ようこそ、ひでちぇろブログへ!

 

今回は、「ビブラート」についてです。

 

 

以前、理系的な視点で「ビブラート」について

書いた記事のリンクです。ご興味があればぜひ。

ビブラートと流体力学の相似性

 

 

まずは、

ビブラートの起源について少し調べてみました。

 

西洋音楽では、

ルネサンスからバロック辺りで

かけ始めた模様です。

 

それ以前はどうなのか、

まったくビブラートは無かったのか、

というのは良く分からない様です。

 

一方、東洋では、

ビブラートを良くかけている

印象のある楽器を見てみます。

 

まず中国の二胡。

 

原形は紀元前のインドの辺りで、

シルクロードを通じて中国へ来たのが西暦600年頃です。

しかし、

ビブラートについては情報無しです。

 

次に日本の尺八。

 

西暦600年頃に中国で発祥し、

鎌倉時代くらいに日本に来て、

現在は日本でもメジャーな楽器の一つです。

 

しかし、

これらもいつごろからビブラートを

かける様になったかは不明です。

 

 

結局、ビブラートは、

楽器や楽譜や文献の形で残りにくいのでしょうね。

 

 

 

そもそも、なぜビブラートをかける様になったのか。

 

自然にかかり始めたのかもしれませんが、

なぜ音程を上下させる必要があるのか。

理由は明確ではありません。

 

 

起源もよくわからないし、

なぜかけているかもイマイチ判然としないけれど、

確かに掛ける方が美しく聴こえるという、

みんなやっているけど

不思議な技術なのが「ビブラート」です。

 

 

 

ここで、

改めてビブラートについての

自分の感覚を思い返してみます。

 

個人的には

自然現象と相似性のあるビブラートを

美しいと感じます。

 

前のブログ記事にも書きましたが、

流れの中にできる渦には周期性があり、

 

自然の平衡と変化を求める性質の

バランスによって、

流れの始まりから少し遅れて発生する渦の現象がありますが、

 

これと同じ様に、

最初のごく短時間はビブラート無しで、

その後自然に増幅するビブラートを

きれいだなと思います。

 

 

そして、流れの速度に応じて

渦の周期も早まったり遅くなったりするように、

 

感情が高ぶりで早くなり、穏やかな時にはゆっくりになる様な、

自然な感じが良いと感じます。

 

 

これも私個人の感覚ですが、

 

このビブラートは

何に向かって演奏するのか、

で変わってくると考えます。

 

神とか宇宙に向けて演奏しようとすると、

ほとんどかけられなくなる感じがします。

 

教会文化の影響を引きずっていた

バロック音楽までは、

ビブラートは俗な感情の現れとして、

避けられただろうなと想像できます。

 

その後、大衆が文化の主導権を取り戻してから、

人に向かって音楽するようになって、

音楽が、

人間の感情にフォーカスするようになりました。

 

人間の心は、

何かを認識した時には

無感情のままではいられないので、

常に感情が発生しています。

なので、

ほぼ常にビブラートかけるようになったと思われます。

 

神から人へと

音楽のベクトルが向いた近代以降、

ビブラートを

かけることが主流になったものと思われます。

 

 

そして、

ふと昔の神に向かっていたころも

良かったと思い出し、

自発的にノンビブラートで弾きはじめたのが

ピリオド奏法という感じでしょうか。

 

 

 

2017年頃、神奈川音楽堂で、

鈴木優人さん指揮、神奈川フィル演奏の、

ハイドンの交響曲を聴きました。

 

一つの曲の中で

ビブラートを使ってメロディーを際立たせたり、

ノンビブラートで神聖なハーモニーを表現したりと、

 

曲想に合わせてビブラートの有無を使い分けることで、

聖と俗を縦横無尽に行き来しているのを聴いて、

目から(耳から?)うろこが落ちる思いでした。

 

まさに、

現代のクラシック音楽の進化を感じました。

 

現代は、ビブラートをかけるか、かけないか、

 

神に向かうか人に向かうかを、

 

演奏者が選択する時代なのですね。

 

ビブラートの意味、位置づけを自分のなかで、

常にアップデートしながら

演奏に臨んでいきたいと思う今日このごろです。

 

それでは。