天皇公家は主体的だった
明治維新については、一般に坂本竜馬などの「自由な個人」の活躍が変革の主導者であったかのようにもてはやされている。身分の低い者ががんばって封建制を倒したと。
どうしてもドラマ化されると人間像が劇画化され強調されるので、「志士個々人の躍動が国を変革した!」という歴史観念すら流布してしまう。
*『パークス伝』では下級武士が国を乗っ取るということに不快感すら述べられており、当時のイギリス人にとっては階級破壊のように映ったようだ。
パークス伝―日本駐在の日々 (東洋文庫 429)/F.V.ディキンズ
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どうしても坂本竜馬のような人物に注目が集まるため、天皇・公家が自ら朝廷復活へ向けて主体的に動いてきた歴史はほとんど知られていない。公家はいつも軟弱・日和見・無能よくても策士として描かれてきた。
それは『日本外史(頼山陽)』的な幼稚な史観であろう。責任が公家になすりつけられているだけだ。またこれも戦前の皇国史観の一種だ。
現実には、公家は激動の日本の変遷をしぶとく生き残り、朝廷を守り、かつ王権復興をしたたかに画策してきたのではないか。「日本を変えたのは坂本竜馬!」ではなく、公家集団の活躍ももっと一般的に流布してほしい。
復古への道
■国家という法人の消滅
律令国家では、天皇や皇族私領と国家領は区別され、経済的にあたかも「国家という法人」があった。鎌倉幕府などいろいろあるが、国家領が消滅するのは南北朝合一(1392年)が節目であろう。南北朝争乱による戦時課税は国家領を侵食していった。もはや皇室領と国家領(国衙領)の区別はあいまいになり、また足利将軍家に朝廷そのものが囲いこまれた。
こうして戦国時代になると、もはや天皇・朝廷は経済的に困窮し忘れ去られたという見方がある。
しかし、この苦境の時代が、朝廷をむしろ鍛え、「王政復古への道」を用意したともいえるのではないか?戦国時代はこうした依存・従属からの脱却を芽生えさせたといえる。
■公家の経済活動
戦乱の中で足利将軍が京都を放棄すると、朝廷は自活していかなくてはならなくなった。ある程度の所領をもっていた五摂家ですら、所領荒らしや運搬妨害で収入が激減していた。朝廷(皇室領)からの支給のみに頼っていた下級公家はかなりの貧困状態になる。
*14世紀(足利幕府)に3万石程度あった皇室収入(朝廷歳入)は、15世紀後半(戦国時代)には1/10にまで落ち込んだという
*近衛家の所領の7割は収納不能となったという
このため公家は近畿の被支配層へ急接近していく。これは大きな歴史的変化だ。支配層は被支配層とは断絶し潜在的に対立している「命令=服従」の関係だからだ。
すでに官職は世襲化しており、職能は「家職」として公家がそれぞれ保存していたが、これが近畿商工業へ接着しはじめる。これらは現在の家元などの伝統芸の原点であろう。
■官位叙任権
また足利将軍家に封じ込められた官位叙任権は、誰の制約も受けなくなり困窮する朝廷の収入減となった。
財力や武力をもつ民衆仏教の教団=一向宗が勢力をもつと、朝廷に献金して「勅願寺」の寺格を得た。こうして毛利家と本願寺は朝廷にとって重要なパトロンとなった。もちろん、多額の献金を獲得してきた公家は家柄が低くても朝廷で昇進できた。
朝廷は、直接支配という「権力」は失ったが、「権威」は制約なき官位叙任権によってむしろ高まったのである。
零落していた足利義栄が、将軍職就任を願ったとき、朝廷は謝礼金(進物)を「ビタ銭禁止・分割不可」という条件で貨幣で要求した。足利将軍の給付にすべてを頼っていた時代と異なり、朝廷もどっぷり貨幣経済の中にあったのだ。
*もっとも足利義栄は半分しか用立てられず将軍職をあきらめようとするが、朝廷はあわてて減額したという
■覇者と朝廷復権
織田信長が上洛したとき、朝廷は安堵したであろう。彼の父・信秀は小大名のくせに献金額が莫大だったから印象がよかった。信長は朝廷を活用して全国統一をなしとげる意図があり、朝廷の威信復活が必要だったので、まずは御所を修復し、公家の所領の安全を図った。信長は朝廷を苦境の際に何度も活用している。
・1563年:正親町天皇が信長へ上洛要請の密勅
・1566年:徳川家康が三河守に任官
・1567年:織田信長が尾張守に任官
・1568年:正親町天皇の命で織田信長が皇室領(尾張・美濃)回復
・1569年:織田信長が足利義昭を奉じて上洛(同年足利将軍宣下)
・1570年:正親町天皇が信長に副将軍就任薦めるが辞退
・1570年:織田信長が朝廷・将軍への参礼を諸大名に督促
・1570年:「信長包囲網」に対して正親町天皇の勅命で和睦
・1573年:足利義昭と正親町天皇の勅命で和睦
・1574年:織田信長が将軍追放・朝廷に改元要請(天正へ)
・1577年:織田信長が右大臣任官(武家では源実朝以来の任官)
・1579年:織田信長が二条新御所を誠仁親王に寄贈
・1581年:正親町天皇に京都御馬揃え
信長が武田を破ると、東国平定の功績という理屈もつけて将軍職・太政大臣職など最上級の官職を与えようとする。信長が願ったのか、朝廷が願ったのか、いまだに謎であり論争がある。
信長暗殺にも謎が多いが、これにかわった秀吉はさらに朝廷にとってよかった。秀吉には「天皇君主制」を復活させ、朝廷の律令秩序を活用して天下統一する意図があったからだ。秀吉の献金額は莫大で、しかも京都そのものを新都市として復活させてしまう。しかし、豊臣家をつくって五摂家にわりこみ、関白職を世襲する意図は五摂家には深刻な動揺を与えた。
・1586年7月:羽柴秀吉が近衛家猶子として関白宣下
・1586年9月:豊臣秀吉として太政大臣宣下
・1586年:後陽成天皇即位
・1586年:豊臣秀吉が八条宮智仁親王を猶子にする
・1588年:足利義昭が征夷大将軍を正式に辞任
・1588年:豊臣秀吉が後陽成天皇の聚楽第行幸を演出
・1590年:豊臣秀吉が「小田原の役」で天下統一
・1591年:豊臣秀次が関白宣下
■中立的調停者
本願寺教団は強力で、信長は10年攻撃したが陥落できなかった。ここで朝廷は調停者の役割を果たし、和平を策定した。本願寺は内部分裂によって武装勢力としては弱体化する。
こうした中立的調停者としての振る舞いは、朝廷の「権威」としての自覚を高めたであろうし、かつての一方的支配者や覇者に囲いこまれた名誉階級とも異なっている。
■朝廷と徳川との大きなギャップ
徳川家康は信長上洛前から朝廷との関係を深め、源氏の末裔という家系図も得た。家康が最終的な統一者になるのだが、彼には幕府300年の礎なんていう自信はなかったのではないか?彼にとっても朝廷は統一のための安全装置であった。
*『公家諸法度』における「天子・・御学問」の学問は和歌だけではなく、『群書治要』『貞観政要』等の中国の帝王統治学書であった。天皇君主制という建前は大事だった。
・1600年:上杉征伐に後陽成天皇から晒布下賜、東行途中から「関が原の合戦」へ
・1603年:徳川家康に征夷大将軍宣下
・1605年:徳川秀忠に征夷大将軍宣下(秀頼は上位の右大臣に就任)
・1611年:後陽成天皇の智仁親王(秀吉猶子)への譲位に反対し、後水尾天皇即位
・1614年:「大阪冬の陣」で朝廷の和睦斡旋拒否
・1615年:「大阪夏の陣」で豊臣家滅亡
ただ「権威」としての自信をつけてきた天皇・公家と徳川家の思惑にはギャップがあったのだ。
たしかに公家社会には戦国の「かぶき者」文化も横行し、統制のために幕府介入を必要としていた。だが、朝廷は足利時代への復帰以上のものを求めており、幕府による官位叙任権への制約や献金元である寺社との分断など権威への制約には大きな不快感をもって抵抗した。さらに幕吏による処罰は、足利時代よりも過酷な統制であった。徳川家は将軍血筋の天皇を生みだすべく、秀忠の娘を入内させる。だが、天皇自身(後水尾天皇)がこの動きに抵抗して成し遂げられなかった。朝廷は徳川への感謝で近世を開始したわけではなかったのだ。
・1620年:徳川和子が後水尾天皇に入内
・1623年:徳川家光が上洛し征夷大将軍宣下
・1626年:高仁親王(将軍家血筋)誕生(秀忠は天皇に譲位圧力をかける)
・1627年:「紫衣事件」(幕府法令に反する天皇の法衣勅許を無効化)
・1628年:高仁親王が死去
・1628年:若宮(将軍家血筋)誕生するが急逝
・1628年:後水尾天皇が譲位願い(さらなる男子誕生を願う秀忠は拒絶)
・1629年:家光乳母・春日局(お福)参内(天皇・公家の怒りをかう)
・1629年:後水尾天皇が譲位(緊急朝議で独断決行・幕府へ事後報告)
将軍家光は圧倒的力を誇示して親政を開始し、江戸を事実上の首都として幕藩体制を安定させる。朝廷はその後、1万石程度の経済力をもち続いていくのだが、将軍家との最初の摩擦は根強く残った。
後水尾上皇の子・後光明天皇は父の病気見舞いをしようとしたが、「幕府許可なし」ということで禁止され、「御所と院を廊下でつなげば行幸でない」「所司代にとって切腹ものなら、その切腹をみてみたい」と言ったともされる。後光明天皇はその後若死にした。深刻な事態だったのか、その後は天皇の行幸はなくなり、また武術が好きだった後光明天皇であったが、その後の近世天皇は剣術や馬術をすることはなくなった。
同じく後水尾法皇の子・零元天皇は、親幕派の上級公家を要職から遠ざけた。
天皇と下級公家による復古
徳川幕府による朝廷秩序は、かつての平安王朝の復活でなく、皇族よりも五摂家を上位に置く新しいものであった。天皇が傍系皇族から出るようになると、これは五摂家との潜在的対立となった。さらに関白は、律令体制では官僚最高会議である朝議に参加できなかったが、徳川幕府下では朝議の主宰者(朝廷=関白)となり、公家の訴追権を独占し、五摂家は清華家などを押しのけて公家社会の中で圧倒的な力をもった。
*後水尾天皇との対立により、『公家諸法度』を補完する秀忠覚書で五摂家独裁を強化する
*零元上皇は下御霊神社の願文で近衛家を呪った
また徳川幕府が文治化していく中で、朝廷でもさまざまな復古が盛んになる。また将軍による皇族・公家の新家増加や宮廷儀式再興などの支援は、公家増加をもたらしてかえって困窮も招き、幕府への給付拡大の声を強めることになった。これにとどまらず、下級武士(足軽クラス)と同様に朝廷の「地下家(じけけ)」は商人や農民との養子縁組などで被支配層と融合しつつあった。朝廷・公家はやはり被支配層と断絶しておらず、かつ封建制下において領地を直接支配してない特殊な存在であった。
・1654年:天皇の土葬復活(後光明天皇崩御)
・1687年:徳川綱吉の支援で大嘗祭復活(東山天皇・零元上皇)
*「地下家」は行事運営スタッフだが儀式再興などで2倍に増え世襲身分であった
■国学の浸透と王道政治
古典研究が進む中で、18世紀頃から高位でもない学者や神道家が朝廷に入りこんでいく。中世以来、神道界を牛耳ってきた神祇官次官相当の公家・吉田家は朝廷儀式から排除されるようになった。
・1748年:桃園天皇の大嘗祭で吉田流衰退
・1756年:徳大寺家・正親町家らの手引きで桃園天皇へ国学進講実現
・1759年:「宝暦事件」(幕府が桃園天皇の近習追放)
*岩倉家も処分された。
とりわけ山県大弐は、幕府を断罪して王道政治を主張、明確に尊皇思想を唱え、それが朝廷にも持ち込まれた。
山県大弐は「伝馬騒動」にも勇気づけられ変革を夢見たようだ。それは不作が続く中で群馬・長野・埼玉などの百姓が幕府からの負担増に反発し10万~30万という大集団となり、江戸へ行こうとした暴動であった。「天草四郎の乱」なみの危機であったが、幕府はただの百姓一揆程度に事件を隠蔽した。
・1764年:「伝馬騒動」
・1767年:「明和事件」山県大弐死罪・徳大寺家臣の竹内式部流罪
■覚醒していく朝廷:光格天皇以降
幕藩体制は文治統治が続くことで弛緩し、過酷な刑罰の脅しがあっても農民暴動が多発する時代になっていく。力による秩序の維持はだんだん効かなくなっていた。
また、「天明の大飢饉」が発生すると、近畿の庶民数万人が天皇を「生き神」として「御所千度参り」を行った。朝廷は私財一部を救済に放出し、幕府統治に異例の注文をつける。また傍系皇族(閑院宮家)出身の光格天皇は、天皇にならなかった父に「太上天皇」の位を与えようとして幕府と対立する(1791年「尊号一件事件」)。
*現在の天皇家はこの光格天皇以来の直系継承で続いている
一連の朝廷騒動で、幕府は関係者の処罰は行った。幕府は従来から「学者学問勝手たるべし」ということで、思想統一に関心はなく「騒がぬよう」という姿勢だった。文治政治のせいで、天皇君主制・大政委任という認識は広く共有されるようになっていっていた。天皇教育に国学が浸透し、朱子学的世界(現状肯定)と乖離していくことは止まなかった。
*「宝暦事件」以来、幕府は『日本書紀』を禁書にした
また典型的な左翼史観では、そもそも天皇に飾り物以上の価値を認めないので、近世の各天皇自身について重要視しない(また皇国史観では天皇家を研究することも不敬なので研究は進まない)。しかし歴代の天皇自身が、幕府への不快感をもちながら、次第に「天皇君主制」を自ら自覚して行動していったことは重要である。またこれを助けたのは羽林家などの低い家格の公家であったことも注目に値する。
殿上人(堂上)=「天皇の空間」に入れる身分のうち、上級は藤原氏末裔であり下級は村上源氏末裔であった。王朝時代から天皇の私的空間(寝食)と公的空間(政務)の区別はなくなっていたが、私的空間に入れたのは、皆ある意味で天皇家の親戚だということだ(これは中国王朝とまったく異なる)。その中で、傍系天皇と下級公家の接近が起こった。皇后は五摂家が独占を続けるが、天皇を生み出すのがやがて下級公家の子女になっていく。岩倉具視もまた貧しかったが羽林家・村上源氏であった。
*光格天皇の一件で処罰された正親町家は孝明天皇を生み、中山家は明治天皇を生んだ。
孝明天皇の親政と幕末
近世最後の天皇・孝明天皇は、こうした天皇・朝廷の自覚のクライマックスをつくる。
明治維新はもともとは「天皇親政」を狙ったものだが、孝明天皇は「宮廷の意思決定」という意味において親政を行い、意思のある天皇であった。
■意外な情報収集能力
異国船が出没するようになると、朝廷は独自に情報収集に努めるようになる。その情報力は幕府のお目付け役・京都所司代より高かった。開国をすすめるオランダ国王書簡も自力で獲得していた。
孝明天皇即位1年前に朝廷が幕府に唐突に『海防勅書』を出すと、幕府の報告は義務的になった。朝廷が指示し幕府が応ずるという形ができあがってしまった。
■学習院という尊皇攘夷拠点
光格天皇の構想で先帝の意思でもあった「学習院」が創設されると、朝廷の政治人材を用意することになった。本来は朝廷大学寮の復活や、下級公家の教育補助としての意味があった。しかし国学研究だけでなく、次第に下級武士と朝廷を連結する機関となり、尊皇攘夷の中核となっていく。とりわけ長州藩士が学習院御用掛・学習院出仕の地位で朝廷に入り込んでいった。
■開国をめぐる下級公家の台頭
ペリー来航と『日米和親条約』(1853年)に関しては、老中阿部正弘の丁寧な根回しもあって、朝廷・幕府・諸大名といった支配層で足並みが乱れることもなかった。
しかし『日米修好通商条約(1858年)』となると開国による交易(自由貿易)を意味するので、大波乱がおき、以後歴史が動いてしまう。孝明天皇は心情的には攘夷論であったが関白に押さえ込まれた。本来ならそれで終わりであった。
しかし関白の決定(幕府一任)について、五摂家以外の公家集団が暴れだすのである。御所へ押しかけ抗議文提出、さらに関白の私邸にいって撤回要求デモ。こうした激しい反対運動で勅許は出なかった。それは和歌を詠んでるひ弱な公家像とはかなり異なる。
・1858年:廷臣八十八卿列参事件(公家のデモ)
暴れた公家衆たちは孝明天皇から褒美をもらった。孝明天皇は公家衆の力で、関白らを排除できることを発見した。こうして関白職権の内覧を廃止した。朝廷から幕府への指令は「徳川御三家など諸大名にもう一度諮れ」ということになった。これで老中堀田正睦も辞職に追い込まれた。つまり時代を動かすきっかけを作ったのは公家であった。
さらに下級公家が天皇へ意見書を提出することも盛んになる。岩倉具視の政治意見書『神州万歳堅策』は攘夷基調でありながら、海防増強のための原資のこと、アメリカが将来同盟国になりうること、日本に輸出品がないから貿易赤字になること、などを指摘するなど単なる情緒にとどまらないものであった。
■公家のタテ秩序動揺
公家の上下関係は武家よりもさらに厳しかった。家格が絶対的である上に、副業で優位にたつためには上級公家の家職に門人として従属してブランドを獲得する必要があった。家元と門人の関係である。それゆえ絶対に上級公家とりわけ五摂家には逆らえなかった。
だから公家衆のデモは異様な事態であり、公家秩序を崩壊させていく。またヨコの関係・同志的結束が起こる。弾圧も起こる中で、皇族・中級・下級を超えた若手の結束が強化されていく。
■違勅と志士の台頭
大老・井伊直弼は勅許なしで条約を締結した。幕府は朝廷には事後報告ですませてきた慣例であったが、孝明天皇と公家衆で団結した朝廷側の意識はすでに変わっていた。
孝明天皇は慣例を破って関白を排除した朝議を断行し、「戊午の密勅」(1859年)という形で、違勅の非難および攘夷督促・さらに雄藩鼓舞のメッセージが水戸藩へ降ろされた。とりわけ諸藩へ伝えよ、という指令は、武家を統括する幕府にとって深刻な事態であった。諸藩の上に君臨するという意識が朝廷に芽生えていたのだ。
これは「安政の大獄」(1858年)となって、幕府が実力でこれを押さえ込むかのように思えた。背後には将軍後継という政局もからんでおり挙国一致とはならなかった。
*反発する薩摩藩は、出兵を計画するが頓挫(工作者・西郷隆盛流刑に)
*水戸志士テロに呼応し薩摩志士が挙兵して一挙改革へという計画も頓挫した
違勅すなわち「天皇の権威」をめぐる問題は政治的な下級武士に広範に浸透しており、幕府と宮廷の問題ではなくなっていた。こうして「志士の時代」に入っていき、朝廷・幕府・諸大名という旧支配層のコントロールは効かなくなっていく。
■公武合体と攘夷の都
体制の落ちこぼれである浪士たちの蜂起やテロは、支配層の望むものではない。
朝廷は薩摩藩の実力をバックに、和宮降嫁に乗り、事態沈静化・挙国一致・攘夷約束を得る方向で齟齬を解消する現実策(公武合体体制)をとった。孝明天皇を説得するなど、ここで活躍した岩倉具視は、朝廷の主導権の確立をめざしていた。勅使大原重徳は将軍に対して上段に座し、将軍直筆の10年後の攘夷誓約書を書かせた(1862年)。幕府からの公式な失政謝罪も引き出し、ある意味、武力も経済力もない朝廷において、達成すべきものは達成した観があった。
*10年後には岩倉具視は遣欧使節団で欧米を訪問しているのだが
しかし朝廷が薩摩に指令を下す形態は、雄藩のさらなる台頭の糸口であった。雄藩同士の衝突回避や盟約ははやくから模索はされていたが成功していなかった。
また「安政の大獄」は、殉教者というシンボルを生んでおり、諸藩の内部では深刻な分裂状態を生んでいた。「天皇の意思=攘夷」は一人歩きしていく。長州藩では革命論へ急転換し、薩摩藩が帰郷すると長州藩・土佐藩と組んで一挙に朝廷を掌握していく。もはや政治の実権は、朝廷をめぐる政権闘争にあった。
過激攘夷派は、攘夷戦争を契機に討幕し、王権を確立するといった革命論へと先鋭化していく。朝廷御親兵の設置要求が御所警護兵として実現し、長州・土佐が京都に軍事力を維持することになり、三条実美が朝廷軍の統括者として大きな力をもっていった。
・1860年:皇子祐宮が親王宣下「睦仁」へ(後の明治天皇)
・1862年:幕府が「ロンドン覚書」で開港を5年延期
・1862年:朝廷が即刻攘夷督促の勅使派遣
・1862年:朝廷が「国事御用掛」を設置し政務を本格化
・1863年:将軍家茂が上洛して失政謝罪・攘夷を誓約
・1863年:孝明天皇が賀茂・岩清水神社行幸(攘夷祈願)
・1863年:幕府が朝廷御親兵を許可
・1863年:姉小路公知暗殺事件により薩摩藩御所追放
・1863年:長州藩の攘夷親征建白を関白が在京諸侯に諮問
・1863年:長州藩が瀬戸内海封鎖し外国船砲撃開始
こうした朝廷に将軍後見役・一橋慶喜は幕府の地位明確化のために「大政委任の確約」を求めたが、書面で得られたのは征夷の委任確約だけであった。一方で革命の総仕上げとして、大和行幸(攘夷祈願)による諸藩兵の集合・攘夷親征の軍議と討幕が計画されていた。
しかし、孝明天皇自身は「公武合体体制」で満足しており、討幕も攘夷親政も念頭になかった。三条実美(清華家)が朝廷を牛耳り、京都がテロルの都となっていることも不満であったろう。雄藩も長州藩の朝廷独占は不満であった。こうして長州藩・長州派公卿の追放劇が勃発する(1863年「八月十八日の政変」・「七卿落ち」)。混乱の中で、攘夷派公家(明治天皇の叔父にあたる中山忠光ら)率いる「天誅組」が討幕の挙兵を暴発的に行うが鎮圧される。
・1863年孝明天皇が薩摩藩に過激攘夷派一掃の勅書
*孝明天皇が追放された三条実美に天下を委任するという風説が出た。孝明天皇はこれを否定する宸翰を下して薩摩藩などに回覧させた。
会津藩や桑名藩と幕府が、京都を軍事掌握し、薩摩藩も加わって長州藩兵の京都侵攻・御所奪回を阻止する(1864年禁門の変)。これで革命路線はひとまず終わった。
また長州藩・薩摩藩による攘夷戦争も敗北に終わり、軍事力で西欧列強に勝てないことが自明となった。そして攘夷運動は、水面下で討幕運動へと凝縮していく。攘夷派によって追放された岩倉具視は、攘夷派が一掃されても赦免されず、孝明天皇や公家社会への不満をかこち、やがて志士らとの交流を深めるようになる。
■公議政府への道(新統治システムの画策)
井伊直弼暗殺後から、幕府独断でなく「公論(雄藩の政治参加)」が強く主張されるようになっていた。
革命論が排除されたあと、薩摩藩建言で朝廷に諸侯会議(参与会議)が設置される形となった(1864年)。これについて孝明天皇から承諾の宸翰が下されている。
それは統治システムとしては画期的な変革であったが、幕府は存在し、近々の課題は何も合意にいたらなかった。もちろん多数決というシステムではなかった。一橋慶喜は幕閣と雄藩の板ばさみになっていた。しかし「公論」の芽生えは、大政奉還による「天皇を奉戴する諸侯連合政府」の構想へもつながっていくものである。
*この間に薩摩藩が討幕に急転換してくのもめまぐるしく謎っぽい
■開国勅許と孝明天皇崩御
西欧列強は、そもそも将軍に条約締結権がないことを知り、直接に天皇の勅許を求めた。さらに英米仏蘭連合艦隊の示威行為で圧力をかけた。幕府側の強硬な説得で、ついに孝明天皇の開国勅許が出る。それは「天皇の意思」に支えられた攘夷の完全な終焉であった。
*横浜・長崎・箱館のみ開港してあとは延期しつづけていた
・1865年9月:列強連合艦隊が兵庫沖集結
・1865年10月:朝廷が開国勅許(兵庫港の開港はなお拒否)
蟄居中の岩倉具視の志士らとの接触が朝廷で問題視されるようになるが、彼は『全国合同策』を孝明天皇に宛てて提出し、薩長も参加する「公議政府」によって政治統一することを訴えている。これは島津久光にも届けられ、賛同を得た。
しかし孝明天皇による「第二次長州征伐の勅許」は、大久保利通らを「勅命にあらず」と憤慨させ薩摩藩は出兵拒否する。また長州征伐の失敗が明らかになり、諸藩の解兵の声にもかかわらず、孝明天皇は解兵には反対だったとされる。岩倉具視と薩摩藩が仕込んだ攘夷派公家の復帰運動(廷臣二十二卿列参事件)にも激怒し、謹慎処分を行った。「攘夷は無理」で、「幕府は長州にも勝てない」という事実が公家にも影響を与えていたが、あくまで「公武合体体制」を維持したい孝明天皇の意思とは乖離していっていた。
・1865年1月:長州藩で高杉晋作と奇兵隊がクーデター成功
・1865年9月:朝廷が第二次長州征伐の勅許
・1866年3月:薩長盟約が成立(薩摩が長州に武器供給)
・1866年6月:幕府軍が長州攻撃開始
・1866年8月:将軍徳川家茂が死去
・1866年8月:長州と幕府が停戦
・1866年10月:廷臣二十二卿列参事件
徳川慶喜が将軍に就任すると同月に孝明天皇は崩御する(1867年1月)。そのタイミングのせいか毒殺などの陰謀説もある。いずれにせよ、孝明天皇の意思であった鎖国攘夷・大政委任の路線は、完全に崩壊していく。そこには追放された公卿らが朝廷を再び掌握していくという動きもあった。同年11月には「討幕の密勅」が薩長に降りる。同時期に「大政奉還」がなされる。そして諸侯連合政府(公議政府)の構想すらふっとび、消えたはずの革命論が内戦へと日本をいざなったのである。
孝明天皇は「物言う天皇」として政局を大きく動かしたが、あまりの影響の大きさに孝明天皇がコントロールできないものにまで膨れ上がり、日本は戻れない道をひた進んでいったのである。また政治の中心となった朝廷で公家の力は小さくなかった。
孝明天皇の限界
孝明天皇は、幕府に不満をもつ近世の天皇の宿願をはたした天皇ではあった。すなわち天皇は将軍・幕閣より絶対的上位にあり、国内はすべて臣下である。それゆえ幕府法令を踏み越えることに抵抗感はなかったようだ。孝明天皇は「天皇の意思」が最高の権威であることも自覚していたとみえる。
■大政委任を瓦解させた
しかし、孝明天皇は統治する気はなく、国学で強くなっていた「天皇親政」は望むところではなかった。それはせいぜい宮廷親政にとどまるものだった。だが、孝明天皇が壊してしまった幕府の威信は、彼の望む大政委任を継続させることはできなかった。
おそらく、朝廷には経済力も軍事力もないことの自覚があり、権威として君臨するも実力者に依存せざるをえなかった。ただ、水戸藩や薩摩藩など依存先はころころ変わった。「公武合体体制」で大政委任を重視するも、相変わらず幕府法令は無視して会津藩を経由して幕府に意思を伝えたりした。
ある意味、幕府側の第二次長州征伐への勅許は、将軍の威信を取り戻すための「天皇の配慮」だったかもしれない。大政委任を重視したわりには、幕府権威喪失へ歯止めをかける抜本的手助けは、長州征伐勅許以外には何もしていなかった。
■有力者はみな本気でなかった
孝明天皇の「攘夷の意思」(だから皆で協力せよ)は、支配層では素直にうけとられていたわけではない。将軍後継政争・朝権伸張の狙い・討幕革命などなど「政争の具」となった。
*攘夷論者の水戸藩主・斉昭は、越前藩主・春嶽に本音は「開国やむなし」だったことを述べている
*過激攘夷派の長州藩・久坂玄瑞も「軍備と輸出品を整えこちらから売りにいく」という攘夷だった
鎖国状態の永続を念頭にした有力者は実はいなかった。幕府はずっと本音は「開国やむなし」であった。
むしろ孝明天皇の嫌った「浮浪の輩」がもっとも孝明天皇の心情に近かったかもしれない。しかし、彼らも情緒だけでなく、硬直したシステムを破って立身出世のチャンスを狙うものたちであった。
いや、素直に孝明天皇に従った有力者はいる。それが会津藩主・松平容保であった。朝廷と外国の板ばさみになった幕府会議で、「開国を願い、ダメなら大政奉還」という意見すら出る中、松平容保だけは「天皇の意思」を重視し開国論へぶれることはなかった。孝明天皇の信任は当然に厚くなった。
■孝明天皇に欠けていたもの
たしかに、「安政五カ国条約」は不平等条約として日本を苦しめることになる。清朝のようにアヘンを売られるよりマシという速断で締結された条約であり、政治的失敗ではあろう。しかし、孝明天皇は有利な開国ならいいというわけでもない。
幕藩体制を無視しながら、幕藩体制の要であった鎖国状態の永続を願うという矛盾があった。つまり近代にはいくことはできない天皇だった。また幕府が封じ込めてきた諸藩対立にも疎かった。会津藩が朝廷を独占することに薩摩藩は危惧感をもっていた。幕府と会津藩も開国をめぐって一心同体ではない(また会津藩は自前で京都に常駐し経済的負担はひどく重かった)。薩摩藩は幕府に対して外様扱いという因縁もあった。天皇が「公武一和(お前ら仲良くやれ)」を願うだけでは解決されるものではなかった。しかし、パンドラの箱は開かれてしまっている。
孝明天皇は新しい仕組みを構築することなく、旧来の関白を頂点とする序列を維持した。孝明天皇の力が下級公家の台頭をもたらしたが、それは不快だったのだ。つまり孝明天皇は、子飼いの側近を持たない弱さがあった。
■孝明天皇が崩御しなかったら
将軍慶喜は、開国とフランスからの借款で日本の近代化を独占し、西周に書かせたような公議政府における将軍家の議会掌握(西周のプランでは終身世襲議長)をも構想していた。しかし、とりわけ京都に近い兵庫港開港は孝明天皇が許すとは思えない。
また、坂本龍馬の手柄として認知されている「船中八策」も受け入れられないだろう。そこに隠されている能力主義(下級身分の立身出世)も問題だし、そもそも浪人の建策で朝廷が動くということが嫌なのである。みんなが大好きな竜馬は、孝明天皇からすれば上下関係を破壊する下賎の浪人にすぎない。
御所に大砲を打ち込んだ長州藩を許すこともありえないし、下級武士につき動かされた長州派公卿を復帰させることも許さないから、「王政復古」もないだろう。また「公武一和」を壊す討幕は絶対に許さないだろう。
尊皇とは何だろう
国学が絶対的権威をもつ神聖君主としての天皇を示したが、多くのものは現状打破の希望として受け取った。そして閉塞感の完全破壊のためには天皇は絶対者でなければならなかった。変えたい者達の神剣なのである。たしかに、すさまじい勢いで旧支配構造が瓦解していったのは、そうした力が沸き起こったからだ。土地が天皇のものであることを突然言い出して代官所を襲った農村もあった。
しかし、天皇その人が壊したくなく、changeしたくないときはどうなのだろう。また幕末には偽勅も乱発され、孝明天皇もこれを嘆いている。偽勅を作る人たちは尊皇ではないのだろうか?
尊皇家にとって自らの理想とする天皇のほうが、生身の天皇その人よりも重要だったのであろう。「錦の御旗」があらゆる旧世界の腐敗を焼き尽しユートピアがもたらされるなら。生身の天皇が、「彼らの天皇(シンボル)」を止められるだろうか。
「物言う天皇」であった孝明天皇は、天皇の存在とその力を感じさせたが、かりに崩御せずに長生きしたとしても、国際情勢にあらがえず、さらには能力主義を叫ぶ下層階級の声「彼らの天皇」におしつぶされていったのではないか。
尊皇は、易姓革命のない日本における特殊な革命原理であり、それは危険な力をもち、天皇個々人を超えている。日本の神社は、古来は神降ろしの場所にすぎなかったが、いつの間にか(中世頃から)、神という恐ろしい力を封じ込める封印のようなものにもなった。祭りの日だけ、神は解き放たれる。それは「だんじり祭り」のような激しいものにもなる。神をかつぐ人々が非日常的なエネルギーを放出する。尊皇が高まるとき、大きな破壊的エネルギーが国内に充満している。それはあまりにも危険で、神社の神のように封じ込められなければならないものだ。昭和維新というものも、こうした革命原理にもとづいて天皇を絶対化していったと考える。生身の天皇・昭和天皇は青年将校を許さなかったが、二二六事件のあとも天皇の絶対化や統帥権の一人歩きは止まなかった。
一度その蓋が開かれると、大規模な破壊が起こり全員が力を出し切って疲労困憊してしまうまで止まらない。寡黙・勤勉・従順・保守的な日本人が突然に暴れだし焦土になるまで止まない。孝明天皇は意識せずにその蓋を開けることになったのだ。