長い日本史の中でも豊臣秀吉(1537~1598)ほどの立身出世を果たした人物はおらず、足軽(尾張国村長の息子)から天下人まで上り詰めた彼のストーリーほど痛快なものはありません。ただそれは戦国乱世という時代が秀吉の人生観とマッチしていたからこそできたともいえ、他の時代に生まれていれば平凡な庶民として一生を終えた可能性も高いのです。そこで今日は秀吉の人生観とはどのようなもので、どのような環境(幼年期~少年期~青年期)がそれを育んだのかについて考えていきたいと思います。
【幼年期】
実父木下弥右衛門昌吉(1514~1543)は秀吉満6歳の時に若くして病死していますが、そうなった原因は戦場における負傷に加え、領主織田信秀(信長の父)による無理な年貢徴収により彼のメンタルが破綻したからです。これにより後に豊臣秀長の父親となる竹阿弥(水野昌盛)が義父となりますが、天下人となった秀吉は実父の菩提も義父の菩提も弔った形跡がありません。圧倒的な父性愛の欠如により、秀吉は理念や思想に従って生きるという術を失ったのです。
【少年期】
実父が足利幕府奉公衆の那古野氏に仕えた村長(小土豪)だったのに対し、義父が那古氏を無力化した織田信秀に仕えていたこともあってか、秀吉は竹阿弥を毛嫌いしてなつこうとしなかったそうです。そのため小坊主として寺奉公に出されますが、釈迦如来を破壊するような悪行をはたらいたためそこも追い出されてしまいます。義父がいる実家に戻る気はさらさらなかった秀吉は、母親から亡き父の遺産である金銭を受け取り、尾張から遠江まで放浪の旅に出ます。17歳くらいで今川氏の陪臣松下氏の家臣になりますが、それまでの数年は語りがたいような多くの辛酸を舐めたものと想像します。
【青年期】
持ち前の知恵と精勤により台所の出納まで任されるようになった秀吉でしたが、譜代家臣優遇の今川の流儀により同僚から激しい嫉妬と虐めに遭います。能力が高い者やヤル気のある者が生かされない環境に置かれ、秀吉に激しい問題意識が芽生えます。そしてそれこそが、家柄や身分にこだわらない信長への臣従につながっていくのです。
『人間社会も動物の生存競争と同じで、限られた土地や食糧を奪い合う闘いである。格差が生じることや弱肉強食により淘汰されることは自然なことであり、それこそが人間社会のメカニズムである』
おそらく行いきついた秀吉の人生観はこうであり、この割り切りこそが脅威の出世物語を現実のものにしたのです。ただ天下人になってしまえばこれだけではやっていけません。長期的な視野と未来を見据えた理念とビジョンによる政治が求められるからです。そこへいくと弟の秀長は兄とまったく違う発達段階を経て成人しましたから、彼の生存中は秀吉の欠点を見事に補っていました。1つは教養人だと思われる実父竹阿弥からそれなりの教育を受けたと思われること。そして兄と違って20歳くらいまで農民として田畑を耕した経験を保持していたこと。もう1つは信長や千利休による自由な重商主義の影響を受けていたことです。ですからあのまま秀長に内政を任せていれば豊臣政権も磐石だったはずなのですが、秀吉は九州平定の頃から自らの人生観を優先し始め外征に心を奪われていきます。死期が近づいた弟の諫言も無視し、遂に破滅(政権の実質的崩壊)するまで己の人生観を貫いてしまったのです。それでも秀吉が畳の上で天下人として最期を迎えることがてきたのは、やはり生き抜く力が突出していたからにほかなりません。つまり彼は戦国乱世の象徴のような人物で、それはそれなりに歴史の役割を果たしたと言えるかもしれません。