福永英樹ブログ

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歴史(戦国・江戸時代)とスポーツに関する記事を投稿しています

 豊臣秀長が兄関白秀吉から四国平定の論功行賞として大和国を加増(1585年・紀伊・和泉に加え)された時、横浜良慶・羽田正親・小川祐忠が三家老(多聞院日記より)に任じられ、桑山重晴も和歌山城代に任じられました。彼らに続いたのが藤堂高虎・杉若無心・水野利朝・小堀政次らですが、不思議なことに織田信長生存時からの秀長側近で、1587年の九州平定戦後処理でも活躍した福智三河守長通(?~1591)の名が、まるで濃霧に閉ざされたように以後の秀長関連の記録から消えてしまっています。


 長通関連の史料は非常に少なく、一つは1582年の高松城攻めの最中に彼が備中吉備津神社に送った書状です(5月13日付けの手紙で本能寺の変の半月前) そしてもう一つは九州平定戦後処理の一つとして、日向国における島津氏の領地割の実務を長通が秀長から任されたことです。秀長が当主島津義久との間で取り決めた島津氏処遇は秀吉も一旦は承認したのですが、当ブログでも紹介させていただいたように、翌月になると秀吉が側近石田三成を島津家老伊集院氏の元へ送って島津義弘(義久弟)を優遇するものにすり替えました。秀長は日向国諸県郡のうち真幸院のみを島津久保領にすると義久に伝えたのですが、義弘は諸県郡すべてを安堵されたはずだと言い張ります。秀吉が義弘に送った朱印状には、真幸院ではなく「真幸郡」と記載されていたというのです。これには温厚な秀長も納得いかなかったようで、長通を使って横領は決して許さない旨を義弘に再三伝えます。さらに長通を豊臣家直轄領代官として諸県郡に赴任させると通達しました。ところが義弘が三成と伊集院を使って秀吉と交渉した結果、翌1588年に日向国諸県郡は島津領にくつがえされます。それどころか諸県郡は何と久保ではなく義弘の領地になったのです。秀長と長通は相当憤慨したに違いありません。これは秀吉が信長重臣時代からよく使った手で、有力大名の家族関係を混乱させて弱体化する手法です。島津のように兄弟を分断することもありましたが、主君と家老の場合もありました。また秀長と義久の仲が和睦交渉以来非常に良かったことも、秀吉は気に入らなかったのです。


 長通は秀吉に相当食い下がったようで、以後彼の記録は皆無(秀吉による粛清か)となり、最後に唯一残った記録は1591年に秀長が死去する12日前(天正19年1月10日)に千利休の茶会に彼が赴いたものでした。当然ながら利休に対する主君の遺言を伝えたに違いなく、茶会で交わされた内容も利休切腹に繋がる「朝鮮出兵反対に関するもの」だったと私は想像しています。翌1592年正月に長通の息子が任官していますので、長通は1591年のうちに死去したと言われています。大徳寺の古渓らのように、利休に連座しての粛清でないことを祈るばかりです。