羽柴秀吉が信長の周りに送り込んだ5人のスパイ | 福永英樹ブログ

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 織田家の重臣だった豊臣秀吉(羽柴秀吉)が明智光秀による織田信長への謀反(本能寺の変)を事前に知っていたという説は、11年前に発表された明智憲三郎氏(光秀子孫)の著者により、単なる異説とは思えないような真実味を帯びてきました。早すぎる中国大返しの物理的検証、毛利氏との不自然な早期和睦、変以前からの細川藤孝・忠興父子との関係などがその根拠とされていますが、もう1つ私が注目しているのが、当時信長の側近だった次の5人が本能寺以降に秀吉から大変重用され、異例の厚遇を受けていたことです。


【堀秀政(1553~1590)】 

 秀吉が美濃攻めの侍大将だった頃に配下にした堀氏の息子ですが、聡明な上に美少年だったため信長に拝謁させ、一目で気に入った信長の小姓にしてもらいます。やり手の秀政は次々と抜擢され、本能寺の時点で2万5千石を与えられています。しかし本能寺直前に徳川家康が安土城で信長から接待されると、その接待役を務めた後に備中国で毛利氏と戦っていた秀吉の元へ向かいます。定説では軍監(目附役)を務めたと言われていますが、光秀を討った山崎の戦いでは先鋒を務め、光秀の家族がいた近江坂本城も落としています。戦後一気に9万石に加増され、九州が平定されると越前国18万石へ倍増されます。残念ながら小田原の陣中で疫病に罹って急死しますが、いくら秀政が有能とはいえあの蒲生氏郷と並ぶ異例の出世で、やはり本能寺の前に何らかの重要な役割を秀政が果たしたと思われてなりません。信長はもちろん、光秀や家康の動向を逐一秀吉に伝達していたのではないでしょうか?


【長谷川秀一(?~1594)】

 秀政同様に安土城における家康接待の役目を果たした信長側近ですが、なぜか10日後の家康の堺見物の案内役まで担当しています。明智氏は『信長が家康暗殺のために着けた内偵及び連絡係だった』としていますが、私はむしろ秀吉からの依頼により家康と信長を監視していたと見ています。なぜならその直後から彼が秀吉のために徹底して反柴田勝家の運動(清洲会議)を貫いているからです。さらに秀吉から秀の一字を与えられて秀一と改名したのもこのタイミングでした。さらに羽柴秀次が長久手の戦いで家康に惨敗すると、体を張って秀次の命を助けたと言います。信長小姓時代の石高ははっきりとしていませんが、長久手の翌年には一気に15万石に加増されています。


【前田玄以(1539~1602)】

 信長の長男信忠の家臣でその息子織田三法師の傅役も努めていましたが、元々は尾張国にいた僧侶でした。そしてその頃に2歳歳上の若き秀吉と知り合いになり、将来の夢を語り合ったそうです。秀吉が『天下を取ったらお前に役を与えたいが、何がしたい?』と問うと、玄以は『京都の貴族たちが生意気で嫌いだから、俺は京都所司代になって奴らを懲らしめたい』と答えたそうです。約束どおり秀吉は玄以を京都所司代にして5万石の大名にしましたから、本能寺前の信忠周辺の情報はすべて秀吉の耳に入っていたのだと思います。


【杉原家次(1530~1584)】

 秀吉正室寧の伯父だった家次ですが、「宇野主水日記」によれば本能寺直前の家康堺見物になぜか信忠家臣として家康に同行しています。明智氏は『家次が信長・家康・光秀の動きをタイムリーかつ迅速にに秀吉に伝達する』ために、家次が堺見物に同行していたと断定しています。そしてそれを証明するかのように、家次はろくな武功もないのに近江坂本城主と京都所司代の座を秀吉から与えられています。


【千利休(1522~1591)】

 信長時代の利休は今井宗久・津田宗及に次ぐ三番手の茶頭に過ぎませんでしたが、彼は堺の有力商人でもありましたから、秀吉の弟羽柴秀長とは融資や資金運用を通じて早くから深い関係でした。それを証明するかのように、山崎の陣では秀吉のための茶席を設けて羽柴家を後押しし、賤ヶ岳の戦いの後には建立されたばかりの大坂城で大茶会を主催しています。


 とにかく恐ろしいまでの秀吉の多彩な人脈の数々・・。これでは筆頭家老の座にあぐらをかいていた柴田勝家では太刀打ちできなかったのもうなずけます。信長本人は気づかなかったかもしれませんが、彼だって知らないうちに秀吉に骨抜きにされていたのです。