細川藤孝が明智光秀を見捨てた本当の理由 | 福永英樹ブログ

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 長い日本の歴史の中でも本能寺の変は最大のクーデターといわれ、ここで織田信長が徳川家康より早く死んだことが、この国の未来にとてつもない影響を及ぼしました。キリスト教を保護し貿易を中心とした重商主義を志向した信長であれば、鎖国することなく海外と大いに交流したと思われるからです。しかし実際は重臣明智光秀の謀反によりその構想はあっけなく崩れさり、結果的に日本は儒教に基づく厳格な身分制度による家康流の農本主義国となり、国際社会から長く取り残されることになります。そしてこれらの流れを改めて振り返ってみると、『光秀は盟友だと信じ込んでいた細川藤孝(1534~1610)になぜ見捨てられたのか?』という謎も自然と解けてくるのです。


 経緯は不明ながらも、光秀が藤孝の家臣(中間という低い身分)だったことがわかっています。かつて美濃国の守護だった土岐氏出身の光秀の教養や兵法の知識は深く、それが同じく武家社会随一の教養を有する藤孝の目にとまったのでしょう。しかしながら細川家における光秀の評判はすこぶる悪く、「老人雜話」では『藤孝の家老米田助左衛門が辛くあたり、堪えきれなくなった光秀が仕方なく信長に仕えた』と記され、「武功雑記」でも『光秀は家老の松井佐渡守に嫌われていたので、やむなく信長に仕えた』と記録されています。おそらく光秀は自らの手腕を遠慮することなく表現し、同年代の藤孝にも思ったことを隠さずに直言したのでしょう。悲しいかな長年の放浪生活のせいで、光秀は組織の中で功名に生き延びる術を知らなかったのです。そんな光秀が能力主義の信長の下で立身出世を果たし、幕臣だった藤孝は足利氏滅亡により彼の下で働くことを余儀なくされます。光秀が丹波国攻略の大将に抜擢されると、与力として細川家がその命令に従うことになったのです。信長は二人の仲が古くから良いと思い込んでいましたから、当然藤孝が喜んでいると考えていたのでしょう。光秀の娘玉(後のガラシャ)と藤孝の嫡男忠興との結婚を命じました。しかしそう思っていたのは光秀だけで、藤孝は家臣だった光秀の出世(藤孝が風下に立つ)を複雑な思いで見ていました。そして光秀がまったく見落としていたのが、藤孝・忠興父子が羽柴秀吉・秀長兄弟と親睦を深めていたことです。特に領地が隣接していた丹後国主の藤孝と但馬国主の秀長は連絡ルートまで構築しており、それぞれの腹心である松井佐渡守と前野長康も本能寺直後に連絡を取り合う関係でした。


 羽柴兄弟との親交もありますが、藤孝が姻戚関係がある光秀を迷わず見捨てたのは、革命児信長が展開していくであろう未来のグランドデザイン(日本の将来図)に期待していたからだと私は思っています。それを私情(四国問題が有力)で簡単に踏みにじった光秀が許せなかったのではないでしょうか? 秀吉軍師の黒田官兵衛だって、初めは信長が描く未来にひかれて織田重臣の秀吉に協力したわけですから・・。また後に藤孝は長康に『秀吉の朝鮮出兵には何の大義名分もない(武功夜話)』と告白していますので、自分のような本物の教養や見識がない光秀の軽はずみな行動(謀反)を軽蔑したのだと思います。つまり光秀には日本の将来を見据えた理念とビジョンが欠落していたのです。