今から約830年ほど前、源平合戦に勝利した弟の源義経を、鎌倉に受け入れることなく討伐してしまった兄、源頼朝。
それは、義経の人気に嫉妬したからなどと言われています。
実は、源頼朝が、日本の国体を維持するための苦渋の決断だったのです。
元暦元年(1184年)8月6日、源義経は、後白河法皇より左衛門少尉、検非違使(けびいし)(律令制の下での役職で、京都の治安維持などを担当した)に任じられました。
元暦2年(1185年)2月、義経は、暴風雨の中を少数の船で出撃。瀬戸内海にある平氏の拠点である屋島を奇襲し、山や民家を焼き払って、大軍が奇襲してきたと見せかけて、平氏を敗走させませた。(屋島の戦い)
元暦2年(1185年)3月24日、義経は水軍を編成して彦島に向かい勝利。(壇ノ浦の戦い)
この戦いにより、栄華を誇った平氏はついに滅亡しました。
4月24日、平氏から取り戻した八尺鏡(やたかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を京都に持ち帰りました。
しかし、3種の神器の一つである、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は、海の中に沈んだまま見つけることができませんでした。
源頼朝は、範頼に充てた書状の中で、平氏が三条高倉宮(以仁王)、木曽義仲が「やまの宮・鳥羽の四宮(後白河法皇皇子の円恵法親王)」を殺害したこと(皇親の殺害)が、没落につながったと考えていました。
そして、安徳天皇の保護を厳命(『吾妻鏡』「文治元年正月六日源頼朝書状」)し、剣璽(三種の神器)の確保の命令を出していました。(『吾妻鏡』文治元年3月14日条)
義経にも同様の命令が出されたとみられています。
それにもかかわらず、義経は安徳天皇を保護できず、さらに行方不明の宝剣に関しても宇佐八幡宮に発見の祈願を行っただけで、積極的に捜索しませんでした。(『延慶本平家物語』)
なお、頼朝と朝廷は、範頼や佐伯景弘らに命じて、以後2年以上に渡り海人(あま)を使って、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の捜索を行いましたが、
文治3年(1187年)9月27日、佐伯景弘の宝剣探索失敗の報告を受けて、捜索は事実上断念されました。
(『吾妻鏡』、『玉葉』)
(「後鳥羽院政の展開と儀礼」谷 昇著 思文閣出版)
なぜ、源頼朝は、それほどまでして天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の確保に力を入れたのでしょうか?
平家は、都から逃げ落ちる際に、安徳天皇を伴っていました。
安徳天皇は、数え歳3歳(満1歳4か月)で天皇に即位したばかりの幼子でした。
安徳天皇は、平家一門に連れられ大宰府を経て屋島に行き、
1183年、現在の屋島東町にある高台に行宮を置きました。
(この行宮跡地には安徳天皇をお祭りした神社「安徳天皇社」があります。)
壇ノ浦の戦いで平家の敗戦が確実となった時、母方祖母・二位尼(平時子)は最後を覚悟しました。
そして、神璽と宝剣を身につけて、安徳天皇をだき抱えました。
まだ数え歳8歳の安徳天皇は、「どこへ行くの?」と聞きました。
二位尼は、「君は、前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。
この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と涙ながらに言いました。
それを聞いた安徳天皇は、小さな手を合わせ、東を向いて伊勢神宮を遙拝し、続けて西を向いて念仏を唱えました。
二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じました。
歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月、6年124日)で崩御した
安徳天皇。(「平家物語」)
安徳天皇の母である建礼門院(平徳子)も海に身を投げましたが、源氏の将兵によって引き上げられました。
そして、三種の神器のうち八尺鏡(やたかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を回収しましたが、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は、見つけることができませんでした。
この安徳天皇崩御より前の、寿永2年8月20日(1183年9月8日)、三種の神器がないにもかかわらず、後鳥羽天皇が践祚(せんそ)して、元暦元年(1184年)7月28日に即位していました。
なぜ、まだ天皇が在位している中、新たに天皇を即位させる必要があったのでしょうか?
「天子の位は一日たりとも欠くことができない」とする後白河法皇をはじめとする公卿たちの意見から、三種の神器とともに都落ちした安徳天皇の代わりに、新たに天皇を即位させることにしたのです。
日本の歴史上初めて、二人の天皇が同時に存在することとなりました。
そして、後鳥羽天皇が正統な天皇であることの証として、三種の神器が必要不可欠だったのです。
義経が平家から取り返したものは、八尺鏡(やたかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)のみ。
残りの一つである、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は安徳天皇の自害とともに海の中に沈んでしまいましたので、源頼朝としては、血眼になってなんとしてでも探し出す必要があったのです。
元暦2年(1185年)、平氏追討の際、義経の補佐を務めた梶原景時は、鎌倉にいる頼朝に宛てて、次のような書状を送りまし
た。
「判官殿(義経)は、君(頼朝)の代官として、その威光によって遣わされた御家人を従え、大勢の力によって合戦に勝利したのにもかかわらず、自分一人の手柄であるかのように考えている。
平家を討伐した後は常日頃の様子を超えて猛々しく、従っている兵達はどんな憂き目にあうかと薄氷を踏む思いであり、皆真実に和順する気持ちはありません。
自分は君(頼朝)の厳命を承っているものですから、判官殿(義経)の非違を見るごとに関東の御気色に違うのではないかと諫めようとすると、かえって仇となり、ややもすれば刑を受けるほどであります。
幸い合戦も勝利したことなので、早く関東へ帰りたいと思います。」と。
義経は、鎌倉に帰る途中、鎌倉郊外の山内荘腰越(現鎌倉市)の満福寺にて足止めを受けました。
源頼朝は、義経を鎌倉に入れさせないように、関所に指令を出していました。
なぜ、頼朝は、弟の義経に対してそのような厳しい態度を取ろうとしたのでしょうか?
梶原景時など関東武士が、義経に対して不満を持っていたからでしょうか?
それも確かにあるでしょう。
または、後白河法皇より検非違使(けびいし)(律令制の下での役職で、京都の治安維持などを担当した)に任じられたことへの反感でしょうか?
それも理由の一つかもしれません。
しかし、最も大きな理由としては、三種の神器の一つである天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を、回収できなかったことにあります。
三種の神器の一つが紛失してしまったということは、万世一系の正統な天皇の皇位継承ができないということとなり、日本の国体を揺るがしてしまう重大なことだったのです。
5月24日、腰越(現鎌倉市)の満福寺にて足止めを受けた義経は、以下のような頼朝に宛てて書いた手紙を、頼朝の側近大江広元に渡しました。(腰越状)
「左衛門少尉義経、恐れながら申し上げます。私は(頼朝の)代官に選ばれ、勅命を受けた御使いとして朝敵を滅ぼし、先祖代々の弓矢の芸を世に示し、会稽の恥辱を雪ぎました。
ひときわ高く賞賛されるべき所を、恐るべき讒言にあい、莫大な勲功を黙殺され、功績があっても罪はないのに、御勘気を被り、空しく血の涙にくれております。
つくづく思うに、良薬は口に苦く、忠言は耳に逆らうと言われています。
ここに至って讒言した者の実否を正されず、鎌倉へ入れて頂けない間、素意を述べる事も出来ず、徒に数日を送っています。
こうして永くお顔を拝見出来ないままでは、血を分けた肉親の縁は既に空しくなっているようです。私の宿運が尽きたのでしょうか。はたまた前世の悪業のためでしょうか。悲しいことです。
そうはいうものの、亡き父上の霊がよみがえって下さらなければ、誰が悲嘆を申し開いて下さるでしょうか。
憐れんで下さるでしょうか。今更改まって申し上げるのも愚痴になりますが、義経は身体髪膚を父母に授かりこの世に生を受けて間もなく父上である故左馬の頭殿(義朝)が御他界され、
孤児となって母の懐中に抱かれ、大和国宇多郡龍門の牧に赴いて以来、一日たりとも心安らぐ時がありませんでした。
甲斐無き命を長らえるばかりとはいえども、京都の周辺で暮らす事も難しく、諸国を流浪し、所々に身を隠し、辺土遠国に住むために土民百姓などに召し使われました。
しかしながら、機が熟して幸運はにわかに巡り、平家の一族追討のために上洛し、まず木曾義仲と合戦して打ち倒した後は、平家を攻め滅ぼすため、
ある時は険しくそびえ立つ岩山で駿馬にむち打ち、敵のために命を失う事を顧みず、ある時は満々たる大海で風波の危険を凌ぎ、身を海底に沈め、骸が鯨の餌になる事も厭いませんでした。
また甲冑を枕とし、弓矢をとる本意は、亡き父上の魂を鎮めるというかねてからの願いである事の他に他意はありません。
そればかりか、義経が五位の尉に任ぜられたのは当家の名誉であり、希に見る重職です。
これに勝る名誉はありません。そのとおりと言えども、今や嘆きは深く切なく、仏神のお助けの外は、どうして切なる嘆きの訴えを成し遂げられるでしょうか。
ここに至って、諸神諸社の牛王宝印の裏を用いて、全く野心が無い事を日本国中の神様に誓って、数通の起請文を書き送りましたが、なおも寛大なお許しを頂けません。
我が国は神国であります。神様は非礼をお受けにはなりません。他に頼る所は無く、偏に貴殿の広大な御慈悲を仰ぐのみです。
便宜を図って(頼朝の)お耳に入れていただき、手立てをつくされ、私に誤りが無い事をお認めいただいて、お許しに預かれば、善行があなたの家門を栄えさせ、栄華は永く子孫へ伝えられるでしょう。
それによって私も年来の心配事も無くなり、生涯の安穏が得られるでしょう。言葉は言い尽くせませんが、ここで省略させて頂きました。
ご賢察くださることを願います。義経恐れ謹んで申し上げます。
元暦二年五月 日 左衛門少尉源義経
進上因幡前司殿」
(『吾妻鏡』第4巻)
源頼朝は、どこまでも日本の国体を護持することを重視していました。そして、その責務を果たすことができなかった源義経に対して、武士としての責任を取らせたかったのでしょう。
もし、源頼朝に三種の神器の確保がどれほど重要なのかという認識がなく、源義経を鎌倉に受け入れてたくさんの褒美も与えていたならば、日本の国体の維持は難しかったかもしれません。
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源頼朝
源義経