に対する唐の影響力が低下。

 

倭国(日本)は、同盟国であった渤海国からの要請を受けて、太政大臣の藤原仲麻呂(ふじわら の なかまろ)は新羅を討伐することを検討しました。

 

759年、倭国(日本)は、新羅に使節を派遣しましたが、新羅側はその使節に無礼をはたらいたとして、藤原仲麻呂は、具体的な新羅征伐の準備を命じました。

(『隋書』倭国伝)

 

しかし、764年、倭国(日本)に内乱(藤原仲麻呂の乱)が起きたために、この計画が実行されることはありませんでした。

 

当時の極東の国際関係はどのようであったのでしょうか?

 

唐は、渤海国の大欽茂に「渤海国王」という地位を与えて冊封政策(近隣諸国を属国扱いして支配従属関係を築く)をしていました。

 

唐は、新羅と友好関係でしたが、日本と渤海国とは断交していました。一方、日本は、渤海と友好関係でありましたが、新羅とは険悪な関係だったのです。

 

なぜ新羅との関係が険悪だったのでしょうか?

 

663年、倭国(日本)は、同盟国であった朝鮮半島の百済を助けるために出兵して、唐・新羅連合軍と戦いました。

(白村江の戦い)

 

その戦いが終わった後も、唐・新羅連合軍が日本へ侵略してくるのではないかと恐れていました。

 

そのような状況の中、8世紀ごろ、新羅国内で内乱が起きたため、大量の難民が日本に押し寄せて来ました。

 

また、新羅からの盗賊が対馬や肥前の五島・小近島(小値賀島)に上陸して、日本の一般民衆から略奪したり、虐殺するという事件が起きました。

 

820年、遠江・駿河両国に移配した在日新羅人700人が反乱を起こして一般人を虐殺。(「日本後記」)

 

遠江・駿河両国では制圧できず、盗賊は伊豆国の穀物を盗み逃走しましたが、相模・武蔵等七国の援兵が動員されて、制圧しました。(弘仁新羅の乱)

 

藤原衛(ふじわら の まもる)が、遠江守としてこの事件の後処理の責任者に任命されました。

 

そして、藤原衛は、新羅からの帰化人の対応策に詳しくなっていきました。

 

845年、藤原衛は、新羅との最前線である大宰大弐として九州への赴任を命じられましたが、そのとき、新羅人の対応について朝廷に次のように奏上しました。

 

「食糧が不足しており、不測の事態が発生した場合に対処ができないことから、新羅人の入国を一切禁止すること。」

 

この奏上に対して朝廷は以下のように回答しました。

 

「朝廷の徳が遠方へ及んで、外蕃(野蛮で未開な国)の者が帰化しようとしているところを、完全に入国禁止とするのは、仁に似つかわしくないやり方である。

 

漂流してきた者へは食料を与えて放還せよ。商売のために渡来した者は自由に交易させ、終わったら速やかに退去させよ。」

 

この藤原衛の進言により、新羅人が難民として日本にやってきて、帰化を申請してきた場合でも、食料衣服を与えて追い返すことと定められました。(「貞観格」(じょうがんきゃく))

 

894年、新羅から派遣された、100艘に乗った2500人の大軍が、対馬に上陸して、略奪、殺人を行いました。

(寛平の韓寇)

 

捕虜の証言では、

「新羅は不作で餓えに苦しみ、食料もなくなってしまったので、船を使って食料を略奪するようにと、新羅の国王から命令された。」と。

 

これは、民間海賊による略奪ではなく、新羅政府による襲撃略奪だったのです。

 

926年、契丹国(遼国)の侵略により、渤海国が滅亡。

 

渤海使による日本と渤海国との交流は、渤海国が滅亡するまで約200年にわたり続けられて、合計36回にも及びました。

 

日本は、新羅からの度重なる挑発行為に乗らず、大きな自制を強いていました。その結果、新羅との全面戦争には発展しませんでしたが、新羅からの帰化人の対応策に苦慮していました。

 

この時から1000年以上経過した今、朝鮮半島の情勢により、たくさんの朝鮮人難民が日本に押し寄せてくるかもしれません。

 

また、かつて日本の同盟国であった渤海国は、今は北朝鮮領とロシア領となっていますが、ロシアが日本と同盟関係になるかどうかはわかりません。

 

今の日本では、1000年以上の昔に、藤原衛が上奏したような意見を採用することが求められています。

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聖徳太子が亡くなったとき、どれだけの人が悲しんだのでしょうか?

 

538年、朝鮮半島にあった百済(くだら)の国の王、聖王(せいおう)は、倭国(日本)に使者を送り、金銅の仏像一体、幡、経典などを伝えました。

(仏教公伝)

 

百済(くだら)の聖王(せいおう)は、仏教について次のように伝言しました。

「仏教は、あらゆる教えの中で最もすぐれたものです。その教えは難しく、とりつきにくいものですが、真の悟りを導くものです。

 

今や仏教は、遠くインドから中国、朝鮮まで広まっています。このすばらしいみ仏の教えを、ぜひ日本でも広めていただきたいと思います。」と。

(聖徳太子の最古の伝記である「上宮聖徳法王帝説」、「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」)

 

欽明天皇は、百済の王、聖王(せいおう)から送られた仏像をみて、その見事さに感銘して「西方の国々の『仏』は端厳でいまだ見たことのない相貌である。これを礼すべきかどうか」と豪族たちの意見を聞きました。

 

蘇我稲目は、「西の諸国はみな仏を礼しております。日本だけこれに背くことができましょうか」と受容を勧めました。

 

物部尾輿・中臣鎌子らは、「我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいます。今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りをかう恐れがあります」と反対。(「日本書紀」)

 

欽明天皇は、意見が二分されたため、仏教への帰依を断念。ただ、蘇我稲目に、私的に礼拝することや寺を建立することだけは許しました。

 

その直後に疫病が流行しました。物部・中臣氏らは、その疫病が流行した理由を、「仏神」のせいで国神が怒っているためであると天皇に奏上。

 

その上奏を受けて、欽明天皇は、物部・中臣氏らが仏像を廃棄し、寺を焼却するのを黙認しました。

 

585年、敏達天皇が崩御された後、用明天皇が即位。

 

用明天皇は、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を皇后にしました。

 

その第2子は、厩戸皇子(うまやとのみこ)、またの名を豊聡耳聖徳皇子(とよとみみのしょうとくのみこ)、あるいは豊聡耳法大王(とよとみみののりのおおきみ)、あるいは法主王(のりのうしのきみ)といいました。(後の聖徳太子)

 

この皇子は、はじめ上宮に住んでいましたが、のちに斑鳩(いかるが)に移りました。

 

587年4月2日、新嘗祭が行われましたが、用明天皇は病にかかられて宮中に帰り、群臣に対して次のようにいいました。

 

「私は仏、法、僧の三宝に帰依したいと思う。卿らにこのことを考えてほしい」と。

 

大連(おおむらじ)の物部守屋(もののべのもりや)と中臣勝海連(なかとみのかつみのむらじ)は勅命の会議で反対しました。

 

「どうして国の神に背いて、他の神を敬うのか。もとより、このようなことは聞いたことがない」

 

宿祢大臣の蘇我馬子(そがのうまこ)はいいました。

「詔に従って、お助けすべきである。誰がそれ以外の相談をすることがあろうか」

 

587年5月21日?、用明天皇が崩御。

 

587年10月4日、たびたび朝廷に猪が献上されることがありましたが、用明天皇の後を継いだ崇峻天皇は、その献上された猪を指して次のように言いました。

 

「いつの日にか、この猪の首を斬るように、自分が嫌いに思う人を斬りたいものだ」

 

大伴嬪・小手子は、崇峻天皇から受けていた寵愛がなくなったのでそれを逆恨して、蘇我馬子に使いを出して告げ口しました。

 

「この頃、猪が献じられることありました。崇峻天皇は猪を指差して、“猪の首を斬るように、いつの日にか、自分の思っているあの人を斬りたい”といわれました。また、内裏に多くの武器を集めておられます」と。

 

蘇我馬子は、それを聞いて驚きました。蘇我馬子は、自分を嫌っていることを恐れ、一族の者を招集して、崇峻天皇を弑することを謀りました。

 

592年12月12日?、蘇我馬子は、群臣をあざむいていいました。

 

「今日、東国から調が献上されてくる」

 

そして東漢直駒を使って崇峻天皇を暗殺し、倉梯岳陵(くらはしのおかのみささぎ)に葬りました。

 

日本の歴代天皇で唯一、臣下により暗殺された天皇でした。

 

593年、聖徳太子は、崇峻天皇の後を継いだ推古天皇の時代に皇太子となり、摂政としてすべての政務を統括して天皇の政事を行いました。

(「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ))

 

595年、高句麗から聖徳太子の師となる慧慈(えじ)が来日。慧慈(えじ)は「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と伝えました。

 

603年、大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智からなる、12階の冠位が制定されました。(冠位十二階)

 

この冠位の名称のうち、徳を除いた五つは、儒教における五常に該当します。

 

翌年、聖徳太子は、17条憲法を制定。

 

619年、聖徳太子は、つぎのようなことを定めました。

「君に仕えることに忠を尽くす臣を探せば、まさに両親を愛しむ子と同じである。なぜなら、父は天であり、天に従うことを孝という。

 

また、君は日であり、君に従うことを忠という。その后は月であり、また母である。ゆえにこれに従うのは臣といい、また親に従うことをいう。

 

孝経に“忠臣を求めるならば、必ず孝行息子のいる家にいる”という。これは孝の道から至る。

 

幸福は流れ落ちる泉のようであり、この理は春雨が万物を成長させるようなものである。

 

もし、この道に逆らえば大禍をうけ、福を減じることは塩を水の中に捨てるようなものである。すべてこのようなことを道という。

 

これを八義という。八義とは、孝・悌・忠・仁・礼・義・智・信を指す。

 

(この八儀は、南総里見八犬伝の八犬士が持っている玉に刻まれた文字でもあります。このうち仁義礼智信の五つは、儒教においては五常と呼ばれます。)

 

また、天・地・日・月・星・辰・聖・賢・神・祇は、人倫が重んじるものである。それこそが寿称・官爵・福徳・栄楽である。

 

貧しい人生にとって貴いものは、孝道をいくことである。栄祥を格し、礼儀を勤めて身を立てる者である。これゆえ、八義になぞらえて、爵位を定める。

 

孝は天であり、紫冠を第一とする。

忠は日であり、錦冠を第二とする。

 

仁は月であり、繍冠を第三とする。

悌は星であり、纏冠を第四とする。

 

義は辰であり、緋冠を第五とする。

礼は聖であり、深緑を第六とする。

 

智は賢であり、浅緑を第七とする。

信は神であり、深縹を第八とする。

 

祇は祇であり、浅縹を第九とする。

地は母であり、よって立身と名づけて、黄冠を第十とする。

今より後、永く常の法とせよ

 

君后に対して不忠をする者、また父母に対して不孝をする者について、もし声を上げずこれを隠す者は、同じくその罪を担い重く刑法を科す」と。

(「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ))

 

621年12月21日(622年2月6日)、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)(間人皇后)が亡くなり、翌622年2月22日(622年4月8日)には聖徳太子自身も亡くなり、斑鳩宮で薨去されました。

 

このとき、諸王・諸臣および天下の人民は皆、老いた者は愛児を失ったように悲しみ、塩や酢の味さえも分からないほどでした。

 

若い者は慈父を失ったように、泣き悲しむ声がちまたに溢れた。農夫は耕すことも止め、稲つき女は杵音もさせなかった。皆がいった。

 

「日も月も光も失い、天地も崩れたようなものだ。これから誰を頼みにしたらいいのだろう」

 

聖徳太子の妃である橘大郎女は、推古天皇(祖母)に次のように申し上げました。

 

「太子と母の穴穂部間人皇后とは、申し合わせたかのように相次いで逝ってしまった。太子は『世の中は空しい仮のもので、仏法のみが真実である』と仰せになった。

 

聖徳太子は、天寿国に往生したのだが、その国の様子は目に見えない。せめて、図像によって太子の往生の様子を見たい」と。

 

推古天皇は、嘆き悲しんでいる橘大郎女の気持ちを汲み取り、采女(うねめ)(天皇や皇后に近侍し、食事など、身の回りの雑事を専門に行う女官)らに命じて繍帷二帳を作らせました。

 

その繍帷二帳には、400文字が刺繍されており、欽明天皇から聖徳太子、橘大女郎に至る系譜が書き記されていました。

 

繍帷二帳は「天寿国曼荼羅繍帳」と呼ばれ、聖徳太子が往生した天寿国のありさまを刺繍で表しています。

 

この中で「天寿国」とは、阿弥陀如来の住する西方極楽浄土を指します。

(奈良県斑鳩町の中宮寺 所蔵)

 

高句麗に帰国していた慧慈(えじ)は、聖徳太子が亡くなったことを聞いて、大いに悲しみ、太子のために僧を集めて斎会を催しました。そしてみずから経を説く日に誓願して次のようにいいました。

 

「日本の国に聖人がおられました。上宮豊聡耳皇子と申しあげます。天からすぐれた資質を授かり、大きな聖の徳をもって日本の国にお生まれになりました。

 

中国の三代の聖王をも越えるほどの、大きな仕事をされ、三宝をつつしみ敬って、人民の苦しみを救われました。真の大聖です。その太子が亡くなられました。

 

自分は国を異にするとはいえ、太子との心の絆を断つことは出来ません。自分一人生き残っても何の益もありません。

 

来年の2月22日(623年3月31日)には、自分もきっと死ぬでしょう。上宮太子(聖徳太子)に浄土でお会いして、共に衆生に仏の教えを広めたいと思います」と。

 

そして、慧慈はみずから定めたその日に亡くなりました。

(「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ))

 

画像

天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)

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538年、朝鮮半島にあった百済(くだら)の国の王、聖王(せいおう)は、倭国(日本)に使者を送り、金銅の仏像一体、幡、経典などを伝えました。(仏教公伝)

 

「仏教は、あらゆる教えの中で最もすぐれたものです。その教えは難しく、とりつきにくいものですが、真の悟りを導くものです。

 

今や仏教は、遠くインドから中国、朝鮮まで広まっています。このすばらしいみ仏の教えを、ぜひ日本でも広めていただきたいと思います。」

(聖徳太子の最古の伝記である「上宮聖徳法王帝説」、「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」)

 

 

欽明天皇は、百済の王、聖王(せいおう)から送られた仏像をみて、その見事さに感銘して「西方の国々の『仏』は端厳でいまだ見たことのない相貌である。これを礼すべきかどうか」と豪族たちの意見を聞きました。

 

蘇我稲目は、「西の諸国はみな仏を礼しております。日本だけこれに背くことができましょうか」と受容を勧めました。

 

物部尾輿・中臣鎌子らは、「我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいます。今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りをかう恐れがあります」と反対。(「日本書紀」)

 

欽明天皇は、意見が二分されたため、仏教への帰依を断念。ただ、蘇我稲目に、私的に礼拝することや寺を建立することだけは許しました。

 

その直後に疫病が流行しました。物部・中臣氏らは、その疫病が流行した理由を、「仏神」のせいで国神が怒っているためであると天皇に奏上。

 

その上奏を受けて、欽明天皇は、物部・中臣氏らが仏像を廃棄し、寺を焼却するのを黙認しました。

 

 

 

 

西暦621年12月21日、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(間人皇后)が亡くなり、翌年2月22日には聖徳太子自身も亡くなってしまいました。

 

聖徳太子の妃である橘大郎女は、推古天皇(祖母)に次のように申し上げました。

 

「太子と母の穴穂部間人皇后とは、申し合わせたかのように相次いで逝ってしまった。太子は『世の中は空しい仮のもので、仏法のみが真実である』と仰せになった。

 

聖徳太子は、天寿国に往生したのだが、その国の様子は目に見えない。せめて、図像によって太子の往生の様子を見たい」と。

 

推古天皇は、嘆き悲しんでいる橘大郎女の気持ちを汲み取り、采女(うねめ)(天皇や皇后に近侍し、食事など、身の回りの雑事を専門に行う女官)らに命じて繍帷二帳を作らせました。

 

その繍帷二帳には、400文字が刺繍されており、欽明天皇から聖徳太子、橘大女郎に至る系譜が書き記されていました。

 

繍帷二帳は「天寿国曼荼羅繍帳」と呼ばれ、聖徳太子が往生した天寿国のありさまを刺繍で表しています。

 

この中で「天寿国」とは、阿弥陀如来の住する西方極楽浄土を指します。

(奈良県斑鳩町の中宮寺 所蔵)

 

画像

天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)

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