ようこそ、ひでちぇろブログへ!!

 

今回は、アマオケにおける「人間関係」についてです。

 

 

 

当たり前ですが、

アマオケにしろ、会社や学校にしろ、

合う人、合わない人、色々な人がいます。

 

しかし、

アマオケに限って言えば、

音楽つながりで人脈がどんどん拡がっていき、

世界が拡がっていきます。

 

なので、人間関係を積極的に楽しみましょう!

 

という話です。

 

 

 

まず、アマチュアオケは、

お給料をもらう会社の仕事とは異なります。

給料の査定とか昇格とかいうような、

生殺与奪を握っている上司みたいなものは、

厳密にはいません。

給料をもらっている訳ではないので。

 

また、

学校の様に、

行かないと卒業できないとか、

 

親子の様に、

養ってもらっているとかはありません。

 

世の中の人間関係は縦の繋がりがメインですが、

音楽は横の繋がりなわけです。

(私は、指揮者も横の繋がりと思っています)

 

なので、

利害があまりなく、

音楽だけで横つながりであり、

穏やかな関係性で心地良く、

楽しみやすいわけです。

 

ただし中には、

おれは団長で偉いんだとか、

俺様の演奏が一番正しいんだ的な、

マウントを取りたがる人も一定数います。

 

しかし、

アマオケは皆でお金を出しあって運営しているのであって、

偉そうにしている人は、

単に勘違いしているだけに過ぎません。

 

会社の仕事でも、

社内のお金の流れが責任の流れになるはずのところで、

だいたい変なプライドでおかしな動きをする人がいますが、

同じことです。

 

という感じで、

私から見て、

考え方の合う人とそうでない人はいて、

それはどこの集団でもまったく同じです。

 

ただ、誤解があるといけませんが、

ユル~い人だけの集まりが望ましいと言っているのではありません。

 

音楽で繋がっているという言葉を言い換えると、

 

色々なオケのお仕事や、

日々の自分での練習や、

スコアの勉強とかを、

 

一緒に頑張って、

 

最終的に演奏会でお客さんといい音楽を共有しよう。

 

そういう、

音楽表現に対するモチベーションで繋がっている関係が楽しい、

 

ということです。

 

そうして、大きい花火を打ち上げる感じで演奏会を終え、

みんなでおいしいお酒を飲むというサイクルが心地よい訳です。

 

そして、

それが終わったらみんな、

いつもの役割に戻っていくんですね。

 

 

 

こう書くと、

何か単なるお祭り集団という感じがしますが、

(そういう一面も多々ありますが)

 

それだけではありません。

 

大きいホールの舞台の上で、

「音楽」で一つになった仲間達なんです。

 

 

 

 

神秘学者のルドルフ・シュタイナーに言わせると、

芸術の中で、

(キリスト教的な)神の意志を直接的に感じられるのは、

「音楽」だけ、

という主旨のことを書いています。

 

 

 

なので、

無意識下で神にもつながる様な深い経験を共にした、

貴重な仲間たちが、

アマオケ仲間な訳です。

(ちょっと宗教的ですが)

 

 

 

「音楽」を通じて、

 

人脈がつながり、

 

世界が拡がり、

 

そして深まる。

 

 

 

アマオケの世界は、やっぱり最高です!

 

 

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ!!

 

今回は、

アマオケにおける、

「大きい音」についてです。

 

大きい音は、

普段はとっておくもので、

しょっちゅう出すものでは無い。

 

という話です。

 

 

 

音楽で出す音にはいろいろな性質があります。

 

音のいろいろな性質は、

常に反対の性質のものと表裏一体です。

 

高い、低い、

強い、弱い、

大きい、小さい

きれい、きたない

鋭い、柔らかい

 

という感じです。

 

いろんなベクトルについて、

相反する性質を行き来して表現するわけです。

 

自然界がそうで、

昼、夜とか、

熱い、寒いとか

雨季、乾季とか、

誕生と死とか、

 

相反する状態を

行き来しながら、

螺旋状に成長していきます。

 

この、螺旋状の成長こそ、

神が宇宙を創って、

みんなが存在する理由でもあります。

 

 

 

少し話が大きくなりましたが、

 

アマオケでは、

 

こういう音の性質に対して、

ストレス解消の為、

 

小さな自我の満足目的、

というか目立ちたいだけで、

 

一面的な強い音を出して、

場を支配したいという人が、

一定割合でいます。

 

なんとなく人生に満足できていないのを、

カラオケで大きい声で歌ってストレス解消するのと同じです。

 

強い音を出すのがが生き甲斐の人もいそうです。

 

 

 

某アマオケの演奏会を聴いた時の感想なのですが、

個々人は技術もあり、

迫力もあるんですが、

何かが物足りない感じがしました。

しかも聴いていて疲れます。

 

ちょっと考えてみると、

音が、強いのと弱いのをただ行き来していて、

一面的な感じがでした

(人のことは言えませんが)。

 

カロリーがっつりだけの食事みたいな感じです。

 

 

 

一方、自分が過去聴いた中でのオケの頂点は、

ウィーン国立歌劇場(メンバーはウィーンフィルと同じ)でのモーツアルト「魔笛」です。

(比べる対象が厳しいですね)

 

強い音というのはほぼなく、

ものすごく、イキイキしていて、

うるささは一切感じませんでした。

 

人を幸せにするような、

目の覚める様な魅力を持った音、

豊かな音でした。

 

こんな世界の頂点の音と同じ音を出すのは無理です。

 

ですが結局、

音楽は音の大きさではなく、

 

豊かな音、

 

魅力のある人を幸せにする音を、

 

追求した方が、

演奏側も聴く側も幸せになれるのではないでしょうか。

 

 

 

強い音、弱い音だけでは、

心はまだ貧しいままで、

豊かは届けられないのかなと思います。

 

ところで、

 

豊かとは、一体何か?

 

となると、

それこそが、言葉では表せない、

音楽の一番大事な部分なのかなと思います。

 

ただ、「神」とか「成長」とかに繋がる、

究極のもの、

ポジティブなものを、

感覚的に捉えたものが豊かさという感じです。

 

 

強い音や大きい音は、

音楽の場面のなかでも、

追いつめられたり、

混沌とした不幸な状態のなかで、

ほんのちょっと使うのが効果的と思います。

 

オーケストラにおいては、

豊かな響き(シンフォニー)を目指すのが、

幸せへの道です。

 

 

難易度は高いですが、

自分も頑張りたいと思います。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ。

 

今回は、アマチュアオーケストラにおける、

「指揮者の影響」についてです。

 

 

指揮者の影響はすごく大きい!という話です。

 

巷では、オーケストラの指揮者って、

そもそも音も出してないし、

ホントに必要なの?

 

という声を聞くことがあります。

 

しかし、

そんなことはなくて、

非常に重要で、

なくてはならない存在です。

というお話です。

 

 

 

世の中のアマオケにおいては、

初回練習にほとんど人が集まらず、

弦楽器の大半はほとんど弾けていないかエキストラという、

伸びしろが大きくて頑張っているオケも有ります。

 

こういうところだと、

指揮者はトレーナー化せざるを得ません。

 

しかし、トレーナーというのは、

トレイン(列車)の様に決まった線路の上を

走れる様になる為に存在するので、

これは指揮者とはまた違う仕事の領域です。

(もう少し上のレベルの話です)

 

 

 

ではなぜ、指揮者が大切か、

その理由について説明します。

 

まず、音楽の演奏には数学的な正確さが大切です。

音程とかリズムが大きく狂うと、

音楽として成り立ちません。

 

しかし、正確さだけでもまだ芸術としての音楽とは言えません。

JRのホームで発車前に鳴るやつみたいなもので、

芸術ではなく単なるメロディーです。

 

こういうのは、メトロノームやチューナーに合わせるとか、

コンピューターに入力して再生すれば良く、

指揮者はまったく不要です。

 

音楽には、

小説と同じく時間経過に伴うストーリーがあります。

さらに全体的に見ると、

多くのストーリーを集めたことで伝わる、

言葉にできないメッセージがあります。

 

例えば、ベートーベンの交響曲「運命」を、

30分くらいかけて聴いて、

その後に感じる「何か」がメッセージです。

 

このメッセージですが、

オーケストラにおいては、

演奏者の一人一人が違ったメッセージを持っています。

特にアマチュアでは理解の浅い者同士なので、

さらにみんながかけ離れたメッセージを持っていると思われます。

 

この状態で指揮者無しで演奏すると、

犬ぞりで言えば、

それぞれの犬が360度自由な方向に進もうとする感じになります。

 

どこにもたどり着かず、

メッセージどころではありません。

 

各メンバーの自己主張が相殺されて、

意味不明で非常につまらない演奏となること間違いなしです。

 

演奏者同士で話し合うやり方も不可能ではないでしょうが、

プロの弦楽四重奏団でも意見調整がすごく大変と聞くので、

あまり効率的とは言えません。

 

 

 

ここで指揮者の登場です。

 

一生懸命譜面を勉強して理解した一人の人間が、

一貫性を持ってストーリーをどう展開して、

メッセージを構築していくかあらかじめ設計して、

それをオケを使って表現する。

 

音楽で最も大切な一見目に見えない抽象的部分メッセージを

どうやって伝えるのか、

指揮者が一貫性を持って多くの演奏者を引っ張っていく訳です。

 

脳の部位で言えば、

人を人たらしめている大脳皮質のような存在、

会社でいえばまさに社長のようなものです。

 

犬ぞりなら、

犬に指令を出すそりに乗った人です。

 

この、指揮者の存在によって、

初めて皆のベクトルが合って、

オケの音が「音楽」になるという訳です。

 

 

 

ここで、演奏者目線ということで、

指揮者とオケに関する自分の経験について書きます。

 

若い20代の頃の私は、

メッセージ的な抽象的なものが

音楽になっているという認識がありませんでした。

 

感情をぶつけるのが表現だと勘違いしていました。

 

しかし、30歳前くらいから、

チェロのトップをやることが増え、

それではうまく行かなくなりました。

 

指揮者の振る棒に対して、

拍を点のタイミングだけで合わせようとしても、

ぜんぜん合わない訳です。

 

そうして分かってきたのが、

自分でメッセージを持って、

ストーリーを描けていないと、

説得力のある演奏ができないということです。

 

自分の中にストーリーがあると、

指揮者のメッセージが良く分かるようになります。

 

指揮者の棒が一番下に来たところを打点と言いますが、

みんな少し打点より遅れて音を出します。

 

これは、

指揮者から発信される、

ストーリーの様なより上位の情報を皆で受け取って、

そのあと皆で一斉に音にする過程で自然な事だと分かってきます。

 

目に見えないレベルの高い情報のやり取りが分かってくるのです。

 

そういうやり取りのなかで、

指揮者の重要性、大変さ、凄さが分かる様になってきて、

今に到っています。

 

で、

こういうフィールドでの情報のやり取りは、

臨床心理学とかカウンセリングの分野では、

無意識領域のコミュニケーションに当たると思われます。

 

人は言葉やしぐさ等に現れる意識上と、

表には表れない無意識下の領域の両方でコミュニケーションしており、

その両面に働きかけて人を治癒と成長に導く訳です。

 

これと同じく音楽において、

指揮者とオーケストラは、

音が鳴って耳で聞こえる領域(意識)と、

人同士の心がどこかで繋がっている深い領域(個人的無意識、集合的無意識)

でコミュニケーションしているわけです。

 

 

 

ということで、

アマチュアでもプロでも、

オーケストラでの指揮者の影響はものすごく大きい訳です。

 

意識、無意識両面でのコミュニケーションで、

メッセージを作り上げる為の導き手として。

 

 

 

以上です。

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ!

 

アマチュアオーケストラ活動についてのシリーズを始めます。

今回は始めなので、

「活動の意味」について書いていきます。

 

 

 

シンプルに考えると、

「活動の意味」は、

音楽を大人数で同時に演奏してみんなで楽しむこと、

となります。

 

当たり前ですよね。

 

もう少し考えてみると、

なんであれだけの種類の楽器で、

大きければ100人超、

合唱も付けば1000人交響曲というのがあるくらい、

規模も大きい演奏集団って、

人類史上あまり他に例がないのではないかと思います。

 

中国辺りではその昔、

最盛期には宮廷楽団が300人とか有ったようですが、

一般人向けで、

かつ合唱も含めればやはりオケが最大ではないでしょうか。

 

演奏時間で考えても、

一時間越えもざらです。

 

伝統でも、

今年はベートーベン生誕250年というくらいなので、

相当長期間続いてきた筋金入りです。

 

こういう特別なオーケストラの曲を、

自分で演奏して楽しむということが、

アマオケ活動です。

 

 

 

ところで、

オケはなぜ現代のように巨大化して来たんでしょうか。

 

音楽をより良いもの、

より高いものへと発展させてきた結果とは思いますが、

私は、キリスト教を裏に持ちつつ発展してきた、

科学技術の発展と似ていると思います。

 

どんどん良いもの、価値の有るものに進化させようと、

皆んなが努力してきて、

その研ぎ澄まされた結果の最先端が現在です。

 

その中身を理解しつつ、

最先端の結果を受け取りつつ、

数百人なり1000人超なりのお客さんと同じ時間、空間で、

音楽を共有するわけです

 

加えて、

音楽は神の愛を、

いつの間にか共有して同時に体験できるメディアです。

 

なので、

楽しくないはずがないと思います。

 

こういう、オーケストラでの演奏を、

収入が他にありつつ楽しみでできるのは、

条件的に恵まれたていることだと思いますし、

それができることに感謝しかありません。

 

こういう、

オーケストラの魅力を発見できた私自身の体験について、

紹介してみたいと思います。

 

その昔(10~20年くらい前?)、

オーケストラのある関東の大学対象で、

NHK主宰の音楽祭が毎年開催されていました。

 

当時の普通の大学ではできない規模の大きい曲を、

各大学からオーディションで選抜して人を集めて、

NHKホールで演奏し、

本番はNHKで全国放映されるという企画でした。

 

指揮者や各楽器のトレーナーは、

若手で実力派のプロが来てくれて、

練習もNHKのスタジオと、恵まれた環境でした。

 

このオーケストラで、

大学2、3、4年と3回弾いたんですが、

たくさん初心者が混じっている大学のオケとは別世界でした。

 

技術や練習がイマイチで弾けていない人が皆無だったので、

一人一人の音がしっかりとして美しく、

その音がさらにオケの一つの音になっていくのを初めて体感しました。

 

その音が、

指揮者の棒のもと、

作曲化の設計した大きい建築物のような世界を構築していくのを、

身体で体感できた訳です。

 

そして、

その中の一員であることに、強い幸福感を覚えました。

 

一人一人の演奏が、

巨大な音楽になっていくプロセスを感じることができた訳です。

 

本当にすばらしさかったですね。

 

これはだいぶ昔の体験ですが、

この時、隣にいた友人も、

やはり今でもチェロを弾いています。

 

同じく魅力にはまったんだなと思います。

 

オーケストラって、

人になん十年も楽器を続けさせる強い魅力があるんだなと思います。

 

 

 

 

というわけで、

やっている人には、当たり前のことですが、

西洋文明における芸術の一つの叡智の結晶とも言える、

オーケストラによる音楽、

 

ホントに素晴らしいです。

 

しかも、

アマチュアとして、

ある意味自由な立場で参加できるのは本当に最高です!

 

 

 

ただし、

たくさんの人間が集まってやることなので、

楽しい面もあれば大変な側面もあり。

それなりに雑用もあったり、

練習の時間が必要だったりと、

皆ができるわけではありません。

 

実際続けるには

いろんな苦労なんかがあります。

 

ということでまた次回以降、

そういう大変さも含めて書いていきます。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ!!

 

今日は、「新しい音楽の探求」ということについて考えてゆきます。

 

 

科学者とか哲学者というような種類の人達は、飽くなき探求心を持って、真理を追究していきます。

宗教家の方々もそうかもしれません。

これに対して音楽家はどうでしょうか。

 

今の時代であれば、現代音楽の不協和音の世界も、

そういうチャレンジングな想いから作られたのかと思われます。

 

また、バロック時代の演奏方法を蘇らせたピリオド奏法なども、こういった真理追求型かもしれません。

 

 

 

元来人は真理に近づきたいという欲求を持っているというのは、良く言われることです。

 

「神」、「真理」、プラトンの言う「イデア」に近づきたいという欲求です。

 

言い換えると、自分は神と分離している寂しい自我なので、一体感や永遠の幸福を求めて楽園を目指したいということです。

 

クラシック音楽もこの流れの中に含まれます。

 

そして物事の発展の過程は、弁証法的発展(正、反、合)とか、インドの三大神(創造、維持、破壊)という様な、3つの状態を繰り返す性質があります。

 

人類による「新しい音楽の探究」も、人類の発展等と相似で、こういう過程を経るものと考えられます。

 

これまでも、特に西洋音楽の世界では、新しい音楽の世界が切り開かれてきました。

 

クラシック音楽では、ルネサンスから近代まで、大航海時代の大陸発見の様に色々と新しい分野が開拓されてきました。

 

今の時点での最新の物は現代音楽ですが、これも既存のものを分解、破壊した結果と思われます。

 

思想でもポストモダン、科学でも量子力学と、同じくリンクしています。

 

そして、21世紀以降には、ポスト現代音楽?的な、正、反、合の「合」的な、統合的音楽が生まれるのではないかと、感じています。

 

その頃まで生きているかは分かりませんし、根拠はまったくないんですが、そういう歴史の半歩先を感じ取りながら生きていくのも楽しいものです。

 

 

と、話が大きくなったので、ここで自分のことを振り返ってみます。

 

自分は、一介のアマチュアチェロ奏者です。

減点法で上手さを競うだけなら、プロの方との一直線上の競争なので、存在価値がないことになってしまいます。

 

なので、自分だけの個性で、人のやらない、ワクワクすることできないかというベクトルに進むのが良いのかなと思っています。

 

例えば今考えているのは、大自然のど真ん中でコンサートとか、神社で感謝を捧げる演奏をするとか、完全に整備されたホールを出て、自然とか神域のような、キリスト教とは違った神(自然)の営みに近づくとかいう方向性です。

正、反、合の合に至るには、自然の力が必要という訳です。

 

自分の心がポジティブに反応しそうな方向性が、次の時代に繋がるヒントになるかもしれないので、アマチュアという自由の身でこそ楽しめることを考えていきたいです(考え中です)。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ!


音楽活動されているみなさん。


みなさんは今、どんな目的で活動をされているのでしょうか。


今回は、音楽活動の目的について、私が活動を始めたころから現在までの変遷を書いていきます。

ご参考になれば幸いです。




まず、活動を開始する前にクラシック音楽と出会ったのが、中学生の時でした。


中学一年の夏休みの宿題がビバルディ作曲「四季」を聴いて感想を書けというものでした。

元々文章は得意でなかったので、感想文が書けずに何度も聴いているうちに、突然曲の「良さが解る」ようになり、その後とりつかれた様に何度も何度も聴きました。


これが、クラシック音楽との出会いでした。




高校入学の頃には、既に音楽と言えばクラシックという感じになっていました。

しかも、自分で弾いてみたいという気持ちも高まっていたので、弦楽器が弾ける部活に入ってチェロを始めました。


この頃は、クラシック音楽を「自分でも演奏する」事が目的でした。



大学に入ってからは一気に世界が広がりました。

色々な大学で活動している人と出会い、プロの先生にレッスンについたりと、多くの人と出会い、刺激を受けて一気にチェロも上達しました。

新たな世界を体験しながら、「音楽で自己表現」していくのが楽しく、それが目的で活動していました。



そして、社会人になります。

今度は、仕事そのものと人間関係があまりに辛すぎて耐え難い状態になりました。

よって音楽に求めるものも一転して、救いを求める様になりました。

また、精神世界の本もたくさん乱読して、この分野の知識を大幅に増やしながら、なんとか生き延びました。


この時期の自分にとって、音楽は目的でしたというより、「生き延びる為の手段」でした。



その後、仕事の方もなんとか人並みに対応できる様になると、リーダー的な立場で音楽を楽しむことを覚えました。

所属していた2つのオーケストラの両方でチェロパートのリーダー(トップ)になり、オーケストラの中で自分でチェロパートの音を作り上げるのが楽しくなりました。

また、気の合う仲間もたくさんいて、チェロのトップをエンジョイしていました。


「仲間と一緒に共感しながら自己表現」する事を楽しむのが、この時期の音楽の目的でした。



チェロトップをエンジョイしている期間は長く続きました。

しかしその後、長崎に異動となって思うような活動ができなくなり(最近、横浜に帰って来ました)、母も亡くなりと環境の変化がありました。

また、年齢も五十を越え、少しあちらの世界に近づきました。


そして現在、既に最も好きな作曲家であるグスタフ・マーラーの亡くなった年齢を越えてしまいました。

やはり、巨匠たちの晩年と同年齢になってくると、彼らの感じていたであろう人生の感覚も少し分かる気がします。

衰えることで見えてくるものに、人として共感すら感じです。


生きる時間の貴重さ、ありがたさを感じること。


自然への共感。


自分が存在するという奇跡への感謝。


等の、生き死にレベルの実存的な感覚が、歳を経るごとに明確になっていく感覚があります。

身体の衰えに反比例するかのように。


クラシック音楽が、やっと身の丈に近いところにやって来た感じですね。


なので、最近の音楽活動の目的は、自分を表現するより、


作曲家との共感、


指揮者との共感、


一緒に演奏している人達との共感、


聴きにきたお客さんとの共感、


等、「共感の輪を拡げる行為」が心地好いと感じるようになってきました。


ある意味、やっとスタート地点に来た感じです。





歳を重ねるのもいいものです。


今後、音楽の目的がどう変わっていくのでしょうか。

また身体が衰えて、さらに心の面では色々見えるようになる気がします。

ちょっと、楽しみです。


健康を保って、できるだけ長く表現できる立場でいたいと思います。


それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ!

 

今回は、NHKの番組「奇跡の授業」での、バイオリン奏者、ダニエル・ゲーデさんによる「奇跡の授業」の回を見て感じるものがあったので、書いていきます。

 

 

ダニエル・ゲーデさんは、ドイツ生まれで、元ウィーンフィルのコンサートマスターの方です。今はウィーンフィルを辞めてバイオリンのソロ活動をされています。いつも笑顔を絶やさず、非常に魅力的な方です。

 

 

番組は、日本の小学校の弦楽合奏の部活に、ゲーデさんが一か月間来られて指導し、その後最後に発表会で成果を披露するというものでした。

 

授業での教え方で特徴的だったのが、普段しない身体の動きを使って体験させ、音楽の作り方に気付きを与えるところでした。

3拍子を教える為にダンスのステップをさせたり、酔ったふりをしてビブラートをさせたり、弓を浮かせて、音を出さずに口で歌わせたり等です。

身体の動きと心は繋がっていますから、子供達の演奏する音楽が目に見えて良くなっていくのが分かりました。

 

また、音楽は楽しまなければ。お客さんを感動させられないと説明しながら、ゲーデさん本人も本当に楽しそうに見本を見せていてので、さらに子供達の演奏に生命が宿って生き生きしていくのが、テレビ画面のこちら側にも伝わってきました。

 

ゲーデさんは、ネガティブなことは一切言わず、子供達が興味を持つ様に、説明の仕方に工夫を凝らしていました。また、見本を見せて→体感させて→気づきを与える、ということを徹底してやっていました。

 

ここで考えてみると、ゲーデさんが、最高峰のウィーンフィルでコンサートマスターをされていた方だということです。

選りすぐりの音楽エリート達を演奏者として率いていく立場であり、世界最高峰の集団の中で人を動かしていた訳です。

そういうゲーデさんが、楽しさと体感で子供たちを引っ張っていったということは、何かを創造していく集団においてはそれが最も効率的だというこということだと思われます。

 

一方、日本の芸能の世界では、千利休の頃から言われる「守・破・離」というのが有ります。「守」は型や師匠の模倣、「破」はその型を理解して自分なりにアレンジ、「離」は、自分の型が出来るという感じです。

しかし、これは教わる側の態度を段階別に整理して示したものであり、これだけでは効率的ではありません。

 

 

つまり、何が大切かというと、

 

まずは「心の明かりが灯る」こと。

 

そして、体験し、体感して、「身体で解る」こと。

 

です。

 

そこをを起点に教えるからこそ伝わるし、効率的に成長できるし、守破離というステップも踏めるのかと思われます。

 

もし、自分が人にものを教えるなら、相手の心に明かりを灯せる様な人間になるのが、一番効率的ということですね。

 

そのためには、自分が楽しめていなくてはなりません。

いつも、何かを楽しめている自分を目指したいなと思います。

 

では。

ようこそ、ひでちぇろブログへ。


今回は、お金と音楽とのつきあい方について、私の考えを書いていきます。



まずは、お金の性質について。


お金は、価値の交換を可能にし、人と人との間をめぐって、人を幸せにしていくツールです。


しかし、お金には発行者がいて、その人は働かずとも、他の人の働きで大きな価値を受け取れてしまいます。


また、お金をたくさん持っている人は、持っていない人からどんどん吸い上げることができ、格差が広がって行くという現象も起きます。


つまり、資本主義の巻き上げ構造で、受け取る側と奪われる側ができてしまいます。


たくさんの人を幸せにした、芸能人とかスポーツ選手などは、実力でお金を集めたので、こういう人達は幸せの循環の果実を受け取れる、ピラミッドの外にいることができます。


つまり、格差を拡げる作用と、幸せを循環させる作用の両方がお金にはあります。



次に、同じ角度から見た音楽の性質について。


音楽は、人が生まれる前の彼岸の情報(宗教的な愛)を共有し、幸せになることができるツールです。


しかし、現代では音楽が高度化し、商業化してしまっています。


一部の配信者側が一方的にコンテンツを握っていて、一般の人は受けとるだけというのに近い状態です。


パワーと情報が一部の人に片寄っていて、中世のキリスト教会の様な感じです。


一部の上流の人が豊かになれるのは、お金と同じ構造です。


また、才能と実力があって幸福の循環で豊かになれる人がいるのも、お金と同じです。



ある見方をすれば、お金でも音楽でも、


ピラミッドの上の方にいる搾取側の人たち、


縦の循環によって搾取される人たち、


実力で搾取を逃れている人たち、


の3種類の人達がいます。






これらの流れを、一般的な例で見てみます。


まずお金についての例です。


サラリーマンで働いていると、一時間あたり5000円稼いでも50000円稼いでも、給料は2~3000円レベルです。

額は違えど、儲けと給料が別なのは社長(オーナーではない)までみんな同じです。社長以下はピラミッドの下側です。


そして、余ったお金はすべて、株主、銀行等、元々お金のたくさんある、ピラミッドの上側の人が働かずに受けとります。昔の貴族とかと同じです。


ただし、何かで力をつけて、雇われ人でなくなれば、給料の半分くらいを持っていかれることもなく、儲けても収入が増えない状態を抜け出すことができます。



次に音楽についての例です。


有名なピアノ奏者が所属する音楽事務所があったとします。


音楽事務所側はその音楽を聴衆に配信して、代わりにお金を回収します。


聴衆は受け取った音楽を作るのにかかった分より余分にお金を払い、それを回収した音楽事務所が利益を得て、1サイクル終了です。


なお、有名なピアノ奏者は、それほど搾取されずに、幸福の循環で報酬を得ます。


流れはお金と似た感じで、上下関係のあるピラミッド構造と、そこから外れた人がいるところが共通しています。



こういう被害者的な視点で見ると、ピラミッドの上にいる人が良くない感じがします。


しかし、世の中の大半の人が、自分だけが楽をしたいと思っているとしたらどうでしょうか。ちょっと頭のいい誰かが、必ずそのポジションを取るでしょう。


つまり、まだこの状態が人類の現在の発展段階なのでしょう。

人類の成長過程の中で必然的に出て来たのが、今の資本主義とも言えます。


しかし、昔は富を取り合うの時には必ず殺し合いだったので、そのころよりは成長している様に思われます。


さて、この資本主義ピラミッド構造の中でどう生きていくか、次に続きます。



それでは

こんにちは、ひでちぇろです。

ようやく、長崎から横浜への引っ越しが落ち着いてきたので、昨日は早速コンサートに行ってきました。

一度生で聴いてみたかった、佐藤俊介さんと東響メンバーの演奏会でした。

佐藤俊介さんは、バイオリン弾きなので、ソロを弾いたり、弾き振りしたりでしたが、とにかく、国籍に関係なく、こんなに素晴らしい人がクラシック界に現れた事がうれしくなりました。

佐藤さんの音楽は、生命力に溢れて大胆、かつ繊細で、バイオリンの音色は、神がバイオリンを設計者したらまさにこんな音がしそうという感じの純粋な音がして、音が光っている感じでした。

モーツァルトやバッハみたいな神に近い世界の住人という感じですね。
音楽はどこに向かうべきか、彼の中では明確なのだと思います。
佐藤さんに牽引されてか、東響のメンバーも日本人にここまでできるのか、っていうくらい説得力のあるサウンドを奏でてくれました。

チェロでのヨーヨーマ、ビルスマ以来の衝撃でした。
佐藤さんはまだお若いので、これから何度も聴きに行きたいと思います。

それでは。


ようこそ、ひでちぇろブログへ!

 

最近、引っ越し準備の影響で投稿が滞っており、

ご無沙汰しています。

 

 

今回は、

 

何故「心の世界」と

「音楽の世界」を

結び付けて発信しているのか、

 

について書いていきます。

 

 

私は、

大学も仕事も理科系です。

 

その道に進んだのは、

高校生のときに、

物理に強い興味を覚えたのが、

始まりです。

 

物理法則の式を当てはめると、

物の動きなり、

温度なり、

電気なりのことが、

少しの法則から導き出される美しさから、

 

「真理」

 

を知りたい。

 

それを知れば、

なんでも分かるように

なるのではないかと

考えました。

 

 

その後、

大学を卒業して社会に出て、

プラントの設計という仕事に就きました。

 

そうすると、

真理とかは、

生活の役には立たず、

 

そもそも、

物理学は真理になんて到達しておらず、

真理なんて、

そこら辺に転がっている訳もない、

 

ということしがよく分かり、

 

仕事にもうまく適応できずに、

灰色の生活を送っていました。

 

かろうじて、

真理探究のつもりで、

カントとかフッサールあたりの哲学を

分からないながらに読んでいました。

 

 

そしてある時、

退行催眠と輪廻転生にの本に出会いました。

宗教と精神世界、

今で言う、スピリチュアルな世界です。

 

その後、河合隼雄さんの存在を知って

心理学にもはまり、

 

心の世界についての

何百冊かの本を乱読しました。

 

救いをそういう方面に求めたのでした。

 

 

その頃は、

音楽にも救いと生き甲斐を

求めていたので、

 

人生の苦しみから逃れる為に、

音楽にすがり付いていた感じでした。

 

今から思えば、

心に目を向けている様で、

自分の心ではなく、

外側になにか良いものがあって、

それが自分を救ってくれるのではないかと

考えている感じでした。

 

しかし、

自分がすくわれる為だけの音楽って、

独りよがりで、

魅力的ではないんですよね。

 

なので、音楽の演奏や、

仕事での人間関係を通じて、

自分が、自分の心の外の何かに

依存して、救いを求めようとしても

どこにもたどり着かないということが、

音楽を通じて

段々と分かって来ました。

 

何が分かってきたかというと、

 

結局自分の心に、

 

「楽園」

 

を築くことが、

大事なんですよね。

 

 

音楽にせよ、

生きていくことにせよ、

 

自分の心の中にある

 

「楽園」

 

を人と共有して、

幸せの輪を拡げ、

その事で自分も成長していくことが、

本来の道筋なのかなと、

 

現在では感じています。

 

そして、

楽園の共有による成長の手段として、

最も効率的なのが、

 

「音楽」

 

です。

 

なので、

 

音楽の勉強だけでなく、

自分が幸せでいる為の努力も

同じく必要なのだと考えます。

 

また、抽象的になってしまいました。

今回は以上です。

 

 

それでは。