ようこそ、ひでちぇろブログへ!!

 

今回は、

演奏において、「一瞬の勇気」をいかに持つか、

というテーマです。

 

 

演奏、特にお客さんを前にした本番での演奏は、

一瞬の勇気を持って決断することの連続です。

 

 

私は、チェロでオーケストラによく参加しますが、

みんなで同じ音を出していても、

やはり決断の連続ではあります。

 

なかでも、主席奏者として、

ソロパートを1人だけで弾くときには、

短いソロの中でも、

多くの決断を勇気をもってしなくてはなりません。

 

楽器を人前で弾く機会のある方は、

皆さんはお分かりの通りです。

 

この一瞬の勇気がちょっと不足して、

失敗する経験もしてきました。

 

例えば、

シュトラウスの皇帝円舞曲で、

緊張のあまり一瞬迷いが生じて

美しいチェロソロのメロディで

うまく鳴らないない音があったり、

 

ツァラトゥストラのチェロソロの1オクターブの跳躍で、

直前にちょっとだけ恐怖感を抱いてしまい、

跳躍した高い音の音程が低めにずれてしまったり、

 

ということを経験しました。

 

いずれも、

練習の時にはノーミスをキープしていたにもかかわらず、

本番で一瞬の躊躇とか恐怖心が起きて

その後失敗するというパターンでした。

 

 

 

過去を振り返ってみると、

若い20代の時には、ソロでの失敗は一切ありませんでした。

 

しかし、30代に1回失敗して以降、

それなりの確率で起こるようになってしまいました。

 

1回目の失敗は油断か練習不足だっと思いますが、

以降は相当反復練習しても、

失敗が起きる様になってしまいました。

 

初回の失敗以降と

それ以前に成功し続けていた時の違いは何なんでしょうか。

 

 

 

失敗は、

感覚としては

「一瞬の勇気」の不足の原因

という感じです。

 

これは一体どうして起こるのでしょうか。

 

ここで、

コーチング的な見方をしてみると、

 

自分がそれをやる能力が

あるという自己評価である、

「エフィカシー」

が低下していると

起きやすいのではないでしょうか。

 

またさらに、

エフィカシーの低下が、

普段意識化出来ない領域、

コントロールできない領域に

「無意識化」していることも考えられます。

 

無意識に失敗の可能性が書き込まれてしまうと、

無意識は意識の100万倍の情報量で圧倒的な影響力を持っているので、

意識には上らずとも、

失敗は常に起こりやすい状態になってしまいます。

 

 

対策ですが、

無意識化したエフィカシーの低下を

少しずつ改善していくしかないと思われます。

 

無意識領域は、意識経由でしか書き換えられません。

 

従って、

ことあるごとに自分を褒める、

演奏が出来た自分をイメージしてその時の感情味わう、

というのを毎日繰り返すことが、

遠回りの様で近道かと思います。

 

加えて、

正しい動作を反復することで身体に染み込ませることも、

重要です。

 

メンタルと身体動作の両方で、

脇を固める感じですね。

 

 

 

2年前の話ですが、

大好きな、マーラーの交響曲第3番のチェロソロ(たった6小節くらいですが)

を弾く機会がありました。

 

この時ばかりは、

昔からやっている反復練習に加え、

 

常に自分をほめて、成功をイメージし、

メロディーが始まる直前の一呼吸で、

完璧に弾けている自分をイメージしました。

 

それから、それを落ち着いてトレースするように、

弾いてみたところ、

20代の頃の様に、

久々にチェロソロが自分で納得できるくらいしっかり弾けました。。

 

 

やはり、

練習だけすればよいのではなくて、

意図的に成功を作り出すという心構えと、

自己評価を高く保ち続ける意志が必要なのだと感じました。

 

普段から一瞬の勇気のために、

自己評価を上げ、

自分を自分で常に褒めて気持ちを持ち上げて、

 

心の面からも失敗という選択肢を

排除していく努力が大切だと思います。

 

 

ということで、

演奏をけなすのは他人にがイヤでもやってくれるので、

自分の演奏を自分で褒めて、

自分を成功に導こうというお話でした。

 

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ!!

 

 

2週間前に、ゲネプロ(前日の通し練習)と、

当日のステージリハーサルだけの練習参加で

演奏会出演に出演してきました。

 

長崎に越してからのこの参加方式にも慣れてきましが、

今回は曲が難しくて大変でした。

 

曲はオールアメリカのプログラムでしたが、

アメリカ作曲家の特徴として、変拍子が多いのです。

 

変拍子というのは、4分の4拍子で始まったのが

途中で4分の3拍子が混じったりすることですが、

アメリカ人作曲家の場合は特に、

小節ごとに4拍子→5拍子→3拍子→1.5拍子→4拍子

みたいに、

小節ごとに拍子が変わったりします。

 

これはこれで、曲としては楽しいのですが、

弾く方はなかなか大変で、

特に合わせるのが難しいです。

 

 

演奏会の前日練習の時もなかなか大変で、

ちゃんとカウントしてタイミングを測っても

なかなか合わせられません。

 

コープランドの交響曲第3番の

一番盛り上がる4楽章で、

明るく前向きで、変拍子全開なところがあり、

ヴァイオリンの弾くフレーズに

途中から対旋律でチェロが入るところがありました。

 

最初は細かくカウントしても

全然うまく入れませんでした。

しかしここで頭を切り替えて、カウントではなく、

フレーズのキャラクター、ヴァイオリンの人たちが

どう感じているか、を意識して、

そこにこちら側のフレーズの個性と自分の感覚を

合わせ込んでいく感じに切り替えました。

 

そうすると、すっと、

抵抗なく合わせられました。

それ以降音楽そのものもやっと楽しめる様になりました。

 

さらに、余裕が出てきて

他のパートに共感を感じられる様になり、

さらに、良く合わせられる様になりました。

 

やはり、

人と音楽をやるには、

そこに能動的な愛が存在していることが

大切だなと実感しました。

 

演奏会後のさらに飲み会後の二次会で、

普段あまり話さない

打楽器、トロンボーン、ファゴット、チューバ等、

下から支える人ばかりと

たまたま一緒に話す機会が有りましたが、

みな似たような意見でした。

 

技術的なことばかり取り上げられがちだけど、

やっぱりまだまだ愛が足りないよね!

っていう話で盛り上がりました。

 

 

同じこと考えている仲間が結構いて、

励みになり、

またこでこででやっていこうと思いました。

オケの良さが身に沁みました。

 

あとは自分が他人に良い影響を与えられる様に、

日々精進かと思います。

 

こうやって、小さな学びと共感を得つつ、

オケを続けられている立場に感謝ですね。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ。

ずいぶんご無沙汰してしまい失礼しました!


今日のテーマは、アメリカ人作曲家、コープランドについてです。


最近、演奏会に出演した時に感じたことを書いていきます。長崎からチェロと共に神奈川県まで飛行機で移動して泊まりで出演してきました。



曲はコープランドの交響曲第3番と「アパラチアの春」、バーンスタインの「キャンディード」でした。


すべてアメリカ人作曲家の曲でした。

この中でも特にコープランドの魅力を体験できました。



ここで、コープランドについて少し紹介します。


ロシア系ユダヤ人の移民の両親の元、ニューヨーク市内のマンハッタンと橋でつながるブルックリンで生まれ、育ちました。


アメリカで音楽を学んだ後、

無調音楽の総本山のようなパリでも学んで12音階の世界と一般の解離感じつつ、

最終的には一般の聴衆にも理解しやすいような、

クラシックにおけるアメリカ音楽のスタイルを確立しました。


アメリカ出身の作曲家といえば、

ラプソディーインブルーのガーシュウィンに始まり、

ウルトラクイズ(古いですが)に出て来た曲などを書いたグロフェ、

ウエストサイドストーリーのバーンスタイン、

などが印象的な中、


コープランドこそが、最もアメリカを代表していると言えます。

ロシアにおける、ショスタコーヴィチのような存在です。


それではここで、今回演奏した曲について書いていきます。


まず、メイン曲であった「交響曲第3番」。

4楽章で、これぞ偉大なるアメリカ的な、

堂々とした金管楽器と打楽器だけの有名な印象深いフレーズが演奏されます。

また、1から4楽章に渡って、広大なアメリカの大地を彷彿とさせるような肯定的で穏やかなハーモニーの部分と、活動的でアグレッシブでやはり肯定的な部分が入れ替わり現れて、最後は大ファンファーレで終わります。


そして「アパラチアの春」。

農村での新婚夫妻を中心とした町の様子が描かれていて、牧歌的な部分の多い曲です。

アパラチア山脈という具体的なアメリカの自然が舞台で、自然に恵まれ豊かな、ある意味理想的な人生が描かれています。




アメリカの大地の息吹きを感じさせる、

アメリカの若くて多くの可能性を秘めた、

ヨーロッパにはない楽天的な雰囲気、

これが、コープランドの音楽の特徴です。


コープランドを聴いていると、あまりに雰囲気がよいので実際にアメリカに行ってみたくなります。



キリスト教にしろユダヤ教にしろ、

一神教の文化にいる作曲家でもあるはずですが、

やはりその土地ごとの風土の影響受けるというのは、

少し面白い感じがします。

(一神教の人が多神教の土地の神の影響を受けているという意味です。)


いつか自分もアパラチア山脈を見たりしつつ、アメリカ大陸の多神教の神に触れてみたいと思います。


ところで、

私は現在長崎に住んでいますが、今回演奏したコープランドの曲がアメリカで作曲されたり、初演されたのが1945年の終戦前後なのです。

まさに幸福の絶頂にあるアメリカと、原爆が落とされて本当の地獄を見た長崎との残酷な対比についても、つい考えてしまいます。


現在の自分の立場は、あくまでアマチュアのチェロ奏者でコープランドを演奏して楽しめる平和な側の立場にいます。

この今の自分の幸福な立場に深く感謝しながら、また今後も音楽を続けていきたいと思います。


それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ!!

 

 

今回のシリーズは、題して、

「ひでちぇろの世界」

です!

 

このブログを書くに当たっての

メインテーマである

音楽と精神世界について、

私自身がどういう考え方でいるかということと、

クラシック音楽を知ってから今に至るまでの

出来事などについて、

 

少し自伝的な人生論と音楽論です。

よろしければお付き合いいただければと思います。

 

 

 

一回目の今回は、

「世界観」です。

 

ひでちぇろにとっての、

神、生きる意味、などの

精神世界(形而上)の世界観について書いていきます。

 

私の場合、これと音楽がいつも結びついているので、

最初にこのテーマを持ってきました。

 

 

まず、観念論と唯物論から。

 

真理に近づこうとしてたり、

物事を解明しようとする時に依って立つ考え方には、

2つあります。

 

「観念論」と「唯物論」

です。

 

念のため説明すると、

 

観念論は、

心が在るから物質が有る。

物質とは独立して精神が存在していると考えます。

 

唯物論は、

物質があるから心が有る。

心も物質の現象と考えます。

 

 

ここで私がどちらを採用しているかですが、

こんなブログを書いているくらいですから、

 

「観念論」を採用しています。

 

 

なぜこちら側を採用しているか、

ですが、

 

生き延びる為でした。

 

20代の頃に、仕事で散々叩きのめされて、

生きるより死んだ方がましと考え、

死というものについて真剣に考える様になった時に、

色々な精神世界の考え方に出会い、

何とか生き延びられました。

 

何が正しいかは結局人間には分からないので、

人生の質を上げられる考え方を採用しようと考えました。

 

結果が間違う可能性があるというリスクも考慮して、

決断して舵を切った感じです。

そしてそれは正解だったと今でも考えています。

 

 

 

次に、

「神」についてです。

 

「創造主」としての神は存在すると仮定して生きています。

 

今の目の前の世界全ては偶然出来上がった

という仮定は妥当と思えないからです。

 

ミケランジェロの完成された彫刻が

偶然の産物とは思えない様に、

宇宙もだれか作者がいるだろうと考えるわけです。

 

科学的に証明できないでしょうが、

そう仮定することを選択しています。

 

 

 

神の話はまだ終わらず、

 

「一神教」か「多神教」か、

という問題があります。

 

神道好きな私の場合、

神の世界も人間会社みたいな

階層構造になっていると考えます。

 

会社と違って、

下位のものは上位のものに含まれる訳ですが、

便宜的には以下の様なイメージです。

 

・神(社長):宇宙の創造主(一神教の神、天之御中主神)

・神(副社長):創造、維持、破壊の神(インドの神)

・神(重役)銀河団

・神(部長)銀河

・神(課長)太陽系、太陽

・神(係長)地球

・神(社員)国(伊勢神宮)

・神(パートナー社員)地方、地方の神社(土地の氏神)

・神(バイト)山、川、草、木、八百万の神(千と千尋の神隠しにたくさん出てくる)

・神(出入りの業者さん)ご先祖様(一番近い。あちらの世界の人間)

・人間

 

 

宇宙という大所帯なので、

神の側も一枚岩ではなく、

ある程度上位、下位とかの階層構造があって、

分担しているイメージです。

 

この階層の中で人間が会える神は下の層だけです。

コンビニに買い物に行ってもバイトさんか、店長さん

にしか会えないようなものです。

 

なので、

聖書に書かれている、

人類で最初に神の啓示を受けたというアブラハムも、

コンビニの本社に行ったかもしれませんが、

会えたのは係長クラスだったかもしれません。

しかし、バイトに比べたら、

「この人の言ってることは絶対だ」と思ったのではないでしょうか。

(一神教の方すみません、あくまで個人の妄想です)

 

音楽について考える場合も、

音楽担当の神(社員クラス)をなんとなく想定して、

それが作った美のイデアを追及という感じでいます。

 

なお、この考え方をとると、

どの宗教の神様でも比較的受け入れやすくなります。

 

 

 

次々とやばいテーマですが、

「生まれ変わり」について。

 

これも生き残る為にあると仮定しています。

生きていてネガティブなことが有っても、

意味をつけて前向きに生きていきやすくなります。

 

また、次に出てくる、神が地球を創った意味に関連してきます。

 

そして、

神(創造主)が宇宙を創った理由と、

人の生きる意味、音楽を含む芸術の存在意味です。

 

以下の通りです。

まとめて書いてみました。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

神がこの世を作った目的は、愛と成長の体験のため

 

愛は真の「快」

 

成長は真の「快」をより理解していく事

 

真の「快」とは、

宇宙のすべての存在(神)と自己は一体で、

すべての存在のお陰で自分が成り立っていることを感謝し、

まず自分、

そして周りのすべての存在を幸せにする事で得られる感覚のこと

 

人間は、

物質界の「肉体」と「生命」、

神であることを忘れた「自我」、

本来の神と繋がったカルマを運ぶ器の「魂」のセットで

成長を最先端で体験する存在

 

音楽を含む芸術は、

「快」の感覚によって、

忘れた神とその目的を思い出させるためにある

人生という問題集の解法のヒントの様なもの

発信者から受け手に伝わり、

発信者と受け手をともに成長させる

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

今回は以上です。

 

次回以降は、

現実寄りで音楽寄りにしていきます。

 

それでは。

ようこそひでちぇろブログへ!!

 

今回は、「理想の音楽」についてです。

 

 

そもそも、理想という言葉は、

元々に日本にあったものではありませんでした。

 

古代ギリシャ時代の哲学者、

プラトンの思想である「イデア」

を明治時代に日本語に翻訳したものです。

 

この「イデア」とは何かについて、

過去記事(2019.7.15付「音楽の快感(その8)美のイデア」

にて、すでに書きましたので、

抜粋を掲載してみます。

 

 

====「音楽の快感(その8)美のイデア」から抜粋====

 

「イデア」に戻りますが、

これは、プラトンの哲学で出てくるもっとも重要な概念です。

 

通常我々が見聞きしているものは、

その真の姿を捉えておらず。

魂の目でしか見えない純粋な形、完全なもの、

を「イデア」と呼びます。

 

「イデア論」のその前提は、

哲学というよりだいぶ宗教的だと思います。

 

プラトンによると、

 

我々は天上界にいて、本来の姿「イデア」を見ていた。

 

しかし、天上界を追放されて、地上界に来た。

 

その時に、見ていた「イデア」を忘れた。

 

しかし、視線を魂の内面に向けて、

おぼろげながら思い出すこと、

イデアを「想起」することが物の原形を真に認識すること。

 

真の philosopher(愛知者)は、

できるかぎりその魂を身体から開放して、

魂がそれ自体であるように努める者である。

 

この愛知者の知の対象が「イデア」である。

 

 

というロジックです。

 

つまり、「天上界」や、「魂」の存在を前提としています。

 

天上界を追放されたというような、宗教的な考えかたが、

キリスト教が出来る前のこの時代からあったのですね。

====ここまで====

 

つまり、理想(イデア)の音楽とは、

天上界にあって通常は見ることのできない、

完全な音楽ということです。

 

 

また、同じ記事から「美のイデア」についても抜粋します。

 

=====「音楽の快感(その8)美のイデア」から抜粋====

 

音楽は、プラトンの言う「美のイデア」に属すると思われます。

「善のイデア」が根本にあり、その下位に「美のイデア」が来ます。

 

「美のイデア」ということで、

普遍的な音楽の美とは、

天上界で魂が耳にしていた音楽だ、

などと言われても急には理解が難しいですね。

 

なので、

過去の自分の音楽体験の引き出しから、

そういう言葉が当てはまる音楽を探してみます。

 

まず、最初に思い浮かぶのが、

バッハ作曲、無伴奏チェロ組曲第六番のサラバンドです。

 

金色に輝くような和音の移り変わなど、

天上界と言われても違和感がありません。

完全に主観の世界ですが。

 

 

次に、モーツアルトのクラリネット五重奏の第二楽章。

 

繊細で美しいメロディに、

忘我の境地に至る様な曲です。

 

 

もう一つ、マーラーの交響曲第三番の六楽章です。

 

神の懐に包まれるかのようなスケールの大きい、

深い癒しと悦びが得られます。

 

どれも、「神々しさ」と「なつかしさ」の両方を感じます。

昔は魂として天上界で接していたけれども、

現在は忘れていて、

音楽によってそれを想起させられるという、

プラトン的な考えがぴったり来る曲です。

 

まさに「美のイデア」に近づいた音楽ですね。

 

音楽を聴いて、「美のイデア」が伝わってくるというのは、

演奏者としてはまだまだ受動的です。

 

自分の演奏によって、

聴き手も自分も美のイデアに近づく為には

どうすればよいのでしょうか。

 

ここで思い出すのが、

世界最高峰のチェリストである。

ロストロポーヴィチの公開レッスンで聞いた言葉です。

 

場所は御茶ノ水のホールでした。

レッスンを受けていた方々は今では第一線で活躍されています。

 

で、その言葉とは、

「音楽は人の心に架け橋を作る。

演奏者が感動すれば、

それは音楽を通してかならず聴衆の心に届く。

と私は信じている。」

 

という主旨のものでした。

 

演奏者が実際の演奏で真摯に「美のイデア」に近づこうとし、

聴き手も同じ方向を向いてそれに近づこうとすれば、

両者にによって「美のイデア」は間近になるかもしれません。

 

 

しかし、ここでもまだ疑問が残ります。

「美のイデア」に近づくにはどうすればいいのでしょうか。

誰かが地図を用意してくれている訳でもありません。

 

考えるに、これはすぐに近づくのは無理なのかなと思います、

 

ただ、音楽の「美のイデア」が存在するというのを、

一度心の底から信じてみること、

 

そして、その「美のイデア」に近づく演奏することを常に「意志」すること、

 

かと思われます。

 

長く音楽に関わる上で、

目先のことに囚われない為に、

最も遠くにある道標が「美のイデア」だと考えます。

 

自分なりに、「美のイデア」(=究極の理想の音楽像)を持って、

音楽とつきあっていきたいと思います。

=====ここまで====

 

音楽が属する美のイデア。

簡単には近づけないけれど、

近づこうと意志することが大事だということです。

 

 

過去記事が相当長くなってしまい失礼しました。

 

 

しかし、人はなぜ理想の音楽等、

理想の何者かを目指すのでしょうか。

 

証明はできないので、

あくまで私の考え、

つまりファンタジーですが、

 

神が宇宙を創った目的は、「成長」です。

 

 

神は愛のエネルギー体でしたが、

自分だけではその愛を感じることができません。

 

そのため、便宜的に自分を分離させた「個」を創り、

その個に愛を与えて成長させることで、

「成長」と「愛」を感じられる様にしました。

 

また、その成長をよりリアルに効率よく体験できる様、

愛という「情報空間」だけでなく、

時間、物質による「物理空間」を創りました。

そして、情報空間から物質空間を体験できる「生命」も作りました。

この生命という個を通して神は成長を体験できます。

 

そして、高度に発達して物理空間と繋がった「自我」と、

情報空間に繋がった「魂」を持ち、

成長の最前線にいるのが、我々人類です。

 

情報空間によって神と繋がっている「魂」は、

神にはなれないけれど成長しようとする性質があるので、

理想の音楽を通して少しでも神に近づこう(成長しよう)とします。

 

これが理想の音楽を目指す理由であり、

神の性質を体現しているということでもあります。

 

本記事表題の「音楽表現」とは、

これを演奏行為によって他の魂と共有しようとする試みであり、

神の性質を演奏者と聴き手で共有することです。

 

我々の「自我」と「魂」がここに存在している意味

を確認することでもあります。

 

 

音楽で意味を確認した後は、

我に返って(魂から自我に返って)

リセットしてまた実生活に戻ります。

 

しかし、これまでより、

実生活の意味、つまり普段の生活も成長の為の体験であること

を認識できるようになるわけです。

これが実生活における音楽の意味で、

 

意味を忘れたころにまた音楽で共有して思い出すの繰り返し。

この繰り返しでらせん状に成長していくのかと思われます。

 

こういう人類に与えらえた成長ツールである音楽に、

アマチュアながらライフワークとして取り組むことが出来て

幸せだといつも感じています。

 

話の落としどころが難しいのですが、

今回は以上です。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ!

今回は「内的音楽」というテーマです。




自分の心の中で形成される音楽以前のもの。
ストーリー、世界観が形成される前の感覚。
音や言葉になる前のフィーリング。
生きている感覚のゲシュタルトの感触。

そういうものを「内的音楽」と呼ぶことにします。

音楽が音楽になる前の
言葉にできない何かです。


ところでつい最近、
長崎県のハウステンボスに行って来ました。

敷地内のホテルのレストランに入ると、
バイオリン、チェロ、ピアノなどによる
ソロの生演奏を聴かせてくれます。

おそらく、
ロマ(ジプシー)の奏者として活躍している
方々です。

演奏は基本的に甘くて哀愁が漂う感じなのですが、
何曲か聴いていると、
それだけではない、
特別の世界観が伝わって来ました。

何か曲を越えた様な、
ロマの音楽家たちががずっと伝承してきた、
言葉にはできない、
人類共通の故郷を想う郷愁の様なものを
味わっている感覚が、
少しずつしかし確実に
自分の心の中に形成されていくのが
分かりました。

普段聴かない異国の音楽によって、
自分のの心の中だけに確実に形成される何かが
あると感じられたので、
それを「内的音楽」と呼んでみました。


ロマのソリスト達の音楽には、
「内的音楽」がしっかりとありました。

しかし「内的音楽」がうわべだけという場合も
多々あり、
それでも音楽は成り立ってしまいます。
この場合、音楽を通じて伝わるものがない。
ことになります。

よって「内的音楽」をしっかり形成することは、
非常に大事だなと感じました。



ここで、他の芸術についても考えてみます。

例えば文学。

物語の舞台、人、状況、ストーリーが
形になる前段階の、
作者の心のなかにある何者かだったり
イメージになる前の感覚だったりが
内的文学でしょうか。

この、物語になる前の内的文学から
泉の様にストーリーが
湧き出てくるのかもしれません。
文学とは物語の水源を堀り当てて
みんなに分かるように書き留める作業
なのかもしれません。


次に彫刻。

仏像を彫る熟練の彫刻師が、
木の中から仏様を彫り出す様に感じて彫る
という話をよく聞きますが、
彫刻師の心の中にある、
内的彫刻(仏様)を実際の形するのが彫刻
ということになりますね。

ここで、
絵画について考えてみますが、
絵画でよくあるのが、
素人に価値が分からない難解な現代アートです。
あれの内的絵画はどうなっているのでしょうか。


芸術における表現者の「内的世界」は、
音、形、色、文字などの
「記号」を介して、
受け手に伝わります。

この「記号」は刺激でもあり、
ずっと同じものを使っていると
陳腐化するので、
時代ことに表現者が試行錯誤しながら
更新しています。

「内的世界」にこだわって至上主義みたいになって、
「記号」を「内的世界」の側に寄せて洗練、
抽象化させたものが、
難解な現代アートでしょうか。

残念ながら、
創作の経験でもないと、
理解が難しい感じがします。


音楽でも同様に、
「記号」の抽象化を進めたのが、
現代音楽でしょうか。


これらの理解が難しい現代的なものは、
料理に例えると、
絶品の鶏肉だけど抽象化されて
ほとんど骨しか出てこなくて、
あまり食べた気がしない、
っていう感じがします。

やはり記号の肉付けや味付けは大切で、
内的世界とか内的音楽そのものだけが
偉いわけでありません。

世の中のほとんどの人に分からない
現代の哲学なども同じではないでしょうか。


ロマのソリストの方々の音楽のように、
「内的音楽」と共にそれを伝える
音という「記号」を豊かにする努力を、
忘れずにいたいと思います。

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ!

 

今回は、「ビブラート」についてです。

 

 

以前、理系的な視点で「ビブラート」について

書いた記事のリンクです。ご興味があればぜひ。

ビブラートと流体力学の相似性

 

 

まずは、

ビブラートの起源について少し調べてみました。

 

西洋音楽では、

ルネサンスからバロック辺りで

かけ始めた模様です。

 

それ以前はどうなのか、

まったくビブラートは無かったのか、

というのは良く分からない様です。

 

一方、東洋では、

ビブラートを良くかけている

印象のある楽器を見てみます。

 

まず中国の二胡。

 

原形は紀元前のインドの辺りで、

シルクロードを通じて中国へ来たのが西暦600年頃です。

しかし、

ビブラートについては情報無しです。

 

次に日本の尺八。

 

西暦600年頃に中国で発祥し、

鎌倉時代くらいに日本に来て、

現在は日本でもメジャーな楽器の一つです。

 

しかし、

これらもいつごろからビブラートを

かける様になったかは不明です。

 

 

結局、ビブラートは、

楽器や楽譜や文献の形で残りにくいのでしょうね。

 

 

 

そもそも、なぜビブラートをかける様になったのか。

 

自然にかかり始めたのかもしれませんが、

なぜ音程を上下させる必要があるのか。

理由は明確ではありません。

 

 

起源もよくわからないし、

なぜかけているかもイマイチ判然としないけれど、

確かに掛ける方が美しく聴こえるという、

みんなやっているけど

不思議な技術なのが「ビブラート」です。

 

 

 

ここで、

改めてビブラートについての

自分の感覚を思い返してみます。

 

個人的には

自然現象と相似性のあるビブラートを

美しいと感じます。

 

前のブログ記事にも書きましたが、

流れの中にできる渦には周期性があり、

 

自然の平衡と変化を求める性質の

バランスによって、

流れの始まりから少し遅れて発生する渦の現象がありますが、

 

これと同じ様に、

最初のごく短時間はビブラート無しで、

その後自然に増幅するビブラートを

きれいだなと思います。

 

 

そして、流れの速度に応じて

渦の周期も早まったり遅くなったりするように、

 

感情が高ぶりで早くなり、穏やかな時にはゆっくりになる様な、

自然な感じが良いと感じます。

 

 

これも私個人の感覚ですが、

 

このビブラートは

何に向かって演奏するのか、

で変わってくると考えます。

 

神とか宇宙に向けて演奏しようとすると、

ほとんどかけられなくなる感じがします。

 

教会文化の影響を引きずっていた

バロック音楽までは、

ビブラートは俗な感情の現れとして、

避けられただろうなと想像できます。

 

その後、大衆が文化の主導権を取り戻してから、

人に向かって音楽するようになって、

音楽が、

人間の感情にフォーカスするようになりました。

 

人間の心は、

何かを認識した時には

無感情のままではいられないので、

常に感情が発生しています。

なので、

ほぼ常にビブラートかけるようになったと思われます。

 

神から人へと

音楽のベクトルが向いた近代以降、

ビブラートを

かけることが主流になったものと思われます。

 

 

そして、

ふと昔の神に向かっていたころも

良かったと思い出し、

自発的にノンビブラートで弾きはじめたのが

ピリオド奏法という感じでしょうか。

 

 

 

2017年頃、神奈川音楽堂で、

鈴木優人さん指揮、神奈川フィル演奏の、

ハイドンの交響曲を聴きました。

 

一つの曲の中で

ビブラートを使ってメロディーを際立たせたり、

ノンビブラートで神聖なハーモニーを表現したりと、

 

曲想に合わせてビブラートの有無を使い分けることで、

聖と俗を縦横無尽に行き来しているのを聴いて、

目から(耳から?)うろこが落ちる思いでした。

 

まさに、

現代のクラシック音楽の進化を感じました。

 

現代は、ビブラートをかけるか、かけないか、

 

神に向かうか人に向かうかを、

 

演奏者が選択する時代なのですね。

 

ビブラートの意味、位置づけを自分のなかで、

常にアップデートしながら

演奏に臨んでいきたいと思う今日このごろです。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ!!

 

 

 

音楽の音の三要素は、大きさ、音程、音色、

と言われますが、

 

その中から、今回は「音色」についてです。

 

 

音色が発生するメカニズムを簡単に説明します。

 

楽器や人の声など、

音楽に使われる音には

倍音というものが含まれています。

倍音とは、振動数を2倍、3倍、4倍・・・・

と整数倍した音です。

 

これに対して一番下の基本となる音を基音と呼んでいて、

基音と倍音から音楽で使われる、楽音が出来ています。

 

 

オーケストラの楽器で言うと、

クラリネットは奇数倍の倍音が多くてよく通る音だったり、

トランペットは高めの倍音が多くて華やかだったり、

打楽器は整数倍以外の音も混ざっいて音程が分かりにくかったりと、

 

音の特徴が倍音の構成である程度説明できます。

 

大雑把にはそうなのですが、

例えば、多くのバイオリン奏者が賞賛する、

ストラディバリなどの古いクレモナ製バイオリンの音色は、

人が聴くと分かるものの、

音響学的にはなかなか違いが解明できない様です。

 

ここら辺は、

ストラディバリと知らされなかったら分からないのでは?

という意見もありそうですが、

私個人としては、

コンサートホールで聴いた経験だけですが、

それなりに有意な違いは有るのではないかと思っています。

 

それで、

人間は機械でもなかなか特徴を見出せない様な

音色の違いを聴き分ける能力があるとして、

それはなぜでしょうか。

 

 

 

まだ、人間の文明がそれほど発達していなかった、

狩猟、採取の生活をしていた頃について考えます。

 

人間は他の野生動物と同じ様な立場で、

森の中に入って狩りをしなければなりません。

 

そうすると、

熊などの自分を捕食するかもしれない動物や、

食料になるかもしれない動物の存在を知る為に、

五感をフルに使っていたと思われます。

 

この時には、少しの音ですべての情報を得る必要があります。

 

それが生死を分けるわけですから、

「少しの音ですべての情報を得る能力」が発達します。

 

これは、人間が地球上に登場する前からすべての動物に言えることで、

太古から発達してきた能力と思われます。

少々機械を使って分析してもこの能力にはかなわないかもしれません。

 

人間には、

「聴力」及びそれと組み合わさった

非常に高度な「脳の分析プログラム」が備わっているということです。

 

ですので、

音色という少ない情報ですべてを分かってしまう能力を、

訓練せずともみんなが持っているということです。

 

 

 

音楽を演奏する立場から考えても、

「音色」という情報の器は、

相当容量が大きく、深さがあると思われます。

 

「音色」という器のなかに圧縮して収納された情報が

受け手のなかでひも解かれると、

相手の人生を生きている感覚が伝わる。

生命を生きている感覚が分かる。

というレベルまで、

情報は伝わるものと考えます。

 

ある部分では言語を超えています。

「音色」とはそれくらいの高度な情報伝達手段です。

 

 

しかし、演奏においてこの音色というものを、

どれだけ意図的に操作できるのでしょうか。

 

まず、基本となる音色を意図的に創るのは難しいと考えます。

料理の素材の味までは操作できないという感じです。

 

音色には、曲の習熟度、音楽に対する態度、技術、(楽器の値段も)

全部出てしまうので。

 

音色には、

自分の成長度がすべて現れますし、

太古の昔から野生で鍛えられた人の耳はなかなか騙せません。

 

 

 

ですので、

基礎練習による技術の向上、

勉強して音楽の理解を深める、

いい音楽に触れる、

色々経験して、いろんな感情を味わって

幅広いものの考え方ができる様になり、

 

ということが集積して「音色」に出るのでしょう。

 

そして、

演奏者のそういう生きざまの集積を

「音色」というフィルターを通して

共感するのが音楽の喜びの一つなのでしょうね。

 

「音色」については以上です。

 

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ!

 

今回は「呼吸」についてです。

 

 

呼吸器官は本当に不思議です。

意識でコントロールすることも出来るし、

無意識に任せることができます。

 

そして、無意識に任せていると、

一呼吸で、心拍で四拍程度となり、

四分の四拍子になります。

 

呼吸と心拍だけで、

すでにリズムのアンサンブルが成立し、

勝手に音楽になっているかのようです。

 

自らが音楽の様でもあり、

無意識にも繋がっていて、

不思議な存在なのが呼吸、

そして心拍です。

 

 

以前NHKで放送していましたが、

 

呼吸に集中する瞑想を続けると、

記憶を司る脳の海馬を休ませることになるため、

海馬の一部が大きなることがあるそうです。

(逆にうつになると海馬は痩せ細ってしますそうです。)

 

 

意識を瞑想によって呼吸に接続すると、

海馬が休まって、脳に良い効果があるということです。

 

この時、呼吸に集中した意識は一体何に接続

されているのでしょうか。

 

脳科学はここまでしか分からないので、

ここから、シュタイナーの考え方を見てみます。

 

シュタイナーは人間の構成要素を、

肉体、エーテル体、アストラル体、自我

に分けられると考えました。

 

 

肉体は、そのままでは腐敗、崩壊する物質。

 

エーテル体は、肉体を崩壊させない為の生命エネルギー。

 

アストラル体は、感覚、知覚、感情を統合するもの。

(植物になく動物だけにあるもの)

 

自我は感覚から独立した思考。

 

というふうに定義付けています。

 

 

この中で、

 

「私たちはアストラル体的存在として、

音楽的法則によって宇宙から創造されたのである。」

 

と、

アストラル体を音楽そのものと言っています。

 

 

また、このアストラル体は

音楽を奏でる呼吸、心拍と

密接な関係にあります。

 

我々が眠っている間、

アストラル体には崇高な神界の音楽が刻まれます。

 

創造的な音楽家は、

毎夜アストラル体に刻まれた神界の音像を意識化し、

物質界の音楽に置き換えることができるということです。

 

プラトンのイデアを、

呼吸への意識のフォーカスにより、

現実世界で形にできるということです。

 

そしてこれは、全ての人にとって可能な能力だと、

シュタイナーは言っています。

 

 

 

当然、実際の演奏では、

現実的な技術や状況認識が必要です。

精神世界だけでなく、

現実世界に繋がらないと

演奏が成り立ちません。

 

音楽に感動する気持ちだけに溺れると、

完全に独りよがりの音楽になってしまいます。

 

ですので、

大局的にちゃんと現実を捉えながら、

 

なおかつ、

呼吸に意識をフォーカスして

アストラル体の中に沈みこんで

あちらの世界の音楽を感じる、

 

というのを、

同時平行で行う必要があります。

 

ましてや、アマチュア演奏家であれば、

 

まず、

基礎練習でテクニックを出来るだけ無意識化し、

 

譜面に書いてある曲を勉強し、

 

ワンフレーズごとに、

最適なものイメージを理性の力でストーリー化するという準備をしてから、

 

そこに、アストラル体で受けとるイメージを、

自分の音楽に流し込む。

という順序が大切です。

 

ということで、

まずは真面目に練習をし、

理性を保ちながら、

呼吸にも意識をフォーカスしてあちらの世界の情報を感じつつ

演奏するのが良いと考えます。

 

今回はだいぶ文章での表現が難しかったので、

理解しづらかったかもしれません。

文章力の向上にも頑張っていきたいと思います。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ!!

 

今回は「姿勢」についてです。

 

音楽表現における「姿勢」といえば、

「アレキサンダーテクニーク」が有名です。

 

以下の記事にも書きましたので、

よろしければお読みください。

 

演奏と姿勢

 

ものすごく大雑把に言えば、

 

・頭(首、あご)を緩めて頭が自由に動けるようにする。

 

・頭が上に送られ、背中が広がる様な、

身体を上向きに持ち上げる意識の方向性

 

が自然にできる様になると、

身体のコントロール度がアップするという風なものです。

アレキサンダーテクニークについては以前書いたので、

今回は、東洋の気功や武術について書いていきます。

 

 

気功では、

 

「正中線」を保つことを大切にしています。

 

頭の頂点にある「百会」と、

へその指の幅五本分くらい下の奥の方にある「丹田」を、

 

線で結んだのが正中線です。

 

これを真っ直ぐに保ち、

地球の重力の中心に向ける(垂直にする)様、

意識します。

 

そうすると、

支えが無くともバランスを保つだけで真っすぐな姿勢を維持できます。

これにより、筋肉からのノイズが消えるので、

それを制御している脳からもノイズが消える訳です。

 

そして、身体も心もぶれなくなり、

大局を見渡すことが出来る様になります。

 

正中線を保つことで、

効率よく自分を確立することが出来ていきます。

 

 

武道の世界で、

この正中線の維持を特に大切にしているのが、

太極拳です。

太極拳では、

正中線の位置を、

常に、体重で地面にかけている圧力の中心位置の真上に

持ってくる様にします。

正中線が垂直でつねに中心にあるので、

どんな姿勢を取っていても常に安定していて、

逆に相手の動きをもコントロールしやすくなる訳です。

 

 

また、

受けを重視する太極拳に対し、

より攻撃を重視する空手の様な武道になると、

正中線を崩してまた戻ってというサイクルの中で、

身体全体の動きを制御します。

 

そして、いつでも正中に戻れる状態を維持します。

 

 

 

気功や武道における、

正中線を大切にする姿勢の考え方を見てきましたが、

 

これらは、

まず形から入って、

 

動き、

 

そして、

精神をコントロールするという考え方です。

 

 

 

そしてここから、

音楽の話です。

 

私のつたない経験上ではありますが、

 

やはり、

姿勢は、音楽を演奏する上で、

大きく影響します。

 

正中線を保つ意識を持つことで、

 

からだの動きの精度、

動きの効率のよさ、

再現性、

客観的な身体の動きの観察

 

などが改善していきます。

 

当然音楽も変わります。

 

 

 

また、

姿勢によって、

内的世界から受け取れる情報の質が変わります。

 

東洋的には、大局が見えるという言い方になりますね。

 

脳を筆頭に、

身体は内的世界の情報の受信装置です。

 

正中線を意識した姿勢により、

最大限の内的情報が受信できます。

 

私個人の感覚としては、

正中線を維持しつづけることで、

より自己肯定感や幸せな感覚がアップし、

その状態で得られた感覚やイメージを大切にする感じです。

 

正中線の維持による、

効率的なからだの動きと、

内面への気づきを得ることは、

 

今からでもすぐ出来て、

お金持も一切かからなくて、

本当にお「得」であり、

演奏の「徳」にも繋がって行きます。

 

ぜひ、おすすめです。

 

それでは。