ようこそ、ひでちぇろブログへ!
 
 
何回かに分けて、
心理学や宗教と、
クラシック音楽の相似性について
書いていきます。
 
1回目の今回は
「ユングの個性化」と「クラシック音楽」についてです。
 
 
カール・グスタフ・ユングは、
一時期フロイトの弟子でもあった、
スイス人の精神科医にして心理学者です。
 
深層心理に関する研究で有名です。
 
憧れのスイスに生まれ、
深層心理を極めた、
という、心理学界隈では
私にとって超あこがれの存在です!
 
で、
一時期師匠だったフロイトさんは、
すべての精神的な病の源を性欲の抑圧に求め、
自然科学的に説明をつけようとしました。
 
しかし、
ユングさんは性欲の抑圧だけに説明を求めるという、
狭い見識に我慢できず、
 
もっと幅広く、深い、
人類共通の意識にまで遡って、
人の心を捉えました。
 
また、自己実現という、
大人に成長した後の人の成長についても、
理論的に説明しました。
 
自己実現についてもう少し詳しく説明します。
 
心の領域を
・「意識」、「エゴ」(自我、ペルソナとシャドウ)
・「個人的無意識」(抑圧された心)
・「集合的無意識」(人類共通の心)
 
に分け、
 
このすべての領域の中心に
「セルフ」(自己)がある。
としました。
 
 
まず、大人になるとき、
色々な自分本来の心の特性を切り捨てて、
「エゴ」を作り、それを演じる様になります。
自分に嘘を付きつつ、社会のレールに乗って
まずは大人になった感じでしょうか。
 
しかし、
「エゴ」だけでは、満たされず、
切り捨てた、心の本来の特性はどこかに行ってしまわずに、
心の奥でくすぶり続けます。
 
会社と家の往復だけとか、
家事、育児だけの毎日とかで、
私の本当の幸福はどこに行ったのだろう、
という感じですかね。
 
そして、
元々あった「セルフ」として持っていた、
今は忘れられた抑圧していた特性を思い出す時が来ます。
それを認識して、否定せずに受け入れて、
うまく付き合っていけるようになるのが、
「個性化」の過程であり、
自己(セルフ)が実現された状態、
「自己実現」です。
 
図式として書くと、
 
自己の抑圧(成長期)
➡自我確立(大人)
➡個性化(中年)
➡自己実現(晩年)
 
という感じです。
 
 
ここで、
クラシック音楽で同じような
成長過程が無いかを
見ていきます。
 
 
まず、ソナタ形式。
ハイドン、モーツァルト以降の音楽に
よく用いられているやつです。
 
提示部(第1主題、第2主題(転調))
 
展開部
 
再現部(第1主題、第2主題調(転調しない))
 
という構成になっています。
 
提示部は、
第1主題で、確立された自我
第2主題で心の内側が示されます。
 
展開部では、
自我を確立する上で切り捨てた部分
によって生じる葛藤であり、
まさに個性化の過程です。
 
そして、再現部。
自己実現を成し遂げ、
外からの見た目である自我は同じですが、
心の内側はもう転調する必要がなく、
セルフの特性が受け入れられた状態です。
 
という風に、
個性化とソナタ形式に
相似性があるのが
分かります。
 
ソナタ形式は、
楽章単位の形式ですが、
 
曲全体でも同じような相似性が
見られます。
 
例えば、ブラームス交響曲第1番。
 
1楽章は抑圧された自我、
 
2、3楽章でいろいろあって個性化、
 
4で個性化が終わって、自己実現。
 
という感じです。
 
 
複数の曲で言えば、
バッハの無伴奏チェロ組曲。
 
1番が幼児期
 
2番が抑圧されながら成長
 
3番が自我の確立
 
4、5番が紆余曲折で個性化
 
6番が自己実現
 
と、6曲で人生の成長物語の様です。
 
こんな感じで、
クラシック音楽では、
いろんなレベルで、
個性化の過程が示されています。
 
クラシック音楽の構造と、
ユングの個性化に似たストーリーがみられることから、
 
人は、
「人間の成長物語に共感し感動する。」
 
ということと、
 
「音楽での美、共感、感動を深く求めるほど、個性化の様な人間の成長物語と同じ性質を持つようになる。」
 
ということが分かります。
 
このシリーズまた投稿します。
 
それでは

こんにちは、ひでちぇろです。

(2018年2月14日記事の再掲です)

 

昨日の続きで音程や音律のお話です。

                                                                                        

まず、折衷案的音律から。

 

折衷案的音律は「平均律」と呼ばれています。

 

これは、すべての半音を数学的に均等な感覚にしたものです。

 

ピアノはこの平均律で調整されています。

 

すべての長調と短調で、

和音も旋律もそれほど破綻がないので、

鍵盤楽器の調律によく採用されているのだと思われます。

 

しかし、

旋律の美しさは旋律的音律(ピタゴラス音律)にかなわず、

和音の美しさでは和声的音律(純正律)にかなわないので、

オールラウンダーだけれども中途半端でもある音律です。

ですので、折衷案的なのです。

 

演奏中に音程の変えられない鍵盤楽器には向いていますが、

 

音程を変化させることのできる、

弦楽器や管楽器は、

状況に応じてより有利な音律を

積極的に選択していくべきだと思います。

 

また、弦楽器においては、

平均律の音程と解放弦は共鳴し合わないので、

平均律で弾くのは簡単ではありません。(向いていません)

 

したがって、

ピアノと合わせる時と半音階進行以外は、

平均律は意識しないでよいかと思われます。

 

次回は、旋律的音律(ピタゴラス音律)について説明します。

 

それでは。

こんにちは、ひでちぇろです。

(2018年2月13日記事の再掲です)

 

寒い日が続きますが、皆様お元気ですか。

 

今日から何回かに分けて、

弦楽器の音程について書いていきます。

 

昔から、アマチュアオーケストラで弾いていて、

指揮者を含むいろんな人が、

その音程は低い、高いなどと言っているのを聴くたび、

 

それって、どういう基準で言ってるのかな?

と、いつも疑問に思っていました。

 

また、オーケストラの中で弾くときに、

一人で弾く時の音程と、

響きが廻りと調和する音程が異なり、

その場ごとに場当たり的に

音程を調整することも多く、

 

正しい音程って

一体何だろう??

とずっと感じてきました。

 

アマチュアの弦楽器奏者では、

そういう方が多いのではないかと思います。

 

私は、ある時点で、

この状態ではいつまでたっても

音程が悪いままで我慢が出来ないし、

成長もないなと思いました。

 

そこで、

自分なりにインターネットや書物を色々調べ、

正しい音程について、

ある程度納得できる様になりました。

 

正しい音程について、結論を先に言ってしまうと、

「ただ一つの正しい音程というのは存在しない」

ということです。

 

これだと、少々乱暴すぎるので、

もう少し説明します。

 

音程というのは、

音律によって決められます。

音律とは、「ドレミファソラシド」の

音の高さを決めているルールの様なものです。

 

この音律には複数のものがあるのです。

 

代表的なもので以下の3つがあります。

 

・旋律的な音律(ピタゴラス音律)

・和声的な音律(純正律)

・折衷案的な音律(平均律)

 

です。

 

音程とは、

正しい音程というのがあるのでは無く、

この中からどれを選ぶのかという、

またはどれに近い音程にするのかという、

選択の問題なのです。

 

それぞれの音律と選択について、

次回以降に説明します。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ。

 

今回は、

心に足りないものを満たすということと、

音楽についてです。

 

心に何か足りないといっても、

色々ありますよね。

 

満たされない食欲

お金

異性

服、車、家等のモノ

ふるさと帰りたい(土地)

仕事での充実感

なんとなく物足りない

 

等々

 

足りないものはたくさんあって、

それを満たすニーズは大きいです。

 

 

音楽では、

 

ポップス、ロック、演歌など、

分かりやすいものほど、

この足りないものに対して、

より、具体的に対応して作られています。

 

そして、

みんな足りないんだ、

自分だけじゃないんだ、

今の自分でオッケーなんだ、

と、自己肯定感を上げてくれます。

 

 

そもそも、

 

何故足りなくなるんでしょうか。

 

仏教では、「眼・耳・鼻・舌・身・意」

(げん・に・び・ぜつ・しん・い)

という六根から欲が生まれ、

無知だから欲求(現にビ絶真意)に囚われる。

とのことです。

 

そして、知恵を得て欲求から自由になれば、

輪廻転生して苦しむことが無くなるよって話です。

 

心理学では、

 

マズロー先生によると、

欲求には

「生理的欲求」

「安全への欲求」

「社会的欲求」

「自我欲求」

「自己実現欲求」

と、

低次元から高次元までの、

5つの階層があり、

 

一つ満たされると一つ上を満たしたくなる。

ということです。

 

 

他にも、哲学とか脳科学とか、

色々説明はあれど、

どれもすぐ解決する話ではないです。

 

これらを満足したら、

悟りを開いて、輪廻から解脱しちゃいそうです。

 

解脱したら音楽要らなそうですね。。。

 

 

今のこの不足感をどうするかという話に戻ります。

 

西洋音楽は構造的に、

 

不安にさせた後、

安心させて心が満たされた感じ

になる様にできています。

 

緊張と弛緩ですね。

クラシック含めてみんなそうです。

 

人間の心にある不足感は、

ブッダレベルの悟りに至るまでずっとあるのでしょう。

 

少しでも無知とか、レベルの下の欲求が残っていれば、

不足を感知してしまいます。

 

それに呼応して、

不足が深かったらその分だけ、

音楽の緊張と弛緩の落差も深いものを求めるのでしょう。

 

ここで、話があちこちですみませんが、

クラシック音楽では、純粋音楽の美っていう考えがあります。

 

ブラームスの時代の

ハンスリックという人の音楽美論とか、

感情表現の媒体ではなく、

純粋、絶対な音楽が最上という思想です。

 

真理イコール音楽とか、

美イコール音楽とか、

みたいな感じですが、

 

真理とか、美ってそんなに間口が狭いのか?

人間が不足を感じて何かを求めるのは、

美じゃないのか?

と、ちょっと違和感を感じます。

 

神のような俯瞰的な視点から見れば、

強く成長しようとして、

もがきながら、求める姿こそ美ではないかというのが、

私の感覚です。

 

そもそも、この世に生を受けて存在している意味は、

不完全な状態から成長する喜びを体験するためだと考えます。

 

魂の存在意義を思い出させる為に、

緊張から成長してゴールに着いて弛緩する、

 

っていう感覚を思い起こさせるからこそ、

音楽の存在意義もあるのではないでしょうか。

 

ということで、

 

「足りないものを求める姿こを美しい。それこそが音楽。」

 

 

という結論になりました。

 

それでは。

 

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こんにちは、ひでちぇろです。

(2018年3月7日記事の再掲です)

 

今日は、ここまで書いた「共感」と、

「音楽」の関係について書いていきます。

 

結論的に書くと、

「音楽」は「共感」の為の

ツール、媒介であると考えています。

 

例えば通常のクラシックオーケストラの

演奏会では、

・作曲者

・指揮者

・演奏者(オーケストラ等)

・聴き手

のそれぞれが「共感」する場が演奏会であり、

 

その「共感」の為のツール(媒介する)のが、

「音楽」です。

 

では、なぜそれが「音楽」なのか?

言葉だって、映像だっていいじゃんないか?

という疑問が当然生じます。

 

この点が最も大事なのですが、

なぜ「音楽」かという理由、

 

それは「音楽」の持つ、

高い「抽象度」

 

です。

 

例えば「愛」という言葉、

 

言葉だと、これ以上も表現できませんよね。

 

しかし、「音楽」であれば、

深淵なものから身近なもの、

深いものもから浅いものまで、

1時間でも2時間でも

縦横無尽な抽象度と

無限の多様性で語ることが出来ます。

 

例えば、モーツァルトのオペラは、

ストーリーはおおよそ貴族がとっちめられて、

痛快だった、っていう話ですが、

 

付随する音楽は、

まったく異なる高いレベルにあり、

まさに「愛」を無限のバリエーションで

語ったものだと感じます。

 

つまり、

音楽によって表現できる、

個人の感覚から神の愛まで連続する、

高い抽象度の情報である「音楽」によってこそ、

 

人と人(人類)の間に「共感」を創造できる

のだと思います。

 

「音楽」がホールの中の人間を

「共感」によって一つにできる

ということは、

 

「人類」を一つにできる可能性、

「集合的無意識」や「阿頼耶識」

レベルでの「共感」を創造できる可能性が

あると感じます。

 

クラシック音楽は、

現代音楽っていう、

相当実験的でマニアックで、

シュールなものをよしとする

領域にあると感じますが、

 

逆に、今こそ、

全人類を惹きつける、

 

「共感」によって全人類を惹きつけられる、

より普遍的な音楽という視点を

そろそろ持っても良いのではないかと思います。

(多様性という面も大切ですが)

 

もちろん、

宗教の様に他のジャンルと喧嘩せずに。

 

25年くらい前に、

御茶ノ水のホールで、

ロストロポーヴィチのマスタークラス(公開授業)を

聴いたのですが、

 

彼は最後に、

「音楽は演奏者の感動と聴衆をつなぐ心の架け橋であると、

私は信じています」

と言っていました。

 

いまでも忘れられない言葉ですし、

今でも心の支えです。

 

今日はここまでです。

それでは。

 

 

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こんにちは、ひでちぇろです。

(2018年3月6日に書いた記事の再掲です。)

 

「共感」の続きです。

 

「共感」によって、

物理空間を通さずに

人の気持ちが伝わってくる

 

ということは、

 

人の心は皆つながって、

一つと言える訳です。

 

これは、

ユングの「集合的無意識」とか、

唯識(仏教)の「阿頼耶識」の様な

レベルのものかと思います。

 

要するに、人類全体の心は

みんなつながって一つということですね。

 

インターネットに接続しているような、

感じだと分かりやすいと思います。

 

もっと上のレベルを考えると、

 

人類の集合意識

地球上の生命(の集合意識)

地球(の意識)

太陽系(の意識)

銀河系(の意識)

銀河団(の意識)

宇宙全体(の意識)=神

 

とつながっていくのかな、

と感じています。

 

という感じで、

「物理空間」の「宇宙」と対応した

「精神空間」とか「情報空間」の「宇宙」

と呼べるものがあり、

 

「精神空間」はインターネットの様に、

「宇宙」の中で一つにつながっているのだ、

 

と考えると、

説明がつきやすいと考えます。

 

ここで、

では、なぜ一つの精神がわざわざ、

無数の「自己」に分かれなければ

ならなかったのでしょうか。

 

今までここに書いてきたことの

まとめの様になりますが、

 

それは、成長がしたかったからではないかと

思います。

 

まず、「全体」から「自己」に分かれて

孤独と苦痛を経験し、

 

苦痛からの学びによって「成長」し、

 

「成長」によって「感謝」を覚え

 

「感謝」のエネルギを使って「共感」し、

 

「共感」によって「自己」の枠を広げ、

 

枠をどんどん広げて、「自己」は最後に「全体」=「宇宙」=「神」

と溶け合う

 

という、

 

まるで大気中の水が雲になって雨となり、

川となって海に出て、また大気を湿らせ、

という循環の様に、

 

「自己」も旅をしているのかなと想像します。

 

「輪廻転生」はその中で何度も経験する

小さな成長のワンサイクルで、

 

「自己」を完成する

長大な旅の途中にみんながいるのかと思います。

 

「共感」は以上です。

 

「チェロ」がほどんど出てこなくなりましたが、

 

かの偉大なチェリスト、

ポール・トゥルトゥリエ先生も、

「音楽家は思想家であるべきだ。」

とおっしゃっています。

 

音楽を考える時に世界観は非常に大切だと思い、

自分の考えを書きました。

 

それでは、また。

 

 

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こんにちは、ひでちぇろです。

(2019年3月5日分記事の再掲です)

 

昨日は、主に演奏での「共感」の話を書きました。

 

今日は、

特定の相手の視線そのものをイメージすると、

その人の生きている感覚みたいな情報が入ってくる、

「共感」の続きです。

 

音楽以外の日常生活でも

変化がありました。

(外見の変化はなかったと思います)

 

道を歩いていてすれ違う人の視点に

立ってみる遊びを

よくやる様になりました。

 

そうすると、具体的な(左脳的な)

思考内容は全くわからないんですが、

身体を持って生きている実感みたいなものが

伝わってきます。

 

そして、外からは分からないけど、

みんな結構生きるのに必死なんだな~、

というのが解る様になってきました。

 

例えばきれいな異性の人でも、

「共感」をしているときは、

そのきれいと思っている気持ちは

消えてしまいます。

 

そして、誰しも自分と同じく一生懸命生きている

一人の人間なんだな、

と当たり前のことを実感させられます。

 

そして、「共感」するということは、

繋がっているということで、

その繋がっているベースは何かなと、

思う様になりました。

 

ベースは何かとを考えるうち、

 

生きとし生けるものはみんな、

「つながってる」んだな。

 

その「つながってる」一部分を表現してるのが

「自分」なんだな

 

という感覚に至る様になりました。

 

そしてその頃から、

世界が広がって、

奥深くなってきた様に感じられる様に

なりました。

 

また、いろいろな人生き物、物が、

愛おしく感じられる様になりました。

 

今までは、

狭い世界に住んでいたなと感じられる様に

なりました。

 

もちろん、

弱い一人の人間である、

自分が毎日生き延びていく努力は

止められないことなのですが、

 

「共感」をきっかけとして、

大幅に人生の幸福度がアップしたと

感じます。

 

続きはまた明日。

それでは。

こんにちは、ひでちぇろです。

(2018年3月4日に書いた記事の再掲です。)

 

「共感」のつづきです。

 

コントラバスの首席に意識をフォーカスしたら、

首席奏者の感覚が自分に伝わって来たわけです。

 

しかも、ただ感覚が有っただけでなく、

その演奏会の練習段階から本番まで、

類似の箇所で何度も同じことが出来てしまいした。

 

つまり、ピッチカートのタイミングを

ぴったり合わせることが、

偶然ではなく、再現性を持って可能

だったということです。

 

ピッチカートは音が瞬時に減衰するので、

演奏する側からすると

0.1秒ずれても相当ずれた感じがしますので、

おそらく1/100秒の範囲で合っていたと思われます。

 

後でコントラバスの首席に確認しましたが、

チェロのことは全く眼中になかった様なので、

やはりこれは「偶然」ではなく、「共感」だなと

思われました。

 

「共感」を発見した瞬間でした!

 

その後、この感覚をまずは引き続き

音楽の演奏で

使ってみる様になりました。

 

この「共感」、メカニズムが解らないので、

どこまで正確かは判りませんが、

 

音楽でリズムやニュアンスが合わない時に、

ワラをもすがる思いになるので、

とにかくもっと使ってみようと思った訳です。

 

そして使ってみた訳ですが、

 

例えばフルート奏者の吹くきれいなフレーズ

があったとして、

 

そのフルート奏者の視点をイメージすると、

いつフレーズを始めたいかとか、

フレーズの頂点はここでとか、

 

が、音だけでなく、体感的に「共感」できる様になり、

音を合わせてあげるのが、

昔よりすごく楽になりました。

 

半分、自分の演奏に自分で合わせる感覚です。

 

ちなみに、相手が人間関係的に元々共感できる個人だと、

「共感」しやすいんですが、

そうでない一部の人に対しては、

「共感」しずらいというのはちょっとあります。

 

また、バイオリンパート全体の集合的意思とか、

指揮者を含めたオーケストラ全体とか、

演奏会での千人規模のお客さん、演奏者の全体とか、

 

人数が多くなると、

ディテールはぼやけますが、

何らかの全体の意思の塊とか束のようなものが、

感じられる、つまり「共感」できる様に

なって来ました。

 

今日はここまでです。

それではまた明日。

 

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こんにちは、ひでちぇろブログです。

 

みなさん、スランプに陥ったりしていませんか?

仕事、人間関係、趣味等いろいろな生活場面で。

 

 

スランプとは、

 

何をやっても成長できず、

停滞した状態が長く続き、

疲弊してパフォーマンスが低下してしまう

状態のことでしょうか。

 

 

ここで、

スランプのメカニズムを説明してみます。

 

「おちょこの法則」といいます。

(尊敬している、ネットビジネスで成功された方のお話からです)

 

「おちょこ」が能力の器で、

努力が「水」とします。

 

超初心者の時は、

おちょこに水を入れると、

おちょこがいっぱいになり

(=スキルが身についてできる様になり)

 

すぐに努力が成長として現れます。

 

「おちょこ」がいっぱいになると

次は容器が大きくなり、「コップ」です。

 

これもクリアすると、

だんだん器が大きくなり、

 

たらい

風呂桶

プール

 

と、どんどん器が大きくなっていきます。

 

 

そうすると、

多少の努力では器がいっぱいにならないので、

成長が表に現れず、

停滞期が続き、疲弊してしまう。

 

それでスランプになるという訳です。

 

そもそも、

努力した分すぐ成長するわけではなく、

階段状に成長するわけです。

 

運動でもなんでも、

技能を習得したことのある方なら、

感覚的にお分かりかと思います。

 

 

 

音楽の演奏でも。

 

練習してもうまくできるようにならない。

疲れて、パフォーマンスが低下

というのは良くあることですね。

 

「おちょこの法則」ですね。

 

 

演奏技術的にこの現象を考えてみると、

 

テクニックは、

正しい動作を繰り返すことで、

その動作が少しずつ自動化され、無意識化されます。

さらに、無意識化した動作同士が連携が取れる様になる。

すなわち、点と点が打たれて、

それが繋がって線になり、

線が繋がって面になりして、

一つの技術が出来上がっていきます。

 

このときの成長は、

無意識下で少しづつ行われ、

 

一つの新しいゲシュタルトが生まれた時に、

上達が意識されるのでしょう。

 

無意識下で自動プログラムが出来ていくのを促進する為に

練習する感じです。

 

と、

ここまでは、

上達しなかったら堪えろという話です。

 

精神的にはきついです。

 

その際の対策ですが、

若干表面的ながら、

 

「好きなことに集中」して乗り切るしかないと思います。

ここでは、「好きなこと」は「好きな練習」を示します。

 

 

好きなことであり、

長所である部分に引っ張ってもらうのです。

 

好きなことをやると、

元気がでるし、モチベーションもアップして自信が維持しやすいです。

成長しなくても行動できます。

その行動と好きなことの上達に引っ張られて、

全体的にも上達が促進されます。

 

なので困ったときに、

好きなことできるように、

普段から好きなことに敏感に。

 

というのがおすすめです。

 

私は、こまったらバッハの無伴奏の演奏をします。

周りからは逃げているみたいですが、

違うのです。

 

これによって、スランプを抜ける時間が短縮できるのです。

あくまで私の経験上ですが。

 

ということで、

スランプを理解しつつ、

好きなことや得意なことも

試してみよう、というお話でした。

 

それでは。

 

 

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ようこそ、ひでちぇろブログへ!

つい最近車の中で、

山本裕康さん演奏、
バッハの無伴奏チェロ組曲一番の
冒頭プレリュードをを聴いていて、
ハッ、と気づいたことがありました。

聴き初めの最初の1、2小節で、
パーッと広々といた空間が広がるイメージが
心の中にできるんですね。

音楽で
心の中に空間のイメージができる。

ということに改めて気付きました。

その空間がどんどん広がったり、
明るくなったり、暗くなったり、
温かみが加わったりして、

曲が進むにつれて、
変化が追加されていきます。

そして、
曲が終わると
リアルだった空間が幻の様に
音の減衰と共に消えていきます。

空間でいうと
印象的な体験だったのが、

ロシア作曲者専門オケの
チェロのトップサイド席に私が座っていた時の話で、

ショスタコーヴィチの
バイオリン協奏曲のバイオリンソロの
初めのフレーズを、

元東フィル、コンマスの
荒井英治さんが弾いた時のことです。

寒々しくて荒涼とした大地のイメージが、
ありありと心に勝手に浮かんだんです。

こういうのってあまりないので、
驚きました。

そういう現象も
体験しことがあります。



この空間を感じる現象は
一体何なんでしょうか?

もしかして、
人間って、
空間的な広がりに、
心を強く動かされやすく出来ているのかもしれません。

元々、感情は生命体としての自動プログラムという面もあるので、

広々したところに出た時に感じる、
解放感とか、
幸せ感とか、
癒される感じとか、
場合によっては畏敬の念とか、

太古から
動物として持っている感覚
なのかもしれません。

例えば、
いつも大型の肉食獣から隠れながら
生活していたところから、
道具とか仲間を増やしたりして、
獲得した広い大地の解放感とか。
(他にもあるかもしれません)

だから、
心の深いところを刺激されると、
心の中に「広がり」を感じるのでしょう。

この空間を感じてもらうというのは、
相手の心の深いところに訴えることなので、
おそらく、単純に真似できることでは
ないと思います。

しかし、
もしかしたら自分にも
少しでも近づける可能性も
あるかもしれません。

その時を想いつつ、
これからも演奏を続けていこうと思います。

それでは。