538年、朝鮮半島にあった百済(くだら)の国の王、聖王(せいおう)は、倭国(日本)に使者を送り、金銅の仏像一体、幡、経典などを伝えました。(仏教公伝)
「仏教は、あらゆる教えの中で最もすぐれたものです。その教えは難しく、とりつきにくいものですが、真の悟りを導くものです。
今や仏教は、遠くインドから中国、朝鮮まで広まっています。このすばらしいみ仏の教えを、ぜひ日本でも広めていただきたいと思います。」
(聖徳太子の最古の伝記である「上宮聖徳法王帝説」、「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」)
欽明天皇は、百済の王、聖王(せいおう)から送られた仏像をみて、その見事さに感銘して「西方の国々の『仏』は端厳でいまだ見たことのない相貌である。これを礼すべきかどうか」と豪族たちの意見を聞きました。
蘇我稲目は、「西の諸国はみな仏を礼しております。日本だけこれに背くことができましょうか」と受容を勧めました。
物部尾輿・中臣鎌子らは、「我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいます。今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りをかう恐れがあります」と反対。(「日本書紀」)
欽明天皇は、意見が二分されたため、仏教への帰依を断念。ただ、蘇我稲目に、私的に礼拝することや寺を建立することだけは許しました。
その直後に疫病が流行しました。物部・中臣氏らは、その疫病が流行した理由を、「仏神」のせいで国神が怒っているためであると天皇に奏上。
その上奏を受けて、欽明天皇は、物部・中臣氏らが仏像を廃棄し、寺を焼却するのを黙認しました。
西暦621年12月21日、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(間人皇后)が亡くなり、翌年2月22日には聖徳太子自身も亡くなってしまいました。
聖徳太子の妃である橘大郎女は、推古天皇(祖母)に次のように申し上げました。
「太子と母の穴穂部間人皇后とは、申し合わせたかのように相次いで逝ってしまった。太子は『世の中は空しい仮のもので、仏法のみが真実である』と仰せになった。
聖徳太子は、天寿国に往生したのだが、その国の様子は目に見えない。せめて、図像によって太子の往生の様子を見たい」と。
推古天皇は、嘆き悲しんでいる橘大郎女の気持ちを汲み取り、采女(うねめ)(天皇や皇后に近侍し、食事など、身の回りの雑事を専門に行う女官)らに命じて繍帷二帳を作らせました。
その繍帷二帳には、400文字が刺繍されており、欽明天皇から聖徳太子、橘大女郎に至る系譜が書き記されていました。
繍帷二帳は「天寿国曼荼羅繍帳」と呼ばれ、聖徳太子が往生した天寿国のありさまを刺繍で表しています。
この中で「天寿国」とは、阿弥陀如来の住する西方極楽浄土を指します。
(奈良県斑鳩町の中宮寺 所蔵)
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天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)