福永英樹ブログ

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歴史(戦国・江戸時代)とスポーツに関する記事を投稿しています

 豊臣秀長の実父 竹阿弥(水野弥助昌盛)は徳川家康の母親(於大の方)の実家である水野氏の庶流(支族)だったとする説は、鈴木眞年氏(1831~1894・明治初期の系譜学者)編の百家系図稿(1871年)を根拠としています。


・竹阿弥の曾祖父は、水野一族を知多半島を統べる小大名に押し上げた水野貞守の弟 水野甚五右衛門為善で、尾張国春日井郡水野郷(水野氏発祥地・愛知県瀬戸市北西部)に居住していた(大髙城主説あり) 

・為善の孫(息子は水野為信)水野藤次郎為春は春日井郡迫間村(愛知県春日井市廻間町)へ移住し、嫡男水野昌盛(竹阿弥)が誕生した。


 鈴木氏がかなり細かい調査をしたことがうかがわれますが、織田信長が水野藤四郎信元(於大の兄)を1576年に殺した際に一族の記録の大半が失われたため、これまで鈴木説を確証するには至らないと言われてきました。しかし日本家紋研究会が豊臣秀吉が織田家家臣時代に用いた家紋が水野氏と同じ沢瀉だったことや、水野一族の多くが木下藤吉郎の「藤」を通名(通称)に冠していたことを指摘(信元も藤四郎)し、竹阿弥の水野氏出身説を支持しました。

 そして今回私が注目したのは、祖父物語(著者祖父が秀吉時代に尾張居住)にも諸系譜(秀吉時代の膨大データを保持)にも、『竹阿弥は春日井郡迫間村の人で、織田信秀の同朋衆(芸能芸術を通じた話し相手)だった』と記されていることです。1つは百家系図稿の『竹阿弥の父為春が迫間村へ移住した』という記述と一致しているということ。さらに水野一族の本拠だった瀬戸市水野地区(旧春日井郡水野村)と春日井市廻間町(旧迫間村)は、5kmと離れていない至近距離(google mapsで調べました)にあったことです。つまり竹阿弥が仲(秀吉母親)と結婚する前に住んでいた迫間村とは、水野一族の統治下にあった可能性が高いということです。秀長が信長に敵対した守護代織田伊勢守の家臣だった水野利朝(後の本多俊政・1551~1610)をわざわざ重臣にしたのも、同じ水野一族だったからに違いありません。そして妹の旭が徳川家康と再婚したのも、両者が水野の血筋を通じた遠い親戚同士だったからなのです。